二十歳のころ

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    ◆

「何? どうしたの?」

 ベッドの中に潜り込んでくる紗耶香に驚いてわたしは声を上げた。
 彼女は蒲団の中から顔を出すと、わたしに向かって微笑みかける。すぐ数セン
チ前のその顔が暗闇に眼が慣れたせいか、ぼんやりと浮かんで見えた。
「たまにはいいじゃん」
「あんたねぇ」
 わたしは呆れたように呟いたが、紗耶香の無邪気な微笑みに抵抗が消えていく
のを感じた。一つの枕に頭を寄せて、さっきまで濡れていた髪の甘い匂いが鼻に
届く。わたしは広がった自分の髪を一つに束ねると、彼女とは反対側に向けた。

「あまりくっつくな。熱いよ」
 お風呂の熱気がまだ紗耶香の体には残っていた。蒲団の中にはすでにわたしの
体温で暖められているため、その熱気はどんどんと温度を上げていく。
「あたしは寒いよ。カオリは暖かいね」
 そう言ってふざけたように背中に腕を回そうとする彼女に、わたしは笑いなが
ら体を捩じってそれから逃れる。こら、と言いながらその向きを変えてお互い正
面に向かい合った。
52 :02/02/02 08:55 ID:WIn9F1k7

「カオリー愛してるよー」
 声を低くして演技っぽく言いながら紗耶香は抱きついてきた。あほ、とわたし
は笑い声を上げながらまたそれから逃れようとする。しかしすぐに彼女の腕は背
中で絡まった。
 お互いのパジャマが擦れる音がした。
 体の柔らかさを確認する。蒲団とは別のぬくもりが心の中に入り込んで、鼓動
の動きを早めた。
 しばらくお互いにじゃれ合いながら、まるで子供のように笑った。お腹が痛く
て、眼からは涙がこぼれる。静まり返った暗い空間には、その笑い声が響き渡っ
て、まるで山彦のように反射してわたしたちの元に返って来ていた。

「カオリ」
 何? と喉から出そうとした瞬間、紗耶香の頭が枕から離れてわたしの胸の中
に埋められた。まだふざけあっていた余韻が残っていたため、それもその一つだ
ろうと勘違いしたわたしは、すぐに体を捩じらせてその頭を離そうとした。
 しかし彼女は少し強引にわたしのパジャマを子供のように掴んで離れようとし
ない。冷え切った額の体温がパジャマを通して感じた。
53 :02/02/02 08:58 ID:WIn9F1k7

「紗耶香……」
 わたしはやっとで気がついた。微かだが何かに怯えるように震える体を。
「暗いの……ダメなんだっけ?」
 小さく胸の中で頷く紗耶香。わたしはそっと右手で彼女の頭を撫でた。
 暗いのが苦手だと言う彼女の言葉自体、嘘ではなかっただろうが、多分この時
のその体の震えはそこから来たものではないのだろう。紗耶香が泊まりに来て三
日間、わたしたちは電気を消して眠っていた。もちろんその時も別々の蒲団の中
に入っていたのだから、今更暗闇が恐いと言う事は考えられなかった。

 紗耶香は、突然襲ってくる孤独に恐がっていた。

 いつでも胸の奥に確実に存在するその孤独が、ふとした瞬間に表面に現れる。
それから逃げる事が出来ない紗耶香が、自分の中の自分に怯えているのだと思っ
た。

「……また薬飲んでたでしょ」

 紗耶香が胸の中で呟いた。額とは対照的に暖かい息がパジャマの隙間を縫って
肌に感じる。
54 :02/02/02 08:59 ID:WIn9F1k7

「……薬って?」
「胃薬……オヤジみたいだね」
 呟くように言うその言葉に、わたしは苦笑いをした。
「色々とストレスが溜まるんだよ」

 湿気を持った髪が鼻先を掠める。少しだけくすぐったくなったわたしは、彼女
の頭を撫でていた右手で鼻先を擦る。

「……あたし……知ってるんだよ」
「……何を?」
 少しの間を空けて、紗耶香は言った。

「カオリ、睡眠薬まで飲んでいるんだね」
「…………」
「暗闇を恐がってるのは……カオリも一緒だね」
「……紗耶香」
55 :02/02/02 09:08 ID:WIn9F1k7

