二十歳のころ

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    ◆

「久し振り、市井ちゃん」
 後藤がそう言った時、ほんの僅かだが、紗耶香の表情に陰を落としたことをわ
たしは見逃さなかった。それは驚きと嫌悪、それが入り混じって複雑な心境を察
する。
 それでも紗耶香はすぐにいつもの笑顔を作って、高い声で言った。

「後藤? 久し振りだね」
 家のドアを開けたとき、紗耶香はいつものようにわたしを迎えてくれた。その
時、後藤は背中に隠れるようにしていたため、その存在を確認できていなかった
紗耶香は、すぐに部屋に上がらないわたしに疑問の表情を浮かべた。

 久し振り、市井ちゃん。
 後藤がそう言って、ひょっこり顔を現す。
 わたしは紗耶香の複雑な表情に罪悪感を抱く。それはこれ以上人に嫌われたく
ないという思いから、紗耶香の気持ちを無視した判断。それによって彼女がどれ
だけ傷つくのか、予想できている事にその感情を抱いた。

 自分が傷つきたくないから、他人を傷つける。
 その事実がわたしを締め付ける。
154 :02/03/01 16:47 ID:myarOEHo

 紗耶香は後藤を僅かの間見ていたが、すぐに昔のような表情に戻って、そこに
は先輩としての意地がまだ残っていたのかもしれない、わたしと接する時のよう
な無邪気さは消えていた。
 ただ照れたように笑っている後藤に向かって言った。

「綺麗になったね、後藤」
「あはっ」

 居間に移動したわたしたちは、お客様だという事で後藤をソファに座らせて、
紗耶香はその斜め前、いつもの位置で足を崩す。テレビでは番組の跨ぎニュース
が終わっていて、丁度CMに切り替わっていた所だった。テーブルに紗耶香が三
つカップを並べているのを横目に、わたしは着替えるために寝室へと向かって引
き戸を閉めた。

 暗闇の中に浮かぶ、鏡台の自分の姿を見る。幽霊のように立ち尽くすその姿は
まるで他人のようだと思った。

 今日あった出来事を思い出す。
 わたしに気を使うメンバーの表情。みんなリーダーとして力不足だという事を
感じていたのだろう。それを顔に出さないで、気を使われていた事実にショック
を受けた。

――全部いいださんのせいです!
155 :02/03/01 16:49 ID:myarOEHo

 苦笑いをすると、一瞬の目眩がわたしを襲った。今朝から続いている体の不調
から、ぺたん、と足を崩すように畳に座り込んだ。眼を閉じるとグルグルと頭が
回っているような気がして、吐き気を感じる。
 少しの間、わたしは暗闇の中座り込む。引き戸一枚の向こう側から二人の声が
漏れてきてその空間に響き渡る。それはわたしの心配を余所に、明るい紗耶香と
後藤の声。まるで昔、いつも聞いていたように、わたしの気持ちはその頃にタイ
ムスリップした。

 あの頃は裕ちゃんが居た。わたしはこんな気持ちでいる事は無かった。
 裕ちゃんも、こんな苦労をしていたのだろうか?

 わたしはゆっくりと立ち上がると、簡単に着替えて居間に戻った。テーブルに
は三つのカップに飲み物が注がれていて、それを片手に後藤が紗耶香を見ている。
紗耶香はイヤホンを片方の耳にはめながら人差し指でテーブルをとんとん、と叩
きながらリズムを捕っていた。

「レゲエ?」
「さまーれいぼー」
 へぇ、と紗耶香は納得したように頷いた。
 わたしは思わず笑うと、彼女の後ろを歩いて、回り込むように開いた席に腰を
下ろした。
「何でそんな会話で納得できるのよ」
 あはっ、と横で後藤が笑ってカップに口をつけた。
156 :02/03/01 16:51 ID:myarOEHo

