二十歳のころ

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     ◆

「――ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?」
「さあ――く――してないから」

 楽屋の中に入るといつものようにメンバーの声がわたしを向かえた。九人と言
う人数のためその部屋は、いつも広い場所を用意してもらっている。それは裕ち
ゃんがいなくなっても同じだった。

「梨華ちゃんさ――あそこの――」
「――ってるよ。今度――」

 それぞれのざわめきで言葉を消しあいながら、本番までの時間を潰しているメ
ンバーを余所に、わたしは自分の気配を感じさせないように部屋の隅を移動する。
荷物が乱雑に置かれている場所に、鞄を適当に投げ捨てると、サングラスを外し
た。
70 :02/02/05 13:45 ID:ZmMsomjZ

「リーダー、遅いぞ」
 サングラスを外したわたしの視線に、さっきまで後藤と話していた圭ちゃんが
写った。メイクの鏡の前に座る彼女は、回転椅子をまるで子供のように右へ左へ
と動かしながらわたしを見ていた。後藤はすでに吉澤と石川の方に移動してしま
っている。同年代だと言う事もあってか、すぐにその輪に溶け込んでいた。

「リーダーなんだから一番初めに来てほしいものだけどね」
「ごめんね」
 圭ちゃんは椅子から立ち上がると、入り口の横に設置されていたテーブルの上
の紙コップに二つジュースを注いでわたしの元に持ってきた。
「ありがと」
「疲れてる?」
「何で?」
 ここ、と言って圭ちゃんは自分の目の下を指差した。どうやら家に出てくると
きにメイクをしなかったせいで、いつもならある程度隠せている隈も、今日は酷
く写っているようだ。愛想笑いをして誤魔化してみるが、圭ちゃんは附に落ちな
いような表情で紙コップに口をつけながら離れていった。

 わたしは適当に椅子を見つけて腰を下ろす。慌しく周りを動くメンバーとスタ
ッフの人たちが横を通り過ぎていき、集団の中の孤独を一瞬だけ味わったが、そ
れは余韻に浸ることは無く、すぐにマネージャーが話し掛けてきた。
 それは主に今日のスケジュールの事で、何時何分までテレビの収録、その後何
時何分まで移動しなくちゃいけないからみんなをまとめるように、とプレッシャ
ーを掛ける言い方でわたしは頷くだけだった。
71 :02/02/05 13:47 ID:ZmMsomjZ

 息をついて、紙コップを手にわたしは周りを見てみる。長方形型の楽屋は、入
り口から数歩分の間を取って二つのテーブルが間隔を空けてある。その周りには
パイプ椅子が設置されていて、各々のメンバーがカップルになって話をしている。
周りを慌しく動くマネージャーは、携帯片手に楽屋の奥と入り口を行ったり来た
りとわたしの目の前をせわしなく移動していた。

 鏡の前に座っているわたしは、椅子を半回転させて自分の姿を見た。茶色くな
った髪が肩で前と後ろに分かれている。それを両手使って溶かすようにまとめる
と、鏡に顔を少し近づけて写る自分を見た。

 こりゃ圭ちゃんが心配するのもわかるな、と思った。

 オフだからと昨日は少し無理しすぎたかもしれない。睡眠も結局あまり取れな
かったような気がする。今ごろ紗耶香はベッドの中で二度寝している頃だろう
か?
 そう考えて昨夜のお互いの行為が頭を過ぎってしまう。軽く苦笑いをしてみる
と、鏡の中でわたしの後ろに居る辻の姿に気がついた。辻は一人椅子に座ったま
まお菓子を頬張っていた。
72 :02/02/05 13:50 ID:ZmMsomjZ

 また椅子を半回転させて辻を見る。
 辻はぼけっと頬を目一杯に膨らませて入り口の方を見ていた。

「加護、来てないの?」
 わたしがそう言うと辻は二三秒の間を空けて、首を横に向ける。どうやら自分
に言われた言葉だと気がつくのに時間がかかったらしい。

 爛々と輝くその瞳は、純粋そのものだった。まるで懺悔室にでも入れられてい
るかのように、わたしは自分の過ちを見透かされてしまっているような感じがし
て、表情を変えないようにと気を使った。でも確実にその見栄は、メッキを剥が
して全てを見透かされてしまっているような気がする。もちろん気のせいだと言
う事はわかっていた。ただ、辻の純粋さは、今のわたしには辛すぎる。羞恥心と
も似た感情が沸き起こってきた。