 紗耶香はゆっくりとわたしの胸から顔を離した。上目遣いで見上げるその表情
は、妙に艶っぽく、一瞬だけ胸を締め付けた。
 さっきから胸の高鳴りが止まない。それはふざけあっている時から感じていた。
でもそれはただ体を動かして、心拍数が上がっているだけなのだと思っていたが、
それが今でも静まらない事を考えると、どうやら違っていたようだ。
 わたしは無言のまま紗耶香の顔を見ていた。
 紗耶香もわたしの顔を見ていた。

 わたしたちは一体どれくらいの時間見詰め合っていたのだろう? 長くも感じ
たし、それは時間にして短くもあったような気がした。なぜかその間わたしの思
考は停止していて、目の前のその顔を見ていることしか出来なかった。

 部屋に存在するわずかな微光。それを目一杯に吸い込んで、闇の中に輝く瞳に
わたしは吸い込まれそうな感覚に陥った。

 それは酷く心地いい。裸で眠る開放感とも似ている。その鈍く輝く瞳は、確実
にわたしの中に入り込んで、厳重に締め切られていたはずの自分でも気がつかな
かった場所に優しく触れた感覚がした。

 わたしたちは無言のまま見詰め合っていた。
 お互いの心臓の音が耳障りだ。それはもしかしたら時計の秒針だったかもしれ
ない。その判断さえも、わたしには出来なかった。
 いつの間にか眼を閉じていた。そっと唇に触れる柔らかい感触。それが離れる
とわたしはゆっくりと眼を開ける。
 視線に広がったのは、艶っぽく笑顔を作っている紗耶香の顔だった。
56 :02/02/02 09:11 ID:WIn9F1k7

 ああ、とわたしは思った。
 わたしもなんだ。
 わたしも紗耶香と同じように自分に怯えているんだ。
 それが『答え』なんだ。
 紗耶香と同じ時間を過ごして、なぜ落ち着くのか……これが『答え』なんだ。
 わたしは紗耶香と同じだから。
 同じ時間を過ごす事によって、傷を嘗め合っていただけなんだ。

「カオリ……」
 紗耶香がゆっくりと体を起こしてわたしの上に覆い被さる。なぜか抵抗なくそ
れを受け止めるわたしは、目の前の現実から逃げようとしていたのかもしれない。
 別に紗耶香に特別な感情は無かった。
 多分、紗耶香もわたしにそんな感情なんて抱いていない。

 まるで同じ敵から身を守るため、体を寄せ合う小動物のように、わたしたちは
ただ震えていただけだ。

 寒さから逃れるために、相手の温もりを感じたかっただけだ。

 ぼんやりと、わたしはそれから子供の時に見たCMを思い出す。
 もしかしたら、雨はずっと降り続けていたのかもしれない。
 その時から――ずっと……。
57 :02/02/02 09:13 ID:WIn9F1k7

    ◆

 朝、眼を覚ましてからわたしは後悔に襲われた。
 ゆっくりと体を起こすと隣には紗耶香が眠っていた。穏やかなその寝顔に、い
つもなら癒されるであろうわたしの気持ちは、何故だかこの時だけ重く沈んだ。
乱れたパジャマを手にとって着ると、紗耶香を起こさないようにベッドから這い
出る。肩があらわになっている彼女の掛け布団を直してから、音を立てないよう
に寝室から抜けた。

 居間に来るとわたしの押し潰された気持ちが少しだけ楽になる。冷蔵庫から牛
乳を取り出すと、コップにそれを注いで一気に飲み干した。冷え切ったその液体
が喉を通り過ぎて、頭の芯をきつく締め付ける。眠気が遠く飛ばされていくよう
だった。
 一息をついたわたしは、居間のソファに倒れるように体を静めると、リモコン
でテレビのスイッチを入れた。丁度ワイドショーがやっていて、内容には興味が
無かったため時間だけを確かめた。
 鼓動が静かに脈を打っているのを感じる。ソファの背に寄りかかって首を上に
向ける。白い天井に、カーテンの隙間から差し込む光で、直線を描いていた。

 どうしてあんな事してしまったのだろう?

 そう考えるとまたわたしは後悔に襲われる。出てくるのはため息だけで、胸の
中の鉛は溶けることなくずっしりとその重さを強調していた。
58 :02/02/02 09:14 ID:WIn9F1k7

 紗耶香のことは好きだ。
 でもそう言う意味の『好き』ではない。
 友達として、仲間だった人物として、わたしは彼女のことが好きだった。だか
らそれ以上の感情は、あの時間、お互い持っていなかったことは確信できる。

 それなのにどうしてあんな事をしてしまったのだろうか?