 わたしたちはそれから簡単に食事を獲って、テーブルにお菓子の袋を並べなが
らどうでもいいような会話をした。時にはテレビに視線を移して、時にはデモテ
ープを聞きあって……まるで昔に戻ったように、わたしを侵食していた不安がこ
の時だけ心の奥に仕舞い込まれたようだった。
 どのユニットが一番売れるかと言う話をしたりしているうちに、会話は昔の思
い出に移行していく。前のシャッフルの話、後藤が加入した時の事、プッチモニ
や映画、口に出すたびに懐かしい思い出たちは、決してそれ以上にわたしたちに
何かを与えてくれるわけではなかった。ただ心をノスタルジックな気分にさせて、
切なくなる。それでも話すことをやめる事が出来ない。多分、それは自虐的な行
為なのだと思う。少なくとも、わたしにはそう思えた。

 紗耶香はわたしの心配を余所に、後藤に不快な態度はとらない。その穏やかに
笑う表情は、わたしを癒してくれるようだった。

 飲み物が空になって、わたしはキッチンへと移動する。冷蔵庫を開いたのと同
時ぐらいのタイミングで、居間の会話が耳に入り込んできた。
157 :02/03/01 16:53 ID:myarOEHo

「ねぇ、市井ちゃん」
 わたしはペットボトルに手を伸ばす。オレンジ色の光が扉を閉じると、段々と
遮られていく。

「あたしの歌聞いてくれた?」
 バタン、と冷蔵庫が閉じる。手に持っているペットボトルがいつもより重いよ
うに感じられた。

「ドラマとか、見てくれてる?」
 わたしはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

「あたし、何とか頑張ってるよ」

――光に包まれるって……どんな感じだったっけ?

 紗耶香とは対照的な後藤。

 わたしはすぐに我に戻った。
 気のせいか、後藤の言葉に頷く紗耶香の反応が暗いような気がする。それはわ
たしの想像からそう聞こえただけかもしれない。でも、もし自分が紗耶香の立場
だったのなら、決して後藤の言葉は悪意が無いにしても心地よくないだろう。

 わたしはゆっくりと居間に戻る。
 ソファに座りながら、心持ち体を紗耶香のほうに突き出している後藤の姿を見
る。彼女の、愛らしい笑顔が余計に胸を締め付けた。

「後藤……もう遅いから帰りなさい」
 わたしが言うと、後藤はゆっくりと顔を向ける。紗耶香は背中を向けているた
め、どんな表情なのか見る事が出来なかった。
158 :02/03/01 16:55 ID:myarOEHo

「えぇ、何で」
 わたしはペットボトルをテーブルの上に置く。横目で紗耶香の顔色を伺うと、
無表情のままその視線はテレビに注がれていた。

「もう遅いから……デモ聞いて明日に備えなきゃいけないでしょ」
 できるだけ自然に、そう思うと後藤と視線を合わせることが出来なかった。
 それからしばらく帰る事を嫌がっていた後藤だったが、わたしが何度も言い聞
かせると、渋々と頷く。その間、一度も紗耶香は口を挟む事は無かった。多分、
挟むことが出来なかったのだろう。

「じゃあ、市井ちゃん送ってよ」
 後藤は立ち上がると言った。
 わたしは思わず紗耶香を見る。

「女の子一人で帰るの、恐いから」
 後藤の言葉に、わたしは言い知れない不安を感じる。
 もしかしたら、後藤はわざとそう言っているのではないだろうか?
 紗耶香と二人きりになるのを狙っているのではないだろうか?
 後藤はそんなに鈍い人間ではない。圭ちゃんが紗耶香にメールを送れるのに、
自分だけ繋がらないという事実から、その答えを導くのに時間はかからないだろ
う。だから、もしかしたらそれを確かめるために、わたしの家に来たのではない
だろうか?
159 :02/03/01 16:57 ID:myarOEHo

 そう思うと、余計に紗耶香と一緒にさせるわけには行かなかった。それが、唯
一今のわたしにできる事だと思ったから。

「だったらわたしが行くよ」
 いいよ、とその時黙っていた紗耶香が言って、ゆっくりと立ち上がった。
「紗耶香……」
「いいよ。カオリ疲れてるでしょ?」
「でも――」
「顔色悪そうだから、ゆっくりしていて」

 わたしは口を閉じた。
 紗耶香は穏やかに微笑を浮かべていて、それを見ていると何も言えなくなった。
どこか諦め、もしかしたら覚悟かもしれない。そんな表情をその微笑には含まれ
ているような気がした。
 すぐに紗耶香は後藤と共に玄関に向かうと、いってきます、と言ってドアを開
ける。

