1 :
なっちかおりん:
なっちとかおりんのインタビューが載ってるよ。
2
3 :
( ´D`):02/01/19 03:29 ID:nozJiFyO
終了かな?
4 :
名無し:02/01/19 21:46 ID:Yt+wN0cN
立花隆がモーヲタだったってこと? 御大のダメ出しが出たら
企画は没だったろうに。
5 :
名無しさん:02/01/19 22:09 ID:n9ODmRFR
>>4いやいや、他の面子をみると、モー娘がでててもおかしくないでしょ。
それはさておき、なっちとかおりんが互いのことを語っている箇所になんかいいものを
感じましたね。
二人とも人生哲学を持っているんで驚いた
人生経験は人を大きくするね
7
何打?
9 :
:02/01/27 01:12 ID:KTY9yXar
貧弱なスレだなぁ。
10 :
:02/01/27 01:15 ID:7A+XJT6o
文庫のために客寄せパンダ
11 :
:02/01/28 04:15 ID:tyoeWmoM
ここ、貰っていいですかー?
>>11 いいんじゃない?スレタイトル、小説スレっぽいし
13 :
:02/01/28 04:45 ID:tyoeWmoM
14 :
:02/01/28 04:48 ID:tyoeWmoM
『ビスケット』
15 :
:02/01/28 04:51 ID:tyoeWmoM
彼女の指がわたしの髪の毛に絡みついた瞬間、背中を通り抜ける電気を感じた。
それは多分、予想された行動にわたしの気持ちが整理していなかったからだ。
暗闇の中で届く暖かい息。それは知らず知らず胸の中に入り込んで、心臓の動き
を一瞬だけとめたような気がした。
電気が走りぬけた背中には、何かが染み込んでくる痛みを感じた。どうやらわ
たしの毛穴から汗が出ているのだと気がつくのに、そんなに時間は要らなかった。
それは何度も感じてきた事。初めてテレビに出たときや、初めてのライブの時も、
わたしは緊張から、意思とは関係無く出てくる冷汗の感覚を知っていたから。
カオリ……。
彼女はそう呟いて、まるで子供が甘えるようにわたしの肩から首へとその頭を
寄せてきた。鼻にはわたしが愛用しているシャンプーの香り。少しだけ湿気を持
った髪の毛の感触を首筋に感じた。
息が首筋に当たる。少しだけくすぐったくて、体を捩らせると彼女はそれを押
えるようにわたしの太股の間に片方の足を絡めた。
16 :
:02/01/28 04:56 ID:tyoeWmoM
なぜか、その瞬間頭に過ぎったのは子供の頃に見た子犬のCMだった。小さな
子犬が一人で街をさ迷い歩き、雨に当たり、真っ黒に汚れきった姿。その眼は純
粋に輝いているのにもかかわらず、人々の足はせわしなくその子犬を無視してい
く。子供ながらにその映像は、わたしの小さな胸にナイフの刃をあてた。
わたしはゆっくりと体の向きを変えて彼女の頬に手をあてる。夏が始まろうと
しているのに、手に伝わってきたのは冷たい感触だった。
暖かい……。
彼女はわたしの手のぬくもりに目を閉じた。
締め切ったカーテンの隙間から、わずかな光が入り込んでいる。それは金色に
輝く月の光。彼女の顔が青白く照らされて、肩までのショートの茶髪が、黒く汚
されていた。
掛け布団がわたしたちの動きでずれて行く。彼女の体にはすでに蒲団の温度が
半分以上逃げていた。
今日は寒いよ……。
17 :
:02/01/28 04:58 ID:tyoeWmoM
甘い囁きが耳に入り込んできた。
今年の夏はきっと冷夏だね……。
多分、それは違うだろうと思った。夏はまだやってきていない。春と夏の間の
季節だ。だから彼女の言葉は違うと思った。
「子犬……」
わたしは呟く。
「子犬が寒そうに震えているCM知ってる?」
彼女はわたしの言葉を黙ったまま聞いていた。
「可愛い子犬がただ歩き続ける、そう言うCM……」
わずかな微光に、彼女がわたしを見上げる瞳が輝いている。茶色い濁ったその
瞳の視線が胸の中を熱くさせた。
「雨に当たってとても寒そうだった。でも眼は輝いてるの」
クス、と彼女は笑った。
どうして笑うの? とわたしは首を傾けて聞こうとしてやめる。すぐに彼女の
唇が動く準備をしていたのに気がついたからだ。
18 :
:02/01/28 05:00 ID:tyoeWmoM
知らないけど、見たことはあるよ……。
「……どこで?」
そう聞くと、彼女は体を起こしてわたしの上で両腕を突きたてた。パジャマの
ボタンが外されて、重力から垂れる裾。白くて透き通るような肌が目の前でわた
しの視線を支配する。
彼女の顔がゆっくりと下がってきて、わたしの唇の横を通り過ぎると耳元で温
かい息をわざとらしく吹きかける。体を走り抜ける感覚に、わたしはエビのよう
に背中を反った。
目の前で――。
彼女は耳元で呟いた。
震える子犬を見てるよ。
彼女はわたしのことを言っているのだ。それはすぐにわかった。
でも、とわたしは思う。
その子犬は、あなたでもあるんだよ。
わたしはその言葉を飲み込んだ。
19 :
:02/01/28 05:04 ID:tyoeWmoM
◆
眩しいぐらいに輝いている太陽の陽射が辺り一面に降り注ぐ。時々吹く風は、
どこか生暖かくて、周りの草花の匂いを混じらせてはわたしの体を通り過ぎてい
く。大きく青空に両手を伸ばすと、その周りの空気を体に吸収するように伸びを
した。
草花の斜面に適当に腰を下ろす。手についた土を払うと、わたしは脇に挟めて
いたスケッチブックを膝の上に置いた。
風景に視線を向ける。青々とした斜面を下って、砂利の道。その向こうには広
い川が静かに流れていて、太陽の陽射にきらきらと宝石を散らばせたように反射
していた。
平日の昼を少し過ぎたと言う時間帯のせいか、この川原には疎らにしか人がい
ない。それも昼休みはもう終わっただろうと言う中年の男性が数人、向こう岸で
思い思いの顔でタバコを吸っていたり、体を横にして眠ったりしていた。多分、
わたしの事がばれる事はないだろうなと言う安心感のせいか、サングラスを外し
て、眼に直接入ってくる風景を焼き付けようとした。それは瞬きをした瞬間でさ
えも瞼の裏に張り付く。
張り詰めた毎日の中の、一時の時間だった。
20 :
:02/01/28 05:05 ID:tyoeWmoM
草の匂いがする風が通り過ぎていくと、わたしは少し乱れた髪を手で掻きあげ
ながら、鞄の中から鉛筆を取り出して、スケッチブックを広げた。真新しい白紙
が、一瞬だけ太陽より眩しく感じて目眩をする。
わたしは再び、目の前に広がる風景を見る。そして線をラフに白紙の上に引い
ていって、大体の形を図った。
サッ、サッ、と音を上げて線を引いていく鉛筆。手には微かな振動がして、そ
れはゆっくりとわたしの体に染み込んでいく。いつの間にか出来ていた、胸の奥
の鉛が、まるでナイフで削っていくかのように、少しずつ小さくなっていくのを
感じた。
「何書いてるの?」
わたしのすぐ後ろから声がして、スケッチブックに人の形をした影が現れる。
思わずそれを胸に当てて隠すわたしを、その何気なかった声は、いつしか不満の
色を匂わせる。
「なんだよ。隠すこと無いじゃん」
そう言って紗耶香は斜面をわたしの正面に回りこむように下る。肩までのショ
ートの髪が太陽のせいで金色に光った。
わたしはスケッチブックを紗耶香の視線に入らないように、胸に強く押し当て
ながら首を上に向けて言った。
21 :
:02/01/28 05:08 ID:tyoeWmoM
「書きかけのものは人には見せたくないの」
はあ? と彼女はわざとらしく声を上げると、切れ長い目を一層細めてから言
葉を返した。
「ゲージュツ家気取りですか?」
以下にも皮肉の篭った言葉。でも、わたしはそれに苛立つ事はなく、彼女を見
上げながら言った。
「絵を書く人はみんな芸術家よ」
うわ、と紗耶香は臭い言葉を聞いたといわんばかりに首を後ろに反らした。
「名言だねぇ」
オバサンのようにしみじみと言葉をかみ締めながら、紗耶香はさっきわたしが
したように大きく伸びをした。
そんなに紗耶香がわたしの絵に興味があるわけではないのは、すぐに分かった。
部屋に置いてある絵を目にしてもその場では感想を言う彼女でも、その後にそれ
が話題にあがることは無い。だから、皮肉の篭った言葉でさえ、それ自体には大
して意味が無いのをわたしは知っている。
紗耶香の両腕はさっきまで辺りをうろうろしていたらしく、腕まくりをしてい
るその透き通った肌が湿っているのに気がついた。服が濡れるのを嫌がっている
らしく、不自然に体から浮かせるようにしているその滑稽さがおかしくて、わた
しは少しだけ口元に笑みを作った。
濡れるの嫌だったら川に近づかなければいいのに。
22 :
:02/01/28 05:10 ID:tyoeWmoM
「イイダ先生、久し振りのお休みはどうですか?」
紗耶香は首を横に向けて、どこまでも続く斜面を見ていた。
「有意義ですよ。凄く、気持ちいいもの」
「そりゃ良かった」
紗耶香の顔がパァ、と明るくなって、その笑顔がわたし一人だけに向けられた。
なぜだかそれが嬉しくて、自然と顔が綻ぶ。
「大変そうだったもんね。昨日なんかいつもより隈が大きかったもん」
「毎日舞台の上に立つんだよ、そりゃ疲れるよ」
「でも、昨日の家を出て行くカオリの顔、あたし凄く好きだよ」
「……化粧の乗りが悪くて?」
違うよ、と紗耶香は笑いながら応えた。
「最後だからカンバろって……そんな決意みたいの感じた」
「…………」
「……カッコよかった」
23 :
:02/01/28 05:11 ID:tyoeWmoM
ありがとう、とわたしは顔を下げて答えた。
その言葉は確実にわたしを誉めてくれたのにもかかわらず、素直に喜べないの
は、紗耶香に気を使っている部分があったからだろう。彼女の孤独をわたしは知
っているから、その声の裏には闇を感じさせる。
上目遣いで紗耶香の顔を窺う。その時にはすでに彼女は流れる川を見ていた為、
どんな表情になっているのか確かめる事が出来なかった。
でも、とわたしは思う。
でも、紗耶香はいつもの顔をしているんだ。ほんの一瞬だけ、トランプが捲れ
るように姿を現す小さい紗耶香。それを見るたびに、その姿が写真に切り取られ
たように頭に焼きついてしまっている事を感じる。
わたしは紗耶香の後ろ姿を見ているだけ。
金色に輝いて、風になびく柔らかい髪の動きに視線を囚われているだけ。
「カオリは――」
紗耶香はわたしに背中を向けたまま言った。
24 :
:02/01/28 05:13 ID:tyoeWmoM
「カオリは芸術家だよ」
「……紗耶香」
「あたしが持っていないものを、カオリは一杯持ってる」
「…………」
「だから、芸術家だよ」
わたしはどんな言葉を掛ければいいのだろう?
胸に押し当てているスケッチブックと一緒で、わたしの頭の中は真っ白になっ
ていた。紗耶香との時間の中で、何度も立ち会ってきたこの空気に、未だにわた
しのスケッチブックには適切な言葉が書き足されない。それはきっと、わたし自
身も彼女と一緒だからだと気がついていたからだ。
紗耶香の気持ちがわかるから、安易な言葉なんて言いたくない。
紗耶香から、そんな言葉を聞きたくないように、わたしも言いたくなかった。
数分、でも多分もっと短い時間だっただろうが、お互いの無言の空間を破った
のは紗耶香のほうからだった。
彼女は急に振り返ると、いつの間にかさっきと寸分互いの無い笑顔を浮かべな
がら言った。
「芸術家って、変人だってよく言うじゃん」
「なにそれ?」
「別にカオリが変人だって言いたいわけじゃないよ」
「言ってるじゃん」
あはは、と楽しそうに紗耶香は斜面を下っていった。
その揺れる背中を見ながら、わたしはホッ、と息をつく。
わたしはいつまでも紗耶香に触れる事を恐がっていた。
25 :
:02/01/29 03:58 ID:dM3gFkEl
◆
「東京? え? 今こっちに来てるの?」
それは紗耶香からの『今暇?』と言う二文字のメールに返事をした後にかかっ
てきた電話だった。どうやら用があった彼女は、それを済ませると暇を持て余し
たらしい。それまでかなり遅いペースでしかメールをしていなかったわたしは、
正直急なこの電話に戸惑いを隠せなかった。
会えないかな……久し振りにカオリの顔が見たいんだ。
いつもテレビで見ているんじゃないのといいかけてわたしはやめた。受話器か
ら聞こえてくる懐かしい声に、少しだけわたしは喜びを感じていたらしい。
しかし突然の誘いには躊躇いがあったのも確かだ。別に仕事は午後からだった
し、余裕が無かったわけではない。仕事の時間までのんびりしていようと言うス
ケジュールを頭の中で立てて、それを書き換えるのが嫌なだけだった。
カオリ……。
懐かしい声に、わたしは思わず苦笑いしていた。紗耶香と会うと言う事自体に
は躊躇いはまったく無かった。忙しい毎日を送っているわたしには、彼女の存在
はあの頃のまま変わらない時間の象徴のように思えた。
結局わたしは待ち合わせの場所を決めて、薄く化粧をした。そのまま仕事場ま
でいけるように準備をして家から出る。
玄関の外に出たわたしを襲ったのは、春の甘い匂い。
祐ちゃんが脱退すると発表したのは、つい最近の事だった。
26 :
:02/01/29 04:01 ID:dM3gFkEl
◆
紗耶香と会って、わたしたちがしたことは街をうろうろしているだけで、目立
って出来事があったわけではなかった。一緒に服を見たり、小物を手に取ったり、
昼を食べたり……予想通り、紗耶香は髪の色が明るくなっただけで、その他変化
は無い。それはどこかわたしを安心させて、そして置いてきた時間を思い出させ
てくれた。
その日は昼にフカヒレはやめよう、と言う反省点ぐらいしか印象に残らなかっ
たし、そのまま慌しい仕事の空間に向かっていくわたしには、その頃から見せて
いた彼女の微妙な切れ目に気がつくことは無かった。
ただ、その日を境にわたしたちの関係は変わっていった。
あんなに遅かったメールも頻繁にやるようになったし、電話もすることがあっ
た。たまの休みは紗耶香と遊ぶ時間に裂いていった。
その頃、丁度わたしにも不安が押し寄せていた。それは裕ちゃんの脱退に対し
ての事。それまでの大きかった彼女の存在を改めて感じて、居なくなると言う事
への不透明な不安。ただ、それをメンバーの前で出すのはやめようと思った。わ
たしより年下の子達もそれを感じている事は察しが着いていた。だから、出来る
だけメンバーの前では強くいたかった。
でも、それは確実にわたしを締め付けていたように思える。このまま甘えてい
られないと言う思いは、常に胸の奥底で存在していたが、それが裕ちゃんの脱退
と言う出来事で一気にわたしの中で浮上した。
誰にも頼らないで強く――。
みんなを守れるほど強く――。
27 :
:02/01/29 04:03 ID:dM3gFkEl
裕ちゃんとの残された時間で、わたしは強くならないといけないと思っていた。
だから張り詰めた仕事の時間を過ごして、家に帰って見る携帯のメールは、そん
な一時の清涼剤だったのかもしれない。
わたしはその不透明な思いを、紗耶香との関係に消化させようとしていた。
彼女と話しているときだけでいいから仕事への不安、張り詰めた気持ちが忘れ
られるなら、それでいいと思った。
『裕ちゃんがやめるなんて考えられないよね……』
でも時々出てくる彼女の言葉に、わたしは現実へと引き戻される。
『悲しくない?』
悲しくない事なんて一つも無かった。
明日香の時も彩っペの時も、そして紗耶香の時も、悲しくなかった事なんて無
い。全てわたしの胸の奥で、今でも時々顔を現しては体を締め付けて寂しさを与
える。そんな思い出たちだ。
『カオリは泣き虫だからね……心配だよ』
でも、あの頃と今ではわたしの立場は違った。
だから、その言葉通りで居るわけには行かなかった。
「もうすぐ二十歳になるんだよ。泣き虫なんかじゃないよ」
そう言った時、クス、と電話の向こうで笑う声がした。
『カオリは綺麗に歳を重ねて行くね』
「誉めても何もやらないぞ」
28 :
:02/01/29 04:06 ID:dM3gFkEl
紗耶香と合う時間を多くしたくなってきた。
その笑顔をわたし一人に向けられる事に快感を覚える。
どうしてこんなに彼女と過ごす時間が心地いいものなのだろうという疑問は確
かにあった。でも、それを考えようとしても、いつも頭の中には薄いベールがひ
らひらとして、その向こう側にある『答え』を見ることができない。
紗耶香と会うと、それは一層と強くなった。彼女は、多分今考えるとそれを隠
していたのだと思う。何事も無かったかのような顔をして、わたしの髪に指先を
絡めてはため息をつく。
綺麗な髪だよねぇ。
でも、その『答え』がわかる時が来る。
いつものように電話で話していたわたしは、不意に呟いた紗耶香の言葉をなぜ
だが忘れる事が出来なかった。それは多分、『答え』の正体なのだと後になってか
ら気がつく。
29 :
:02/01/29 04:07 ID:dM3gFkEl
『光に包まれるって……どんな感じだったっけ?』
電話を切ったわたしはしばらくその言葉を呟いていた。
光……。
光に包まれる……。
次の日、テレビの収録の合間、わたしは一人セットから離れて照明が当たらな
い場所を探すと、そこに立ち尽くして紗耶香の言葉を思い出していた。
周りではせわしなく走り抜けていくスタッフの音が支配する。高い声と、資材
がぶつかり合う音。ゆっくりと後ろを振り向くと、セットの上ではメンバーが笑
顔で話をしていた。
紗耶香……。
わたしは喉の動きを最小限にして呟く。それは唇から出ることはなく、自分の
中で消えた。
たった数分の孤独。この孤独を紗耶香はずっと続けているんだ。
あの雨の日から、ずっと紗耶香は暗い場所で佇んでいたんだ。
今度彼女に会う時、その暗闇の紗耶香に触れたいと思った。
いちかおって一番好きなんだよ
期待してます
32 :
:02/01/30 05:22 ID:sKwDyPiV
◆
「さかな! 今魚いたよ!」
紗耶香の突然のその声に驚いてスケッチブックから視線を上げる。川のほとり
では満面の笑顔でわたしを見上げている彼女の姿があった。
思わず周りを見てみる。向こう岸のほうで中年の男性が何事かと起き上がって
いたが、すぐに興味が無いようにまた体を倒した。
少し声が大きすぎる、と抗議をしようとしてやめた。紗耶香は無邪気な笑顔で
見上げていた。それは多分、わたしの反応に同じものを求めているのだと悟った。
クス、と口元が綻ぶ自分に気が付いて、わたしの気持ちが少しだけふあふあと
浮いた。
「取ってきてよ! 今晩のおかずにするからさ!」
わたしが声を上げると、紗耶香はまじかよー、と体を反らせてアクションを取
る。その顔には笑顔が消えることはなく、いつものわたしたちのじゃれ合いを予
感させた。
33 :
:02/01/30 05:24 ID:sKwDyPiV
「こんな可愛い女の子に魚を追いかけろって言うの?」
「可愛い女の子ってどこにいるの?」
「うわっ――ちょっと今ムカついたぁー!」
あはは、とわたしはお腹を押えて笑った。どうやら紗耶香はそれが嬉しかった
らしく、同じように高い声で笑うと、耳元の髪を掻きあげてからわたしの元にゆ
っくりと歩み寄ってきた。
斜面を登る彼女の足取りは、草花に滑らないように気を使っていた。一歩一歩
踏みしめるそれに、草が擦れる音がする。
「凄く大きかったよ。あたしが傍に近づいたらパパッと逃げちゃった」
「ご愁傷様。今晩は魚でいい?」
「母さんは肉が好き」
「知ってる」
そう言ってわたしは笑いながらスケッチブックを閉じた。
彼女はゆっくりとわたしの横に腰を下ろすと、草を一掴みして空中に投げる。
まるで紙ふぶきのように風に乗って舞うその草に視線を囚われていると、不意に
髪の毛を触られる感覚がしてゆっくりと首を傾けた。
そこには紗耶香が人差し指でわたしの髪に指を絡めていた。その表情はまるで
手に入らないおもちゃを子供が我慢しているようだ。
34 :
:02/01/30 05:26 ID:sKwDyPiV
「何?」
わたしはそんな紗耶香に聞く。
彼女は口元に意味深に笑みを作ると言った。
「別に……ただ綺麗だなって」
「……ありがと」
紗耶香はわたしの髪から指を離すと、草花の斜面に体を倒した。その視線はま
ぶしい太陽に向けられていて、伸ばした右手がその光を遮るように広げられてい
た。
手の形に整形された影が紗耶香の顔に張り付いている。わたしはスケッチブッ
クを横に置くと、しばらく心地よい風景に体を任せた。
紗耶香がわたしの家に転がり込んできたのは二日前の事だった。この場合転が
り込んできたと言う表現があっているのかわからないが、この三日間、彼女と時
間を過ごす事になる。
35 :
:02/01/30 05:27 ID:sKwDyPiV
二日前、彼女は突然家のドアをノックしてきた。その時、わたしはミュージカ
ルに向かうため、家を出る準備をしていて、突然の訪問に驚きを隠せなかった。
どうしたの? というわたしに紗耶香は笑顔を崩さないまま言った。
暇だったからちょっと来てみたの。
でも電話一本ぐらいしてよ、と言うわたしに紗耶香は笑顔を崩さないまま謝る
だけだった。その時は時間が無かったため、家の鍵を預けて仕事場に向かった。
その夜、仕事が終わって帰ってくると、ドアを開けた瞬間に光が漏れてきたこ
とに新鮮な驚きを感じた。紗耶香はわたしを迎えてくれて、部屋の中に上がると
テーブルには食事が用意されていた。
嬉しかった。
食事を取りながらわたしは紗耶香に聞く。どうして急に来たの? それに紗耶
香はご飯に箸をつけながら応える。こっちの方に用があったんだ、んでそれが済
んだら暇になっちゃったからさ。
でも後からそれが嘘だという事に気がついた。紗耶香がわたしの家を尋ねた時、
まだ早い時間だった。その時間から、東京に用があったなんて考えられない。多
分、彼女は初めからわたしに会いにきたのだ。
でもその考えは後になって気がついたことで、その時のわたしはただ紗耶香の
言葉に頷くしかなかった。時間も時間だと言う事で、彼女を家に泊めることはお
互い口に出さなくても承知していた。ただ、わたしはそれがその日限りだろうと
思っていた。
36 :
:02/01/30 05:29 ID:sKwDyPiV
朝起きて、紗耶香が眠っている姿を見ながらわたしは仕事に向かう準備をする。
薬箱からすでに愛用になってしまった胃薬を飲んで、置手紙と共に家を出た。帰
ってきたら紗耶香の姿は無くなっているだろうと思いながら……。
しかしその予想は見事に裏切られる。仕事が終わって戻ってきたわたしは、ド
アノブを回すと鍵がかかっていない事に驚いた。すぐに中に入ると、前の日のよ
うに、蛍光灯の青白い光が眼を覆った。
居間の方では紗耶香がテーブルに肘をつきながらテレビを見ていた。その上に
は見事に用意された食事。
どうしたの? と思わず聞いたわたしに向かって、紗耶香はその言葉自体附に
落ちないような顔をした。一瞬、わたしが間違った事でも言っているのだろうか
と考えたが、彼女が家に留まっている事の方がおかしいのだと思い直した。
帰りそびれちゃった。
えへっ、と可愛らしく笑うまねをした紗耶香を見て、一瞬だけ心が和んだのに
気がついてわたしは冷静になった。
37 :
:02/01/30 05:31 ID:sKwDyPiV
お家の人とか心配してない?
