108 :
:
◆
紗耶香は何も変わっていなかった。
もちろん数時間前と今で、劇的に何かが変わると言うのは考えられないが、今
朝の会話の短さから、わたしはまだ、昨夜の出来事以降の彼女を確かめる事が出
来ていなかった。
蛍光灯が頭の上で光を照らす。テーブルにはカップに入ったミルクティーが二
つ。テレビの正面に位置するソファに腰を下ろすわたしの斜め前に足を崩してい
る紗耶香がいた。その視線はバラエティー番組に注がれていて、切り替わってい
くテレビの残光が紗耶香の顔の色を次々と染め替えていた。
仕事から帰ってきたわたしを、紗耶香は昨日と変わらない笑顔で迎えてくれた。
その時までまだ残っていた気まずさのせいか、眼を合わせることが出来なかった
わたしは、多分第三者から見ても不自然だっただろう。しかし彼女はそんな事を
気に止める事は無く、作りかけの料理の手伝いをしろ、と命令口調で言ってわた
しの腕を引いてキッチンに拉致した。
炊飯器からもくもくと水蒸気が上がっている事に気に取られていたが、紗耶香
のフライパン片手に動く姿にすぐに視線を向けた。時々指示を与えられることを
わたしはやっただけで、数分もしないうちに料理は完成した。
109 :
:02/02/15 22:45 ID:4MFVLARi
どう? おいしそうでしょ?
生姜焼きだった。
その料理に箸をつけながら、わたしは考えを巡らせた。
昨夜の出来事について、紗耶香と話した方がいいのではないだろうかと、そん
な考えが生まれる。ちゃんと話して、お互いにすっきりとした方がこれからの付
き合いに向けて都合がいいのではないだろうかと、そう思っていた。しかし実際、
白いご飯に箸をつけながら、口に運んでいくと言う動作以外、わたしのその口は
動いてくれなかった。紗耶香は何事も無かったかのように、テレビに視線を向け
ていて、時々話すその感想にわたしは相槌を打つだけだった。
紗耶香は何を考えているんだろう?
何度もそう思った。
もしかしたら紗耶香にとって昨夜の出来事は大して重大な事ではなかったので
はないだろうか? お互いに特別な感情を持って持っていないことは口に出さな
くてもわかる。あの時、わたしたちは弱い部分をさらけ出しただけ。それはもっ
と早い段階で、友達同士なら出来たことを、わたしたちは体を重ねると言う行為
でしてしまっただけ。
川原行って来たよ。
夕食を食べ終わって、キッチンで二人体を隣にして食器を洗っている時、紗耶
香は突然そんな事を言った。
わたしはお椀に布巾を掛けながら紗耶香を見る。
水道からは水が勢い良く流れていて、スポンジを持っている紗耶香の手元には
真っ白な泡が立っていた。
110 :
:02/02/15 22:48 ID:4MFVLARi
川原? 昨日の?
わたしがそう聞くと、紗耶香は白い泡を流しながら頷いた。
どうして? と渡された皿を拭きながら聞く。
ほら、引き篭もってばかりだと体に悪いじゃん。
だから川原に?
カオリが何を書いてるのか知りたかったんだ。
……見ればいいじゃん、スケッチブック。
何気なく言ったその言葉に、紗耶香は突然水道の蛇口を止めた。少し厳しそう
な視線で見上げるその表情に、いつの間にか今日の辻を重ねていた。
――全部いいださんのせいです!
思わず持っていた皿を落としそうになってわたしは戸惑う。
カオリがいったんじゃん。
紗耶香の口調に不満の色が混じる。何に対して不満なのか理解できない。わた
しは訳のわからない焦りを感じた。
書きかけのものは人には見せたくないんでしょう?