「また明日」
 後藤はそう言って紗耶香の後を追いかけていった。

 ドアが閉まるのをわたしは黙ったまま見ながら、また罪悪感が背後から迫って
くるのを感じる。
 部屋にはテレビの音が虚しく響き渡る。それはまるで隔離された箱の中に居る
ように、頭の中ではぼんやりとしていた。
160 :02/03/01 17:00 ID:myarOEHo

 青白い蛍光灯の下、わたしは落ち着きなく紗耶香を待った。カップをキッチン
に運んだり、お菓子の袋を捨てたりと居間を歩き回る。何かをしていないと、不
安で押し潰されてしまいそうだった。
 それでもすぐにやることが無くなって、わたしはただ立ち尽くす。時計を見る
と、まだ紗耶香が出て行ってからそんなに時間が経っていないことに気がついた。

 酷く体が重くて、わたしは耐え切れないようにソファに倒れる。
 眼を閉じると体が沈んでいくようだった。

 わたしは強くならないといけない。
 みんなを守れるくらい、強くならないといけない。
 でも――。
 どうやったらそうなれるのだろう?

 テレビの音が耳障りになって、わたしはリモコンでそれを消した。カーテンの
向こう側は、すっかり闇を落としているようで、僅かに見える窓が光に反射して
鏡のようになっている。寝そべっているわたしが透明に映る。長く垂れ下がる髪
が顔を半分ほど覆っていた。
 この心細い闇の下で、紗耶香と後藤は何を話しているのだろうか? 光さえも
遠くに追い払った紗耶香に、今の後藤はどんな風に映っているのだろう?
161 :02/03/01 17:02 ID:myarOEHo

 胸が締め付けられた。
 わたしの頭には無邪気に笑う彼女の顔が何度も浮かぶ。
 わたしだけに向けられた、屈託のない笑顔。
 優しく包む温もりがまだ記憶の奥には残っていて、静まり返ったこの空間でそ
れが酷くいとおしくなった。

 結局紗耶香が戻ってきたのはしばらく経ってから、わたしが寝室の方で蒲団を
敷いている時だった。
 開け放たれた引き戸からは居間の光が漏れている。電気もつけていない寝室に
はそれが唯一の光源だった。
 白いシーツの上で座るわたしの影が伸びる。後ろで静かに歩いてくる紗耶香の
足音は、ソファの前で止まったかと思うと、そこに座り込む僅かな振動が伝わっ
てくる。
 わたしは振り返ることもなく、わざとらしくシーツの皺を伸ばしながらいった。

「……おかえり」
 数秒、ほんの僅かだが紗耶香はワンテンポ遅れて返事をした。
「……ただいま」

 すぐに静まり返る空間に、わたしの胸の奥は不安が芽生え始めていた。明らか
に声のトーンが暗い紗耶香。何かあったのだろうかと、気になっているのに素直
に言葉が出てこない。
 シーツの耳を蒲団の下に挟む。滑らかな感触が掌を走り抜けると、生地が擦れ
る音が部屋に響いた。僅かなそんな音さえも聞こえるほど、わたしたちは黙り込
み、重い空気に言葉を捜していたのかもしれない。
162 :02/03/01 17:05 ID:myarOEHo

「後藤……少し背、伸びたかな?」
 紗耶香はゆっくりと呟いた。
「雰囲気も大人っぽくなってた……」
「…………」
「もう、すっかり芸能人だよね」

 苦笑い交じりにそう言う紗耶香は、多分、そこにわたしの反応など求めてはい
なかったのだろう。まるで自分の気持ちを落ち着かせるかのように、独り言とし
て出てきた言葉に思えた。
 わたしは黙ったまま目の前にある鏡台に視線を移した。半透明のプラスチック
の入れ物に三分の一ほどになっている化粧水がなぜだか眼に付く。髪を右手でま
とめると、その向こうにある鏡にまるっきり同じ行動を起こしている自分がいた。

 刻々と時を刻む秒針。
 それに合わせるようにわたしの鼓動が高鳴る。
 トク、トク、トク。
 視線が揺れた。
 ゆらゆらと――。
 体が重くて、わたしはこのまま蒲団の上に倒れこみたかった。

