二十歳のころ

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     ◆

 川原に着いた時、持ってきたスケッチブックは水分を吸い込んでボロボロにな
っていた。斜面を下るわたしの足は、数センチの草たちに巻きつかれて体勢を崩
される。

 きゃ、と短い悲鳴を上げながらゴロゴロと土手を下るわたしの体。持っていた
赤い傘が風に吹かれて舞い上がる。口の中に泥が入り込んで、舌の奥を刺激する
苦味を感じた。
 舞い上がる傘に視線を向ける。まるで風船のように空に向かって行ったその傘
は、数秒しないうちに川のほとりを転がり、茶色い水流に乗って連れ去られてい
った。

 わたしはゆっくりと起き上がる。背中に当たる雨。生地が肌に張り付いて、そ
の動きを静止させようとしているような気がして、訳のわからない苛立ちが沸き
起こってきた。

 息を切らしながらスケッチブックのページを捲る。昨日書いた風景が、すぐに
雨に濡らされてインクが溶け出していた。滲む色の中に、わたしは虚ろだった心
を見せ付けられたような気がする。

 斜面を下って、砂利の道に足をつける。周りには人の姿は無く、川の流れが激
しく音を上げていた。
 わたしはそのスケッチブックを抱きしめて、ゆっくりと砂利に座り込む。体中、
シャワーに当たったようにずぶ濡れになって、前髪の先から水滴が落ちる。それ
は額に着き、顔中を駆け巡っていった。
230 :02/03/18 03:41 ID:/A6WaKeO

「……紗耶香」
 わたしは呟く。
 まるで抱いているスケッチブックが彼女のように思えた。

 絵は完成していた。

 わたしがあの時に見た風景。宝石のように光り輝く川原に、手を伸ばして風を
感じる少女。その少女の髪の毛はわたしが知っている頃よりも金色になって、少
し大人っぽく成長した顔立ち。でもどこかに影を感じさせるのは、彼女に子犬の
姿を重ねていたせいだろう。

 そっと抱いていた絵に視線を落とした。
 彼女の姿は、掌のサイズになってそこに存在している。

 顔を上げると厚い雲が落ちてきそうな圧迫感を醸し出している。遠くに見える
橋に数台の車が横切っていく。向こう岸のほうには民家が数件軒を連ねていて、
どこの家も厳重に窓を締めていた。

 わたしはそっと溶け出したインクに触れる。その指先を横に移動させていくと、
七色混じって不思議な線が引かれた。紙は今にも破けそうなほど弱くなっている。
水分を吸い込んで、胸の中の風景を消そうとしていた。
 それでもわたしは溶け出したインクを絵の上に引いていく。いつしか紙は破れ
て、鮮やかに乗せられた色が原形を留めないほど混ざり合っていく。それは絵を
汚す作業だった。わたしが見た風景は、表面上だけ。気取ったように書かれたそ
れは、わたしと紗耶香を書いたものじゃないと気づいた。
231 :02/03/18 03:43 ID:/A6WaKeO

 あの時から、わたしたちの心はボロボロだったんだ。
 それなのに、それを隠して書いたこの絵なんかに意味があるはずが無い。
 そう思った。

 絵を汚す作業にわたしは没頭した。

 川原に一人、雨が当たる中座り込む女の子の光景は奇妙だったに違いない。わ
たしの姿は多分数人の眼に映っただろう。でもこの時のわたしにはそんな事は関
係なかった。

 この絵を本当の意味で完成させないと紗耶香と会えないと思った。
 あの子犬を抱き上げることが出来ないのだと思った。

 だから他人の目なんか、この時のわたしには関係ない。
 気がつくと涙なのか水滴なのかわからないものが頬を伝っていた。わたしの頭
の中にメンバーの顔が浮かぶ。一人一人の素敵な表情。

 守らなきゃいけない。
 全部、あの子達を不安にさせるものから守らなきゃいけないんだ。

 携帯は依然として音を上げ続けていた。
 メンバーから、事務所から、マネージャーから。
 でもそれに出ることは無かった。
 絵を汚す作業に、没頭していたから。
232 :02/03/18 03:46 ID:/A6WaKeO

 それからどれぐらいの時間、わたしはそこでそうしていたのだろうか? 目の
前の絵はすでに原形を留めていない。ボロボロになった紙の屑が表面に転がって
いるだけだった。

