二十歳のころ

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    ◆

 喉の奥に何かが引っかかった感じがして、わたしは咳き込みながら目を覚まし
た。その勢いでソファから落ちて、スケッチブックを下敷きにする。
 肺がヒリヒリしている。喉の痙攣が治まらなくて、咳き込みはいつしか嗚咽へ
と変わっていった。
 苦しさからテーブルの上の画材を腕で払い除ける。紗耶香が使っていたコップ
の液体がまだ残っていたのに気がついて、わたしはそれを掴んで一気に飲み干そ
うとする。しかしうまく液体が喉を通らない。また咳き込みながら液体をテーブ
ルの上に吐き出した。
 ゲホゲホ、と蹲りながら咳き込む。吐き出された空気を吸うことが出来ない。
苦しさから涙が出てきて体が震えた。

 数分そんな事をしていると、ゆっくりと呼吸を取り戻す。眼の涙を手の甲で拭
って立ち上がる。まるでお風呂から急に上がろうとした時に似た貧血が襲ってき
て、わたしはふらふらと壁に移動して自分の体を支えた。
 口の中が苦い。頭の中に鉛でも入っているのではないかと思わせるように、ず
っしりと重さを感じる。胸のむかつきが突き上げるように襲ってきて、頼りない
わたしの体重を支える二本の足が震えていた。

 何とか落ち着きを取り戻すと部屋を見渡す。テーブルを汚す液体に、紗耶香の
置手紙が濡らされている。床にはサインペンが広い範囲で転がっていて、わたし
が飛ばした勢いでキャップが外れたものもあった。ソファの横にスケッチブック。
テーブルの下にはテレビのリモコン。わたしは肩で息をしながら、ゆっくりとキ
ッチンに向かうと、コップに水を汲んで、それを一息つきながら口の中に入れた。
218 :02/03/15 16:45 ID:k9Od4/TY

 水道から水が流れ出る。ステンレスに叩きつけられて、小さな空気の泡を造っ
ていた。

 半分ほど残った水をまるで植物に注ぐように手を上げて流しに捨てる。微かに
指が震えていて、コップを落としそうになった。
 蛇口を捻りなおしてわたしはまた居間に移動する。布巾でテーブルの上を掃除
して、散らばったサインペンを集めた。テレビのリモコンをテーブルの上に置く。
さっきのコップが倒れたままになっていた。

 それを起こして落ちていたスケッチブックをソファの上に置く。ある程度余裕
が出来ると、そっと窓に近づいて久し振りにカーテンを開けてみた。

 わたしは眩しいぐらいの陽射を期待していた。しかし目の前に現れたのは、黒
い雲がどこまでも続く空。灰色の建物はひっそりと存在を殺して、それでもその
雲に背を伸ばしている。車道に車が走り抜ける。道を歩く人々の手には傘が握ら
れていて、どうやら雨が降るらしいということを知った。
 振り返ってわたしは時計を確認した。
219 :02/03/15 16:47 ID:k9Od4/TY

「……仕事……行かなくちゃ」
 体は依然として重かった。
 多分、気持ちも深く沈んでいたのだと思う。

 鏡台の前に座ったわたしは、そこに映る自分の姿にもはや驚くことは無かった。
何かを隠すように、少し厚めの化粧をする。

 でも、その表情は隠せないのだと知った。
 あなたの存在価値は?

 そう尋ねられているような気がして、わたしは鏡を見ることをやめた。
 ずっと頭の中に、子犬の鳴き声が聞こえていた。
220 :02/03/15 16:49 ID:k9Od4/TY

    ◆

 重い雲が蓋のように覆っている。

 湿気が強いせいか、青々と茂った街路樹の葉が湿っている。水滴になったそれ
が数滴地面に落ちて、アスファルトを黒く染めた。
 陽射も出ていないのにサングラス掛けるのは変だよな、とわたしはぼんやりと
思いながら、片手に持った傘を地面に杖のように突き立てながら駅までの道のり
を歩いた。ガードレールのすぐ横を車が通っていく。白い煙があちらこちらで舞
い上がり、まるであの雲を製造しているのではないかと思わせるほど、それは空
中に舞って消えていく。

 すれ違う人々は足早で、色とりどりの傘が揺れた。顔を下げながら、足元だけ
を見る。擦り切れた靴がわたしの横を通り過ぎていった。

 ママ、と言う声が聞こえてわたしは顔を上げた。数歩ほど前で、コンビニの中
に入ろうとする子供が親の手を引いている姿が見えた。まだ学校に上がるか上が
らないくらいかの女の子だ。ピンク色のTシャツが鮮やかで、この重い雲に光を
遮断された世界には少し浮いて見えた。
 ダダをこねる女の子に負けたようで母親が引き摺られるようにコンビニの中に
入っていった。わたしはその横を通り過ぎて、ガラスの中の店内に視線を渡した。
女の子はすぐにお菓子コーナーに消えていった。
221 :02/03/15 16:51 ID:k9Od4/TY