「……あいぼん、どうしたんだろう?」
 その呟く声は、楽屋のざわめきにかき消されそうになるも、わたしとの距離が
短いせいか、何とか耳で捕らえる事が出来た。
 わたしは腕時計に視線を落とす。本番前のリハーサルの時間が迫っていた。
「……電話も繋がらなかったです」
 寂しそうに俯く辻の頭を、わたしは椅子から立ち上がってから撫でると、ゆっ
くりと顔を覗くように膝を落とした。
「きっとこっちに向かっているんだよ。すぐに来るって」
「……へい」
73 :02/02/05 13:53 ID:ZmMsomjZ

 辻が加護に対しての感情は、どこか憧れに近いのかもしれないと思っていた。
もちろん仲良しと言う言葉だけで二人を語ることは出来るのだろうが、常に加護
の真似をする辻を間近にみているとそれだけではないのに気がつかされる。そこ
には平等な立場など無く、前を歩くものと後ろをついて行くものに別れていると
わたしは感じていた。前を歩くものはついてくる人物に快感を覚え、後ろをつい
て行く人物は前の人物の真似をすることで近づこうとする。

 その微妙な関係は、仲良しと言う言葉で補強されて、そしてその姿も隠してし
まう。だから本人たちもそれに気がついてはいないようだった。

「……あいぼん」

 辻から離れて、鏡の前に座り直したわたしの耳に、そんな声が聞こえた。
 平等な立場なんて無いのかもしれない。わたしと紗耶香の間にもそれは存在し
ないのだろう。
 光に当たり続けているわたしと、影に包まれている紗耶香。
 辻と加護のように仲良しと言う関係を否定した行為。わたしたちはその立場か
ら眼を覆う手段を身近らの手で壊してしまったのかもしれない。

 それからメイクを済ませて、衣装に着替え終わっても加護の姿は現れなかった。
リハーサルの時間が等に過ぎてしまっているため、マネージャーの顔色が曇る。
リーダーの責任から、わたしも携帯などで連絡を取ってみるが、すぐに留守電に
切り替わってしまう。メンバーなどに聞いて回るも、加護のことを知っている人
物はいなかった。
74 :02/02/05 13:56 ID:ZmMsomjZ

「加護どうしたの?」

 誰と無く呟いたその言葉に焦りを感じたわたしは、マネージャーと眼が合って
しまう。その鋭い視線が、余計にプレッシャーを与えた。
 遅刻と言う事自体、歓迎できるわけではないが、珍しい事ではない。ただリハ
ーサルの時間が過ぎてしまってまで、連絡一つ入れないのは明らかに異常事態だ
った。不安と焦りの中、わたしのおろおろとしているその姿が、鏡を通して眼に
映った。あまりの滑稽さに立ち尽くす。

 こう言うとき、リーダーはどうしたらいいのだろう?
 裕ちゃんはどうしていたっけ?

 メンバーがざわめき始めた。
 スタッフの人とマネージャーが深刻に話をしている。
 わたしはただそれを少しはなれた場所で見ている事しか出来なかった。

「あんたたち、ごちゃごちゃ喋っているなら台本でも目を通しておきなさい」
 その声はわたしの背中から聞こえた。振り向くと圭ちゃんが平然な顔をしてメ
ンバーの前に立ちはだかっていた。すぐにはーい、と小学生のような返事がする
と、メンバーはざわめく事をやめて台本を手に、各々で話を始める。
 圭ちゃんがゆっくりと近づいてきて、わたしの肩に手を置いた。
75 :02/02/05 13:57 ID:ZmMsomjZ

「見事なサブリーダーでしょ?」
 わたしは苦笑いして頷く。
「……ごめん」
 いいよ、と言って離れていく圭ちゃんは、何かを思い出したように立ち止まる
と振り返っていった。