 携帯が音を上げた。
 それと同時に視線を上げる。

 向こう岸の奥、灰色のビルの、先端部分の隙間を縫って僅かに見える黒い雲の
中に、わたしはその時一瞬だけ光を見た。それは降り注ぐ陽射だったように思う。

 顔を上げたわたしの視界に、向こう岸で傘を持っている人の姿が映った。赤い
色が鮮やかで瞼の裏側を刺激する。それが何故だか眩しくて眼を細めた。

 携帯が止まった。
 しかし数秒もしないうちにまた音を上げる。
 その瞬間、わたしの体をきつく圧迫感が走った。

 向こう岸の傘がゆっくりと持ち上がる。隠されていたその人物の姿が見えてき
て、携帯を耳に当てているのだとわかった。

 わたしは立ち上がる。
 弱々しい足取りでゆっくりと川に近づいた。
 茶色い水流の音が激しくなる。それと比例するように、赤い傘の人物の姿が大
きくなった。
233 :02/03/18 03:48 ID:/A6WaKeO

「……紗耶香」

 そう呟いてから、わたしは慌てて携帯を取り出した。
 液晶には『市井紗耶香』の文字。
 顔を上げると彼女は依然としてわたしを見ているのに気がついた。
 そっと通話ボタンを押して、わたしは携帯を耳に当てた。

「……カオリ」

 その聞こえる声になぜか落ち着いていくのを感じた。まるで彼女がここに来て、
始めからこうして電話を掛けてくるのを知っていたかのように、わたしの気持ち
は少しずつ開放される。
 手に持ったスケッチブックに力が加わっていた。

「……ずぶ濡れじゃん」
 呟く紗耶香の声が耳に入る。わたしはうん、とだけ頷いた。
「……髪もぼさぼさ」
「……うん」
「……メイクも剥がれてる」
「……うん」
「……体……震えてるよ」
「……うん」
 それから紗耶香は一瞬だけ口を閉じてから言った。
「……カオリ……小さいね」
「……紗耶香も……小さいよ」
234 :02/03/18 03:50 ID:/A6WaKeO

 ずっと頭の中に響いていた子犬の鳴き声が止んでいた。その空間にあったのは
川の音ではない。前から確実に存在していた安心感と紗耶香の姿。真っ白になっ
たわたしだけの世界に、その二つしかなかった。
 紗耶香は僅かな間黙ったままだったが、口からこぼれるように呟いた。

「……ここだと思ったよ」
「…………」
「みんな心配してる。リーダーが仕事サボっちゃダメじゃん」
 苦笑いする。その声が紗耶香にも聞こえたのかもしれない、口を閉じてわたし
の言葉を待っていた。

「……ダメリーダーだね」

 その言葉に対して、紗耶香は何も言わなかった。
 川を挟んでわたしたちは携帯で会話をする。雨は依然として降っていた。

「……圭ちゃんから電話あった。凄く慌ててるみたいだった」
「……うん」
「……後ろの方で矢口とかなっちとか……凄い騒いでる声が聞こえてた。バタバ
タしてるみたいだった」
「……うん」
「……でもあたしはカオリが行く所なんて知らないから、圭ちゃんには知らない
って言った」
「……うん」
「……でも、多分ココだろうなって」
「…………」
「……その後、後藤からも電話が来た」
「…………」

 紗耶香は少しだけ間を開けた。その数秒に、わたしは色んな感情がこもってい
ることを知った。
235 :02/03/18 03:52 ID:/A6WaKeO

「カオリ……何やってるの?」
 その言葉だけ、わたしは刺々しいものだけ混じっていることに気がついた。

 そっとスケッチブックを脇に挟めて胃に手を当てる。内臓がグルグルと動いて
いる感じがした。

 風が吹いて雨が横殴りになる。全身濡れた体には、それがどこから来ようとあ
まり関係は無かったが、耳に入り込んで来る雨粒だけ不快に思った。
 胃の上の服を掴む。手が震えていた。