「カオリ、知っていたの?」
 さっきと同じように紗耶香は言った。それでもそれは思い詰めた末に出てきた
言葉ではないように、まるであの川原で何を書いているの? と聞いてきたとき
のように、何気ない言い方だった。
「…………」
 それでもわたしはその声色に騙される事などなく口を閉じたまま。紗耶香はそ
れを無言の返事として受け取ったらしい、クスッと笑う声がして、振り向くと微
かに肩が揺れているのが見えた。
 それは自嘲だった。
163 :02/03/01 17:07 ID:myarOEHo

「……紗耶香」
 喉から振り絞った言葉。でもそれはあまりにも弱すぎたようだ、青白く輝く光
の中に飲み込まれて、紗耶香の元まで届いた様子はなかった。

「……あたしは変わっていないのかもしれない」
「…………」
「あの子が大人になっているのに、あたしは変わっていないのかもしれないね」

 まいったな、と紗耶香は笑いながらゆっくりとソファから立ち上がった。キッ
チンの方向に向かっていく彼女を感じながらも、わたしは立つ事も、優しい言葉
をかけることさえも出来なかった。すぐにコップに飲み物を汲んできたらしく、
紗耶香は開け放たれた引き戸の前に立った。わたしの影に合わさるようにシーツ
の上に現れる、彼女の分身。

「カオリも……あまり気を使わないで」
「…………」
「そう言うの……迷惑だから」
「……ごめん」
 謝るなっつうの、と紗耶香はおどけたように言った。多分、空気を変えようと
していたのかもしれない。自分がいけなかったと言う事にして、紗耶香は話題を
変えたがっていた。しかし、逆にわたしはそれが痛々しく思える。そうやって、
孤独や不安を自分の中に押し込めていたから、紗耶香は今のようになってしまっ
たのではないだろうか? あの時の、自信に満ちた彼女の表情は、そう言った物
を人には見せたくなくて、自分の中に閉じ込めた結果、コップの水が溢れるよう
に流されてしまったのではないだろうか?
164 :02/03/01 17:09 ID:myarOEHo

 そう考えてわたしは気が付いた。
 それは自分も同じなのではないだろうか?

「ごめん……紗耶香」
「やめてよ」
 紗耶香はそう言って、ゆっくりとテーブルの上にコップを置いたようだ。コト
ッと言う音が部屋に響いた。
「もうやめよう」
 紗耶香の言葉にわたしはただ首を横に振り続けた。
「あたし、後藤のこと嫌いなわけじゃないから」
「……違うの」
「あたしが変なミエはっていただけだから」
「違うの……紗耶香……違うの……」

 喉が震えている。別に泣いている訳でもないのに。
 胸の奥の罪悪感が強くなってきた。暗闇から常にわたしを束縛していたその存
在が、紗耶香と話しているうちに表面に現れる。まるでそれに操られているかの
ように、わたしは紗耶香に謝らなければいけない、と言う思いに駆られた。

「わたし……辻の事とか……何か……恐くて……」
 頭の中は色んな考えがグルグルと回っていた。何を言いたいのか、どうしたい
のか、まったくわからないまま口から出てくる言葉は混乱している。それでも罪
悪感から逃れたくて、何かを喋る事で楽になろうとしていたのかもしれない。
165 :02/03/01 17:12 ID:myarOEHo

「ごめん……なんかよくわからなくて……ごめん……」
「……謝らないで」
 紗耶香の口調に不満が混じっていた。
 それでもわたしは謝る事しか出来なかった。
「ごめん……わたし……」
「……やめて」

 多分、紗耶香は謝られる事が嫌だったのだと思う。わたしがメンバーに気を使
われてショックを受けていたのと同じように、彼女は謝られる事を嫌がっていた。
それは確実に、自分が惨めになっていくように思えたからだろう。
 それでもわたしはその言葉しか口に出す事しか出来なかった。それが精一杯の
謝罪と、そして逃避でもあった。

