二十歳のころ

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    ◆

「さかな! 今魚いたよ!」

 紗耶香の突然のその声に驚いてスケッチブックから視線を上げる。川のほとり
では満面の笑顔でわたしを見上げている彼女の姿があった。
 思わず周りを見てみる。向こう岸のほうで中年の男性が何事かと起き上がって
いたが、すぐに興味が無いようにまた体を倒した。
 少し声が大きすぎる、と抗議をしようとしてやめた。紗耶香は無邪気な笑顔で
見上げていた。それは多分、わたしの反応に同じものを求めているのだと悟った。
 クス、と口元が綻ぶ自分に気が付いて、わたしの気持ちが少しだけふあふあと
浮いた。

「取ってきてよ! 今晩のおかずにするからさ!」
 わたしが声を上げると、紗耶香はまじかよー、と体を反らせてアクションを取
る。その顔には笑顔が消えることはなく、いつものわたしたちのじゃれ合いを予
感させた。
33 :02/01/30 05:24 ID:sKwDyPiV

「こんな可愛い女の子に魚を追いかけろって言うの?」
「可愛い女の子ってどこにいるの?」
「うわっ――ちょっと今ムカついたぁー!」
 あはは、とわたしはお腹を押えて笑った。どうやら紗耶香はそれが嬉しかった
らしく、同じように高い声で笑うと、耳元の髪を掻きあげてからわたしの元にゆ
っくりと歩み寄ってきた。
 斜面を登る彼女の足取りは、草花に滑らないように気を使っていた。一歩一歩
踏みしめるそれに、草が擦れる音がする。

「凄く大きかったよ。あたしが傍に近づいたらパパッと逃げちゃった」
「ご愁傷様。今晩は魚でいい?」
「母さんは肉が好き」
「知ってる」
 そう言ってわたしは笑いながらスケッチブックを閉じた。

 彼女はゆっくりとわたしの横に腰を下ろすと、草を一掴みして空中に投げる。
まるで紙ふぶきのように風に乗って舞うその草に視線を囚われていると、不意に
髪の毛を触られる感覚がしてゆっくりと首を傾けた。
 そこには紗耶香が人差し指でわたしの髪に指を絡めていた。その表情はまるで
手に入らないおもちゃを子供が我慢しているようだ。
34 :02/01/30 05:26 ID:sKwDyPiV

「何?」
 わたしはそんな紗耶香に聞く。
 彼女は口元に意味深に笑みを作ると言った。
「別に……ただ綺麗だなって」
「……ありがと」

 紗耶香はわたしの髪から指を離すと、草花の斜面に体を倒した。その視線はま
ぶしい太陽に向けられていて、伸ばした右手がその光を遮るように広げられてい
た。
 手の形に整形された影が紗耶香の顔に張り付いている。わたしはスケッチブッ
クを横に置くと、しばらく心地よい風景に体を任せた。

 紗耶香がわたしの家に転がり込んできたのは二日前の事だった。この場合転が
り込んできたと言う表現があっているのかわからないが、この三日間、彼女と時
間を過ごす事になる。
35 :02/01/30 05:27 ID:sKwDyPiV

 二日前、彼女は突然家のドアをノックしてきた。その時、わたしはミュージカ
ルに向かうため、家を出る準備をしていて、突然の訪問に驚きを隠せなかった。
 どうしたの? というわたしに紗耶香は笑顔を崩さないまま言った。
 暇だったからちょっと来てみたの。
 でも電話一本ぐらいしてよ、と言うわたしに紗耶香は笑顔を崩さないまま謝る
だけだった。その時は時間が無かったため、家の鍵を預けて仕事場に向かった。
 その夜、仕事が終わって帰ってくると、ドアを開けた瞬間に光が漏れてきたこ
とに新鮮な驚きを感じた。紗耶香はわたしを迎えてくれて、部屋の中に上がると
テーブルには食事が用意されていた。

 嬉しかった。

 食事を取りながらわたしは紗耶香に聞く。どうして急に来たの? それに紗耶
香はご飯に箸をつけながら応える。こっちの方に用があったんだ、んでそれが済
んだら暇になっちゃったからさ。
 でも後からそれが嘘だという事に気がついた。紗耶香がわたしの家を尋ねた時、
まだ早い時間だった。その時間から、東京に用があったなんて考えられない。多
分、彼女は初めからわたしに会いにきたのだ。
 でもその考えは後になって気がついたことで、その時のわたしはただ紗耶香の
言葉に頷くしかなかった。時間も時間だと言う事で、彼女を家に泊めることはお
互い口に出さなくても承知していた。ただ、わたしはそれがその日限りだろうと
思っていた。
36 :02/01/30 05:29 ID:sKwDyPiV