大丈夫だよ。電話したから。
何て?
家出しますって。
あほか。
ケタケタと笑う彼女を見て、それが冗談だと言う事はわかった。しかしその日
もわたしの家に泊まると決め込んだらしく、紗耶香はまるで何年も前からここに
暮らしていたかのようにリラックスしながらテレビを見ていた。
まあ、別にいいかとわたしはなぜか思った。
紗耶香と過ごす時間は嫌いではない。むしろ好んで時間を作ろうとしていたの
だから、今の状況はむしろ歓迎することなのかもしれない。それに一番大きかっ
たのは、家に戻った時に、人がいるという安心感だった。前までのわたしは仕事
から戻ってくると、その疲れを持続したまま一人で過ごさなくてはならなかった。
その為だろうか、疲れはその日のうちに全て解消される事はなく、確実に残った
それを引き摺りながらまた仕事に向かうと言う日々を過ごしていた。だからいつ
しか重いものが蓄積されていくのに気がついていた。でもどうしようもできなか
った。
しかし紗耶香が居る家に戻っていくと、それが一気に解消される。疲れをその
まま次の日に引っ張らなくてもよくなった。
その日、わたしは珍しく睡眠薬を飲まないまま眠りにつく事が出来た。
38 :
:02/01/30 05:33 ID:sKwDyPiV
「完成したら見せてよ」
不意の紗耶香の言葉にわたしは我に戻る。横たわっている彼女に視線を落とす
と、穏やかな表情でわたしを見上げていた。
「これのこと?」
わたしは横においてあったスケッチブックを軽く持ち上げる。紗耶香は視線を
変えないままうん、と頷いた。
「紗耶香に芸術がわかるかなぁ? 少し不安だよ」
「こう見えても感受性は強い方だって言われるよ」
「誰から?」
「自分から」
なんでやねん、と大して感情を込めないまま突っ込むと、紗耶香はそれでも満
足したらしく、ケタケタと笑った。少し細くなりすぎた眉に前髪がかかっている。
それを親指で横にずらすと、その視線はわたしから離れて高く伸びている青空に
向けられた。
わたしもそれに釣られて空を見る。
それと同時に頭上を横切る鳥を確認した。
それを眼で追いながら、わたしは言った。
39 :
:02/01/30 05:35 ID:sKwDyPiV
「青空を書きたいの」
唐突の言葉に、紗耶香は無言のままだった。それはわたしの発言を待っている
のだと表情を見なくてもわかった。
「何かを開放できるような……そんな絵が書きたいの」
「それが青空?」
クス、とわたしは笑った。
「――みたいな絵が書きたいの」
そう言ってゆっくりとわたしも紗耶香の隣に体を倒した。草の匂いが一層と強
くなって、柔らかい土の弾力に心地よさを覚えた。
さわさわと風が走り抜けていく。少しだけ服の裾が持ち上がって慌てて手で押
える。紗耶香はそんなわたしとは関係なく、太陽の陽射、草の匂い、土の弾力、
そして風の感覚――それらを全て体の中に吸収するように、一つ大きく深呼吸を
した。
40 :
:02/01/30 05:37 ID:sKwDyPiV
「あたしは好きだよ」
紗耶香はそう言ってゆっくりと体を起こす。その背中には草の屑が張り付いて
いた。
「……何が?」
わたしは背中から視線を上げて紗耶香の横顔を見た。
紗耶香は振り返ってわたしを見下ろす。
「カオリの絵」
「…………」
「絵も……カオリの事も……あたしは大好きだよ」
紗耶香の表情は依然として穏やかだった。まるでその視線はおばあちゃんが孫
を見るときのように優しさが篭っている。それを感じて、わたしの胸の奥は急に
熱くなって、鼓動の動きが速くなった。
苦笑いすると言った。
「やめてよ……心の準備が出来てませんよ」
「あほ」
それからわたしたちは一緒になって笑った。
それが酷く心地よくて、酷く残酷に思えた。
いつまでもこうしていたい。
でも永遠なんて物が無い事ぐらいわたしでも知っている。
物も時間も人も――。
そしてこの関係も――。
41 :
:02/01/30 05:41 ID:sKwDyPiV
42 :
ななし:02/01/30 07:51 ID:I2cahsbr
うまいな〜
hozen
44 :
ななしぃ:02/02/01 02:12 ID:SJ4WOpfB
おもひろい。
45 :
:02/02/01 03:52 ID:Wy7rVaap
◆
お風呂から上がって、ドライヤーで半分乾かした髪にタオルを当てながら居間
に戻ってくると、紗耶香の姿が見えないことに気がついて、わたしは思わず声を
出す。
「紗耶香?」
静まり返った部屋には人の気配がしない。ついさっきまで笑いながら見ていた
テレビさえ電源が落とされていた。テーブルには紗耶香の飲みかけのカップにミ
ルクティーが半分ほど残されている。テレビの向かい側に位置するソファの上に
買い物袋が転がっていた。
わたしはそれを掴むと窓際のゴミ箱に捨てる。カーテンが数センチほど開いて
いるのに気がついて、隙間が見えないように締め切る。振り返って居間全体を見
ると、不意に彼女が居なかった数日前の孤独を一瞬だけ思い出した。
カタッと隣の寝室の方から音がした。まるで泥棒のように足音に気をつけなが
らソファの横を通り過ぎて、この部屋と向こう側を仕切っている引き戸に手をか
けた。
46 :
:02/02/01 03:54 ID:Wy7rVaap
拳ほどの隙間を開けると、充満していた居間の光が逃げ出す。目に入ったのは、
豆電球だけの暗闇の部屋の中、ベッドのすぐ横に敷いている紗耶香用の蒲団と、
その奥にある鏡台だった。六畳ほどの広さのその部屋には主にわたしの服などを
収納するクローゼットなどがある。彼女の姿も、その部屋で見つけることが出来
た。
鏡台の鏡に写るわたしの姿。その前に座っている紗耶香が、気がつかないはず
は無かった。
「……何してるの?」
わたしはゆっくりと引き戸を全て開けて言った。
紗耶香は振り返らないまま、鏡の中の自分を見ていた。
「女の子だからね……」
「今から化粧してお出かけですか?」
ううん、と目を閉じて首を横に振る紗耶香。わたしは何故だか敷居を跨ぐこと
が出来なくて、入り口の前に立ち尽くすだけだった。
47 :
:02/02/01 03:56 ID:Wy7rVaap
「眉毛細くなりすぎちゃったかなって……」
「紗耶香は元々無いからねぇ」
「一応気にしてるんだぞ」
ごめんね、とわたしはいつものように笑いながら答えようとしてやめた。紗耶
香の口調にさっきまでの明るさを感じさせなかったからだ。
「紗耶香……」
不安の色が出ていたのかもしれない。紗耶香は敏感にそれを感じ取ったのか、
鏡に写る顔に微笑を浮かべた。でもわたしにはそれが心から笑っていないのだと
言う事に気が付く。その表情はただわたしを心配させないように気を使っていた
だけだ。
「カオリみたいに髪を伸ばそうかなって……」
「伸ばすの?」
「似合わないかな?」
どうだろ、とわたしは呟きながら寝室の中に入った。蒲団を踏んで彼女の後ろ
に立つ。そのストレートの髪に手を伸ばした。
「きっと似合うよ。昔も結構長かったじゃん」
その言葉に昔の自分を思い出したのか、紗耶香は苦笑いをしながら言った。
「勘弁してよ……やっぱり短い方がいいのかな……」
「伸ばすだけ伸ばしてみたら? 気に入らなければ切ればいい」
48 :
:02/02/01 03:58 ID:Wy7rVaap
手の中から逃げていく茶色の髪の毛に見とれながらわたしが言うと、いつの間
にか彼女の右手がその手に重なっていた。
一瞬だけビクッと反応したわたしの手の甲に伝わってきたのは、冷え切った感
触だった。
「紗耶香……」
気のせいだろうか、少し彼女の手が震えているような気がした。
――光に包まれるって……どんな感じだったっけ?
不意にあの言葉を思い出した。
「暗いの苦手なんだ……」
紗耶香は呟く。
「知ってるよ……」
寝室には豆電球。わたしが開けた引き戸から漏れてくる青白い光。決して明る
い部屋ではなかった。
「恐くなるんだ……暗いと……」
「…………」
49 :
:02/02/01 04:01 ID:Wy7rVaap
わたしたちの視線は鏡を通して間接的に結びついていた。多分、お互いの考え
ている事を必死に悟ろうとしていたのかもしれない。でも結局わたしには紗耶香
の気持ちが見えなかった。
「まだ……子供なんだね……あたしは……」
そう言って紗耶香は顔を下げて口元に笑みを作った。それが自嘲的なのはすぐ
にわかる。
わたしが必死に頭の中で言葉を探していると、彼女は手を離してゆっくりと立
ち上がった。
「紗耶香……」
振り返った彼女の顔には、いつもの笑顔があった。
「お風呂入ってくるね」
でもそれが冷たい笑顔だと言う事ぐらい、わたしにでもわかる。
横を通り過ぎていく彼女の空気の流れを感じる。わたしは振り返ることも無く、
鏡の中に写っている自分の姿を見ていた。
まだ疲れているのかもしれない。
目の下を人差し指でなぞりながら呟いた。
「隈……消えないや……」
その後、わたしは居間の棚から胃薬を取り出した。
50 :
:02/02/01 04:14 ID:Wy7rVaap
>>42 恐縮です。
>>43 保全ありがとうございます。
>>44 この先も付き合ってくれるとありがたいです。
って言うか、この話って時期的に去年になるんだ。
感慨深い……。
51 :
:02/02/02 08:54 ID:WIn9F1k7
◆
「何? どうしたの?」
ベッドの中に潜り込んでくる紗耶香に驚いてわたしは声を上げた。
彼女は蒲団の中から顔を出すと、わたしに向かって微笑みかける。すぐ数セン
チ前のその顔が暗闇に眼が慣れたせいか、ぼんやりと浮かんで見えた。
「たまにはいいじゃん」
「あんたねぇ」
わたしは呆れたように呟いたが、紗耶香の無邪気な微笑みに抵抗が消えていく
のを感じた。一つの枕に頭を寄せて、さっきまで濡れていた髪の甘い匂いが鼻に
届く。わたしは広がった自分の髪を一つに束ねると、彼女とは反対側に向けた。
「あまりくっつくな。熱いよ」
お風呂の熱気がまだ紗耶香の体には残っていた。蒲団の中にはすでにわたしの
体温で暖められているため、その熱気はどんどんと温度を上げていく。
「あたしは寒いよ。カオリは暖かいね」
そう言ってふざけたように背中に腕を回そうとする彼女に、わたしは笑いなが
ら体を捩じってそれから逃れる。こら、と言いながらその向きを変えてお互い正
面に向かい合った。
52 :
:02/02/02 08:55 ID:WIn9F1k7
「カオリー愛してるよー」
声を低くして演技っぽく言いながら紗耶香は抱きついてきた。あほ、とわたし
は笑い声を上げながらまたそれから逃れようとする。しかしすぐに彼女の腕は背
中で絡まった。
お互いのパジャマが擦れる音がした。
体の柔らかさを確認する。蒲団とは別のぬくもりが心の中に入り込んで、鼓動
の動きを早めた。
しばらくお互いにじゃれ合いながら、まるで子供のように笑った。お腹が痛く
て、眼からは涙がこぼれる。静まり返った暗い空間には、その笑い声が響き渡っ
て、まるで山彦のように反射してわたしたちの元に返って来ていた。
「カオリ」
何? と喉から出そうとした瞬間、紗耶香の頭が枕から離れてわたしの胸の中
に埋められた。まだふざけあっていた余韻が残っていたため、それもその一つだ
ろうと勘違いしたわたしは、すぐに体を捩じらせてその頭を離そうとした。
しかし彼女は少し強引にわたしのパジャマを子供のように掴んで離れようとし
ない。冷え切った額の体温がパジャマを通して感じた。
53 :
:02/02/02 08:58 ID:WIn9F1k7
「紗耶香……」
わたしはやっとで気がついた。微かだが何かに怯えるように震える体を。
「暗いの……ダメなんだっけ?」
小さく胸の中で頷く紗耶香。わたしはそっと右手で彼女の頭を撫でた。
暗いのが苦手だと言う彼女の言葉自体、嘘ではなかっただろうが、多分この時
のその体の震えはそこから来たものではないのだろう。紗耶香が泊まりに来て三
日間、わたしたちは電気を消して眠っていた。もちろんその時も別々の蒲団の中
に入っていたのだから、今更暗闇が恐いと言う事は考えられなかった。
紗耶香は、突然襲ってくる孤独に恐がっていた。
いつでも胸の奥に確実に存在するその孤独が、ふとした瞬間に表面に現れる。
それから逃げる事が出来ない紗耶香が、自分の中の自分に怯えているのだと思っ
た。
「……また薬飲んでたでしょ」
紗耶香が胸の中で呟いた。額とは対照的に暖かい息がパジャマの隙間を縫って
肌に感じる。
54 :
:02/02/02 08:59 ID:WIn9F1k7
「……薬って?」
「胃薬……オヤジみたいだね」
呟くように言うその言葉に、わたしは苦笑いをした。
「色々とストレスが溜まるんだよ」
湿気を持った髪が鼻先を掠める。少しだけくすぐったくなったわたしは、彼女
の頭を撫でていた右手で鼻先を擦る。
「……あたし……知ってるんだよ」
「……何を?」
少しの間を空けて、紗耶香は言った。
「カオリ、睡眠薬まで飲んでいるんだね」
「…………」
「暗闇を恐がってるのは……カオリも一緒だね」
「……紗耶香」
55 :
:02/02/02 09:08 ID:WIn9F1k7
紗耶香はゆっくりとわたしの胸から顔を離した。上目遣いで見上げるその表情
は、妙に艶っぽく、一瞬だけ胸を締め付けた。
さっきから胸の高鳴りが止まない。それはふざけあっている時から感じていた。
でもそれはただ体を動かして、心拍数が上がっているだけなのだと思っていたが、
それが今でも静まらない事を考えると、どうやら違っていたようだ。
わたしは無言のまま紗耶香の顔を見ていた。
紗耶香もわたしの顔を見ていた。
わたしたちは一体どれくらいの時間見詰め合っていたのだろう? 長くも感じ
たし、それは時間にして短くもあったような気がした。なぜかその間わたしの思
考は停止していて、目の前のその顔を見ていることしか出来なかった。
部屋に存在するわずかな微光。それを目一杯に吸い込んで、闇の中に輝く瞳に
わたしは吸い込まれそうな感覚に陥った。
それは酷く心地いい。裸で眠る開放感とも似ている。その鈍く輝く瞳は、確実
にわたしの中に入り込んで、厳重に締め切られていたはずの自分でも気がつかな
かった場所に優しく触れた感覚がした。
わたしたちは無言のまま見詰め合っていた。
お互いの心臓の音が耳障りだ。それはもしかしたら時計の秒針だったかもしれ
ない。その判断さえも、わたしには出来なかった。
いつの間にか眼を閉じていた。そっと唇に触れる柔らかい感触。それが離れる
とわたしはゆっくりと眼を開ける。
視線に広がったのは、艶っぽく笑顔を作っている紗耶香の顔だった。
56 :
:02/02/02 09:11 ID:WIn9F1k7
ああ、とわたしは思った。
わたしもなんだ。
わたしも紗耶香と同じように自分に怯えているんだ。
それが『答え』なんだ。
紗耶香と同じ時間を過ごして、なぜ落ち着くのか……これが『答え』なんだ。
わたしは紗耶香と同じだから。
同じ時間を過ごす事によって、傷を嘗め合っていただけなんだ。
「カオリ……」
紗耶香がゆっくりと体を起こしてわたしの上に覆い被さる。なぜか抵抗なくそ
れを受け止めるわたしは、目の前の現実から逃げようとしていたのかもしれない。
別に紗耶香に特別な感情は無かった。
多分、紗耶香もわたしにそんな感情なんて抱いていない。
まるで同じ敵から身を守るため、体を寄せ合う小動物のように、わたしたちは
ただ震えていただけだ。
寒さから逃れるために、相手の温もりを感じたかっただけだ。
ぼんやりと、わたしはそれから子供の時に見たCMを思い出す。
もしかしたら、雨はずっと降り続けていたのかもしれない。
その時から――ずっと……。
57 :
:02/02/02 09:13 ID:WIn9F1k7
◆
朝、眼を覚ましてからわたしは後悔に襲われた。
ゆっくりと体を起こすと隣には紗耶香が眠っていた。穏やかなその寝顔に、い
つもなら癒されるであろうわたしの気持ちは、何故だかこの時だけ重く沈んだ。
乱れたパジャマを手にとって着ると、紗耶香を起こさないようにベッドから這い
出る。肩があらわになっている彼女の掛け布団を直してから、音を立てないよう
に寝室から抜けた。
居間に来るとわたしの押し潰された気持ちが少しだけ楽になる。冷蔵庫から牛
乳を取り出すと、コップにそれを注いで一気に飲み干した。冷え切ったその液体
が喉を通り過ぎて、頭の芯をきつく締め付ける。眠気が遠く飛ばされていくよう
だった。
一息をついたわたしは、居間のソファに倒れるように体を静めると、リモコン
でテレビのスイッチを入れた。丁度ワイドショーがやっていて、内容には興味が
無かったため時間だけを確かめた。
鼓動が静かに脈を打っているのを感じる。ソファの背に寄りかかって首を上に
向ける。白い天井に、カーテンの隙間から差し込む光で、直線を描いていた。
どうしてあんな事してしまったのだろう?