「やめよう……もうやめよう……」
 紗耶香の声はなぜだかわたしを締め付ける。苦しいと言う感情ではない。ただ
開放されたかった。この暗闇の寝室から外へ――わたしが書きたい青空へと羽根
を伸ばして行きたかった。
 でもそれはわたしが傷つきたくないと言う感情だった。後藤を呼んだことも、
ここでただ紗耶香に謝る事も、自分の感情を静めたいと言う独りよがりのものだ
った。
「ごめん……あたし……」
「やめて」
「あたし……何か……ごめんなさい」
「怒るよ」

 鏡台の鏡に紗耶香の背中が映っている。微かにそれが震えるように感じるのは、
わたしが疲れていたのか、彼女が沸き起こる感情を押えていたのか、後になって
もわからなかった。お互いに背中を向け合っているのに、その存在はひしひしと
感じる。時計の秒針の音が、わたしの気持ちを煽る。
166 :02/03/01 17:14 ID:myarOEHo

「紗耶香……わたし……わからないの……何もわからないの……わたしが当たっ
ているのは光なの? 紗耶香が言っていた光なの? それだったら、わたしは贅
沢な人間なのかもしれない。その光が当り前だって感じるから……贅沢な人間な
のかもしれない」
「……もういいから」

「紗耶香が後藤のこと拒んでいるの、分かってたよ……でも恐くて……紗耶香が
辛い思いするのわたし嫌だったけど……わたししか紗耶香を守れないってわかっ
ていたけど……」
「やめよう」

「紗耶香はわたしの事を頼っていてくれたんだよね? だから家に来たんだよ
ね? わたし、それに応えなきゃいけない。強い人間でいたいから、応えなきゃ
いけない」
「やめて」

「わたしは強くならないといけない。紗耶香も守れるぐらい、強くならなきゃい
けないの……だから……だからね、紗耶――」
「やめてっていったでしょう!」

 突然の紗耶香の言葉にわたしは肩をすくめた。すぐ背後から不機嫌な足音が近
づいてくる。

 振り返ることはしなかった。鏡台に映っていたであろう彼女の姿も見なかった。
わたしはただ顔を下げて、真っ白なシーツに視線を落としていただけだ。薄暗い
中に確かに存在していたのは不安だったのだと思う。それはわたしと彼女の二つ
の不安。それが一つになることは無く、お互いを傷つけるようにぶつかり合って
いた。
167 :02/03/01 17:16 ID:myarOEHo

「あたしカオリに守ってなんて一言も言ってないよ! 守ってほしいとも思って
ない! そんなにあたしは弱くない!」

 紗耶香の声が部屋中に響き渡る。その一言一言がまるで刺のように突き刺さる。
わたしは両手で顔を覆うと、心細い迷子のように肩を狭めた。

「カオリはそんなにあたしが惨めに見えてたの? 何も出来ないで後藤に嫉妬し
てるあたしはそんなに惨めだったの?」
「違うの……違うの……」
「カオリが言っている事はそう言うことじゃん!」

 何もかも恐かった。
 暗闇も静寂も光さえも、わたしには恐くて溜まらなかった。どうやったらそれ
から逃れられるのか、どうやったら安心できるのか、いくら考えても答えは出な
い。

 触れてはいけない場所に触れてしまったんだ。久し振りに会った時から触って
はいけないと感じていた場所に、わたしは手を入れてしまったんだ。それはお互
いに持っていた傷。
 わたしたちはそれに触ってはいけなかったんだ。

 罪悪感が不安を煽る。
 わたしは母親から怒られている子供のように、ただ謝った。

「ごめん……なさい」
「だから謝らないでって言ったじゃん!」
168 :02/03/01 17:19 ID:myarOEHo

 紗耶香はそう声を張り上げてわたしの肩を掴んだ。思わず体を硬直させたわた
しは強引に振り向かせられる。指の隙間から見える彼女の表情は今まで見たこと
が無いほど傷ついていた。

「紗耶――」
 わたしがそう口に出したのと同時ぐらいのタイミングで、捕まれている肩に力
を感じた。一瞬のうちに危険だと言う赤信号が頭の中で点滅する。わたしは右手
でそれを掴むと、余った左手で彼女の胸を力一杯に押した。