「……わたしは救わなくちゃいけないんだ」
「……救う?」
 紗耶香の疑問の声があがる。それでもわたしにはそんな事関係なかった。

 助けなくちゃいけない、抱き上げなくちゃいけないという思いは、この時のわ
たしの全てだった。だから目の前の存在は、探し続けていた子犬なのだと確信し
ていた。

 下唇を噛んでから、わたしはゆっくりと口をあける。

「子供の頃の子犬……テレビの中の子犬……」
「…………」
「……可哀相だった……子供の頃見ていて……誰か救ってあげないのかって……
そう思ったの……でもそれは違うんだ。誰かじゃない。わたしがそうしないとい
けないんだって……だから……」

 紗耶香は黙ったままわたしを見ていた。持っている赤い傘が微かに揺れている
様に思えて、その残像が目の奥に焼きつく。脳の後ろが締め付けられる感じがし
た。
236 :02/03/18 03:55 ID:/A6WaKeO

「紗耶香……ねぇ見てよ」
「…………」
 わたしはスケッチブックを彼女に見えるように掲げた。

「あの時の絵が出来たの……この川原で書いていたあの絵が出来たの……ボロボ
ロになっちゃったけど……やっと完成したんだよ」
「……いいよ……もうわかったよ」

「うまくわたしたちのことを書けたかわからないけど……でも精一杯書いたよ。
紗耶香、わたしの絵が好きだって言ってくれたよね」

 向こう岸の赤い傘は確かに揺れていた。紗耶香は何かを否定するように首を横
に振っていたようだ。
 雨粒が当たっている顔を拭う。スケッチブックはすでに水分で重くなって曲が
っている。

「カオリ……違うよ……あたしたちは――」
 機械を通して聞く紗耶香の声はどこか上ずっている。どうして悲しそうな声を
出すのかわたしにはわからなくて、早く好きだといってくれた絵を見せてあげな
くてはいけないという思いを強める。

「あたしたちは……お互いに弱さを見せちゃダメだったんだ……あたしもカオリ
も、それを受け止める事出来ないから……だから傷つけあうだけだった」

 わたしは一歩川に足を入れた。冷たさが脳を突き上げる。

「余裕がないんだよ……あたしには……何かを受け止められる余裕が無い。だか
ら――」
237 :02/03/18 03:57 ID:/A6WaKeO

 紗耶香の声が止まる。
 何かに気がついたように一歩足を踏み出していた。

「カオ……カオリ――ねぇ何やってるの!」

 わたしの両足はこの時すでに川に浸かっていた。流れる茶色い水流に逆らうよ
うに一歩一歩と歩く。

「カオリ! ちょっと!」
 流れは速くなっていた。水量が膝辺りまでくると、足を取られないようにする
ことで精一杯になってくる。それでもそれはただの障害としかわたしには思えな
かった。わたしと紗耶香の間にある、ただの障害。それを乗り越えないと、スケ
ッチブックの中の絵を見せることが出来ない。

「やめてカオリ!」
 叫ぶように紗耶香は言った。その声は電話の向こうからも聞こえてくる。唖然
とわたしを見ている彼女は、川の数歩前で足を止めていた。
 流れに体をとられてわたしは持っていた携帯を離した。それはすぐに水の中に
沈んでいって、再び拾うことも出来なくなる。依然として振り注ぐ雨と、それに
跳ね上がる水滴。上と下からわたしに水の粒が当たってきて呼吸を邪魔する。そ
れでも前に進むことはやめなかった。川の三分の一ほどまで辿り付くと、水は腰
辺りまで来ていた。流れが異常に速くなって、否応無く足を取られていく。
238 :02/03/18 04:00 ID:/A6WaKeO

「カオリ! 危ないから戻って!」
 紗耶香はすでに携帯を投げ捨てていた。その声は直接向こう岸から聞こえる。
視線を何度も水流に遮られて、口の中に泥の味がした。鼻腔を突き上げるのは生
臭さ。息を吸うたびに雨が肺の中に入り込んで何度も咳き込んだ。

「カオリ! お願い戻って!」
 わたしは動きを止めた。

 その瞬間、それを狙っていたかのように足を持っていかれる。思わず手を着こ
うと水中に腕を伸ばす。しかし体勢を崩したわたしの体は足を浮かせて頭から倒
れる。生臭い水の中、すぐに下流へと連れ去られていくのを感じて、必死で手を
伸ばして掴んだのは小さな石だった。まるで空気を掴むように手応えがない。口
をあけるとそれを狙っていたかのように肺の中に水が入ってくる。咳き込むと一
層と体の中に進入してきた。