そう考えるとまたわたしは後悔に襲われる。出てくるのはため息だけで、胸の
中の鉛は溶けることなくずっしりとその重さを強調していた。
58 :
:02/02/02 09:14 ID:WIn9F1k7
紗耶香のことは好きだ。
でもそう言う意味の『好き』ではない。
友達として、仲間だった人物として、わたしは彼女のことが好きだった。だか
らそれ以上の感情は、あの時間、お互い持っていなかったことは確信できる。
それなのにどうしてあんな事をしてしまったのだろうか?
視線を横に向けると、窓際の壁に寄りかけるように置いてあるスケッチブック
に気がついた。腰を上げてわたしはそれを取ると、またソファに座り直した。
スケッチブックを捲る。昨日、川原で書いていた絵がそのままの形で存在して
いた。ゆっくりとわたしはその線を右手でなぞる。紙のザラザラとした質感を微
かに感じた。
――暗闇を恐がってるのは……カオリも一緒だね。
そう、わたしは恐がっていたのかもしれない。
日々の生活の、無言のプレッシャーは確実にわたしを狙っているのに気がつい
ていたから、いつそれに襲われるのだろうと恐がっていたんだ。紗耶香はその事
を知っていた。だからそっと水でも掬うかのようにわたしの心を触ったんだ。
お互いに、心の隙間を埋めたかっただけなのかもしれない。
「……バカみたい」
わたしはそう呟いて苦笑いをした。
59 :
:02/02/02 09:22 ID:WIn9F1k7
たったそれだけの事で、わたしたちは体を重ねたんだ。
髪を軽く掻きあげてから、わたしは仕事に向かうため準備をした。服を取り出
すためには寝室を通らなければならなかったし、メイクの道具もそこにある。そ
の為、わたしは服を簡単に選ぶと、眉毛だけを描いて帽子を取り出した。
寝室から抜けるときに少しだけ紗耶香に視線を向ける。蒲団の膨らみが動く事
はなく、規則いいリズムの吐息を立てていた。
彼女が眼を覚ました時、わたしはどんな顔をすればいいのだろうか?
そう思いながらわたしはまた居間に戻ってきた。相変わらずテレビではどこか
の国の経済状況と日本を比較して、何度か顔を見たことがあるゲストを向かえて
喋っていた。
仕事までまだ時間があった。しかし今、紗耶香と同じ空間にいることが耐えら
れなかった。
嫌いじゃないのに……。
紗耶香が眼を覚ますことが恐かった。
わたしはその思いから逃れるようにスケッチブックに鉛筆を走らせる。大体の
構図は出来ていたため、頭の中の風景を重ねて行くだけだった。
しばらく鉛筆を走らせる作業にわたしは没頭していった。目の前の問題を逃避
するには、そう言う行為しか思い浮かばなかった。
気がつくと仕事に向かう時間になっていた。テレビはすでにワイドショーが終
わっていて、情報バラエティー番組に変わっている。スケッチブックを閉じたわ
たしはゆっくりとソファから立ち上がって、テレビを消した。
60 :
:02/02/02 09:26 ID:WIn9F1k7
「もう行くの?」
突然の後ろから聞こえた声にわたしは驚いて肩をすくめた。その聞き馴染みの
ある声は、いつの間にかわたしにとって違う意味に変わっていた。
まるでホラー映画のワンシーンのようにわたしはゆっくりと振り向く。そこに
は引き戸を半分だけ開けて、眠そうに目を擦っている紗耶香の顔だけがこっち側
を覗くように現れていた。
顔以外の姿は引き戸によって隠されている。その部分を想像してわたしは軽く
頭を横に振った。
「うん……もう行かなきゃ」
「行ってらっしゃい」
わたしは鞄を持つと、テレビの上に置いてあるサングラスを掛けた。まるで家
から逃げ出すように玄関に向かって歩こうとするわたしに、彼女は呼び止めるよ
うに声を掛けてきた。
61 :
:02/02/02 09:28 ID:WIn9F1k7
「カオリ……思い出した」
え? とわたしは振り返る。彼女の視線はさっきまで広げられていたスケッチ
ブックに注がれていた。
「……何を?」
何故だかわたしの鼓動が早くなる。自分の今の表情を確実に隠してくれるサン
グラスをありがたいと思った。
「犬……子犬の……」
「ああ……」
紗耶香はスケッチブックから視線を離すと、ゆっくりとわたしを見た。
「あたしも見たことがあるよ……子供の時……見たことがある」
「……そう」
わたしがそう応えると、紗耶香は昨日と何も変わらない笑顔を作った。
「行ってらっしゃい。頑張ってきなよ」
わたしも彼女に負けないように、自分の気持ちを隠した笑顔を作った。
「ありがと。行ってきます」
玄関で靴を履いて、ドアを開けた瞬間、眩しい光が広がる。
その広がる視界に、わたしは一瞬の目眩を感じた。
外の空気にこんなにも心が開放されたのは初めてだった。
62 :
名無し読者。:02/02/02 22:18 ID:LT4Clcz+
名作集が逝ってしまったいま。
この小説が楽しみです、がんばってください。
ageちゃった。ごめん。
逝ってきます
この何ともいえん雰囲気が好きだ
保全
66 :
名無し娘。:02/02/04 17:18 ID:o1qb/5jj
青板で書いてました?
68 :
ななし:02/02/05 13:24 ID:JzNnePu9
h
69 :
:02/02/05 13:43 ID:ZmMsomjZ
◆
「――ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?」
「さあ――く――してないから」
楽屋の中に入るといつものようにメンバーの声がわたしを向かえた。九人と言
う人数のためその部屋は、いつも広い場所を用意してもらっている。それは裕ち
ゃんがいなくなっても同じだった。
「梨華ちゃんさ――あそこの――」
「――ってるよ。今度――」
それぞれのざわめきで言葉を消しあいながら、本番までの時間を潰しているメ
ンバーを余所に、わたしは自分の気配を感じさせないように部屋の隅を移動する。
荷物が乱雑に置かれている場所に、鞄を適当に投げ捨てると、サングラスを外し
た。
70 :
:02/02/05 13:45 ID:ZmMsomjZ
「リーダー、遅いぞ」
サングラスを外したわたしの視線に、さっきまで後藤と話していた圭ちゃんが
写った。メイクの鏡の前に座る彼女は、回転椅子をまるで子供のように右へ左へ
と動かしながらわたしを見ていた。後藤はすでに吉澤と石川の方に移動してしま
っている。同年代だと言う事もあってか、すぐにその輪に溶け込んでいた。
「リーダーなんだから一番初めに来てほしいものだけどね」
「ごめんね」
圭ちゃんは椅子から立ち上がると、入り口の横に設置されていたテーブルの上
の紙コップに二つジュースを注いでわたしの元に持ってきた。
「ありがと」
「疲れてる?」
「何で?」
ここ、と言って圭ちゃんは自分の目の下を指差した。どうやら家に出てくると
きにメイクをしなかったせいで、いつもならある程度隠せている隈も、今日は酷
く写っているようだ。愛想笑いをして誤魔化してみるが、圭ちゃんは附に落ちな
いような表情で紙コップに口をつけながら離れていった。
わたしは適当に椅子を見つけて腰を下ろす。慌しく周りを動くメンバーとスタ
ッフの人たちが横を通り過ぎていき、集団の中の孤独を一瞬だけ味わったが、そ
れは余韻に浸ることは無く、すぐにマネージャーが話し掛けてきた。
それは主に今日のスケジュールの事で、何時何分までテレビの収録、その後何
時何分まで移動しなくちゃいけないからみんなをまとめるように、とプレッシャ
ーを掛ける言い方でわたしは頷くだけだった。
71 :
:02/02/05 13:47 ID:ZmMsomjZ
息をついて、紙コップを手にわたしは周りを見てみる。長方形型の楽屋は、入
り口から数歩分の間を取って二つのテーブルが間隔を空けてある。その周りには
パイプ椅子が設置されていて、各々のメンバーがカップルになって話をしている。
周りを慌しく動くマネージャーは、携帯片手に楽屋の奥と入り口を行ったり来た
りとわたしの目の前をせわしなく移動していた。
鏡の前に座っているわたしは、椅子を半回転させて自分の姿を見た。茶色くな
った髪が肩で前と後ろに分かれている。それを両手使って溶かすようにまとめる
と、鏡に顔を少し近づけて写る自分を見た。
こりゃ圭ちゃんが心配するのもわかるな、と思った。
オフだからと昨日は少し無理しすぎたかもしれない。睡眠も結局あまり取れな
かったような気がする。今ごろ紗耶香はベッドの中で二度寝している頃だろう
か?
そう考えて昨夜のお互いの行為が頭を過ぎってしまう。軽く苦笑いをしてみる
と、鏡の中でわたしの後ろに居る辻の姿に気がついた。辻は一人椅子に座ったま
まお菓子を頬張っていた。
72 :
:02/02/05 13:50 ID:ZmMsomjZ
また椅子を半回転させて辻を見る。
辻はぼけっと頬を目一杯に膨らませて入り口の方を見ていた。
「加護、来てないの?」
わたしがそう言うと辻は二三秒の間を空けて、首を横に向ける。どうやら自分
に言われた言葉だと気がつくのに時間がかかったらしい。
爛々と輝くその瞳は、純粋そのものだった。まるで懺悔室にでも入れられてい
るかのように、わたしは自分の過ちを見透かされてしまっているような感じがし
て、表情を変えないようにと気を使った。でも確実にその見栄は、メッキを剥が
して全てを見透かされてしまっているような気がする。もちろん気のせいだと言
う事はわかっていた。ただ、辻の純粋さは、今のわたしには辛すぎる。羞恥心と
も似た感情が沸き起こってきた。
「……あいぼん、どうしたんだろう?」
その呟く声は、楽屋のざわめきにかき消されそうになるも、わたしとの距離が
短いせいか、何とか耳で捕らえる事が出来た。
わたしは腕時計に視線を落とす。本番前のリハーサルの時間が迫っていた。
「……電話も繋がらなかったです」
寂しそうに俯く辻の頭を、わたしは椅子から立ち上がってから撫でると、ゆっ
くりと顔を覗くように膝を落とした。
「きっとこっちに向かっているんだよ。すぐに来るって」
「……へい」
73 :
:02/02/05 13:53 ID:ZmMsomjZ
辻が加護に対しての感情は、どこか憧れに近いのかもしれないと思っていた。
もちろん仲良しと言う言葉だけで二人を語ることは出来るのだろうが、常に加護
の真似をする辻を間近にみているとそれだけではないのに気がつかされる。そこ
には平等な立場など無く、前を歩くものと後ろをついて行くものに別れていると
わたしは感じていた。前を歩くものはついてくる人物に快感を覚え、後ろをつい
て行く人物は前の人物の真似をすることで近づこうとする。
その微妙な関係は、仲良しと言う言葉で補強されて、そしてその姿も隠してし
まう。だから本人たちもそれに気がついてはいないようだった。
「……あいぼん」
辻から離れて、鏡の前に座り直したわたしの耳に、そんな声が聞こえた。
平等な立場なんて無いのかもしれない。わたしと紗耶香の間にもそれは存在し
ないのだろう。
光に当たり続けているわたしと、影に包まれている紗耶香。
辻と加護のように仲良しと言う関係を否定した行為。わたしたちはその立場か
ら眼を覆う手段を身近らの手で壊してしまったのかもしれない。
それからメイクを済ませて、衣装に着替え終わっても加護の姿は現れなかった。
リハーサルの時間が等に過ぎてしまっているため、マネージャーの顔色が曇る。
リーダーの責任から、わたしも携帯などで連絡を取ってみるが、すぐに留守電に
切り替わってしまう。メンバーなどに聞いて回るも、加護のことを知っている人
物はいなかった。
74 :
:02/02/05 13:56 ID:ZmMsomjZ
「加護どうしたの?」
誰と無く呟いたその言葉に焦りを感じたわたしは、マネージャーと眼が合って
しまう。その鋭い視線が、余計にプレッシャーを与えた。
遅刻と言う事自体、歓迎できるわけではないが、珍しい事ではない。ただリハ
ーサルの時間が過ぎてしまってまで、連絡一つ入れないのは明らかに異常事態だ
った。不安と焦りの中、わたしのおろおろとしているその姿が、鏡を通して眼に
映った。あまりの滑稽さに立ち尽くす。
こう言うとき、リーダーはどうしたらいいのだろう?
裕ちゃんはどうしていたっけ?
メンバーがざわめき始めた。
スタッフの人とマネージャーが深刻に話をしている。
わたしはただそれを少しはなれた場所で見ている事しか出来なかった。
「あんたたち、ごちゃごちゃ喋っているなら台本でも目を通しておきなさい」
その声はわたしの背中から聞こえた。振り向くと圭ちゃんが平然な顔をしてメ
ンバーの前に立ちはだかっていた。すぐにはーい、と小学生のような返事がする
と、メンバーはざわめく事をやめて台本を手に、各々で話を始める。
圭ちゃんがゆっくりと近づいてきて、わたしの肩に手を置いた。
75 :
:02/02/05 13:57 ID:ZmMsomjZ
「見事なサブリーダーでしょ?」
わたしは苦笑いして頷く。
「……ごめん」
いいよ、と言って離れていく圭ちゃんは、何かを思い出したように立ち止まる
と振り返っていった。
「ここ、うまく消えてるよ」
人差し指で自分の目の下を指差して悪戯っぽく笑う圭ちゃんに、わたしは感謝
の気持ちと嫉妬、そして自分への嫌悪を感じた。
やはり、わたしより年上だ。
メンバーを静まらせる事も出来ずに、ただマネージャーを見ていることしか出
来なかった自分に嫌悪を持った。リーダーなのにやるべき事が見えなかったこと
に悔しさを覚える。
加護が姿を現したのは、本番の数分前だった。
青白い顔色で楽屋の中に入ると震える声で謝った。すぐにメイクと衣装を着せ
ている間、マネージャーが近寄ってきて、念を押すようにわたしの名前を呟く。
わかっている。遅刻してきたならばそれを叱らなければいけない。それは他のメ
ンバーへの示しでもあると、マネージャーは前に言った事があった。
しかし正直、わたしは人を叱るのは苦手だった。
他人が傷つくのを見たくなかった。
胃がキリリ、と唸った。
76 :
:02/02/05 13:59 ID:ZmMsomjZ
わたしはお腹に手を当てて、痛みが遠のくを蛍光灯を見ながら待つ。その痛み
に対処できる手段を知らなかったため、そうするしか方法が無かった。
加護が衣装に着替えて来ると、わたしは手招きをした。廊下ではすでにマネー
ジャーが待機している。
「加護……いい?」
「あ……はい」
加護は自分が手招きされている理由をすでに察していた。弱々しくわたしの横
に来るその小さな体にそっと腕を回す。楽屋から出る時、ふと振り返ってメンバ
ーを見ると、みんな心配そうな視線を加護に向けていた。その中で予想通り、一
番険しい顔をしていたのは辻だった。少しだけ胸に罪悪感を抱きつつ、マネージ
ャーの元に連れて行くと、その表情はすでに怒りをあらわにしていた。
「……寝坊です」
加護は呟いた。
マネージャーは露骨に加護を詰った。わたしはその横で肩に回している腕に力
を入れる。頼りない小さな体が微妙に震えていた。
加護はただ頷くだけ。言い訳もしなかった。
マネージャーの説教が終わると、その視線がわたしに向けられる。リーダーと
しての立場を考えて、その小さな体から腕を離すとわたしは言葉を選んだ。
77 :
:02/02/05 14:01 ID:ZmMsomjZ
「遅刻するって事は、色んな人を待たせるって事なんだよ」
「……はい」
「わたし達のために働いてくれているスタッフの人たちにも迷惑がかかるの」
「……はい」
「これからは気をつけるようにしようね」
「……はい」
叱られているせいだろうか、加護の頷きはいつもの元気を感じさせなかった。
それはわたしたちの目の前に現れた時から感じていた。青白い顔色と動きの鈍さ。
震える肩は叱られているという恐怖とは別の所からきているのではないだろうか
と思った。ただ、この時のわたしにはそこまで考える余裕は無かった。本番の時
間を過ぎてしまっているため、次の仕事に支障をきたさないかと焦っていた。
それはわたしの役目でもある。
メンバーをまとめなくてはならないのは、わたしなのだ。
マネージャーに視線を向けると、わたしの言葉だけでは気が治まらないと不満
げだったが、これ以上時間を割く事は出来なかった。
すぐ横のドアを開けて、わたしは楽屋にいるメンバーに声を掛ける。みんなは
ゆっくりと椅子から立ち上がってぞろぞろとドアから出てきた。
78 :
:02/02/05 14:02 ID:ZmMsomjZ
スタジオに向かって、先頭を切って廊下を歩くわたしに、後ろで話しているメ
ンバーの声が耳に入ってきた。
「加護……大丈夫?」
わたしの胃がキキリとまた唸った。
「無理はしないでね……」
わたしは右手を痛みが感じる場所に手を当てた。
「……具合悪いんでしょう?」
わたしは振り返ることはしなかった。
ただ自分の愚かさを理由に責めた。
リーダーの癖に……。
――具合悪いんでしょう?