 彼女の体がわたしから離れる。その勢い余った体が後ろにそれて、引き戸に背
中からぶつかった。ドンッと言うけたたましい音が部屋中に響き渡る。

 わたしはすぐに蒲団から立ち上がった。彼女は背中を打ちつけたためその痛み
に耐えている。頭の中の赤信号にわたしは煽られる。寝室から出るため、彼女の
脇を走り抜けるように移動した。しかしすぐ脇を通過した瞬間に足首を捕まれる。
わたしは体制を崩して床の上に無防備に転んだ。

 膝と肘、それから胸に強い衝撃が襲う。今朝から感じていた体調不良もそれに
合わさって、わたしは吐き気を堪える事が精一杯だった。

 紗耶香が後ろで立ち上がるのを感じる。わたしはすぐに首を振り向けると、彼
女は顔を下げたままゆっくりと近寄ってきた。

「紗耶香」
 紗耶香の手がわたしの髪を掴む。思わず痛みから悲鳴を上げる。彼女はそれを
引っ張ってわたしを強引に立たせようとした。その力に従って立ち上がると、紗
耶香の腕はわたしの腰に回って抱き寄せるように力を入れられる。

 わたしは再び悲鳴を上げる。
 そのままの勢いで紗耶香は寝室の蒲団の上に押し倒すように倒れた。
169 :02/03/01 17:21 ID:myarOEHo

 皺一つ無いように伸ばしたシーツの上で、わたしは仰向けになって倒れる。す
ぐ目の前には無言のまま紗耶香が覆い被さるように存在している。

「紗耶香!」
 わたしは声をあげて抵抗しようと再び彼女の胸に手を押し付ける。しかしすぐ
に払いのけられて、押さえつけられるように手首を捕まれた。

 全身に力が入らない。

 捕まれた髪の痛みがまだ体に残っている。息が上がって、飛び跳ねる心臓。そ
れは疲れだけではなく、確実に恐怖があった。

「恐いなら……」
 顔を下げたまま紗耶香が呟く。その表情は垂れ下がった前髪に隠されていた。

「恐いなら、またシたらいいじゃん」

 その声は酷く低い。いつもの彼女の声ではなく、子供の頃に見た映画に出てい
た幽霊に乗っ取られた少女を連想させた。

「あの時みたいに……そうすればいいだけじゃん……」
 恐怖がわたしを包む。でもそれが暖かいことにも気がついていた。
 蒲団の上で、まるで万歳の格好で手首を押さえつけられている。紗耶香はわた
しの上でその力を緩めることは無かった。体が重くなっていく。目の前が霞んで
しょうがない。
 荒くなった息が薄暗い空間の中に溶け込んでいくのを感じた。
170 :02/03/01 17:23 ID:myarOEHo

「やめて……紗耶香……」
 喉から振り絞るわたしの声。それは自分のものではないかと思わせるほど掠れ
ていた。

 紗耶香がクスリ、と鼻で笑う。
 僅かに見える口元が不気味に笑みを作っている。

「あの時と……何も変わってないよ……それなのにどうして嫌がるの?」

 冷たく尖った声。
 わたしの胸がきつく締め付けられた。

「違う……こんなの……あの時だって……」
 隙を見計らって逃げようとこの時のわたしはまだそう思っていた。しかし弱り
果てた体は気持ちとは裏腹に、いつもの力を出してくれない。体を捩ってみるも、
しっかりと捕まれた両手首のせいで動くことも出来なかった。

「……カオリは……勝手だね」

 わたしは黙ったまま言葉を待った。
 少しの間が空いて、耳障りな静けさが頭を刺激する。高鳴る鼓動の回数を無意
識のうちに数えているわたしに、紗耶香は呟くように言った。
171 :02/03/01 17:26 ID:myarOEHo

「カオリは……あたしと一緒なんだよ」
「……紗耶香」
「カオリはあたしと一緒で……弱い自分を認めたくないんだ」
「…………」
「認めちゃうと……自分が居なくなっちゃうから……だから認めたくないんだ」
「……紗耶香」

 辻の顔が思い浮かんだ。
 あどけなく笑う顔。純粋に悲しい顔。

――いいださん、膝の上に座っていいですかぁ?