 その泥水の中でわたしは辻の顔を思い出す。

 わたしは本当にみんなのことを考えてきたのだろうか?
 わたしは考えているようで、何もわからなかったんだ。

 顔を上げる。川の底に足が着いた。それを水流に逆らうように突き立たせると、
わたしは空気を求めて水面に起き上がった。
 耳に聞こえたのは紗耶香の悲鳴だった。

「カオリ!」
 紗耶香の姿が遠くになっている。どうやらたった数秒で流されてしまったよう
だ。
239 :02/03/18 04:02 ID:/A6WaKeO

「カオリ!」
 紗耶香は傘を投げ捨てて土手を走る。真っ赤な傘がコロコロとその後を追うよ
うに転がっていた。

「カオリ!」
 紗耶香はもう一度叫ぶ。
 頭の中が真っ白になる。肺が痺れていて、何度も咳き込んだ。
 水量はすでにお腹まで来ていた。それでも川を半分以上渡ったせいか、紗耶香
は戻ってとは言わなくなった。

 わたしはもう一度歩く。
 胸を張りたいから、この流れに逆らって歩く。

 水流に視線を邪魔されながらも、紗耶香が叫ぶ顔が見えた。たった今傘を外し
ただけだというのに、あっという間に彼女は全身を濡らしている。

「紗耶香!」
 わたしは流れに逆らいながら叫ぶ。
「わたしは――」
 しかしすぐに体をとられそうになって言葉を切った。喋るたびに体の力が抜け
るのかもしれない。
 そう思っていながらもまたわたしは口を開いた。
240 :02/03/18 04:05 ID:/A6WaKeO

「わたしは強くなりたいの!」

 紗耶香が足を止める。
 わたしは水をかくように前に進む。

「みんなを守れるくらい強くなりたいの!」

 紗耶香が口を抑えている。その頬を伝うのは涙なのか雨粒なのかはっきりとし
なかった。

「だからわたし――」
 そう声を上げた瞬間に、また水流に体を奪われた。

「カオリ!」
 体をまた水が覆う。その一瞬だけ見えた紗耶香は走り寄るように川に足を踏み
入れていた。

 川の中で体が浮く。体勢を整えようとじたばたしても、なにも突っかかるもの
が無く、それは虚しく水を切るだけ。体が一回転して、鼻の中に泥が入り込んで
来る。顔に当たる砂。それはまるでモデルガンの玉を当てられているかのように
痛みを感じた。

 裕ちゃんはどうしてわたしをリーダーにしたんだろう?
 こんなわたしをどうして選んだんだろう?
241 :02/03/18 04:08 ID:/A6WaKeO

 空気が口から漏れていく。視界一杯に濁った水が覆う。髪の毛が無重力空間の
ように浮いているのが一瞬だけ見えた。

 わたしは変わったんだ。
 あの頃から――裕ちゃんがいなくなってわたしは変わったんだ。

 わたしの腕を何かが掴んだ。それと同時に体が止まる。勢い良くわたしは水面
に顔を出した。

「カオリ!」
 そこには紗耶香がいた。
 紗耶香は必死にわたしの腕を掴んでいる。全身水浸しになって、短い髪を額に
つけながらも、その表情は必死だった。

「カオリ! 大丈夫!」
 頷く余裕は無かった。多分彼女も返事を期待していない。ただ咳き込むわたし
を、その腕は力強く腰に回る。安心を胸に感じた。

「一歩ずつ! カオリ! 一歩ずつだよ!」
 わたしは無言のまま頷く。
 呼吸も合わせて、わたしは紗耶香のタイミングで歩いた。体に感じるぬくもり
は、あの時より冷たかったが、それでも心強いものだと思った。
242 :02/03/18 04:11 ID:/A6WaKeO

「紗耶香……わたし……」
「いいから。今は黙って」

 前を向きながら紗耶香は言う。
 それでもわたしは口を開いた。

「紗耶香……わたし恐かったんだと思う。ずっと恐かったんだ」
「いいから」
「必要とされたかったんだ。誰でもいいから、わたしを必要としてほしかった」
「…………」
「……だから恐かったの」