 足を止める。

 雨粒が一粒首筋に感じた。

 辻に会ったら、お菓子を食べさせるのをやめさせようと思った。
 あれ以上太っちゃったら新しく入ってくるメンバーにも示しが着かなくなっち
ゃうね。

 そう思いながら再び歩く。

 加護に会ったら体のことを気にしてあげよう。
 吉澤に会ったら今度のユニット頑張ろうと言おう。
 石川に会ったらポジティブになったねって誉めよう。
 矢口やなっちにはいつもありがとうと言おう。
 後藤にはもっと輝いてって言おう。
 そして圭ちゃんには――。

 頬に一粒の涙が伝ったのに気がついた。
 わたしはそれを拭うことなどせず、また足を止めて垂れ下がる雲を見る。サン
グラスに数滴の雨粒が当たった。
222 :02/03/15 16:55 ID:k9Od4/TY

 自分には、何て言おう?
 わたし自身には、なんて言う言葉を掛けられるだろうか?

 横を通り過ぎていく男性が一瞬顔を上に向けてから持っていた傘を広げた。ま
るでそれが合図だったかのように、周りの人たちも次々と彩りどの傘を広げる。
 生暖かい風に湿気が篭っている。肌をジットリと湿らせて、雨の粒を横から連
れ去るように逃げていく。傘を広げる人の波の中、わたしの足は動くことをやめ
て、その場に立ち止まる。そんなに長い距離を歩いたわけではないのに、肩で息
をするわたしは、きっと周りの人から見ても変だっただろう。

 ドクン、と心臓が跳ね上がった。
 わたしは後ろに振り向く。

 色とりどりの傘がわたしに向かってくる。
 人々の顔はまるでマネキンのように表情が無かった。
 まだ心臓が高鳴る。わたしは一歩足を踏み出した。

 雨が徐々に強くなり始めていた。それでもわたしは持っていた傘を広げること
は無く、頭の中で響く声に導かれるように歩く。

 ああ、と思った。
 あの声だ。
 昔CMで見た子犬の鳴き声だ。
223 :02/03/15 16:57 ID:k9Od4/TY

 わたしはその鳴き声を辿るように走り出す。雨粒が顔に当たる。人の波の隙間
を縫って、その子犬の姿を見つけようとした。しかしどんなに走り続けても、ど
んなに周りを見渡しても、その子犬の姿は見つからない。

 歩道橋を駆け上がって上から道路を見下ろす。過ぎ去っていく車が途切れるこ
とは無く、向こう側の青信号を突っ切っていく。わたしの上を覆う屋根に雨が当
たって、まるで音楽のようにその細長い空間に響いていた。
 耳の奥で子犬の鳴き声が止まない。
 それはすぐ近くから聞こえているような気がしたし、遙遠くからのような気も
した。雨のリズムより強く、肌を濡らす不快感よりも激しくわたしの感覚を奪う。
見つけなきゃいけない。わたしはあの子犬を見つけなきゃいけないんだ。
 それは強迫観念に近いものだったような気がする。あの時、ただテレビを見て
可哀相だと思っていたわたしの思いを今救ってあげなくちゃいけないんだと思っ
た。そうすることで、その子犬を無視していった無数の人間たちよりわたしは胸
を張られる。胸を張ってその子犬を抱きかかえることが出来るんだ。
224 :02/03/15 16:59 ID:k9Od4/TY

 歩道橋から降りて強くなり始めた雨に当たる。そっと顔を拭って辺りを見渡す。
そこには何も変わらない風景が灰色の建物と共に並んでいた。

 息を切らしながら一歩足を踏み出す。
 手に持っている傘が邪魔なような気がした。

 車の騒音と共にわたしの携帯が音を上げた。

 我に戻って携帯を鞄から抜き出す。青白く光る液晶に雨粒が当たる。携帯のス
トラップが生暖かい風に吹かれて揺れる。
 相手は事務所からだった。
 腕時計を見ると事務所への集合時間が過ぎていることに気がついた。
 わたしはその液晶に視線を落としながら立ち尽くす。通話ボタンの上に置いた
親指に力が入らない。しばらくの間、頭の中が真っ白になったが、わたしを急か
すように響く子犬の鳴き声は止まなかった。

 わたしは携帯を切った。
 それを鞄の中にしまうと、ゆっくりと顔を上げた。
225 :02/03/15 17:01 ID:k9Od4/TY

「……ここにはいない」
 自分でも聞き取れない声で呟いた。

 ここにはあの子犬はいない。
 わたしはずっとあの子犬と共に一緒にいた。ずっと一緒の時間を過ごして、泣
いたり笑ったり、そんな時間を一緒に過ごした。
 胸の奥に、その子犬に包まれた時のぬくもりが残っている。

 震える、ぬくもり。

 救わなきゃ。
 あの子を救わなきゃ、わたしはダメになるんだ。

 駅とは反対方向に走った。
 それから家に戻ってスケッチブックを手にした。