そんな事にも気がつかなかったんだ。
79 :
:02/02/05 14:10 ID:ZmMsomjZ
保全とレスありがとうございます。
がんばります。
ちなみに
>>66-67 書いてました。ちょっとビビりました。
80 :
66:02/02/05 17:40 ID:ONB0fRPL
まだ読んでいない(もうちょっと進んでから読もうかなと)のに一目
見た瞬間にわかりました(w
これから安心して期待させていただきます。がんばってください。
.
82 :
!?:02/02/07 13:13 ID:LeiP05Hd
保全っす
83 :
:02/02/08 10:44 ID:6Zf9jSOP
h
84 :
:02/02/09 03:40 ID:O7KvOuGE
◆
収録はわたしの心配を余所に、定時で終わった。
その間、わたしは番組がうまく回る事だけを考えて、メンバーに気を使う事が
出来ない。少しでもおもしろい事を言わなければいけない、進行の邪魔をさせな
いようにメンバーをまとめなければいけない。その他の色んな思いは、多分毎回
一つも実行できずに、家に帰ってから反省する材料の一つに変わる。
収録が終わって楽屋に戻る途中の廊下で、圭ちゃんがゆっくりとわたしの横に
並ぶといった。
「限界だよ」
ドキリ、とわたしの胸が高鳴った。
「……何が?」
圭ちゃんは無言のままわたしたちの前を歩くメンバーに視線を向ける。わたし
も釣られるように顔を向けると、そこには加護の手を取って心配そうに眉を寄せ
ている辻の姿があった。
どうやら限界、と言うのは加護のことを言ったらしい。その言葉自体、わたし
にも当てはまるため、余計な焦りを感じてしまった。
圭ちゃんはため息をついて、後ろで歩いているマネージャーに一瞬だけ視線を
向けた。
85 :
:02/02/09 03:43 ID:O7KvOuGE
「加護……限界だよ」
圭ちゃんが何を言いたいのかわかった。
わたしたちにはこの後も仕事が残されていた。すでに限界に来ている加護をそ
こに連れて行くより、今日は帰らせて、明日からも続くハードスケジュールに備
えさせる方がいいのではないだろうかと、圭ちゃんは言いたかったようだ。
この先オフの予定はまだ出来ていない。その為できる限り加護を休ませるには
それしか方法が無かった。
加護に視線を向ける。番組中も辛そうな顔は何度か見ていたが、わたしはそれ
に構っていられる余裕は無かった。いつもの元気な声がスタジオに響くことなく、
確実に存在した違和感は、加護が体調が悪いという理由だけで生まれてしまう。
加護の手を取って歩いている辻が一瞬だけわたしたちの方に振り返った。その
視線は圭ちゃんに向けられたかと思うと、滑るようにわたしの元に移動した。
どうやら圭ちゃんの考えは、辻も同じらしい。多分、その提案は辻から出され
たものに違いない。それを圭ちゃんがわたしに伝えたんだ。
「カオリ……」
うん、とわたしは頷いて、後ろでスタッフの人と話しているマネージャーを見た。
「……わたしがやらなきゃね」
楽屋に戻って加護をすぐに椅子に座らせる。顔色は収録前以上に真っ青に変わ
っていて、いつもの綺麗な黒目が酷く淀んでいた。メンバーが心配して周りに集
まる中、辻は切望するような眼差しをわたしに向けていた。
86 :
:02/02/09 03:45 ID:O7KvOuGE
マネージャーが楽屋に戻ってきたのを見計らって、わたしはゆっくりと移動し
て話し掛けた。すぐ後ろでは痛いほどの視線を感じる。それはプレッシャーとな
って胃袋の上に圧し掛かってくるような気がした。
「加護の事で……」
そう言うとマネージャーはすぐに何を言いたいのかわかったらしく、わたしの
背中に手を当てて楽屋から廊下に連れ出した。
「加護……今日はもう帰らせてやれませんか?」
慌しく廊下を掛けていく人たちを横に、わたしとマネージャーは数歩ほどの間
を取った。それは返ってくる言葉を予想できての無意識の策だったような気がす
る。
マネージャーは首を横に振った。
無理だ、と言う一言。
わたしはその瞬間に辻の切望の眼差しを思い出した。
87 :
:02/02/09 03:48 ID:O7KvOuGE
「何とか……なりませんか?」
そう言葉に出したわたしでも、それが難しい事ぐらいわかっている。いくら人
数が多いとはいえ、メンバーの一人が欠けてしまうのはその現場で働いているス
タッフの人たちに失礼な事になるだろう。それにその仕事を何らかの形で届けて
いく人たちは、九人のわたしたちを望んでいる。
加護はその九人の中でも、特別な存在になりつつあるのかもしれない。元気の
いい加護の印象は、その場の空気さえも変える。それはさっきの収録でもはっき
りとした事実だ。一番多くユニットに在籍しているため知名度もあるようだ。
その加護が途中で抜けるのは好ましくない、そう言う考えはわたしでも理解す
ることが出来る。
でも一方では加護の体調を思いやるメンバーの頼みもわたしは叶えて上げたい
と思う。加護本人にも無理はさせたくなかった。それはリーダーと言う言葉の責
任感が奮い立たせる、わずかなプライドだったのかもしれない。
マネージャーは強調するように言った。
無理だ。
その言葉は強く、わたしの思いを断ち切らせるには充分だった。
多分何を言っても聞いてくれないだろう。それにわたしはこれ以上食いかかっ
ていく度量も持ち合わせてなかった。
きっと裕ちゃんならばうまくこの場をやり込めたのかもしれない。
マネージャーはただ首を下げるわたしをフォローするように言った。
次の仕事はそんなに長い時間拘束されるわけじゃない、加護にはただ笑っても
らえばいいだけだ、終わったら病院を手配しておくから……。
それは全て取ってつけたような言葉だった。
携帯が鳴ってわたしから離れていくマネージャーは、その事をメンバーに伝え
るように指示を出して廊下を歩いていった。
その小さくなっていく背中を、悪意を込めて睨んでいたが、すぐに自分に与え
られた使命を思い出して気が重くなった。
88 :
:02/02/09 03:50 ID:O7KvOuGE
ドアを開けて楽屋の中に入る。すぐにメンバーの視線が突き刺さるように飛ん
できた。
「いいださん」
辻の高い声に不安が混じっていた。それはまだ幼いせいか、露骨に姿を現して
ダメージを負わせる飛び道具のようだった。
「……ごめん」
わたしがそう言うとメンバーの間で落胆の色が流れる。すぐに表情を変えたの
は予想通り辻だった。
加護がうな垂れるように座っている椅子に恐る恐る近寄る。その周りにいたメ
ンバーが複雑な表情を浮かべて一歩二歩と後退った。
「加護――」
そう声を出した瞬間、すぐ横にいた辻がわたしの右腕を掴んだ。
「どうしてですか!」
その声は部屋の中を走り抜ける。
「いいださん! どうしてですか!」
今にも涙をこぼしそうな瞳がわたしに向けられた。
「あいぼんこんなに辛そう! それなのにどうしてですか!」
「辻……」
89 :
:02/02/09 03:53 ID:O7KvOuGE
わたしはその単純な辻の言葉に答えを出す事が出来なかった。確実に刃物で襲
ってくるその言葉にどう傷つかないか、それを画策している自分に気がついて嫌
悪した。
気がつくとメンバーも辻と同じような眼差しを向けている。それにどうする事
も出来ないわたしは、辻の握力に食い込む腕の圧迫を感じているだけだった。
「のの……大丈夫」
ゆっくりと背もたれから離れて辻の服の袖を掴んで加護は呟いた。
「そんなに大げさにしなくても、大丈夫だから……」
「あいぼん……」
加護がゆっくりと立ち上がる。青白い顔に心配させないようにと気を使って笑
顔を作る加護に、わたしは助けられた事に気がついた。
「大丈夫。これ位、大丈夫です」
それはわたしに向けられたのか、周りのメンバーに向けられたのか、空中を泳
ぐ視線で判断がつかなかった。ただその言葉で周りの空気が変わったのは確かで、
安心したような顔をしているメンバーを何人か確認できた。
「ごめん……加護……次の仕事、そんなに長くないらしいから」
わたしがそう言うと、加護は首を上げて微笑んだ。
「あいっ」
90 :
:02/02/09 03:56 ID:O7KvOuGE
◆
不安は現実になる。
わたしは何度そう思ったかわからないが、今回だけその言葉が間違いであって
ほしいと願った事はなかった。
しかしそれは遅かった。
次の仕事中、周りを見る余裕が無かったわたしは、辻の叫び声とも近い声で我
に返った。その頃にはすでにメンバーがハイエナのように加護の回りにたかって
いて、離れた場所からその光景を呆然となって見ていたわたし。
スタッフの人とマネージャーが血相を変えて走りよってくる。それはまるでス
ローモーションで、空回ったビデオの音声のように、周りの声が歪んでいた。
加護が倒れた。
そしてそのまま病院に運ばれた。
リーダーのくせに呆然とすることしか出来なかったわたしは、ただ周りを慌し
く動くスタッフの人と、背負われて運ばれていく加護の姿を見ていることしか出
来なかった。
辻は運ばれていく加護を追いかけようとして圭ちゃんに止められていた。
わたしは何のためにこの場所に立っているんだろう?
一瞬だけ紗耶香の顔が頭を過ぎった。
91 :
:02/02/09 03:58 ID:O7KvOuGE
◆
病院に駆けつけた時にはすでに他のメンバーの姿は無かった。
わたしは一人だけ、『新リーダーになって』と言うインタビューに答える仕事が
入っていたため、あれからすぐに駆けつけることが出来なかった。
外は夕焼けがさしていた。広いロビーを抜けると、エレベーターに乗り込んで
マネージャーから教えてもらった回数で降りる。一直線の廊下は、左手側の窓か
ら赤い光を辺りに撒き散らして、それは四角い形になって数歩の間をあけて床に
張り付いていた。
看護婦の人とすれ違う。サングラスを人差し指で持ち上げて、病室のドアの前
に張られているネームプレートを確認しながら歩いた。
七つほど病室を通り過ぎると、一番奥の部屋のドアがわたしを待ち構えていた
かのように開いて思わず足を止める。そこから二人の女の人が出てきて、何か言
葉を病室内に残していた。
「圭ちゃん」
わたしはそう呟いて小走りで駆け寄る。
圭ちゃんはドアを閉めると走り寄るわたしに気が付いて首を向けた。
「……加護は?」
サングラスを外す。圭ちゃんは眉間に皺を寄せて、何かを言おうとしていたが
それを理性で押えたようだ。
92 :
:02/02/09 04:01 ID:O7KvOuGE
「大丈夫……少し疲れているみたいなだけだから」
圭ちゃんの後ろには辻の姿があった。まるでわたしから隠れるように背中に回
って顔半分だけを覗かせている。
「辻……ごめんね」
「…………」
わたしがそう言うと、辻は何も応えないまま顔を下げた。その態度が小さく胸
に痛みを与える。
ため息をついて、病室のドアに視線を向けた。
「オフって言っても一日だけだったからね」
圭ちゃんが呟いた。
「子供だから、休むって事を知らなかったのね」
わたしは圭ちゃんの言葉に返事をしないままドアの前に立った。ノッポになっ
た影が白いドアに伸びる。
ノックをした。それと同時に後ろにいる圭ちゃんが、辻、と声を掛けて廊下を
歩き始める。部屋の中から弱々しい声が聞こえると、わたしはドアノブを回す手
を一瞬だけ躊躇った。
深呼吸をしてみる。しかし気が晴れる事は無かった。
ドアを開けると、青白い蛍光灯の下で、体を起こして雑誌を見ている加護の姿
があった。蒲団は下半身だけ隠していて、パジャマ姿の上半身が入院しているん
だという事を実感させる。
93 :
:02/02/09 04:03 ID:O7KvOuGE
「……お邪魔します」
何を言っていいのかわからなかったわたしは、不意に出てきた言葉に思わず苦
笑いした。加護はすぐに広げていた雑誌を閉じて、その視線を向けてくる。
「ごめん、すぐ来たかったんだけどね」
わたしはそう言ってベッドを回り込むように移動する。窓にはカーテンが一ミ
リの隙間も作らず締め切られていて、クリーム色の生地が薄っすらと夕日に染め
られていた。
わたしのすぐ横に椅子があった。しかしそれに座る事を躊躇ってしまう。多分
それは自分のせいで加護が倒れたという罪悪感のせいだったのだと思う。立って
いるという事で、少しでも罪を償いたかった。
加護はいつものように笑顔でわたしを見上げた。
「今日安静にしていればすぐ良くなるって言ってた、お医者さん」
「……明日から働かせちゃうけど、ごめんね」
加護は首を横に振る。
「働いている方が楽しいから」
わたしは加護と視線を合わせることが出来なかった。あの時、もう少しマネー
ジャーに食い下がっていれば、こうならなかったのではないかと、一人でインタ
ビューに答えているときも、ここに向かうタクシーの中でも考えていた。それに
加えて明日から加護は何事も無かったかのように仕事をさせるというマネージャ
ーの言葉さえも、わたしは否定する事が出来ない。
94 :
:02/02/09 04:06 ID:O7KvOuGE
「加護、あまり無理しちゃダメだよ……辛い時は辛いって言ってほしいの」
「あい」
「わたしたち九人もいるんだから、お互いに助け合う事が出来るんだよ」
「はい」
「疲れちゃったときはそう言えばいいし、辛い時もそう言えばいい」
「……飯田さん?」
「九人もいるんだもの……みんな良い子達なんだから……」
「…………」
わたしは顔を下げて加護に背を向けた。喉を突き上げる感覚に、その姿をこの
子の目の前で見せたくなかった。
何てわたしは情けないんだろう? 口から出てくることは自分の非を認めたも
のじゃなかった。それが一層と自己嫌悪の材料となる。
加護は黙ったままわたしに視線を向けていたようだ。
慌ててポケットからテッシュを取り出して鼻を噛んだ。それをくしゃくしゃに
握り締めてからゴミ箱に投げ捨てる。
――カオリは泣き虫だからね……心配だよ。
いつか紗耶香に言われた言葉を思い出した。
静まり返った病室の空気が酷く重い気がした。それは多分わたしがそうさせて
しまっているという事には気がついていたが、どうする事も出来なかった。加護
に背を向け続ける事に後ろめたさを感じる。わたしは加護に背中なんて向けては
いけないのではないかと、責める自分がいた。
95 :
:02/02/09 04:09 ID:O7KvOuGE
「……本当はわたしが気がついて上げなきゃいけなかったね」
「…………」
「辛いとか、そう言うことを口に出される前に、わたしが気がつかなきゃ」
「…………」
「……ごめん……加護……」
バサッと音がして、わたしは思わず振り返る。そこにはさっきまで体を起こし
ていた加護がベッドに横になっている姿があった。
加護は白い天井を見上げながら呟く。
「何で飯田さんが謝るのか、わたし、よくわかんない」
「加護……」
「だって悪いのは全部自分だから……タイチョー管理も出来なかったのは自分」
「…………」
「だから、謝られるのが良くわかんない」
「…………」
96 :
:02/02/09 04:11 ID:O7KvOuGE
それはわたしに気を使って言ってくれた言葉だったのだろうか? それとも加
護本心の言葉だったのだろうか? 結局それを理解することはわたしには出来な
かった。
加護がゆっくりと首を起こしてわたしを見た。
黒い瞳が爛々と輝く。辻のそれとはまったく別で、優しさを感じた。
「ごめんなさい、飯田さん」
「……加護」
「そして――」
加護の表情に、いつもの可愛らしい笑顔が生まれた。
「これからも宜しくお願いします、編集長」
わたしは涙を見せたくなくて、逃げ出すように病室を後にしていた。
97 :
:02/02/09 04:14 ID:O7KvOuGE
◆
病室を出てすぐにわたしは足を止める。
手を離したドアが自然に閉まって、バタン、と言う音が廊下に響き渡ると、わ
たしの目の前にいる辻は下げていた顔をゆっくりと上げた。
「辻……」
わたしを見る辻の顔は今まで見た事が無いほど強張っていた。無邪気で少し惚
けたいつもの表情じゃない。そこには確実に悪意が混じっていた。
辻、とエレベーター側から圭ちゃんの声がした。数十メートル離れた場所で、
彼女はわたしたちの雰囲気に気がついたのかもしれない、足を止めてただ立ち尽
くしていた。
窓から入り込む赤い陽射が、辻の日本人形のように黒々とした髪を染める。逆
光になって陰を作るその表情に、わたしは言い知れない不安を感じた。
「いいださんのせいです……」
呟いたその声に、酷く傷つけられる自分に気がついた。
思わず胃の上に手を当てる。締め付けるような痛みが体を走った。
「全部いいださんのせいです!」
辻の声が廊下に響き渡る。離れた場所から見ている圭ちゃんが完全に動きを止
めた。
98 :
:02/02/09 04:16 ID:O7KvOuGE
「辻……」
気がつくと辻の目には涙が溜まっていた。わたしはどうする事も出来なくて、
ただ小さい少女の前に立ち尽くしていることしか出来なかった。
「あの時あいぼんを帰らせてればこんな事にならなかったんです! あいぼんが
あんなに具合悪そうにしているの初めてだったんです! だからあの時帰らせて
ればあいぼんに辛い思いさせなくて良かったんです!」
一気にまくし立てる辻に、わたしは言葉を挟む事が出来ない。きっと辻が言っ
ている事はあっているのだと思う。あの時、もっとわたしが加護の事に気がつい
て、マネージャーに食い下がっていればこんな事にならなくて済んだのかもしれ
ない。
何事かと数人の看護婦がわたしたちを見ているのに気がついた。圭ちゃんはす
ぐに我に帰ってわたしたちの元に小走りで駆け寄ってくる。
「辻」
辻の元に駆け寄ると、両肩に手を伸ばすが乱暴に払いのけられる。
悔しそうに下唇を噛みながら、眼から溢れる涙を拭こうとしない辻に、昔のよ
うに頭を撫でてあげる事が出来なくなっていることに気がついた。
辻が踵を返してエレベーターへと歩いていく。すぐに後を追おうとする圭ちゃ
んは二三歩足を動かして止めた。
99 :
:02/02/09 04:19 ID:O7KvOuGE
「カオリ……」
わたしは黙って圭ちゃんの言葉を待つ。
圭ちゃんはわたしに背を向けたまま言った。
「カオリの立場もわかるよ。辛い立場だって言う事……」
「…………」
「でも、今のカオリをリーダーとして見れないのも事実だよ」
「…………」
「あたしたちはカオリに頼らなきゃいけないんだから……」
うん、とわたしは呟いて顔を下げた。圭ちゃんはわずかだが肩を落としたよう
だ。すぐにため息が聞こえてきた。
「少し混乱してるのかもしれないね、辻は」
「…………」
「一番加護を心配してたのはあの子だから……」
小さくなっていく辻の背中をわたしは見る。
マネージャーに掛け合う時の切望の眼差し。
100 :
:02/02/09 04:20 ID:O7KvOuGE
「辻は……優しい子なんだ」
わたしは呟いた。
「他人をここまで心配できる、優しい子なんだ……」
「……カオリ」
「……ごめん……辻、送っていってくれるかな?」
圭ちゃんはしばらく無言のままだったが、そのまま辻の後を追いかけた。エレ
ベーターの前で待っているその小さな肩に優しく腕を回す圭ちゃんに、辻は耐え
切れなくなったかのように顔を埋めていた。
わたしはそんな小さな二人の姿を見ながら、サングラスを掛ける。
早く紗耶香に会いたいと思った。
いいらさん辛いYO!