「ここ、うまく消えてるよ」
 人差し指で自分の目の下を指差して悪戯っぽく笑う圭ちゃんに、わたしは感謝
の気持ちと嫉妬、そして自分への嫌悪を感じた。
 やはり、わたしより年上だ。
 メンバーを静まらせる事も出来ずに、ただマネージャーを見ていることしか出
来なかった自分に嫌悪を持った。リーダーなのにやるべき事が見えなかったこと
に悔しさを覚える。

 加護が姿を現したのは、本番の数分前だった。

 青白い顔色で楽屋の中に入ると震える声で謝った。すぐにメイクと衣装を着せ
ている間、マネージャーが近寄ってきて、念を押すようにわたしの名前を呟く。
わかっている。遅刻してきたならばそれを叱らなければいけない。それは他のメ
ンバーへの示しでもあると、マネージャーは前に言った事があった。

 しかし正直、わたしは人を叱るのは苦手だった。
 他人が傷つくのを見たくなかった。
 胃がキリリ、と唸った。
76 :02/02/05 13:59 ID:ZmMsomjZ

 わたしはお腹に手を当てて、痛みが遠のくを蛍光灯を見ながら待つ。その痛み
に対処できる手段を知らなかったため、そうするしか方法が無かった。
 加護が衣装に着替えて来ると、わたしは手招きをした。廊下ではすでにマネー
ジャーが待機している。

「加護……いい?」
「あ……はい」
 加護は自分が手招きされている理由をすでに察していた。弱々しくわたしの横
に来るその小さな体にそっと腕を回す。楽屋から出る時、ふと振り返ってメンバ
ーを見ると、みんな心配そうな視線を加護に向けていた。その中で予想通り、一
番険しい顔をしていたのは辻だった。少しだけ胸に罪悪感を抱きつつ、マネージ
ャーの元に連れて行くと、その表情はすでに怒りをあらわにしていた。

「……寝坊です」
 加護は呟いた。
 マネージャーは露骨に加護を詰った。わたしはその横で肩に回している腕に力
を入れる。頼りない小さな体が微妙に震えていた。
 加護はただ頷くだけ。言い訳もしなかった。
 マネージャーの説教が終わると、その視線がわたしに向けられる。リーダーと
しての立場を考えて、その小さな体から腕を離すとわたしは言葉を選んだ。
77 :02/02/05 14:01 ID:ZmMsomjZ

「遅刻するって事は、色んな人を待たせるって事なんだよ」
「……はい」
「わたし達のために働いてくれているスタッフの人たちにも迷惑がかかるの」
「……はい」
「これからは気をつけるようにしようね」
「……はい」

 叱られているせいだろうか、加護の頷きはいつもの元気を感じさせなかった。
それはわたしたちの目の前に現れた時から感じていた。青白い顔色と動きの鈍さ。
震える肩は叱られているという恐怖とは別の所からきているのではないだろうか
と思った。ただ、この時のわたしにはそこまで考える余裕は無かった。本番の時
間を過ぎてしまっているため、次の仕事に支障をきたさないかと焦っていた。

 それはわたしの役目でもある。
 メンバーをまとめなくてはならないのは、わたしなのだ。
 マネージャーに視線を向けると、わたしの言葉だけでは気が治まらないと不満
げだったが、これ以上時間を割く事は出来なかった。

 すぐ横のドアを開けて、わたしは楽屋にいるメンバーに声を掛ける。みんなは
ゆっくりと椅子から立ち上がってぞろぞろとドアから出てきた。
78 :02/02/05 14:02 ID:ZmMsomjZ

 スタジオに向かって、先頭を切って廊下を歩くわたしに、後ろで話しているメ
ンバーの声が耳に入ってきた。

「加護……大丈夫?」
 わたしの胃がキキリとまた唸った。

「無理はしないでね……」
 わたしは右手を痛みが感じる場所に手を当てた。

「……具合悪いんでしょう?」
 わたしは振り返ることはしなかった。

 ただ自分の愚かさを理由に責めた。
 リーダーの癖に……。

――具合悪いんでしょう?
 そんな事にも気がつかなかったんだ。