 紗耶香はそれに何も返さなかった。
 ただ前を向いて歩く。

 川を半分以上渡りきって、水量が腰の下まで来るとわたしたちを連れ去ってい
こうとする水流の力は弱まっているのを感じた。それでも紗耶香は気を抜くこと
は無く、一歩一歩慎重に歩く。
 その内水量はどんどんと下がっていって、膝の下辺りまでくると紗耶香はわた
しの腕を握って引っ張るように歩幅を広げる。

 川を抜け出す。砂利の上に倒れるように逃げて、わたしは仰向けになって落ち
てくる雨を全身で感じた。紗耶香は肩で息をしながら横で膝をついている。水を
飲み込んだのだろう、わたしと同じように何度も咳き込んでいた。

 紗耶香が投げ捨てた傘はどこにも見あたら無かった。わたしたちの位置は始め
にいた場所より流されていて、遠かった橋が大きく写っている。
243 :02/03/18 04:13 ID:/A6WaKeO

「カオ……カオリ……」
 紗耶香が弱々しく立ち上がりながらわたしの元に寄ってくる。頭の上で膝を突
くとそっと掌を頬に当てた。
 紗耶香の手は氷のように冷えきっていた。

「大丈夫?」
 わたしはゆっくりと頷く。
「無茶だよ……本当に……無茶なことしないでよ」
 わたしはゆっくりと腕を上げる。硬く握り締めていた手を彼女の目の前に突き
出すとそれを広げた。
 彼女は掌にある紙切れを掴むと不思議そうに視線を落とす。
 わたしは苦笑いしながら言った。

「絵……こんなにちっちゃくなっちゃったよ」
 そう呟くと、紗耶香は大事そうにスケッチブックの切れ端を両手で掴んで何度
も頷いた。

 雨が降り注ぐ。雲にはどこにも切れ目は無い。
 紗耶香が電話をくれる前に、ビルの隙間を縫って見た陽射は幻だったのだろう
か?
 そう思いながらわたしはゆっくりと立ち上がった。
244 :02/03/18 04:20 ID:/A6WaKeO

「カオリ……」
 足が震えているせいだろう、紗耶香は心配そうに声を掛けた。
 目の前の視線が霞む。体全体が悲鳴を上げているようで、震えが止まらなかっ
た。それでも頼りないわたしの二本の足は真っ直ぐに伸びて、その体重を支えて
くれる。眼に入る前髪が邪魔でかき上げる。視界が少しだけ広がったような気が
した。

 幻じゃない……。
 わたしは思う。
 あの一瞬だけ見えた陽射は幻なんかじゃない。

 子犬の鳴き声は止んでいる。その純粋に輝く瞳の理由が、この時不意にわたし
の頭の中に沸き起こってきて、言い知れない高揚感が気持ちを煽る。
 両腕を雨が感じやすいように広げた。顔を上げて厚い雲を見る。あの向こうに
は眩しいぐらいの光が存在しているに違いない。そう思うと愉快な気持ちになっ
て、口元に笑みが浮かんだ。

「カオリ……」
 紗耶香がわたしを見上げながら呟いた。どうして笑みを作っているのかわから
ない様子で、表情が強張っている。
 雨は依然として弱くならない。それはさっきと変わらないはずなのに、なぜか
わたしはそれが酷く心地良いように思えた。

 降り注ぐ雨。
 わたしは腕を広げながらクルクルと回る。
 馴染みのリズム。
245 :02/03/18 04:22 ID:/A6WaKeO

「カオリ」
 紗耶香が立ち上がる。
 わたしは彼女を見ると一度だけ頷いた。
 それから一歩二歩、と歩く。それから徐々に歩幅を広げて小走りにした。
 雨を全身に感じて、頼りない足取りだけど砂利の上を走る。いつしかその行為
自体が愉快に思えて、口元の笑みは笑いに変わっていった。

 そうか。
 あの子犬は捨てられたわけじゃなかったんだ――。

 開放されていく気持ち。
 わたしの心がどこかに飛んでいく――そんな気がした。

「カオリ!」
 紗耶香がわたしの後を追って走り出す。すぐに追いついた彼女は背中に抱きつ
くようにわたしのお腹に腕を回した。

「カオリ! どうしたの? ねぇ!」
 わたしはそれに答えることなく、また走り出そうとするが堪り兼ねた紗耶香が
強引に腕を引いて地面の上に押し倒した。背中にでこぼことした感触が突き刺さ
る。その上に紗耶香は覆い被さるようにわたしのお腹の両脇に膝をついて、腕を
顔の横に付き立てる。