 視線を横に向けると、窓際の壁に寄りかけるように置いてあるスケッチブック
に気がついた。腰を上げてわたしはそれを取ると、またソファに座り直した。
 スケッチブックを捲る。昨日、川原で書いていた絵がそのままの形で存在して
いた。ゆっくりとわたしはその線を右手でなぞる。紙のザラザラとした質感を微
かに感じた。

――暗闇を恐がってるのは……カオリも一緒だね。
 そう、わたしは恐がっていたのかもしれない。

 日々の生活の、無言のプレッシャーは確実にわたしを狙っているのに気がつい
ていたから、いつそれに襲われるのだろうと恐がっていたんだ。紗耶香はその事
を知っていた。だからそっと水でも掬うかのようにわたしの心を触ったんだ。
 お互いに、心の隙間を埋めたかっただけなのかもしれない。

「……バカみたい」
 わたしはそう呟いて苦笑いをした。
59 :02/02/02 09:22 ID:WIn9F1k7

 たったそれだけの事で、わたしたちは体を重ねたんだ。
 髪を軽く掻きあげてから、わたしは仕事に向かうため準備をした。服を取り出
すためには寝室を通らなければならなかったし、メイクの道具もそこにある。そ
の為、わたしは服を簡単に選ぶと、眉毛だけを描いて帽子を取り出した。
 寝室から抜けるときに少しだけ紗耶香に視線を向ける。蒲団の膨らみが動く事
はなく、規則いいリズムの吐息を立てていた。
 彼女が眼を覚ました時、わたしはどんな顔をすればいいのだろうか?
 そう思いながらわたしはまた居間に戻ってきた。相変わらずテレビではどこか
の国の経済状況と日本を比較して、何度か顔を見たことがあるゲストを向かえて
喋っていた。
 仕事までまだ時間があった。しかし今、紗耶香と同じ空間にいることが耐えら
れなかった。

 嫌いじゃないのに……。
 紗耶香が眼を覚ますことが恐かった。

 わたしはその思いから逃れるようにスケッチブックに鉛筆を走らせる。大体の
構図は出来ていたため、頭の中の風景を重ねて行くだけだった。
 しばらく鉛筆を走らせる作業にわたしは没頭していった。目の前の問題を逃避
するには、そう言う行為しか思い浮かばなかった。

 気がつくと仕事に向かう時間になっていた。テレビはすでにワイドショーが終
わっていて、情報バラエティー番組に変わっている。スケッチブックを閉じたわ
たしはゆっくりとソファから立ち上がって、テレビを消した。
60 :02/02/02 09:26 ID:WIn9F1k7

「もう行くの?」
 突然の後ろから聞こえた声にわたしは驚いて肩をすくめた。その聞き馴染みの
ある声は、いつの間にかわたしにとって違う意味に変わっていた。
 まるでホラー映画のワンシーンのようにわたしはゆっくりと振り向く。そこに
は引き戸を半分だけ開けて、眠そうに目を擦っている紗耶香の顔だけがこっち側
を覗くように現れていた。
 顔以外の姿は引き戸によって隠されている。その部分を想像してわたしは軽く
頭を横に振った。

「うん……もう行かなきゃ」
「行ってらっしゃい」

 わたしは鞄を持つと、テレビの上に置いてあるサングラスを掛けた。まるで家
から逃げ出すように玄関に向かって歩こうとするわたしに、彼女は呼び止めるよ
うに声を掛けてきた。
61 :02/02/02 09:28 ID:WIn9F1k7

「カオリ……思い出した」
 え? とわたしは振り返る。彼女の視線はさっきまで広げられていたスケッチ
ブックに注がれていた。
「……何を?」
 何故だかわたしの鼓動が早くなる。自分の今の表情を確実に隠してくれるサン
グラスをありがたいと思った。

「犬……子犬の……」
「ああ……」
 紗耶香はスケッチブックから視線を離すと、ゆっくりとわたしを見た。

「あたしも見たことがあるよ……子供の時……見たことがある」
「……そう」
 わたしがそう応えると、紗耶香は昨日と何も変わらない笑顔を作った。
「行ってらっしゃい。頑張ってきなよ」
 わたしも彼女に負けないように、自分の気持ちを隠した笑顔を作った。
「ありがと。行ってきます」

 玄関で靴を履いて、ドアを開けた瞬間、眩しい光が広がる。
 その広がる視界に、わたしは一瞬の目眩を感じた。

 外の空気にこんなにも心が開放されたのは初めてだった。