大量更新ありがとう(●´ー`●)
102 :
:02/02/10 15:57 ID:mLZfQglK
今、これが一番楽しみ
104 :
:02/02/12 13:17 ID:NoxOpIPl
ほぜむ
保全
保全
続きまてーるYO!!
108 :
:02/02/15 22:42 ID:4MFVLARi
◆
紗耶香は何も変わっていなかった。
もちろん数時間前と今で、劇的に何かが変わると言うのは考えられないが、今
朝の会話の短さから、わたしはまだ、昨夜の出来事以降の彼女を確かめる事が出
来ていなかった。
蛍光灯が頭の上で光を照らす。テーブルにはカップに入ったミルクティーが二
つ。テレビの正面に位置するソファに腰を下ろすわたしの斜め前に足を崩してい
る紗耶香がいた。その視線はバラエティー番組に注がれていて、切り替わってい
くテレビの残光が紗耶香の顔の色を次々と染め替えていた。
仕事から帰ってきたわたしを、紗耶香は昨日と変わらない笑顔で迎えてくれた。
その時までまだ残っていた気まずさのせいか、眼を合わせることが出来なかった
わたしは、多分第三者から見ても不自然だっただろう。しかし彼女はそんな事を
気に止める事は無く、作りかけの料理の手伝いをしろ、と命令口調で言ってわた
しの腕を引いてキッチンに拉致した。
炊飯器からもくもくと水蒸気が上がっている事に気に取られていたが、紗耶香
のフライパン片手に動く姿にすぐに視線を向けた。時々指示を与えられることを
わたしはやっただけで、数分もしないうちに料理は完成した。
109 :
:02/02/15 22:45 ID:4MFVLARi
どう? おいしそうでしょ?
生姜焼きだった。
その料理に箸をつけながら、わたしは考えを巡らせた。
昨夜の出来事について、紗耶香と話した方がいいのではないだろうかと、そん
な考えが生まれる。ちゃんと話して、お互いにすっきりとした方がこれからの付
き合いに向けて都合がいいのではないだろうかと、そう思っていた。しかし実際、
白いご飯に箸をつけながら、口に運んでいくと言う動作以外、わたしのその口は
動いてくれなかった。紗耶香は何事も無かったかのように、テレビに視線を向け
ていて、時々話すその感想にわたしは相槌を打つだけだった。
紗耶香は何を考えているんだろう?
何度もそう思った。
もしかしたら紗耶香にとって昨夜の出来事は大して重大な事ではなかったので
はないだろうか? お互いに特別な感情を持って持っていないことは口に出さな
くてもわかる。あの時、わたしたちは弱い部分をさらけ出しただけ。それはもっ
と早い段階で、友達同士なら出来たことを、わたしたちは体を重ねると言う行為
でしてしまっただけ。
川原行って来たよ。
夕食を食べ終わって、キッチンで二人体を隣にして食器を洗っている時、紗耶
香は突然そんな事を言った。
わたしはお椀に布巾を掛けながら紗耶香を見る。
水道からは水が勢い良く流れていて、スポンジを持っている紗耶香の手元には
真っ白な泡が立っていた。
110 :
:02/02/15 22:48 ID:4MFVLARi
川原? 昨日の?
わたしがそう聞くと、紗耶香は白い泡を流しながら頷いた。
どうして? と渡された皿を拭きながら聞く。
ほら、引き篭もってばかりだと体に悪いじゃん。
だから川原に?
カオリが何を書いてるのか知りたかったんだ。
……見ればいいじゃん、スケッチブック。
何気なく言ったその言葉に、紗耶香は突然水道の蛇口を止めた。少し厳しそう
な視線で見上げるその表情に、いつの間にか今日の辻を重ねていた。
――全部いいださんのせいです!
思わず持っていた皿を落としそうになってわたしは戸惑う。
カオリがいったんじゃん。
紗耶香の口調に不満の色が混じる。何に対して不満なのか理解できない。わた
しは訳のわからない焦りを感じた。
書きかけのものは人には見せたくないんでしょう?
あ、うん、と頷くと紗耶香は数秒の間を空けてまた蛇口を捻った。再び水がス
テンレスに叩きつけられる音を聞きながら、わたしは少しの間だけ立ち尽くす。
111 :
:02/02/15 22:51 ID:4MFVLARi
カオリが思っているより――。
紗耶香は再び食器に泡を乗せて言った。その視線はすぐ横のわたしに向けられ
る事は無く、段々と真っ白になっていく食器に注がれている。
カオリが思っているより、あたしはカオリの絵が好きなんだよ。
その口調はどこか落ち着いていて、さっきまで沸き起こっていた焦りが流れて
いく泡のように消えていくのを感じる。
だから、完成するまでみたくないんだ。
重力から垂れ下がる髪を耳の後ろに引っ掛けながら紗耶香は言った。
カオリも……その絵も……あたしは大好きだからさ。
ありがとう、紗耶香。
その言葉は口に出さなかった。
わたしの胸の奥で消える、紗耶香への言葉。
でも多分、それは口に出さなくても紗耶香はわかってくれたような気がする。
まるでわたしの心の中に入り込んで来るその笑顔は、きっと考えていることもそ
の時に一緒に取り出していってしまう。
だから、わたしも紗耶香のことが大好きなのだと思う。
112 :
:02/02/15 22:53 ID:4MFVLARi
「何かあった?」
紗耶香は突然言った。
わたしはすぐに我に返って、持っていたカップをテーブルの上に置く。どうし
て? と聞くと彼女はわたしのお腹に指をさした。
どうやら無意識のうちにわたしは胃を擦っていたらしい。すでに癖とも言える
ようになったその行為に、大して意味が無い事を伝えようとしたが、彼女はすぐ
に立ち上がると、テレビの横にある棚から緑色の小さな袋を取り出した。
「どうして知ってるの?」
それは胃薬だった。
キッチンに消えて、コップに水を汲んできた紗耶香はそれをテーブルの上に置
きながら言った。
「同居、四日目」
「……そっか」
わたしは水を口の中に含んで、緑色の袋を開けた。その間紗耶香はずっとその
行為を、テーブルに肘をついて手の甲に顎を乗せながら視線を向けていた。
薬を飲み終わったわたしは、舌の奥に残る苦味に顔を歪める。空になった袋を
紗耶香はバスケットのシュートのようにゴミ箱に投げた。
「大変だね……リーダーも」
再びテレビに視線を向けながら紗耶香は言った。
わたしはコップに残っている水を一気に飲み干しながら、うん、とだけ頷く。
「……何かあった?」
「……どうして?」
「何となく」
113 :
:02/02/15 22:57 ID:4MFVLARi
どうしようかと思った。
紗耶香に今日あった事を言おうかと、わたしの頭の中でぐるぐるとその考えが
回る。でもそれを口に出すことを躊躇ってしまうのは、弱い自分をさらけ出すと
言う考えが抜けなかったせいだと思う。
わたしは強くならなくてはいけなかった。でも実際はそうなれなくて、どんど
ん弱い部分をさらけ出してしまっている。これ以上、誰にもそんな姿を見せたく
ないと言う、羞恥心があった。
「辛い事があったら眼を瞑っちゃえばいいんだよ」
「…………」
「そうすれば何も見えない。真っ暗な闇が包んでくれるよ」
コップをテーブルに置く。それを通してみるテレビは細長く歪んでいた。
紗耶香の横顔に視線を移して言葉の真意を探ろうとしたが、無理だった。その
言葉自体、多分わたしに言われたわけではない。わたしを通して、彼女自身に言
い聞かされているように感じた。
わたしはカップの中で小さな波を立てる茶色い液体に視線を落とす。時折蛍光
灯に反射して、白い光が歪んだ円となって現れていた。
114 :
:02/02/15 23:00 ID:4MFVLARi
「いつもの事なんだけどね……」
「…………」
「また失敗しちゃった……」
「…………」
「みんなに迷惑掛けちゃった……わたしのせいで」
そう、と紗耶香はつぶやいて両腕を床に突き立てて背中を反る。その顔は天井
に向けられて、白くて細い首がまるで有名作家の彫刻のように弧を描いて伸びて
いた。
「……慰めてくれないの?」
わたしが呟くと、紗耶香は困ったように苦笑いをする。相変わらずその視線は
天井に向けられたまま、その体勢を変えようとはしなかった。
「ごめん、あたしには無理だよ」
「…………」
「あたしはもう関係ない人間だからさ……」
「…………」
「……だから無理だよ」
115 :
:02/02/15 23:03 ID:4MFVLARi
正直者だね、と呟いたわたしの言葉は多分紗耶香に届く前に、テレビの雑音に
かき消されてしまっただろう。彼女は何事も無かったかのように、一度床の上に
倒れると、数秒もしないうちに起き上がってカップのミルクティーに口をつけた。
「昔ね、犬を飼っていたことがあったんだ」
「……犬?」
「そう……でもぼろぼろになった子犬じゃないよ」
わたしは黙ったまま紗耶香を見つめる。彼女はわたしと視線を合わせてはくれ
なかった。
「その犬はね、結構やかましい声で鳴くんだ。キャンキャンってさ――でも凄い
可愛い奴で、尻尾を振って寄ってくる時はソイツ以上にあたしの方が嬉しくなっ
て……元々引き篭もってるほうが好きだったから、家の中じゃソイツと二人っき
りって時が多かったよ……」
「…………」
「綺麗な眼をしているんだ。キラキラ輝いていて、あたしのこと完全に信用して
いる。絶対裏切らないって思ってる――そんな純粋な眼をしていたんだ」
わたしはまたあのCMを思い出した。確かあの中の子犬も綺麗な瞳をしていた。
それは多分、あんなにボロボロになっても、誰かを信用している――信じている
と言う純粋なものだったのかもしれない。
116 :
:02/02/15 23:05 ID:4MFVLARi
「カオリの絵も、そんな感じがするの……純粋な絵……そんな感じがする」
「……紗耶香」
「だからね、あたしはカオリの絵が好きなんだよ。それを書くカオリのことも好
きだよ」
ああ、と思った。
わたしは今、紗耶香に慰められているんだ。
その事が嬉しくて、わたしは顔を下げると誰に向けるでもなく微笑した。
「……ありがとう」
わたしは言った。
「ありがとう。紗耶香」
今度はきっと彼女に届いたはずだ。
わたしの言葉が、ちゃんと彼女に届いたはずだ。
117 :
:02/02/15 23:08 ID:4MFVLARi
◆
蒲団の中が温まり始めていた頃、わたしはベッドの下で眠っている紗耶香の寝
返りを打つ音に思わず体を強張らせた。
ゆっくりと頭だけを起こして様子を伺う。紗耶香はわたしに背を向けるように
横になっていた。掛け布団が肩まできちんと掛けられている。湿気を持っている
その髪が枕を少しだけ湿らせているようだ。
苦笑いする。
わたしは何に怯えているのだろう?
横で静かに寝息を立てている大事な存在に怯えていると言う事実を認めたくな
かった。もしかしたら目を閉じた瞬間に紗耶香が襲ってくるのではないだろうか
と言う、身勝手な想像が頭に浮かんでくる。彼女がそんな事するはずが無いと言
う事も、わたしにそれだけの魅力があるかと言う疑問なんて、その想像には関係
なかった。
わたしは確実に昨日の出来事に囚われているようだ。
元々あの時だってお互いの合意があったのは事実だ。それは確かにわかってい
るはずなのに、暗闇の中で確実に息を潜めている不安は、胸の奥にあるその存在
とシンクロする。それが嫌だった。
118 :
:02/02/15 23:11 ID:4MFVLARi
「……カオリ」
闇の中から聞こえる声に、わたしは思わず息を止めた。それは行き過ぎた想像
からの幻聴だろうかと、一瞬だけ頭を掠めた。
「……カオリ」
しかしそれは確実に紗耶香の声だった。
わたしは天井を見ながら呟く。
「……何?」
数秒、多分、それくらいの間が空いた。でもわたしには酷く長く感じられてそ
の間、伸ばした両足が強張っていた。
「……恐い?」
囁くような小さな声。そんなに離れているわけではないのに、あまりにも小さ
すぎるその声は、わたしの耳に入ってくるのがやっとだった。
「……紗耶香」
「……恐いかな? あたし」
どうやら紗耶香はわたしの気持ちを見透かしていたようだ。それに気がつくと、
急に恐怖心など消えていって、その代わりに穴を埋めるように沸き起こってきた
のは羞恥心だった。
ああ、わたしは何てことを考えていたのだろう?
そう考えると、自分が恥ずかしくて溜まらなかった。
自分自身を誤魔化すように苦笑いをすると、わたしは額に右腕を乗せた。
119 :
:02/02/15 23:15 ID:4MFVLARi
「恐くないよ」
「…………」
蒲団の中に体が沈んでいく感覚がした。訳のわからない緊張から開放されて、
わたしの体が休む事を要求しているのだと思った。
「恐くない……独りじゃないから」
「…………」
「――だから恐くない」
クスッと紗耶香が笑う声がした。わたしもそれに釣られて少しだけ笑った。
時計の秒針だけが静かに音を立てて、流れる空気さえも穏やかだった。
笑い終わった後、たっぷりと十秒は間を取って紗耶香は言った。
「おやすみ、カオリ」
わたしも呟く。
「おやすみ、紗耶香」
120 :
:02/02/15 23:17 ID:4MFVLARi
目を閉じて、再び暗闇に意識を溶け込ませる。ぼんやりと瞼の裏に焼きついた
光がその闇の中で点滅している。それはまるで催眠術をかけられているかのよう
に、頭の働きを停止させていった。
――ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
なぜかその時わたしは後藤の言葉が頭を過ぎった。
楽屋に入った時、聞こえてきた後藤の言葉。
後藤はあの時何ていっていたんだっけ?
そう考えて、わたしは思い出す。
――井ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
テープを巻き戻すかのように、その声ははっきりとしてきた。
――市井ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
そうだ、確か後藤はそんな事を言ったんだ。
でも、とわたしは思った。
紗耶香の携帯の番号は変わってはいなかった。
121 :
:02/02/15 23:23 ID:4MFVLARi
保全ありがとうございます。
遅い更新ですが、またーり待ってくれるとありがたいです。
地味な話ですけど、付き合ってやってください。
更新ありがとう。
地味だけど、雰囲気とか大好き!
やたー更新されてる!!