「カオリ!」
 水浸しになった顔でわたしを見下ろすその表情は不安の色を隠せない。一粒の
水滴が髪から滴り落ちて鼻先に当たると、そっとわたしは彼女の頬に手を当てる。
冷え切った肌の柔らかさを感じた。
246 :02/03/18 04:24 ID:/A6WaKeO

「カオリおかしくなったの? ねぇ! カオリ!」

 大丈夫。
 わたしは口の動きだけでそう言った。

「どっか行っちゃうよ! カオリが――」

 大丈夫。

 わたしは頬に当てていた手を離して、両腕を彼女の首の後ろに回した。それに
釣られるように紗耶香はゆっくりとわたしの上に覆い被さる。荒々しい息を耳元
に感じた。

「紗耶香……大丈夫だよ」
 わたしは呟いた。

「わたしは大丈夫……もう大丈夫なんだ」
「……カオリ」
 紗耶香の声が震えていた。

 腕を離すと、紗耶香はゆっくりと起き上がってわたしから降りた。上半身だけ
を起こして、首を上に向ける。横にいる彼女は呆然とした眼差しを向けていたよ
うで、その視線を首筋に伝う水滴と共に感じる。
247 :02/03/18 04:27 ID:/A6WaKeO

「子犬……あの子犬は捨てられたわけじゃなかったんだ」
「…………」
 視線の先はどこまでも続く黒い雲が広がる。降り続ける雨は眼や耳の中に入り
込んでは来ていたが、不快感どころかその時のわたしには気持ち良いとさえ思え
ていた。

「あの子犬の眼はね、前に紗耶香が話してくれた犬のような眼をしているんだ。
純粋に輝いている、誰かを信頼している――そんな眼をしていたんだ」

 紗耶香は呆然とわたしを見ていた。一切口を挟むことは無い、ただ言葉の続き
を待っているのだと思った。

「あの子犬はきっと道に迷っちゃっただけなんだよ。ちゃんと帰るお家はあるの
……帰ったら暖かい家族が待っている……だからあんなに純粋な眼をしていたん
だと思う」
「……帰る場所?」

 わたしは小さく頷く。

「あの子犬にはそこがあったんだと思う。だから、綺麗な眼をしていられたんだ」

 わたしにもその場所があるのだと思う。八人の女の子がわたしを待っていてく
れる。そして紗耶香にもその場所がある。
 紗耶香はその事に気がついたのだろうか、何かに駆られるように視線を遠くに
飛ばした。その向こう側にあるのは、あの雲を突き抜けるほどの光だったのだと
思う。わたしが見た、あの陽射だ。
248 :02/03/18 04:29 ID:/A6WaKeO

 強く――わたしは強くならないといけない。
 紗耶香だって同じだ。

 わたしはメンバーを守るために強くなって、紗耶香は光に当たるために強くな
らないといけない。
 でもそれは今すぐじゃなくてもいいのではないだろうか? 今すぐそうならな
くたっていいのではないだろうか?
 わたしたちにはまだ時間が用意されている。だからゆっくりとそうなればいい
のだ。

 紗耶香は強くわたしの右手を握った。
 微かに暖かくなり始めている体温を感じる。

「あたしにも……ある?」
 わたしは黙ったまま紗耶香を見ているだけで返事はしなかった。それに彼女は
苦笑いをする。

「あたしは……作り直さなきゃね」

 気のせいか雨が弱まり始めているようだ。目の前の川は依然としてけたたまし
い音を上げ続けている。青々と茂った斜面に一瞬だけ視線を向けてから、わたし
は余ったもう片方の手で彼女の手の甲を包んだ。

 わたしは少し考えてから、彼女の眼を見た。
249 :02/03/18 04:32 ID:/A6WaKeO

「雨は――」
 紗耶香は虚ろな瞳でわたしを見返す。

「雨は……多分涙なんだ」
「…………」

「あの黒い雲はみんなのもやもやした気持ちで、嫌な事とか腹が立った事とか、
そんな感情があの中にあるんだよ。それが溜まっていって、こうしてみんなを覆
うんだ。それが一杯一杯、溢れるぐらいになると、今度は雨として涙が降ってく
るの……雨が降ると気持ちが沈んでいくのはそのせいなんだよ、きっと」
「…………」

