安倍の右手

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208銀杏猫
「お客さん、どちらまで?」
「・・・・・」
「お客さん?」
運転手さんの声も私の思考には入り込めない。
「・・・すいません。とにかく、このまま走ってください」
「・・・はい」
私の様子に、長年の経験が働いたのだろうか、運転手さんはそれ以上何もいわなかった。

なんてこと・・・
なんてことしちゃったんだ!
言わないって、何もしないって決めてたんじゃないの!?
自分の行き場の無い気持ちを殺してでも、明日香と友達として会える現実を
大切にしたいと思ったんじゃないの!?
心の中の冷静な自分が私をそう、責め立てる。
自分のことなのに、予測できなかった
衝動をとめられなかった
それほどまでに・・・

・・・私は、明日香のことを好きなんだ・・・。

自分が起こした行動と、改めて知る明日香への想いの深さに、胸をぎゅっと締め付けられる。
思い出したかのように、震える指先でそっと唇に触れるとそこには
一瞬の甘美と、永遠の罪の味が残っていた。
209銀杏猫:02/03/01 23:28 ID:uqutu0Xi
馬鹿なっち!
もう、もう・・・戻れないよ・・・
私は、私の手で私たちの関係を壊してしまったんだ!!

私は流れる風景を横目に見ながら、声を殺して泣いた。
その後のことは覚えていない・・・。
210銀杏猫:02/03/01 23:29 ID:uqutu0Xi
「・・・おはようございます」
抑揚の無い声っていうのが自分でわかる。今は挨拶するのも精一杯だから。
「おはよー」
みんながいつものようにわいわいとしている。
今楽屋にいるのはカオリ、辻、後藤、吉澤だけかな・・・。
ほかにもいるのかもしれないけど、わかんないや・・・。
視線を動かすのも面倒で、私はふらふらとみんなとは離れた隅の椅子に座り
荷物を足元に置いたまま何も無い空中を見つめた。
「おはよー!なっち!」
矢口いたんだ・・・、またにやにやしてる。それ以上は思考が働かない。
矢口が小さな声でささやく。
「ほれほれー、昨日はどうだったの〜?」
昨日・・・。
きのう・・・。
キノウ・・・。
どうしたっけ・・・?
211銀杏猫:02/03/01 23:31 ID:uqutu0Xi
「・・・・・」
「ん?どした?」
そうだ、私・・・
「キス・・・しちゃった」
「い!?」
矢口はまさしく口を「い」の字型にしたけど、ぱっと顔を輝かせて
「やるじゃーん!なっちおっとなー!」
と、はやしたてた。
「ん?なにがなにが〜?」
みんながこっちを見たけど、私の意識の中に入り込むことは無い。
「いやぁ、こっちの話―」
みんなの会話も意識に無い、代わりにあるのは自責の念。

「なっち、あんた・・・」
・・・何?
言葉をとめた矢口を見ると、さっきのにやけた表情は消えうせていた。
・・・何で?
視界の端に、鏡に映った自分が見える。眉間にしわを寄せ、奥歯をかみ締める自分が。
はは・・・、表情を取り繕うこともできなくなってるじゃん。
自嘲的な笑みを浮かべた。

212銀杏猫:02/03/01 23:32 ID:uqutu0Xi
「はい、先生!」
いきなり矢口はカオリに向かって元気良く手を上げた。
「なに?矢口?」
「安倍さんが、気分が悪いそうなので、保健室に連れてきまーす!」
「え!?マジ??」
みんながこっちを見たけど、矢口は大げさにおどけた。
「うっそぴょーん!ちょっと二人でお出かけしてきたいんだけど、いいすか?」
ちらりと時計をみて
「ん、わかった。準備の時間もあるから、あんまし遅くなんないようにね!」
不思議がることも無く、カオリはOKを出した。
「なっち、ちょっときなよ」
私は逆らうことも無く矢口に手を引かれて、廊下へと連れ出された。
みんなが気に留める様子も無く雑談をつづける。
そのなか、後藤だけが私をじっと見つめていた。
・・・。

廊下へ出ると私はぼーっとしたまま立ち尽くすしかできなかった。矢口は隣の楽屋をノックして
返事が無いのを確かめると、ドアを開けて手招きする。
「なっち、おいで」
言われるままに部屋へと入った。
「どうしたの?」
入り口のむこうから後藤の声が聞こえる。
「なんでもないよ。いいから後藤は準備してな」
にべもなく、矢口はそういってドアをぱたん、と閉めた。
213銀杏猫:02/03/01 23:34 ID:uqutu0Xi
静かだった。
その静けさがいやだった。
静かになるとまた思い出しそうで・・・、またあのことを考え込みそうで・・・。
思い出したくない、このまま忘れ去ってしまいたい!
だけど、忘れることはできない!忘れたくない!
もう、どうしていいのかわからない!
昨日のキスのあとから、私の心にはぽっかりと大きな穴が開いて何も考えられなくなった。
それでよかったのに、ふとした拍子でいきなり蘇る。
胸が苦しい、目を開けていられない!

ぽん。
そのとき、小さな手が私の両肩に触れた。
矢口・・・。
見ると矢口は真剣な表情で私の顔を覗き込んでいた。
「なっち、今のうちに泣きな」
それだけだった。
それ以上は何も聞かない。
私は精一杯の笑顔をつくって矢口をみる。
「さんきゅ」
張り詰めていたものが、ふと緩んだ気がした。
私はそっと、小さな矢口の肩に覆いかぶさるように顔を埋め、静かに泣いた。
華奢な矢口の肩は私の涙で濡れた。