自分もこの小説すっげー好き
ホゼーン
125 :
。。。:02/02/18 11:33 ID:GjZNGZiC
hozen
126 :
:02/02/20 04:34 ID:FujIsU54
◆
その日はCM撮影だった。
早い時間に起きて、紗耶香が眠っている間に家を出る。心持ち体が重いように
感じたのは、ここ何日か抱えている問題のせいだろうと思い、あまり深くは考え
ないようにした。
それでもタクシーに乗って、流れる街の風景を見ていると、まるでわたしの気
持ちはそこに辿り着くのが必然だったように、昨日の出来事に憂鬱になった。
都内から少し外れたスタジオに着いて、タクシーを降りるとマネージャーが入
り口でわたしを向かえた。頭を下げて挨拶をすると、長い廊下を歩いて楽屋まで
案内される。
その長い廊下で、わたしは加護がすでに来ている事、体調も回復している事を
聞かされて胸を撫で下ろした。
楽屋の中に入ると、いつものメンバーの騒ぎ声が無言のわたしを向かえた。広
いその空間には、中央に長方形型の机が合わせるように二つ並んでいて、その上
にはペットボトルのジュースやお菓子、それぞれの持ち物なのであろうMDのケ
ーブルがタコの足のように絡まりながら乱雑に散らばっていた。
127 :
:02/02/20 04:36 ID:FujIsU54
パイプ椅子が九人分用意されていたが、そこに座っているのはなっちと矢口に
圭ちゃんだけだ。他のメンバーは各々で立ちながら話をしていた。
矢口となっちが二人で雑誌を広げながら話をしているのを横目に、わたしはそ
の向かい側に位置する椅子に座っている圭ちゃんの横に移動した。圭ちゃんは携
帯を弄っていて、わたしの存在に気がつくと目線だけを上げて挨拶した。
「おはよ」
わたしはそう言って、自分の荷物を机の上に置く。
入り口から右手側に大きな窓があって、そこには当り前のようにカーテンが締
め切られている。そのカーテンをひらひらと弄りながらお互いに笑いあっている
辻と加護の姿を見つけると、わたしは小さく深呼吸した。
圭ちゃんはその様子に気がついていたようだが、無言のまま携帯の通話ボタン
を押してメールを送信した。
ゆっくりとその笑顔の二人に歩み寄る。周りのざわめきは変わらずに、高い声
を上げて笑う矢口の声が耳に入ってきた。
「加護……」
わたしが近寄って話し掛けると、二人の動きはピタリと止まった。それはまる
でビデオを一時停止にしたように、その場所だけ時間が止まったかと錯覚させる
ほど、二人は微動だにしなかった。
すぐに加護が昨日の病室にいた時と同じように笑顔を作った。わたしはそれに
心の底から安心した事に気がついた。
128 :
:02/02/20 04:39 ID:FujIsU54
「もう大丈夫なの?」
「はい。寝たらよくなりました」
そっか、とわたしは呟いてからその視線は隣にいる辻に移った。辻は少し不機
嫌な顔をしながらわたしと顔を合わせようとしない。その手は加護の袖を不安に
襲われる子供のように掴んでいて、決して離そうとはしなかった。
「具合が悪くなったら言うんだよ。無理しちゃダメだからね」
はい、と加護は頷くと、少しの間を開けて言った。
「飯田さんも……大丈夫ですか?」
「何が?」
「顔色、凄く悪い――うわっ!」
加護が全てを言い切る前に、すぐ横にいた辻が握っていた袖を強引に引っ張っ
た。その勢いに流されるように、横に体を取られた加護は転ばないようにと一歩
二歩と足を弾ませた。
「あいぼんあっち行こう」
辻がわたしと視線を合わせないまま言った。
「あっちにお菓子があるから」
「でも――ちょっと、のの?」
突然の辻の行動に加護は戸惑いを隠せない様子だったが、引っ張るその力には
勝てなかったようだ。強引とも言えるように加護を連れてわたしから離れていく
辻に、何も言えないまま視線を移す。
辻は不機嫌に頬を膨らませて、テーブルの元に移動した。加護は戸惑いながら
もそれについて行く。
129 :
:02/02/20 04:41 ID:FujIsU54
どうやらわたしは辻に嫌われたらしい。自嘲気味に笑うと、自分が情けなく思
えた。あんなに懐いてくれた辻がわたしを嫌うほど、リーダーとして何も出来て
いなかった事を実感する。それは多分、昨日の出来事だけではない。あれはきっ
かけに過ぎなかったのだろう。
もっと前から、その亀裂は確実に広がっていたんだ。一人で焦っている中で、
わたしの気持ちは全て空回り。それは確実にメンバーに負担を与えていたのかも
しれない。
辻が悪いわけじゃない。
あの子がどんなに良い子かって言う事を、わたしは良く知っているから。
だから、辻が悪いわけじゃない。
わたしはそう思いながら、こぼれてくる光に気がついた。その光源をたどると、
さっきまで二人が遊んでいたカーテンが隙間を作っていた。それに手を掛けて、
光を締め切る。
――目の前で……震える子犬を見てるよ。
子供の時に見たCMの子犬。わたしはいつの間にかそれになっていたようだ。
助けてあげたいという立場から、あげたいと思われる立場へ。紗耶香とわたしは
お互いにそう言う気持ちで接して、だから心を触れ合う事が出来ない。
光は確実にカーテンに遮断された。
130 :
:02/02/20 04:45 ID:FujIsU54
それからわたしはマネージャーとスタッフの人たちに撮影のスケジュールを言
われて、それをメンバーに話す。メイクと衣装に身を包むと、順番が来るのを待
つだけとなった。
これから歌の収録が始まるのではないだろうかと思わせるような派手な衣装に
身を包んだメンバーたちが、楽屋の空間を忙しなく動き回っている。わたしはパ
イプ椅子に座って、入り口から一番突き当たりに位置する机の端に腰を下ろして
いた。メンバー全てを見回せる位置に一人になる。今朝から感じていた体の重さ
が時間に立つにつれて、徐々に酷くなり始めているのに気がついた。
わたしは紙コップに注がれているスポーツドリンクを一口飲むと、衣装が皺に
ならないように気を使いながら、机に突っ伏すように体を倒す。心持ち楽になっ
たような気がした。
「カオリ」
低めの声が聞こえた。
顔を上げると後藤がわたしを覗き込むように顔を下げていた。
後藤から話し掛けられたことに驚きを感じながらも、わたしは冷静を装いなが
ら何? と聞いた。
吉澤と石川が撮影に向かっているため、話す相手がいなくなっていたのかもし
れない。後藤は揃った前髪を手で直しながら言った。
「具合悪い?」
「大丈夫だよ」
「顔色悪いよ」
「……ありがとう」
テーブルの周りを走るように辻と加護が動いていた。片手にお菓子を持って、
どうやらそれを奪い合っているらしい。衣装が汚れないかとわたしは気が気では
なかったが、注意する事を躊躇っていた。それは確実に予想される辻の対応に怯
えていたのかもしれない。
131 :
:02/02/20 04:47 ID:FujIsU54
「どうした? 後藤」
わたしは二人から気をそらしながら聞いた。後藤は少しだけ迷った顔をすると、
あのね、と前置きしてから言った。
「あのね――圭ちゃんから聞いたんだけど――」
その時楽屋のドアが開いて、撮影を終わらせた吉澤と石川が戻ってきた。
「市井ちゃんが――」
後藤さん次お願いします、と言うスタッフの人の声に後藤は言葉を切った。す
ぐにはい、と挨拶をすると、わたしの顔をしばらく見てから言った。
「いいや、後で」
「あ、うん」
後藤はそう言うと、撮影を終わらせた吉澤とすれ違いざまに一言二言交わして
楽屋から出て行った。
依然として辻と加護は周りを走り回っている。矢口がうるさい、と声をあげて
も二人は止まる事は無かった。その光景を黙ってみていたわたしは、言い知れな
いプレッシャーを感じる。
こう言う場合、わたしが二人を止めなくてはいけないのではないだろうか?
それはリーダーとして当然のことではないだろうか?
そう考えると、もしかしたら他のメンバーはわたしがいつそうしてくれるのか
と待っているのではないかと思い始めた。口に出さないが、わたしが行動を起こ
すのを待っている。
そう思えて、それは確実にプレッシャーに形を変えて背中に圧し掛かってきた。
しかしわたしは体を起こす事が出来なかった。
人を叱る事で、傷つく相手の顔なんて見たくないと思った。
132 :
:02/02/20 04:49 ID:FujIsU54
「こらっ」
その時圭ちゃんの声がした。わたしは思わす顔を上げると、パイプ椅子に座っ
ている圭ちゃんが、辻の腕を握っている光景が見えた。
「あまり動き回るなっ。衣装が汚れるでしょう」
睨みを利かせた圭ちゃんの顔に、辻だけではなくわたしでさえゾッとする。そ
れはわざとらしく演出している事だというのは知っていたが、こう言う場合には
どこか生々しくも感じた。
辻と加護はそれで完全に動きを止めた。
二人とも顔を見合わせると、まるで始めから打ち合わせをしていたのではない
だろうかと思わせるほどのタイミングの良さで、同時に謝った。
「……ごめんなさい」
たくっと圭ちゃんが腕を放すと、辻はちょこちょこと加護の側によって、照れ
たように苦笑いをしていた。
「さすがだねぇ、圭ちゃん」
向かい側でなっちと雑誌を見ていた矢口が声を掛けた。
矢口は本当に感心しているような表情で、辻と加護に一度視線を向けると言っ
た。
「裕ちゃんみたい」
それは何気なく矢口の口から漏れた言葉。
133 :
:02/02/20 04:51 ID:FujIsU54
「なんかリーダーみたいだったよ」
数秒、楽屋の空気が止まったような気がした。すぐに矢口が自分の言った言葉
を思い出して、しまったと言う表情を浮かべてわたしを見た。
その一瞬の空気と矢口の表情は、直接的にはショックは無かった。ただ、それ
によって露呈された事実はわたしを追い込むのに充分だった。
「あ、カオ……違くて……」
矢口が必死に言葉を探している。わたしはその姿を見て気がついた。
ああ、気を使わせているんだ。
わたし、みんなから気を使われている。
134 :
:02/02/20 04:53 ID:FujIsU54
それは確実にリーダーとして役不足だという事を表しているようだった。その
事実を、メンバーもわたしも感じているから、タブーと化している。そうなって
しまっている事が、酷く情けなく、居場所を追い払われたように不安を感じた。
気がつくと周りのメンバーが黙り込んでいた。あれだけ騒がしかった楽屋が嘘
のように、張り詰めた空気が漂い始める。
自分がそうさせているんだ。
そう思うとわたしは笑顔を作る事しか出来なかった。
自分は大丈夫だと言う、虚勢を張ることしか出来ない。
「わたしも圭ちゃんの事頼りにしてるよ」
喉から搾り出したその言葉。
少しでも、雰囲気を変えることが出来たのなら、わたしはいくらでも嘘をつく
事を躊躇わなかっただろう。
わたしにはそれしか出来ないのだと、知ってしまったから。
135 :
:02/02/20 05:02 ID:FujIsU54
更新お疲れでっす
ただ
>>134は役不足ではなく力不足が正しいと思いまっす
細かいつっこみで申し訳ないっす
わたしには保全しか出来ないのだと、知ってしまったから。
わたしはいくらでも保全をする事を躊躇わなかっただろう。
139 :
:02/02/23 14:00 ID:0oSQNdqT
だれかさん。。。?
市井ちゃん。どうしたんだろう…?
ついでに保全
141 :
:02/02/26 05:44 ID:zP4Cvg5w
◆
撮影中もわたしの体調は悪化しているようだった。
ただそれでも周りに迷惑を掛けたくなくて、平然とした顔をしているつもりで
も、メンバーはわたしを見ては大丈夫? と聞いてきた。
昨日、加護が倒れたばかりだ。今度はわたしがそうなってしまう事を恐れてい
るようだった。もちろんわたしもそこまで無理しようとは思わない。ただでさえ
みんなに気を使われているのだ、これ以上迷惑は掛けたくなかった。
撮影中、わたしは何度も辻に話し掛けようと試みていた。いつの間にか出来て
いる溝を早く埋めたかった。しかしそれは一つも叶うことなく、その冷たい態度
は確実にその溝を広げる結果となる。
明日予定されているレコーディングの話。
そこで一緒のグループになる事。
どうやらお祭りみたいな曲らしい事。
精一杯頭の中で作る話題も、辻は頷く事もせず、露骨にわたしを無視して通り
過ぎていってしまう。それを見ていたメンバーは気を使って声を掛けようとして
いるのだが、わたし自身それが望んでいない事を雰囲気で感じ取っているらしく、
曖昧な表情を向けてくるだけだった。
142 :
:02/02/26 05:46 ID:zP4Cvg5w
撮影の合間や本番中、少し羽目を外してしまう辻と加護。いつもなら裕ちゃん
がやっていた仕事を、わたしが引き継がなくてはいけない事はわかっていた。義
務感とも似た感情で、弱った心を奮い立たせて二人に話し掛けてみる。しかし、
その場では静かになるも、数分もしないうちにまた慌しくなる。それはわたしの
態度に問題があったことは確かだった。
自信も打ち砕かれて、確実に臆病になっていたわたしは、年下の女の子に話し
掛けることさえも怯えていた。それが幼い二人にも感じたらしく、反省する事は
無かった。
しかし逆に圭ちゃんの言う事は聞いた。
特に反抗的だった辻は、わたしのいう事などほとんど聞く耳も持たなかったが、
圭ちゃんの場合は正反対で、急に潮らしくなって謝る。わたしはその光景を離れ
た場所から見ていて、嫉妬とも似た感情を抱いている事に気がついた。
――なんかリーダーみたいだったよ。
何も出来ないわたしより、リーダーらしい振る舞いをしている圭ちゃんが妬ま
しく思える。そんな自分に気がつくと、自己嫌悪した。
全ての仕事が終わったのは日が沈んだ頃だった。
楽屋に集められてマネージャーからカセットテープがそれぞれのメンバーに配
られた。どうやら予定されているレコーディングの曲らしい。今日充分に聞いて、
早く曲を覚えるようにと言われた。
きゃっきゃっとみんながテープ片手にはしゃぎ回る。三曲別々のものを渡され
て、それをお互いに聞きたがっている様子だった。
仕事が終わったためスタジオに車を用意する間、わずかな時間が与えられた。
すぐにみんなはテープをラジカセに入れて、楽屋に軽快な音が鳴り響く。わたし
はなぜかその空間にいる事が苦痛になり始めていて、胃に手を当てながらドアノ
ブを握った。
143 :
:02/02/26 05:49 ID:zP4Cvg5w
「カオリ、大丈夫?」
気配を消しているつもりだったため、急に掛けられた声に驚く。振り返ると圭
ちゃんが心配そうな顔で見ていた。
なぜか胸の奥に沸き起こる感情があった。それは嫌悪感とも近いかもしれない。
確実に胸の中に生まれ始めた嫉妬は、圭ちゃんを拒もうとしていたようだ。
わたしは曖昧に頷くと、言葉を交わさないまま楽屋から出た。長い廊下が左右
に広がって、蛍光灯の光が青白い空間を演出している。そっと胃の上の手を離す
と、後悔がわたしを襲った。
圭ちゃんは何も悪いことしていないのに、一方的な嫌悪感を抱いた。その事実
が自分を追い詰める。
わたしは溜まらず廊下を入り口とは反対側に歩いて、突き当たりの階段前にあ
るロビーで体を休める事にした。そこには誰の姿も無く、茶色いソファが病院の
ロビーのようにテレビを向かいにして並んでいた。窓はすでにカーテンで締め切
られていて、その横にある自販機でジュースを買う。適当にソファに腰を下ろす
と、わたしは安心したように息を吐いた。
テレビもついていないせいか、ロビーはしんと静まり返っている。プルトップ
を引くと、冷たい液体を胃袋に流し込むように飲んだ。
頭にキンッとした痺れが伝わる。その瞬間だけ疲れが消えていくようだったが、
それは一口目だけで、すぐに冷たさに慣れた。
左手に持っているデモテープを蛍光灯にかざす。透明のプラスチックのケース
がそれに反射して、眼の奥に残像を作る。ゆっくりと背もたれに寄りかかってか
ら、静まり返る空間の中で瞳を閉じた。
144 :
:02/02/26 05:52 ID:zP4Cvg5w
わたしは本当に必要な人間なのだろうか?
裕ちゃんの後を継ぐような人間なのだろうか?
裕ちゃんがどれだけ苦労していたか、わたしはわかっていたつもりだった。い
つもリーダーは大変やで、と言う言葉を聞いて、心から同情していたが、もしか
したらそれを海の向こうで起こった戦争のように思っていたのかもしれない。
何一つ、理解していなかったんだ。
「あ、いた」
足音が徐々に近づいてきて、それはわたしの近くで止まったかと思うと、そん
な声が聞こえた。眼を開けると後藤の姿があった。
「どうしたの?」
わたしは手に持っていたジュースを飲むと、腰を浮かせて中央にあるテーブル
の上に置いた。後藤はそれを視線で追いながら、わたしの隣に腰を掛けた。
しばらくの間後藤の顔を見て言葉を待つ。彼女はえへへ、と照れたように笑う
と乱れてもいない髪を手グシで溶かした。
そういえば何か話があったんだっけ、とわたしは思い出す。無理やり聞き出す
事に躊躇があったため、後藤が口を開くのを待つことにした。
145 :
:02/02/26 05:54 ID:zP4Cvg5w
「デモ貰って明日レコーディングって大変だよね」
後藤は左手に持っているわたしのデモテープに視線を落としていった。
「でもそれはいつもの事じゃん。七人祭りだっけ?」
「やぐっつぁんと一緒だよ」
「みっちゃんも居るんだよね。賑やかになりそうだね」
「でも十人の多さの方が凄いよ」
そうだね、とわたしが言うと、後藤は低い声で笑った。
すぐに微妙な間が開いて、わたしは言葉を頭の中で捜す。ソロで大変だったこ
とやドラマのことを話題にするのを、わずかなプライドが邪魔して話そうとは思
わなかった。
「市井ちゃん……」
ぽつりと後藤が呟いた。
わたしはその名前に過剰なほど反応しているのに気がついた。
「市井ちゃんが、カオリのとこに泊まってるって」
後藤はどこか弱々しく呟く。わたしは冷静を装いながら言った。
「言ったっけ?」
「圭ちゃんがメールしたって」
「ああ」
今日楽屋に入った時の事を思い出した。確か圭ちゃんは携帯を弄っていたはず
だ。あれは多分、紗耶香に向けられていたものだったのだろう。
146 :
:02/02/26 05:56 ID:zP4Cvg5w
「うん」
と呟いた瞬間に、わたしは後藤の次の言葉を予想していた。
「じゃあ今日さ――」
そこまで後藤の口が動いた時、頭に過ぎる言葉。
――市井ちゃんの番号変わったのかな? 圭ちゃんわかる?
「――カオリのとこ行っていい?」
紗耶香……。
わたしは紗耶香がしている事に気がついた。
番号が変わっていないのに、後藤の携帯からは繋がらない。
着信拒否。
紗耶香は後藤の番号をそう設定しているのだ。
多分、後藤と紗耶香の間に何かがあった訳ではないのだろう。一方的に接触を
断ったのは紗耶香のほうに違いない。その心境をわたしは察する事が出来た。
ソロやドラマ。ここ最近の後藤の活躍は目覚しかった。それはどこかわたし自
身でさえも悔しくもあったし、妬ましいと感じる部分もあった。他のメンバーそ
れぞれも感じていた事であろう。それでもやはり後藤がやってきた事が評価され
たのだから、そう言う気持ちを持ちつつも、仲間が輝いている姿を見ると言う事
は嬉しかった。なにより、それのために頑張っている後藤の姿を間近で見ていた
のだ、そう言う妬ましいと思う感情は次第に薄れていった。
しかし、紗耶香だったらどうだろう?