「でも一杯一杯泣いたら気持ちが晴れていくみたいに、あの雲も無くなっちゃう
んだ。泣いた後はスッキリするから……だからねわたしたちは雨に当たらないと
いけないと思うの。みんなの悲しみを感じてあげないといけないと思うの。そう
しないと、その悲しみが可哀相だから……だれにも受け止められない悲しみほど、
悲しいことは無いと思うの」

 紗耶香は黙ったままわたしを見ていた。その表情は何も変わらない。
 それから一息呼吸を置くとわたしは言った。

「だから――空はいつか晴れるんだ」

 呆然とわたしの言葉を聞いていた紗耶香の表情が、ゆっくりと崩れていく。
 クスッと彼女は笑った。
250 :02/03/18 04:34 ID:/A6WaKeO

 頬に水滴が伝っている。
 それから顔を上げて、覆う雲を見た。細い首が伸びて雫がゆっくりと伝ってい
く。降り続く雨の中にその視線は何かを捕らえたようだった。

 紗耶香はまたわたしを見る。
 それから困ったように微笑んだ。

「意味わかんない」

 紗耶香はけたけたと笑った。

 それはわたしと過ごしてきた中で、決して見ることが出来なかった純粋な笑い
だということに気がついた。鏡台の前で気を使う笑いではない、間を繋げるため
の愛想笑いでもない。昔、いつも楽屋で聞こえていた時のように、楽しいと言う
気持ちだけが込められた声だった。
 いつの間にかわたしも一緒になって笑う。
 嬉しくて、一緒になって笑った。

 ひとしきり笑い終えた彼女は、わたしの髪を触った。水分を含んで固まったそ
れを指先に絡めてから、そっと頬に手を当てる。
251 :02/03/18 04:37 ID:/A6WaKeO

 雨は依然として降り続いていた。
 風の中に微かな夏の匂いを感じさせる。
 鳴り響く川の音の中で、紗耶香はそっとわたしの唇に口をつけた。

 一秒もしない、ほんの僅かなくちづけ。
 顔を離した彼女はありがとう、と小さく呟いた。

 そのくちづけは、あの頃日常茶飯事に行なわれていた行為。
 あの頃のように――。

 触れるだけの刹那的なぬくもり。
252 :02/03/18 04:40 ID:/A6WaKeO

     ◆

 紗耶香……雨止んだ?
 どうかな? でも音は聞こえなくなったね。

 空……晴れているかな?
 どうだろ? カーテンはずっと暗いままだよ。

 ちょっと疲れちゃった。
 ……うん。

 もう一度だけ……眠らせてね。
 ……うん。

 すぐ……起きるから。
 ……うん。

 だから……少しだけ眠らせてね。
 ……おやすみ……カオリ。
253 :02/03/18 04:42 ID:/A6WaKeO

    エピローグ

 本番数分前、セットの裏で待機していると、圭ちゃんがうろうろと辺りを見渡
しながら歩み寄ってきた。

 生のテレビ番組の収録で、セットの裏には色んなアーティストの人たちが待機
している。スタイリストの人たちが最後まで余念なく髪形などを治したり、汗を
拭いたりしている中、ハロープロジェクトの面々はその人数の多さからか高い声
で様々な言葉を飛び交わせていた。

 どうしたの? とわたしが声を掛けると圭ちゃんは眉をしかめて辻がいないの、
と呟くように言った。わたしはその言葉を確かめるように、はっぴ姿の女の子の
人数を数えてみる。確かに九人しかいない。

「もう少しで本番なんだけど……」
 わたしには思い当たる節があった。

 リハーサル中、次々と無事に済ませていくユニットの中で、わたしたちは何度
かやり直しをさせられていた。それは十人と言う人数もさることながら、複雑に
入り組んだフォーメーションなど、確認するだけでも時間を取る。その中で辻は
何度か失敗をして、時間を押しているのは自分のせいだと思い込んでいたようで、
楽屋に戻っていく廊下では、その表情はずっと曇ったままだった。