 わたしは強くならないといけない。
 みんなが前みたいに純粋な笑顔を作れるように、わたしは強くなって、その空
間を守らなければいけないんだ。
 だから、強くならないといけないんだ。

「――無理だよ」
 ドクン、と強く心臓が脈を打った。
 空気を吸うことさえも忘れるほど、わたしはその言葉に締め付けられる。
「無理だよ……強くなんてなれないんだ」

 そんな事ない……。
 そんな事……。
172 :02/03/01 17:28 ID:myarOEHo

――足痺れた。辻降りて。
 わたしは胸を張っていられたんだ。
――太ってきたんじゃない? 最近。
 あの子の頭を撫でてあげられたんだ。
――いいださんはあったかいですね。

「あたしたちは臆病だから――強くなれない」
 断定するように言い放たれた紗耶香の言葉に、胸の奥で何かが崩れた。それは
大きな音を立てて、わたしの中を駆け巡る。いつの間にか鼻腔を突き上げるもの
を感じて、多分それが外に逃げようとしていたのかもしれない、小さな嗚咽とな
った。
 紗耶香の言葉は説得力を持って、わたしを侵して行く。彼女と一度も触れ合え
なかったことも、理解できなかったことも、全ては弱いわたしのせいだったので
はないだろうか。お互いにそれを知っていたから、どう傷つかないでいられるか、
その事ばかりしか考えられなかった。

「あたしたちは……お互いに都合のいい関係を望んでいただけだよ」

 わたしが紗耶香のことを大切に思うことも、彼女が優しい言葉を掛けてくれた
ことも、結局その関係を崩したくなかったからではないだろうか? 都合の良い
関係でいるために、傍で『都合のいい存在』を守っていただけではないだろうか?
 自分が汚れていくのを感じた。辻の純粋な眼差しが辛かったのは、そんなわた
しを見られたくなかったからだ。
 この時、わたしはすでに抵抗するのを止めていた。ぼんやりと天井を見つめて
紗耶香の温もりを感じているだけだった。
 しばらくの間わたしたちはその体勢のまま黙り込んでいた。酷く体が重くて、
このまま眠りにつきたかった。眠れるなら、もう一度紗耶香と体を重ねてもいい
とさえ思った。
173 :02/03/01 17:30 ID:myarOEHo

 ゆっくりと彼女に視線を向ける。わたしは抵抗の意思がないことを体から力を
抜いて教えた。それをすぐに察知してか、紗耶香の手首を掴んでいる手も緩まる。
眼を閉じると馴染みの暗闇が包んだ。意識がぼんやりと遠くなる。

 もうどうでもいい。
 そう思った。
 心も体もわたしから切り離してしまいたかった。

 紗耶香の手がわたしの手首から離れると、ゆっくりと頬に移動する。微熱を持
ったそれが心地いいことに気がついた。

 こんな事をしていたら、わたしたちはダメになるだろう。そう頭ではわかって
いた。しかし刹那的な開放にその考えは打ち消されていく。

 わたしたちはもしかしたら再会してはいけなかったのかもしれない。
 そう言う思いが、閉じた暗闇の中で駆け巡っていた。
 しばらく、わたしの頬に当てていた彼女の掌がゆっくりと離れた。それは首筋
に移動して鎖骨へと運ばれる。きつく唇を締める。

 鼓動が高鳴る。
 それはさっきの争いからの疲れではない。
 あの時とまったく一緒の緊張だった。
 紗耶香の動きが止まった。
 刻々と時を刻む空間の中で、ぽつりとわたしに向けられるように声が落ちてきた。
174 :02/03/01 17:33 ID:myarOEHo

「……みたい」
 その言葉で部屋の空気が冷たくなる。わたしはゆっくりと眼を開けると、相変
わらず前髪で表情を隠されている彼女の姿が見えた。
 紗耶香はもう一度呟く。

「あたし……バカみたいじゃん」
 口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。鎖骨辺りにあった掌がゆっくりと彼女の顔に当
てられる。その掌が一層と表情を隠した。