後輩が、それも教育係をしていた後藤が、いつの間にか一人で活躍している。
常に闇に佇んでいる彼女が後藤と比較して、そこから生まれてくる感情は、本人
ではないにしても想像する事が出来た。
147 :
:02/02/26 05:58 ID:zP4Cvg5w
後藤を紗耶香にあわせちゃいけない。
確かに、わたしはそう思った。
「明日レコーディングなんだから――」
そこまで言ったときに、後藤はすぐに言葉を被せてきた。
「いいじゃん。たまにはカオリの家に遊びに行きたいよ」
「でもデモテープを聞かなくちゃ……」
「パァッと騒ごうよ。嫌な事とか忘れて」
「でも後藤――」
胸の奥に不安があった。
断っていいのだろうか? そうする事によって、わたしは後藤に嫌われないだ
ろうか? 辻のような態度を取られるのは避けたかった。第一後藤がわたしに話
し掛けてくるというのは珍しい。いつも同い年の二人か年下、もしくは圭ちゃん
といる事が多い彼女が、わざわざわたしに話し掛けて来たのだ。その行為を無駄
にする事に不安を抱いた。
そう頭の中で考えていた時、気づいた。
わたしは叱って傷つく顔を見るのが嫌なのではない。
叱って、わたしが傷つくのが嫌なだけなんだ――。
嫌われないか、疎ましく思われないだろうか、それは叱るという行為とはまっ
たくの逆を行く思い。わたしはその矛盾の中で、何も出来ないだけ。
無意識のうちに、この時わたしは紗耶香と自分を天秤に掛けていた。
紗耶香の気持ちを無視して、わたしは頷く。
後藤は愛らしい笑顔で、ありがとう、と言った。
148 :
:02/02/26 06:09 ID:zP4Cvg5w
149 :
:02/02/26 14:07 ID:7+wltEXw
飯田が痛いなぁ・・・
飯田…。市井…。どんな風に向かってくんだろう
保全しかできなくて、ごめんね
152 :
ななし:02/03/01 14:15 ID:1SzX8e3n
hozen
153 :
:02/03/01 16:45 ID:myarOEHo
◆
「久し振り、市井ちゃん」
後藤がそう言った時、ほんの僅かだが、紗耶香の表情に陰を落としたことをわ
たしは見逃さなかった。それは驚きと嫌悪、それが入り混じって複雑な心境を察
する。
それでも紗耶香はすぐにいつもの笑顔を作って、高い声で言った。
「後藤? 久し振りだね」
家のドアを開けたとき、紗耶香はいつものようにわたしを迎えてくれた。その
時、後藤は背中に隠れるようにしていたため、その存在を確認できていなかった
紗耶香は、すぐに部屋に上がらないわたしに疑問の表情を浮かべた。
久し振り、市井ちゃん。
後藤がそう言って、ひょっこり顔を現す。
わたしは紗耶香の複雑な表情に罪悪感を抱く。それはこれ以上人に嫌われたく
ないという思いから、紗耶香の気持ちを無視した判断。それによって彼女がどれ
だけ傷つくのか、予想できている事にその感情を抱いた。
自分が傷つきたくないから、他人を傷つける。
その事実がわたしを締め付ける。
154 :
:02/03/01 16:47 ID:myarOEHo
紗耶香は後藤を僅かの間見ていたが、すぐに昔のような表情に戻って、そこに
は先輩としての意地がまだ残っていたのかもしれない、わたしと接する時のよう
な無邪気さは消えていた。
ただ照れたように笑っている後藤に向かって言った。
「綺麗になったね、後藤」
「あはっ」
居間に移動したわたしたちは、お客様だという事で後藤をソファに座らせて、
紗耶香はその斜め前、いつもの位置で足を崩す。テレビでは番組の跨ぎニュース
が終わっていて、丁度CMに切り替わっていた所だった。テーブルに紗耶香が三
つカップを並べているのを横目に、わたしは着替えるために寝室へと向かって引
き戸を閉めた。
暗闇の中に浮かぶ、鏡台の自分の姿を見る。幽霊のように立ち尽くすその姿は
まるで他人のようだと思った。
今日あった出来事を思い出す。
わたしに気を使うメンバーの表情。みんなリーダーとして力不足だという事を
感じていたのだろう。それを顔に出さないで、気を使われていた事実にショック
を受けた。
――全部いいださんのせいです!
155 :
:02/03/01 16:49 ID:myarOEHo
苦笑いをすると、一瞬の目眩がわたしを襲った。今朝から続いている体の不調
から、ぺたん、と足を崩すように畳に座り込んだ。眼を閉じるとグルグルと頭が
回っているような気がして、吐き気を感じる。
少しの間、わたしは暗闇の中座り込む。引き戸一枚の向こう側から二人の声が
漏れてきてその空間に響き渡る。それはわたしの心配を余所に、明るい紗耶香と
後藤の声。まるで昔、いつも聞いていたように、わたしの気持ちはその頃にタイ
ムスリップした。
あの頃は裕ちゃんが居た。わたしはこんな気持ちでいる事は無かった。
裕ちゃんも、こんな苦労をしていたのだろうか?
わたしはゆっくりと立ち上がると、簡単に着替えて居間に戻った。テーブルに
は三つのカップに飲み物が注がれていて、それを片手に後藤が紗耶香を見ている。
紗耶香はイヤホンを片方の耳にはめながら人差し指でテーブルをとんとん、と叩
きながらリズムを捕っていた。
「レゲエ?」
「さまーれいぼー」
へぇ、と紗耶香は納得したように頷いた。
わたしは思わず笑うと、彼女の後ろを歩いて、回り込むように開いた席に腰を
下ろした。
「何でそんな会話で納得できるのよ」
あはっ、と横で後藤が笑ってカップに口をつけた。
156 :
:02/03/01 16:51 ID:myarOEHo
わたしたちはそれから簡単に食事を獲って、テーブルにお菓子の袋を並べなが
らどうでもいいような会話をした。時にはテレビに視線を移して、時にはデモテ
ープを聞きあって……まるで昔に戻ったように、わたしを侵食していた不安がこ
の時だけ心の奥に仕舞い込まれたようだった。
どのユニットが一番売れるかと言う話をしたりしているうちに、会話は昔の思
い出に移行していく。前のシャッフルの話、後藤が加入した時の事、プッチモニ
や映画、口に出すたびに懐かしい思い出たちは、決してそれ以上にわたしたちに
何かを与えてくれるわけではなかった。ただ心をノスタルジックな気分にさせて、
切なくなる。それでも話すことをやめる事が出来ない。多分、それは自虐的な行
為なのだと思う。少なくとも、わたしにはそう思えた。
紗耶香はわたしの心配を余所に、後藤に不快な態度はとらない。その穏やかに
笑う表情は、わたしを癒してくれるようだった。
飲み物が空になって、わたしはキッチンへと移動する。冷蔵庫を開いたのと同
時ぐらいのタイミングで、居間の会話が耳に入り込んできた。
157 :
:02/03/01 16:53 ID:myarOEHo
「ねぇ、市井ちゃん」
わたしはペットボトルに手を伸ばす。オレンジ色の光が扉を閉じると、段々と
遮られていく。
「あたしの歌聞いてくれた?」
バタン、と冷蔵庫が閉じる。手に持っているペットボトルがいつもより重いよ
うに感じられた。
「ドラマとか、見てくれてる?」
わたしはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
「あたし、何とか頑張ってるよ」
――光に包まれるって……どんな感じだったっけ?
紗耶香とは対照的な後藤。
わたしはすぐに我に戻った。
気のせいか、後藤の言葉に頷く紗耶香の反応が暗いような気がする。それはわ
たしの想像からそう聞こえただけかもしれない。でも、もし自分が紗耶香の立場
だったのなら、決して後藤の言葉は悪意が無いにしても心地よくないだろう。
わたしはゆっくりと居間に戻る。
ソファに座りながら、心持ち体を紗耶香のほうに突き出している後藤の姿を見
る。彼女の、愛らしい笑顔が余計に胸を締め付けた。
「後藤……もう遅いから帰りなさい」
わたしが言うと、後藤はゆっくりと顔を向ける。紗耶香は背中を向けているた
め、どんな表情なのか見る事が出来なかった。
158 :
:02/03/01 16:55 ID:myarOEHo
「えぇ、何で」
わたしはペットボトルをテーブルの上に置く。横目で紗耶香の顔色を伺うと、
無表情のままその視線はテレビに注がれていた。
「もう遅いから……デモ聞いて明日に備えなきゃいけないでしょ」
できるだけ自然に、そう思うと後藤と視線を合わせることが出来なかった。
それからしばらく帰る事を嫌がっていた後藤だったが、わたしが何度も言い聞
かせると、渋々と頷く。その間、一度も紗耶香は口を挟む事は無かった。多分、
挟むことが出来なかったのだろう。
「じゃあ、市井ちゃん送ってよ」
後藤は立ち上がると言った。
わたしは思わず紗耶香を見る。
「女の子一人で帰るの、恐いから」
後藤の言葉に、わたしは言い知れない不安を感じる。
もしかしたら、後藤はわざとそう言っているのではないだろうか?
紗耶香と二人きりになるのを狙っているのではないだろうか?
後藤はそんなに鈍い人間ではない。圭ちゃんが紗耶香にメールを送れるのに、
自分だけ繋がらないという事実から、その答えを導くのに時間はかからないだろ
う。だから、もしかしたらそれを確かめるために、わたしの家に来たのではない
だろうか?
159 :
:02/03/01 16:57 ID:myarOEHo
そう思うと、余計に紗耶香と一緒にさせるわけには行かなかった。それが、唯
一今のわたしにできる事だと思ったから。
「だったらわたしが行くよ」
いいよ、とその時黙っていた紗耶香が言って、ゆっくりと立ち上がった。
「紗耶香……」
「いいよ。カオリ疲れてるでしょ?」
「でも――」
「顔色悪そうだから、ゆっくりしていて」
わたしは口を閉じた。
紗耶香は穏やかに微笑を浮かべていて、それを見ていると何も言えなくなった。
どこか諦め、もしかしたら覚悟かもしれない。そんな表情をその微笑には含まれ
ているような気がした。
すぐに紗耶香は後藤と共に玄関に向かうと、いってきます、と言ってドアを開
ける。
「また明日」
後藤はそう言って紗耶香の後を追いかけていった。
ドアが閉まるのをわたしは黙ったまま見ながら、また罪悪感が背後から迫って
くるのを感じる。
部屋にはテレビの音が虚しく響き渡る。それはまるで隔離された箱の中に居る
ように、頭の中ではぼんやりとしていた。
160 :
:02/03/01 17:00 ID:myarOEHo
青白い蛍光灯の下、わたしは落ち着きなく紗耶香を待った。カップをキッチン
に運んだり、お菓子の袋を捨てたりと居間を歩き回る。何かをしていないと、不
安で押し潰されてしまいそうだった。
それでもすぐにやることが無くなって、わたしはただ立ち尽くす。時計を見る
と、まだ紗耶香が出て行ってからそんなに時間が経っていないことに気がついた。
酷く体が重くて、わたしは耐え切れないようにソファに倒れる。
眼を閉じると体が沈んでいくようだった。
わたしは強くならないといけない。
みんなを守れるくらい、強くならないといけない。
でも――。
どうやったらそうなれるのだろう?
テレビの音が耳障りになって、わたしはリモコンでそれを消した。カーテンの
向こう側は、すっかり闇を落としているようで、僅かに見える窓が光に反射して
鏡のようになっている。寝そべっているわたしが透明に映る。長く垂れ下がる髪
が顔を半分ほど覆っていた。
この心細い闇の下で、紗耶香と後藤は何を話しているのだろうか? 光さえも
遠くに追い払った紗耶香に、今の後藤はどんな風に映っているのだろう?
161 :
:02/03/01 17:02 ID:myarOEHo
胸が締め付けられた。
わたしの頭には無邪気に笑う彼女の顔が何度も浮かぶ。
わたしだけに向けられた、屈託のない笑顔。
優しく包む温もりがまだ記憶の奥には残っていて、静まり返ったこの空間でそ
れが酷くいとおしくなった。
結局紗耶香が戻ってきたのはしばらく経ってから、わたしが寝室の方で蒲団を
敷いている時だった。
開け放たれた引き戸からは居間の光が漏れている。電気もつけていない寝室に
はそれが唯一の光源だった。
白いシーツの上で座るわたしの影が伸びる。後ろで静かに歩いてくる紗耶香の
足音は、ソファの前で止まったかと思うと、そこに座り込む僅かな振動が伝わっ
てくる。
わたしは振り返ることもなく、わざとらしくシーツの皺を伸ばしながらいった。
「……おかえり」
数秒、ほんの僅かだが紗耶香はワンテンポ遅れて返事をした。
「……ただいま」
すぐに静まり返る空間に、わたしの胸の奥は不安が芽生え始めていた。明らか
に声のトーンが暗い紗耶香。何かあったのだろうかと、気になっているのに素直
に言葉が出てこない。
シーツの耳を蒲団の下に挟む。滑らかな感触が掌を走り抜けると、生地が擦れ
る音が部屋に響いた。僅かなそんな音さえも聞こえるほど、わたしたちは黙り込
み、重い空気に言葉を捜していたのかもしれない。
162 :
:02/03/01 17:05 ID:myarOEHo
「後藤……少し背、伸びたかな?」
紗耶香はゆっくりと呟いた。
「雰囲気も大人っぽくなってた……」
「…………」
「もう、すっかり芸能人だよね」
苦笑い交じりにそう言う紗耶香は、多分、そこにわたしの反応など求めてはい
なかったのだろう。まるで自分の気持ちを落ち着かせるかのように、独り言とし
て出てきた言葉に思えた。
わたしは黙ったまま目の前にある鏡台に視線を移した。半透明のプラスチック
の入れ物に三分の一ほどになっている化粧水がなぜだか眼に付く。髪を右手でま
とめると、その向こうにある鏡にまるっきり同じ行動を起こしている自分がいた。
刻々と時を刻む秒針。
それに合わせるようにわたしの鼓動が高鳴る。
トク、トク、トク。
視線が揺れた。
ゆらゆらと――。
体が重くて、わたしはこのまま蒲団の上に倒れこみたかった。
「カオリ、知っていたの?」
さっきと同じように紗耶香は言った。それでもそれは思い詰めた末に出てきた
言葉ではないように、まるであの川原で何を書いているの? と聞いてきたとき
のように、何気ない言い方だった。
「…………」
それでもわたしはその声色に騙される事などなく口を閉じたまま。紗耶香はそ
れを無言の返事として受け取ったらしい、クスッと笑う声がして、振り向くと微
かに肩が揺れているのが見えた。
それは自嘲だった。
163 :
:02/03/01 17:07 ID:myarOEHo
「……紗耶香」
喉から振り絞った言葉。でもそれはあまりにも弱すぎたようだ、青白く輝く光
の中に飲み込まれて、紗耶香の元まで届いた様子はなかった。
「……あたしは変わっていないのかもしれない」
「…………」
「あの子が大人になっているのに、あたしは変わっていないのかもしれないね」
まいったな、と紗耶香は笑いながらゆっくりとソファから立ち上がった。キッ
チンの方向に向かっていく彼女を感じながらも、わたしは立つ事も、優しい言葉
をかけることさえも出来なかった。すぐにコップに飲み物を汲んできたらしく、
紗耶香は開け放たれた引き戸の前に立った。わたしの影に合わさるようにシーツ
の上に現れる、彼女の分身。
「カオリも……あまり気を使わないで」
「…………」
「そう言うの……迷惑だから」
「……ごめん」
謝るなっつうの、と紗耶香はおどけたように言った。多分、空気を変えようと
していたのかもしれない。自分がいけなかったと言う事にして、紗耶香は話題を
変えたがっていた。しかし、逆にわたしはそれが痛々しく思える。そうやって、
孤独や不安を自分の中に押し込めていたから、紗耶香は今のようになってしまっ
たのではないだろうか? あの時の、自信に満ちた彼女の表情は、そう言った物
を人には見せたくなくて、自分の中に閉じ込めた結果、コップの水が溢れるよう
に流されてしまったのではないだろうか?
164 :
:02/03/01 17:09 ID:myarOEHo
そう考えてわたしは気が付いた。
それは自分も同じなのではないだろうか?