「不安なのかもしれないね」
 わたしは呟いた。
 圭ちゃんは黙ったままわたしに視線を向けている。

「本番までまだ時間あるよね……呼んで来るよ」
 そう言って背を向けたとき、圭ちゃんが呼び止めるようにわたしの名前を言っ
た。振り返ると彼女は複雑な表情を向けている。
254 :02/03/18 04:45 ID:/A6WaKeO

「カオリ……」
 何を言いたいのか、何となくわかった。
 わたしは空中に視線を泳がせてから、何も言葉が浮かばないことに気がついて、
一度だけ頷いた。

 圭ちゃんは口を開いて何か言おうとしてやめた。
 数秒の間を開ける。その間周りの賑やかな声は止まなかった。

「……時間……無いからね」
「わかってる」

 わたしは駆け足でスタジオを抜け出した。

 長い廊下の中、小走りで楽屋へと戻っていくわたしの足取りは、あの頃いつも
感じていた重さはなかった。依然として気苦労は耐えなかったし、胃も締め付け
られる。それでも、それでいいのだと思った。

 数日前に久し振りに紗耶香と連絡を取ると、彼女は明るい声で復帰の目処が立
ちそうだと言うことを言った。これからまだまだ大変だと思うけど、スタートラ
インがやっとで見えた感じがするんだ、とそこには前向きな言葉が並ぶ。

 一人で強がっていたカラッポのプライドをやっとで壊せたよ。

 今朝目を覚ますとそんなメールが入っていた。
255 :02/03/18 04:47 ID:/A6WaKeO

 わたしは足を止めて右手の窓を見る。太陽が天辺で輝いていて、縦並ぶビル郡
が大きな陰を作っている。眩しいぐらいの陽射の中、雲一つ無い空にわたしは気
持ちを広げた。

 楽屋の前に着く。そっとドアを開けると薄暗い空気を感じた。

「辻」

 わたしは声を出して中に入る。蛍光灯は消えていて、ブラインドの隙間からこ
ぼれる光だけが唯一の光源で、その中に埃がうっすらと漂っているのが見えた。
細長いテーブルの上にはわたしたちユニットのメンバーの荷物が乱雑に散らばり、
パイプ椅子がバラバラになって配置されている。その入り口から見て突き当たり
に辻がぽつん、と一人座っている姿が見えた。

 鉢巻を頭に巻いて、髪を二つのお団子に結い上げている。赤地に青いラインの
はっぴはわたしが着ているものと一緒だった。

「辻……もう少しで本番だよ」
 静けさだけがその空間を支配する。
 ブラインドの隙間からこぼれる陽射は、テーブルの上に張り付いて、いくつも
の細長い線を描いていた。

 辻はゆっくりと顔を上げる。その顔には不安があった。
 わたしは思う。

 辻はずっと不安だったんだ。裕ちゃんがやめて、わたしが不安だったように、
確実に変わったメンバー内の空気や周りの眼。それらを辻は感じていてのかもし
れない。だからずっと不安だったんだ。
256 :02/03/18 04:50 ID:/A6WaKeO

 わたしはゆっくりと辻の元に歩み寄る。
 足音がコツコツと壁に響いた。
 数歩前で足を止める。

 目の前の小さな女の子は、虚ろな眼でわたしを見上げた。

 不安はこの先ずっと抱えていくものだろう。
 一つの不安が解消されても、また新たなそれが生まれる。わたしたちはきっと
その繰り返しを延々と続けて、そして一歩ずつ何かに向かって歩いていくのだと
思う。

 その過程で人を傷つけることもあるかもしれない。逆に傷つけられることもあ
るかもしれない。その度にわたしたちは悩んで、そして笑っていく。

 大丈夫。
 そのことがわかっていれば大丈夫だ。

 わたしはゆっくりと息を吸い込むと、不安そうに顔を上げている辻に向かって
言った。
257 :02/03/18 04:52 ID:/A6WaKeO

「……行こう」
「…………」

 小さなわたしの声が壁に反射する。
 辻は黙ったままわたしを見ていた。

「辻……行こう」
「……いいださん」

 鼓動が高鳴っていた。
 体の奥が熱を持っている。
 わたしは小さく深呼吸をすると、辻に手を伸ばして言った。

「わたしに――付いてきなさい」

 静寂の中で力強く――。
 わたしは辻の手を、硬く握った。



(終了)