「……紗耶香」
 その言葉に寄りかかるように顔をわたしの胸に埋めた。丸まった背中が微かに
震えていて、捨てられた子犬のようだと思った。

「ねぇカオリ――」
 胸の中で紗耶香は呟く。
「あたし……」
 声が震えていた。悲痛なその言葉にわたしは口を閉じる。

「……なんで……あたし……こんなにも……」
「…………」
175 :02/03/01 17:35 ID:myarOEHo

 薄暗い中、紗耶香はまるで自分を殺すようにその存在を消した。彼女を感じる
にはその温もりだけが頼りで、息も鼓動もその姿も消えていた。
 しばらくの間、彼女はわたしの胸の中で肩を震わせた。服の生地が薄っすらと
濡れて、微かな湿りを胸に感じる。その間わたしは彼女を抱きしめることも頭を
撫でてあげる事もしなかった。

 ただぼんやりと天井を見つめるだけ。
 体の重さを感じながら、回っている天井を見つめているだけだった。

 ゆっくりと紗耶香がわたしの体から離れて立ち上がる。その間片方の手で顔が
隠されていて、その表情を等々見ることがではなかった。
 開け放たれた引き戸の前に立つ彼女は、一度も振り返ることはなく居間の光に
包まれる。

「紗耶香……」
 わたしはやっとのことで喉から声を振り絞る。それに一瞬だけ引き止められる
ように彼女は動きを止めた。
176 :02/03/01 17:37 ID:myarOEHo

「……ごめん」
 紗耶香はわたしに背を向けながら呟いた。
「ごめん……乱暴しちゃったね……」
「…………」
「……ごめん」

 そう言って紗耶香は居間に移動して引き戸を閉めた。遮られていく光の中で、
わたしは何も考えることが出来なくなっていた。
 ただ体の重さから眼を閉じる。暗闇に一人取り残された孤独より、眠気の方が
大きかった。

 眼を閉じるとすぐに意識が遠くなる。暗闇と静寂の中、わたしは心細さを感じ
て膝を抱きかかえるように眠った。

 落下するように、その日の夜は短かった。
177 :02/03/01 17:40 ID:myarOEHo

     ◆

 眼を開ける。

 真っ白い天井が映画のシーンのようにぼやけて、それからゆっくりと白い光が
包み始めているのを感じた。視線を横に向けるとわたしのベッドがある。昨日と
変わらない掛け布団とシーツの皺。陽射がカーテンから漏れているのだろう、窓
とは反対側の壁には細長い光が張り付いていた。

 ゆっくりと体を起こす。頭がふらふらとして、胸の奥から吐き気が込み上げて
きた。それでも力が入らない体を強引に動かすと、貧血のような目眩が数秒襲っ
てきたがすぐに慣れた。
 ふらつく足取りで締め切られた引き戸に手を掛ける。一瞬だけそれを開ける事
を躊躇ったのは、紗耶香と体を重ねた翌日と似た気まずさからだったからだ。

 それでもわたしは開ける。
 徐々に視線に広がるのは灰色の居間。まるで空き家だったかのように、空気を
床の下に敷き詰めて静けさだけが空中を漂っていた。
178 :02/03/01 17:42 ID:myarOEHo

 視線を左右に投げる。

 一ミリも隙間を与えずに締め切られたカーテンは薄っすらと肘差に染められて
いる。その下にはスケッチブックが寄りかけるように置いてあり、隣にはゴミ箱。
テレビは闇を落としている。その上にある時計が静かに秒針を刻む。テーブルの
上には昨日紗耶香が飲んでいたコップがぽつん、と一つだけ置かれていて、半透
明の液体が三分の一ほど余っていた。

 引き戸の前に位置するソファに視線を落とす。ノートの切れ端が一枚、投げ捨
てるように置かれているのに気がついた。

 わたしはゆっくりとそれを拾う。それからキッチンや玄関などに視線を向けて
みるが、紗耶香の姿は見つけることが出来なかった。

 薄暗い居間の中央で、わたしは一人立ち尽くしながらその紙を見る。
 そこには一行の文が書かれていた。
179 :02/03/01 17:43 ID:myarOEHo

『約束破っちゃった、ごめんね。……でも、綺麗な絵だったよ』

 わたしはカーテンの下に寄りかけるように置いてあるスケッチブックを見た。
それは昨日と変わらない位置にある。

 苦笑いした。

「別に……謝る事ないのに……」

 その置手紙は、紗耶香が飲んでいたコップの横に置いた。