あ、うん、と頷くと紗耶香は数秒の間を空けてまた蛇口を捻った。再び水がス
テンレスに叩きつけられる音を聞きながら、わたしは少しの間だけ立ち尽くす。
111 :
:02/02/15 22:51 ID:4MFVLARi
カオリが思っているより――。
紗耶香は再び食器に泡を乗せて言った。その視線はすぐ横のわたしに向けられ
る事は無く、段々と真っ白になっていく食器に注がれている。
カオリが思っているより、あたしはカオリの絵が好きなんだよ。
その口調はどこか落ち着いていて、さっきまで沸き起こっていた焦りが流れて
いく泡のように消えていくのを感じる。
だから、完成するまでみたくないんだ。
重力から垂れ下がる髪を耳の後ろに引っ掛けながら紗耶香は言った。
カオリも……その絵も……あたしは大好きだからさ。
ありがとう、紗耶香。
その言葉は口に出さなかった。
わたしの胸の奥で消える、紗耶香への言葉。
でも多分、それは口に出さなくても紗耶香はわかってくれたような気がする。
まるでわたしの心の中に入り込んで来るその笑顔は、きっと考えていることもそ
の時に一緒に取り出していってしまう。
だから、わたしも紗耶香のことが大好きなのだと思う。
112 :
:02/02/15 22:53 ID:4MFVLARi
「何かあった?」
紗耶香は突然言った。
わたしはすぐに我に返って、持っていたカップをテーブルの上に置く。どうし
て? と聞くと彼女はわたしのお腹に指をさした。
どうやら無意識のうちにわたしは胃を擦っていたらしい。すでに癖とも言える
ようになったその行為に、大して意味が無い事を伝えようとしたが、彼女はすぐ
に立ち上がると、テレビの横にある棚から緑色の小さな袋を取り出した。
「どうして知ってるの?」
それは胃薬だった。
キッチンに消えて、コップに水を汲んできた紗耶香はそれをテーブルの上に置
きながら言った。
「同居、四日目」
「……そっか」
わたしは水を口の中に含んで、緑色の袋を開けた。その間紗耶香はずっとその
行為を、テーブルに肘をついて手の甲に顎を乗せながら視線を向けていた。
薬を飲み終わったわたしは、舌の奥に残る苦味に顔を歪める。空になった袋を
紗耶香はバスケットのシュートのようにゴミ箱に投げた。
「大変だね……リーダーも」
再びテレビに視線を向けながら紗耶香は言った。
わたしはコップに残っている水を一気に飲み干しながら、うん、とだけ頷く。
「……何かあった?」
「……どうして?」
「何となく」
113 :
:02/02/15 22:57 ID:4MFVLARi
どうしようかと思った。
紗耶香に今日あった事を言おうかと、わたしの頭の中でぐるぐるとその考えが
回る。でもそれを口に出すことを躊躇ってしまうのは、弱い自分をさらけ出すと
言う考えが抜けなかったせいだと思う。
わたしは強くならなくてはいけなかった。でも実際はそうなれなくて、どんど
ん弱い部分をさらけ出してしまっている。これ以上、誰にもそんな姿を見せたく
ないと言う、羞恥心があった。
「辛い事があったら眼を瞑っちゃえばいいんだよ」
「…………」
「そうすれば何も見えない。真っ暗な闇が包んでくれるよ」
コップをテーブルに置く。それを通してみるテレビは細長く歪んでいた。
紗耶香の横顔に視線を移して言葉の真意を探ろうとしたが、無理だった。その
言葉自体、多分わたしに言われたわけではない。わたしを通して、彼女自身に言
い聞かされているように感じた。
わたしはカップの中で小さな波を立てる茶色い液体に視線を落とす。時折蛍光
灯に反射して、白い光が歪んだ円となって現れていた。
114 :
:02/02/15 23:00 ID:4MFVLARi
「いつもの事なんだけどね……」
「…………」
「また失敗しちゃった……」
「…………」
「みんなに迷惑掛けちゃった……わたしのせいで」
そう、と紗耶香はつぶやいて両腕を床に突き立てて背中を反る。その顔は天井
に向けられて、白くて細い首がまるで有名作家の彫刻のように弧を描いて伸びて
いた。
「……慰めてくれないの?」
わたしが呟くと、紗耶香は困ったように苦笑いをする。相変わらずその視線は
天井に向けられたまま、その体勢を変えようとはしなかった。
「ごめん、あたしには無理だよ」
「…………」
「あたしはもう関係ない人間だからさ……」
「…………」
「……だから無理だよ」
115 :
:02/02/15 23:03 ID:4MFVLARi
正直者だね、と呟いたわたしの言葉は多分紗耶香に届く前に、テレビの雑音に
かき消されてしまっただろう。彼女は何事も無かったかのように、一度床の上に
倒れると、数秒もしないうちに起き上がってカップのミルクティーに口をつけた。
「昔ね、犬を飼っていたことがあったんだ」
「……犬?」
「そう……でもぼろぼろになった子犬じゃないよ」
わたしは黙ったまま紗耶香を見つめる。彼女はわたしと視線を合わせてはくれ
なかった。
「その犬はね、結構やかましい声で鳴くんだ。キャンキャンってさ――でも凄い
可愛い奴で、尻尾を振って寄ってくる時はソイツ以上にあたしの方が嬉しくなっ