 朝起きて、紗耶香が眠っている姿を見ながらわたしは仕事に向かう準備をする。
薬箱からすでに愛用になってしまった胃薬を飲んで、置手紙と共に家を出た。帰
ってきたら紗耶香の姿は無くなっているだろうと思いながら……。
 しかしその予想は見事に裏切られる。仕事が終わって戻ってきたわたしは、ド
アノブを回すと鍵がかかっていない事に驚いた。すぐに中に入ると、前の日のよ
うに、蛍光灯の青白い光が眼を覆った。
 居間の方では紗耶香がテーブルに肘をつきながらテレビを見ていた。その上に
は見事に用意された食事。

 どうしたの? と思わず聞いたわたしに向かって、紗耶香はその言葉自体附に
落ちないような顔をした。一瞬、わたしが間違った事でも言っているのだろうか
と考えたが、彼女が家に留まっている事の方がおかしいのだと思い直した。

 帰りそびれちゃった。

 えへっ、と可愛らしく笑うまねをした紗耶香を見て、一瞬だけ心が和んだのに
気がついてわたしは冷静になった。
37 :02/01/30 05:31 ID:sKwDyPiV

 お家の人とか心配してない?
 大丈夫だよ。電話したから。
 何て?
 家出しますって。
 あほか。

 ケタケタと笑う彼女を見て、それが冗談だと言う事はわかった。しかしその日
もわたしの家に泊まると決め込んだらしく、紗耶香はまるで何年も前からここに
暮らしていたかのようにリラックスしながらテレビを見ていた。
 まあ、別にいいかとわたしはなぜか思った。

 紗耶香と過ごす時間は嫌いではない。むしろ好んで時間を作ろうとしていたの
だから、今の状況はむしろ歓迎することなのかもしれない。それに一番大きかっ
たのは、家に戻った時に、人がいるという安心感だった。前までのわたしは仕事
から戻ってくると、その疲れを持続したまま一人で過ごさなくてはならなかった。
その為だろうか、疲れはその日のうちに全て解消される事はなく、確実に残った
それを引き摺りながらまた仕事に向かうと言う日々を過ごしていた。だからいつ
しか重いものが蓄積されていくのに気がついていた。でもどうしようもできなか
った。
 しかし紗耶香が居る家に戻っていくと、それが一気に解消される。疲れをその
まま次の日に引っ張らなくてもよくなった。

 その日、わたしは珍しく睡眠薬を飲まないまま眠りにつく事が出来た。
38 :02/01/30 05:33 ID:sKwDyPiV

「完成したら見せてよ」
 不意の紗耶香の言葉にわたしは我に戻る。横たわっている彼女に視線を落とす
と、穏やかな表情でわたしを見上げていた。
「これのこと?」
 わたしは横においてあったスケッチブックを軽く持ち上げる。紗耶香は視線を
変えないままうん、と頷いた。

「紗耶香に芸術がわかるかなぁ? 少し不安だよ」
「こう見えても感受性は強い方だって言われるよ」
「誰から?」
「自分から」

 なんでやねん、と大して感情を込めないまま突っ込むと、紗耶香はそれでも満
足したらしく、ケタケタと笑った。少し細くなりすぎた眉に前髪がかかっている。
それを親指で横にずらすと、その視線はわたしから離れて高く伸びている青空に
向けられた。
 わたしもそれに釣られて空を見る。
 それと同時に頭上を横切る鳥を確認した。
 それを眼で追いながら、わたしは言った。
39 :02/01/30 05:35 ID:sKwDyPiV

「青空を書きたいの」

 唐突の言葉に、紗耶香は無言のままだった。それはわたしの発言を待っている
のだと表情を見なくてもわかった。

「何かを開放できるような……そんな絵が書きたいの」
「それが青空?」
 クス、とわたしは笑った。
「――みたいな絵が書きたいの」

 そう言ってゆっくりとわたしも紗耶香の隣に体を倒した。草の匂いが一層と強
くなって、柔らかい土の弾力に心地よさを覚えた。
 さわさわと風が走り抜けていく。少しだけ服の裾が持ち上がって慌てて手で押
える。紗耶香はそんなわたしとは関係なく、太陽の陽射、草の匂い、土の弾力、
そして風の感覚――それらを全て体の中に吸収するように、一つ大きく深呼吸を
した。
40 :02/01/30 05:37 ID:sKwDyPiV

「あたしは好きだよ」
 紗耶香はそう言ってゆっくりと体を起こす。その背中には草の屑が張り付いて
いた。
「……何が?」
 わたしは背中から視線を上げて紗耶香の横顔を見た。
 紗耶香は振り返ってわたしを見下ろす。

「カオリの絵」
「…………」
「絵も……カオリの事も……あたしは大好きだよ」

 紗耶香の表情は依然として穏やかだった。まるでその視線はおばあちゃんが孫
を見るときのように優しさが篭っている。それを感じて、わたしの胸の奥は急に
熱くなって、鼓動の動きが速くなった。
 苦笑いすると言った。

「やめてよ……心の準備が出来てませんよ」
「あほ」

 それからわたしたちは一緒になって笑った。
 それが酷く心地よくて、酷く残酷に思えた。

 いつまでもこうしていたい。

 でも永遠なんて物が無い事ぐらいわたしでも知っている。
 物も時間も人も――。
 そしてこの関係も――。