二十歳のころ

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    ◆

 お風呂から上がって、ドライヤーで半分乾かした髪にタオルを当てながら居間
に戻ってくると、紗耶香の姿が見えないことに気がついて、わたしは思わず声を
出す。

「紗耶香?」

 静まり返った部屋には人の気配がしない。ついさっきまで笑いながら見ていた
テレビさえ電源が落とされていた。テーブルには紗耶香の飲みかけのカップにミ
ルクティーが半分ほど残されている。テレビの向かい側に位置するソファの上に
買い物袋が転がっていた。

 わたしはそれを掴むと窓際のゴミ箱に捨てる。カーテンが数センチほど開いて
いるのに気がついて、隙間が見えないように締め切る。振り返って居間全体を見
ると、不意に彼女が居なかった数日前の孤独を一瞬だけ思い出した。

 カタッと隣の寝室の方から音がした。まるで泥棒のように足音に気をつけなが
らソファの横を通り過ぎて、この部屋と向こう側を仕切っている引き戸に手をか
けた。
46 :02/02/01 03:54 ID:Wy7rVaap

 拳ほどの隙間を開けると、充満していた居間の光が逃げ出す。目に入ったのは、
豆電球だけの暗闇の部屋の中、ベッドのすぐ横に敷いている紗耶香用の蒲団と、
その奥にある鏡台だった。六畳ほどの広さのその部屋には主にわたしの服などを
収納するクローゼットなどがある。彼女の姿も、その部屋で見つけることが出来
た。

 鏡台の鏡に写るわたしの姿。その前に座っている紗耶香が、気がつかないはず
は無かった。

「……何してるの?」
 わたしはゆっくりと引き戸を全て開けて言った。
 紗耶香は振り返らないまま、鏡の中の自分を見ていた。
「女の子だからね……」
「今から化粧してお出かけですか?」

 ううん、と目を閉じて首を横に振る紗耶香。わたしは何故だか敷居を跨ぐこと
が出来なくて、入り口の前に立ち尽くすだけだった。
47 :02/02/01 03:56 ID:Wy7rVaap

「眉毛細くなりすぎちゃったかなって……」
「紗耶香は元々無いからねぇ」
「一応気にしてるんだぞ」
 ごめんね、とわたしはいつものように笑いながら答えようとしてやめた。紗耶
香の口調にさっきまでの明るさを感じさせなかったからだ。

「紗耶香……」
 不安の色が出ていたのかもしれない。紗耶香は敏感にそれを感じ取ったのか、
鏡に写る顔に微笑を浮かべた。でもわたしにはそれが心から笑っていないのだと
言う事に気が付く。その表情はただわたしを心配させないように気を使っていた
だけだ。

「カオリみたいに髪を伸ばそうかなって……」
「伸ばすの?」
「似合わないかな?」
 どうだろ、とわたしは呟きながら寝室の中に入った。蒲団を踏んで彼女の後ろ
に立つ。そのストレートの髪に手を伸ばした。

「きっと似合うよ。昔も結構長かったじゃん」
 その言葉に昔の自分を思い出したのか、紗耶香は苦笑いをしながら言った。
「勘弁してよ……やっぱり短い方がいいのかな……」
「伸ばすだけ伸ばしてみたら? 気に入らなければ切ればいい」
48 :02/02/01 03:58 ID:Wy7rVaap

 手の中から逃げていく茶色の髪の毛に見とれながらわたしが言うと、いつの間
にか彼女の右手がその手に重なっていた。
 一瞬だけビクッと反応したわたしの手の甲に伝わってきたのは、冷え切った感
触だった。

「紗耶香……」
 気のせいだろうか、少し彼女の手が震えているような気がした。

――光に包まれるって……どんな感じだったっけ?
 不意にあの言葉を思い出した。

「暗いの苦手なんだ……」
 紗耶香は呟く。
「知ってるよ……」
 寝室には豆電球。わたしが開けた引き戸から漏れてくる青白い光。決して明る
い部屋ではなかった。
「恐くなるんだ……暗いと……」
「…………」
49 :02/02/01 04:01 ID:Wy7rVaap

 わたしたちの視線は鏡を通して間接的に結びついていた。多分、お互いの考え
ている事を必死に悟ろうとしていたのかもしれない。でも結局わたしには紗耶香
の気持ちが見えなかった。
「まだ……子供なんだね……あたしは……」

 そう言って紗耶香は顔を下げて口元に笑みを作った。それが自嘲的なのはすぐ
にわかる。
 わたしが必死に頭の中で言葉を探していると、彼女は手を離してゆっくりと立
ち上がった。

「紗耶香……」
 振り返った彼女の顔には、いつもの笑顔があった。
「お風呂入ってくるね」
 でもそれが冷たい笑顔だと言う事ぐらい、わたしにでもわかる。
 横を通り過ぎていく彼女の空気の流れを感じる。わたしは振り返ることも無く、
鏡の中に写っている自分の姿を見ていた。

 まだ疲れているのかもしれない。
 目の下を人差し指でなぞりながら呟いた。

「隈……消えないや……」

 その後、わたしは居間の棚から胃薬を取り出した。