て……元々引き篭もってるほうが好きだったから、家の中じゃソイツと二人っき
りって時が多かったよ……」
「…………」
「綺麗な眼をしているんだ。キラキラ輝いていて、あたしのこと完全に信用して
いる。絶対裏切らないって思ってる――そんな純粋な眼をしていたんだ」
わたしはまたあのCMを思い出した。確かあの中の子犬も綺麗な瞳をしていた。
それは多分、あんなにボロボロになっても、誰かを信用している――信じている
と言う純粋なものだったのかもしれない。
116 :
:02/02/15 23:05 ID:4MFVLARi
「カオリの絵も、そんな感じがするの……純粋な絵……そんな感じがする」
「……紗耶香」
「だからね、あたしはカオリの絵が好きなんだよ。それを書くカオリのことも好
きだよ」
ああ、と思った。
わたしは今、紗耶香に慰められているんだ。
その事が嬉しくて、わたしは顔を下げると誰に向けるでもなく微笑した。
「……ありがとう」
わたしは言った。
「ありがとう。紗耶香」
今度はきっと彼女に届いたはずだ。
わたしの言葉が、ちゃんと彼女に届いたはずだ。
117 :
:02/02/15 23:08 ID:4MFVLARi
◆
蒲団の中が温まり始めていた頃、わたしはベッドの下で眠っている紗耶香の寝
返りを打つ音に思わず体を強張らせた。
ゆっくりと頭だけを起こして様子を伺う。紗耶香はわたしに背を向けるように
横になっていた。掛け布団が肩まできちんと掛けられている。湿気を持っている
その髪が枕を少しだけ湿らせているようだ。
苦笑いする。
わたしは何に怯えているのだろう?
横で静かに寝息を立てている大事な存在に怯えていると言う事実を認めたくな
かった。もしかしたら目を閉じた瞬間に紗耶香が襲ってくるのではないだろうか
と言う、身勝手な想像が頭に浮かんでくる。彼女がそんな事するはずが無いと言
う事も、わたしにそれだけの魅力があるかと言う疑問なんて、その想像には関係
なかった。
わたしは確実に昨日の出来事に囚われているようだ。
元々あの時だってお互いの合意があったのは事実だ。それは確かにわかってい
るはずなのに、暗闇の中で確実に息を潜めている不安は、胸の奥にあるその存在
とシンクロする。それが嫌だった。
118 :
:02/02/15 23:11 ID:4MFVLARi
「……カオリ」
闇の中から聞こえる声に、わたしは思わず息を止めた。それは行き過ぎた想像
からの幻聴だろうかと、一瞬だけ頭を掠めた。
「……カオリ」
しかしそれは確実に紗耶香の声だった。
わたしは天井を見ながら呟く。
「……何?」
数秒、多分、それくらいの間が空いた。でもわたしには酷く長く感じられてそ
の間、伸ばした両足が強張っていた。
「……恐い?」
囁くような小さな声。そんなに離れているわけではないのに、あまりにも小さ
すぎるその声は、わたしの耳に入ってくるのがやっとだった。
「……紗耶香」
「……恐いかな? あたし」
どうやら紗耶香はわたしの気持ちを見透かしていたようだ。それに気がつくと、
急に恐怖心など消えていって、その代わりに穴を埋めるように沸き起こってきた
のは羞恥心だった。
ああ、わたしは何てことを考えていたのだろう?
そう考えると、自分が恥ずかしくて溜まらなかった。
自分自身を誤魔化すように苦笑いをすると、わたしは額に右腕を乗せた。
119 :
:02/02/15 23:15 ID:4MFVLARi
「恐くないよ」
「…………」
蒲団の中に体が沈んでいく感覚がした。訳のわからない緊張から開放されて、
わたしの体が休む事を要求しているのだと思った。
「恐くない……独りじゃないから」
「…………」
「――だから恐くない」
クスッと紗耶香が笑う声がした。わたしもそれに釣られて少しだけ笑った。
時計の秒針だけが静かに音を立てて、流れる空気さえも穏やかだった。
笑い終わった後、たっぷりと十秒は間を取って紗耶香は言った。
「おやすみ、カオリ」
わたしも呟く。
「おやすみ、紗耶香」
120 :
:02/02/15 23:17 ID:4MFVLARi
目を閉じて、再び暗闇に意識を溶け込ませる。ぼんやりと瞼の裏に焼きついた
光がその闇の中で点滅している。それはまるで催眠術をかけられているかのよう
に、頭の働きを停止させていった。
――ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
なぜかその時わたしは後藤の言葉が頭を過ぎった。
楽屋に入った時、聞こえてきた後藤の言葉。
後藤はあの時何ていっていたんだっけ?
そう考えて、わたしは思い出す。
――井ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
テープを巻き戻すかのように、その声ははっきりとしてきた。
――市井ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
そうだ、確か後藤はそんな事を言ったんだ。
でも、とわたしは思った。
紗耶香の携帯の番号は変わってはいなかった。