「ごめん……紗耶香」
「やめてよ」
紗耶香はそう言って、ゆっくりとテーブルの上にコップを置いたようだ。コト
ッと言う音が部屋に響いた。
「もうやめよう」
紗耶香の言葉にわたしはただ首を横に振り続けた。
「あたし、後藤のこと嫌いなわけじゃないから」
「……違うの」
「あたしが変なミエはっていただけだから」
「違うの……紗耶香……違うの……」
喉が震えている。別に泣いている訳でもないのに。
胸の奥の罪悪感が強くなってきた。暗闇から常にわたしを束縛していたその存
在が、紗耶香と話しているうちに表面に現れる。まるでそれに操られているかの
ように、わたしは紗耶香に謝らなければいけない、と言う思いに駆られた。
「わたし……辻の事とか……何か……恐くて……」
頭の中は色んな考えがグルグルと回っていた。何を言いたいのか、どうしたい
のか、まったくわからないまま口から出てくる言葉は混乱している。それでも罪
悪感から逃れたくて、何かを喋る事で楽になろうとしていたのかもしれない。
165 :
:02/03/01 17:12 ID:myarOEHo
「ごめん……なんかよくわからなくて……ごめん……」
「……謝らないで」
紗耶香の口調に不満が混じっていた。
それでもわたしは謝る事しか出来なかった。
「ごめん……わたし……」
「……やめて」
多分、紗耶香は謝られる事が嫌だったのだと思う。わたしがメンバーに気を使
われてショックを受けていたのと同じように、彼女は謝られる事を嫌がっていた。
それは確実に、自分が惨めになっていくように思えたからだろう。
それでもわたしはその言葉しか口に出す事しか出来なかった。それが精一杯の
謝罪と、そして逃避でもあった。
「やめよう……もうやめよう……」
紗耶香の声はなぜだかわたしを締め付ける。苦しいと言う感情ではない。ただ
開放されたかった。この暗闇の寝室から外へ――わたしが書きたい青空へと羽根
を伸ばして行きたかった。
でもそれはわたしが傷つきたくないと言う感情だった。後藤を呼んだことも、
ここでただ紗耶香に謝る事も、自分の感情を静めたいと言う独りよがりのものだ
った。
「ごめん……あたし……」
「やめて」
「あたし……何か……ごめんなさい」
「怒るよ」
鏡台の鏡に紗耶香の背中が映っている。微かにそれが震えるように感じるのは、
わたしが疲れていたのか、彼女が沸き起こる感情を押えていたのか、後になって
もわからなかった。お互いに背中を向け合っているのに、その存在はひしひしと
感じる。時計の秒針の音が、わたしの気持ちを煽る。
166 :
:02/03/01 17:14 ID:myarOEHo
「紗耶香……わたし……わからないの……何もわからないの……わたしが当たっ
ているのは光なの? 紗耶香が言っていた光なの? それだったら、わたしは贅
沢な人間なのかもしれない。その光が当り前だって感じるから……贅沢な人間な
のかもしれない」
「……もういいから」
「紗耶香が後藤のこと拒んでいるの、分かってたよ……でも恐くて……紗耶香が
辛い思いするのわたし嫌だったけど……わたししか紗耶香を守れないってわかっ
ていたけど……」
「やめよう」
「紗耶香はわたしの事を頼っていてくれたんだよね? だから家に来たんだよ
ね? わたし、それに応えなきゃいけない。強い人間でいたいから、応えなきゃ
いけない」
「やめて」
「わたしは強くならないといけない。紗耶香も守れるぐらい、強くならなきゃい
けないの……だから……だからね、紗耶――」
「やめてっていったでしょう!」
突然の紗耶香の言葉にわたしは肩をすくめた。すぐ背後から不機嫌な足音が近
づいてくる。
振り返ることはしなかった。鏡台に映っていたであろう彼女の姿も見なかった。
わたしはただ顔を下げて、真っ白なシーツに視線を落としていただけだ。薄暗い
中に確かに存在していたのは不安だったのだと思う。それはわたしと彼女の二つ
の不安。それが一つになることは無く、お互いを傷つけるようにぶつかり合って
いた。
167 :
:02/03/01 17:16 ID:myarOEHo
「あたしカオリに守ってなんて一言も言ってないよ! 守ってほしいとも思って
ない! そんなにあたしは弱くない!」
紗耶香の声が部屋中に響き渡る。その一言一言がまるで刺のように突き刺さる。
わたしは両手で顔を覆うと、心細い迷子のように肩を狭めた。
「カオリはそんなにあたしが惨めに見えてたの? 何も出来ないで後藤に嫉妬し
てるあたしはそんなに惨めだったの?」
「違うの……違うの……」
「カオリが言っている事はそう言うことじゃん!」
何もかも恐かった。
暗闇も静寂も光さえも、わたしには恐くて溜まらなかった。どうやったらそれ
から逃れられるのか、どうやったら安心できるのか、いくら考えても答えは出な
い。
触れてはいけない場所に触れてしまったんだ。久し振りに会った時から触って
はいけないと感じていた場所に、わたしは手を入れてしまったんだ。それはお互
いに持っていた傷。
わたしたちはそれに触ってはいけなかったんだ。
罪悪感が不安を煽る。
わたしは母親から怒られている子供のように、ただ謝った。
「ごめん……なさい」
「だから謝らないでって言ったじゃん!」
168 :
:02/03/01 17:19 ID:myarOEHo
紗耶香はそう声を張り上げてわたしの肩を掴んだ。思わず体を硬直させたわた
しは強引に振り向かせられる。指の隙間から見える彼女の表情は今まで見たこと
が無いほど傷ついていた。
「紗耶――」
わたしがそう口に出したのと同時ぐらいのタイミングで、捕まれている肩に力
を感じた。一瞬のうちに危険だと言う赤信号が頭の中で点滅する。わたしは右手
でそれを掴むと、余った左手で彼女の胸を力一杯に押した。
彼女の体がわたしから離れる。その勢い余った体が後ろにそれて、引き戸に背
中からぶつかった。ドンッと言うけたたましい音が部屋中に響き渡る。
わたしはすぐに蒲団から立ち上がった。彼女は背中を打ちつけたためその痛み
に耐えている。頭の中の赤信号にわたしは煽られる。寝室から出るため、彼女の
脇を走り抜けるように移動した。しかしすぐ脇を通過した瞬間に足首を捕まれる。
わたしは体制を崩して床の上に無防備に転んだ。
膝と肘、それから胸に強い衝撃が襲う。今朝から感じていた体調不良もそれに
合わさって、わたしは吐き気を堪える事が精一杯だった。
紗耶香が後ろで立ち上がるのを感じる。わたしはすぐに首を振り向けると、彼
女は顔を下げたままゆっくりと近寄ってきた。
「紗耶香」
紗耶香の手がわたしの髪を掴む。思わず痛みから悲鳴を上げる。彼女はそれを
引っ張ってわたしを強引に立たせようとした。その力に従って立ち上がると、紗
耶香の腕はわたしの腰に回って抱き寄せるように力を入れられる。
わたしは再び悲鳴を上げる。
そのままの勢いで紗耶香は寝室の蒲団の上に押し倒すように倒れた。
169 :
:02/03/01 17:21 ID:myarOEHo
皺一つ無いように伸ばしたシーツの上で、わたしは仰向けになって倒れる。す
ぐ目の前には無言のまま紗耶香が覆い被さるように存在している。
「紗耶香!」
わたしは声をあげて抵抗しようと再び彼女の胸に手を押し付ける。しかしすぐ
に払いのけられて、押さえつけられるように手首を捕まれた。
全身に力が入らない。
捕まれた髪の痛みがまだ体に残っている。息が上がって、飛び跳ねる心臓。そ
れは疲れだけではなく、確実に恐怖があった。
「恐いなら……」
顔を下げたまま紗耶香が呟く。その表情は垂れ下がった前髪に隠されていた。
「恐いなら、またシたらいいじゃん」
その声は酷く低い。いつもの彼女の声ではなく、子供の頃に見た映画に出てい
た幽霊に乗っ取られた少女を連想させた。
「あの時みたいに……そうすればいいだけじゃん……」
恐怖がわたしを包む。でもそれが暖かいことにも気がついていた。
蒲団の上で、まるで万歳の格好で手首を押さえつけられている。紗耶香はわた
しの上でその力を緩めることは無かった。体が重くなっていく。目の前が霞んで
しょうがない。
荒くなった息が薄暗い空間の中に溶け込んでいくのを感じた。
170 :
:02/03/01 17:23 ID:myarOEHo
「やめて……紗耶香……」
喉から振り絞るわたしの声。それは自分のものではないかと思わせるほど掠れ
ていた。
紗耶香がクスリ、と鼻で笑う。
僅かに見える口元が不気味に笑みを作っている。
「あの時と……何も変わってないよ……それなのにどうして嫌がるの?」
冷たく尖った声。
わたしの胸がきつく締め付けられた。
「違う……こんなの……あの時だって……」
隙を見計らって逃げようとこの時のわたしはまだそう思っていた。しかし弱り
果てた体は気持ちとは裏腹に、いつもの力を出してくれない。体を捩ってみるも、
しっかりと捕まれた両手首のせいで動くことも出来なかった。
「……カオリは……勝手だね」
わたしは黙ったまま言葉を待った。
少しの間が空いて、耳障りな静けさが頭を刺激する。高鳴る鼓動の回数を無意
識のうちに数えているわたしに、紗耶香は呟くように言った。
171 :
:02/03/01 17:26 ID:myarOEHo
「カオリは……あたしと一緒なんだよ」
「……紗耶香」
「カオリはあたしと一緒で……弱い自分を認めたくないんだ」
「…………」
「認めちゃうと……自分が居なくなっちゃうから……だから認めたくないんだ」
「……紗耶香」
辻の顔が思い浮かんだ。
あどけなく笑う顔。純粋に悲しい顔。
――いいださん、膝の上に座っていいですかぁ?
わたしは強くならないといけない。
みんなが前みたいに純粋な笑顔を作れるように、わたしは強くなって、その空
間を守らなければいけないんだ。
だから、強くならないといけないんだ。
「――無理だよ」
ドクン、と強く心臓が脈を打った。
空気を吸うことさえも忘れるほど、わたしはその言葉に締め付けられる。
「無理だよ……強くなんてなれないんだ」
そんな事ない……。
そんな事……。
172 :
:02/03/01 17:28 ID:myarOEHo
――足痺れた。辻降りて。
わたしは胸を張っていられたんだ。
――太ってきたんじゃない? 最近。
あの子の頭を撫でてあげられたんだ。
――いいださんはあったかいですね。
「あたしたちは臆病だから――強くなれない」
断定するように言い放たれた紗耶香の言葉に、胸の奥で何かが崩れた。それは
大きな音を立てて、わたしの中を駆け巡る。いつの間にか鼻腔を突き上げるもの
を感じて、多分それが外に逃げようとしていたのかもしれない、小さな嗚咽とな
った。
紗耶香の言葉は説得力を持って、わたしを侵して行く。彼女と一度も触れ合え
なかったことも、理解できなかったことも、全ては弱いわたしのせいだったので
はないだろうか。お互いにそれを知っていたから、どう傷つかないでいられるか、
その事ばかりしか考えられなかった。
「あたしたちは……お互いに都合のいい関係を望んでいただけだよ」
わたしが紗耶香のことを大切に思うことも、彼女が優しい言葉を掛けてくれた
ことも、結局その関係を崩したくなかったからではないだろうか? 都合の良い
関係でいるために、傍で『都合のいい存在』を守っていただけではないだろうか?
自分が汚れていくのを感じた。辻の純粋な眼差しが辛かったのは、そんなわた
しを見られたくなかったからだ。
この時、わたしはすでに抵抗するのを止めていた。ぼんやりと天井を見つめて
紗耶香の温もりを感じているだけだった。
しばらくの間わたしたちはその体勢のまま黙り込んでいた。酷く体が重くて、
このまま眠りにつきたかった。眠れるなら、もう一度紗耶香と体を重ねてもいい
とさえ思った。
173 :
:02/03/01 17:30 ID:myarOEHo
ゆっくりと彼女に視線を向ける。わたしは抵抗の意思がないことを体から力を
抜いて教えた。それをすぐに察知してか、紗耶香の手首を掴んでいる手も緩まる。
眼を閉じると馴染みの暗闇が包んだ。意識がぼんやりと遠くなる。
もうどうでもいい。
そう思った。
心も体もわたしから切り離してしまいたかった。
紗耶香の手がわたしの手首から離れると、ゆっくりと頬に移動する。微熱を持
ったそれが心地いいことに気がついた。
こんな事をしていたら、わたしたちはダメになるだろう。そう頭ではわかって
いた。しかし刹那的な開放にその考えは打ち消されていく。
わたしたちはもしかしたら再会してはいけなかったのかもしれない。
そう言う思いが、閉じた暗闇の中で駆け巡っていた。
しばらく、わたしの頬に当てていた彼女の掌がゆっくりと離れた。それは首筋
に移動して鎖骨へと運ばれる。きつく唇を締める。
鼓動が高鳴る。
それはさっきの争いからの疲れではない。
あの時とまったく一緒の緊張だった。
紗耶香の動きが止まった。
刻々と時を刻む空間の中で、ぽつりとわたしに向けられるように声が落ちてきた。
174 :
:02/03/01 17:33 ID:myarOEHo
「……みたい」
その言葉で部屋の空気が冷たくなる。わたしはゆっくりと眼を開けると、相変
わらず前髪で表情を隠されている彼女の姿が見えた。
紗耶香はもう一度呟く。
「あたし……バカみたいじゃん」
口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。鎖骨辺りにあった掌がゆっくりと彼女の顔に当
てられる。その掌が一層と表情を隠した。
「……紗耶香」
その言葉に寄りかかるように顔をわたしの胸に埋めた。丸まった背中が微かに
震えていて、捨てられた子犬のようだと思った。
「ねぇカオリ――」
胸の中で紗耶香は呟く。
「あたし……」
声が震えていた。悲痛なその言葉にわたしは口を閉じる。
「……なんで……あたし……こんなにも……」
「…………」
175 :
:02/03/01 17:35 ID:myarOEHo
薄暗い中、紗耶香はまるで自分を殺すようにその存在を消した。彼女を感じる
にはその温もりだけが頼りで、息も鼓動もその姿も消えていた。
しばらくの間、彼女はわたしの胸の中で肩を震わせた。服の生地が薄っすらと
濡れて、微かな湿りを胸に感じる。その間わたしは彼女を抱きしめることも頭を
撫でてあげる事もしなかった。
ただぼんやりと天井を見つめるだけ。
体の重さを感じながら、回っている天井を見つめているだけだった。
ゆっくりと紗耶香がわたしの体から離れて立ち上がる。その間片方の手で顔が
隠されていて、その表情を等々見ることがではなかった。
開け放たれた引き戸の前に立つ彼女は、一度も振り返ることはなく居間の光に
包まれる。
「紗耶香……」
わたしはやっとのことで喉から声を振り絞る。それに一瞬だけ引き止められる
ように彼女は動きを止めた。
176 :
:02/03/01 17:37 ID:myarOEHo
「……ごめん」
紗耶香はわたしに背を向けながら呟いた。
「ごめん……乱暴しちゃったね……」
「…………」
「……ごめん」
そう言って紗耶香は居間に移動して引き戸を閉めた。遮られていく光の中で、
わたしは何も考えることが出来なくなっていた。
ただ体の重さから眼を閉じる。暗闇に一人取り残された孤独より、眠気の方が
大きかった。
眼を閉じるとすぐに意識が遠くなる。暗闇と静寂の中、わたしは心細さを感じ
て膝を抱きかかえるように眠った。
落下するように、その日の夜は短かった。
177 :
:02/03/01 17:40 ID:myarOEHo
◆
眼を開ける。
真っ白い天井が映画のシーンのようにぼやけて、それからゆっくりと白い光が
包み始めているのを感じた。視線を横に向けるとわたしのベッドがある。昨日と
変わらない掛け布団とシーツの皺。陽射がカーテンから漏れているのだろう、窓
とは反対側の壁には細長い光が張り付いていた。
ゆっくりと体を起こす。頭がふらふらとして、胸の奥から吐き気が込み上げて
きた。それでも力が入らない体を強引に動かすと、貧血のような目眩が数秒襲っ
てきたがすぐに慣れた。
ふらつく足取りで締め切られた引き戸に手を掛ける。一瞬だけそれを開ける事
を躊躇ったのは、紗耶香と体を重ねた翌日と似た気まずさからだったからだ。
それでもわたしは開ける。
徐々に視線に広がるのは灰色の居間。まるで空き家だったかのように、空気を
床の下に敷き詰めて静けさだけが空中を漂っていた。
178 :
:02/03/01 17:42 ID:myarOEHo
視線を左右に投げる。
一ミリも隙間を与えずに締め切られたカーテンは薄っすらと肘差に染められて
いる。その下にはスケッチブックが寄りかけるように置いてあり、隣にはゴミ箱。
テレビは闇を落としている。その上にある時計が静かに秒針を刻む。テーブルの
上には昨日紗耶香が飲んでいたコップがぽつん、と一つだけ置かれていて、半透
明の液体が三分の一ほど余っていた。
引き戸の前に位置するソファに視線を落とす。ノートの切れ端が一枚、投げ捨
てるように置かれているのに気がついた。
わたしはゆっくりとそれを拾う。それからキッチンや玄関などに視線を向けて
みるが、紗耶香の姿は見つけることが出来なかった。
薄暗い居間の中央で、わたしは一人立ち尽くしながらその紙を見る。
そこには一行の文が書かれていた。
179 :
:02/03/01 17:43 ID:myarOEHo
『約束破っちゃった、ごめんね。……でも、綺麗な絵だったよ』
わたしはカーテンの下に寄りかけるように置いてあるスケッチブックを見た。
それは昨日と変わらない位置にある。
苦笑いした。
「別に……謝る事ないのに……」
その置手紙は、紗耶香が飲んでいたコップの横に置いた。
はう…、切ないね
実際、リアル飯田ってそんなに好きじゃないんだけど
この小説の飯田は凄く好き。
文章上手いし話切なくてイイ感じだね。
切ないから保全
183 :
:02/03/05 02:39 ID:xv4R5cli
保全
ほぜむ
185 :
?:02/03/05 22:39 ID:rlWtElBN
その本探してるんだけど見つからない・・・
最近出た本ですか?どういう本ですか?
187 :
:02/03/07 04:02 ID:segSHGYk
◆
わたしは紗耶香が出て行ったという事実に囚われていた。
シャッフルのレコーディング中、楽譜を見つめながらスタジオに響くなっちの
歌声を感じる。しかしそれは頭の中に入ることは無く、昨夜の出来事を反芻して
いる自分に気がついた。
浴びせられた言葉。震える彼女の温もり。胸に感じる涙の湿気。
疲れはずっと体の中で息を潜めて存在している。
スタジオの中にはディレクターが録音機材の前でブースの中のなっちを見てい
る。隣にはスタッフの人が数人立ちながらこそこそと話をしていて、わたしたち
はその後ろのソファに腰を下ろしていた。入り口の厚いドアは閉められ、スピー
カーから常に聞こえる音楽。テーブルに五本、規則いい列を作って置かれている
飲茶楼。辻とわたしの位置は正反対で、その間に圭ちゃんと吉澤が座るという席
順になっていた。
別に意識して辻と離れたわけではなかった。わたしが始めにソファに座ると、
まるで隣に座ることを避けるように辻は一番奥に移動した。
わたしはすでに辻に話し掛けることを諦めていた。
「辻」
その時、隣にいた圭ちゃんがおもむろに立ち上がって、テーブルを回り込むよ
うに移動する。わたしは横目でその光景を伺う。
辻は携帯を弄っている手を休めて顔を上げる。そのいつもの惚けた顔は、わた
し以外には向けられる。それは微かな痛みとなって、ちくちくと胸を刺激した。
188 :
:02/03/07 04:04 ID:segSHGYk
「あんたさっき言われたこともう忘れたの?」
辻は節目がち首を横に振った。
圭ちゃんはため息をついて、両手を腰に当てる。わざとらしい声色と表情はい
つしか演技ではなくなっていることに気がついた。
もうすっかりとリーダー職が板についてきている。
辻を叱るのはわたしの役目のはずなのに……。
そう思うとわたしはゆっくりと二人から視線を外した。この場から姿を消した
いとも思った。
圭ちゃんが辻を叱ろうとしているのには理由があった。
なっちの前に行なわれた辻のレコーディング、それは散々だった。どうやらデ
モテープをあまり聞いていなかった様子で、何度も同じところでストップを掛け
られては、ディレクターからダメだしを受けていた。あまりにも長引く辻に、順
番は後回しにされてみんなの歌っている所を良く聞くようにと言われてブースか
ら出される。
落ち込んだ様子で出てくる辻に、すれ違いざまになっちが、どんまい、と声を
掛けたのをわたしは聞いた。辻はそれに何も応えないまま、元の位置に座って携
帯を取り出していた。
どうやら加護とメールをしているらしい。わたしたちメンバーは三つのスタジ
オに別れてレコーディングをしている。加護と別ユニットになった辻は、一緒に
それが出来ないことに悲しい様子で、メールをすることでその感情を埋めようと
していた。もちろん言われた通りになっちの歌を聞いている様子はない。その事
に圭ちゃんは怒ろうとしていた。
189 :
:02/03/07 04:06 ID:segSHGYk
「仕事中なんだよ。いい加減にしなさい」
圭ちゃんがずっとわたしに視線を向けていたのに気がついていた。それは歌を
聞かずにメールをしている辻を叱る事を要望していた。しかしわたしはその視線
に気がつかない振りをして、ずっと楽譜に視線を落とす。何度か声を掛けられて
はいたが、空返事をすることで精一杯だった。
そんなわたしに堪り兼ねて、圭ちゃんは行動を起こしたのだ。
圭ちゃんが厳しく叱ると、辻は弱々しい声で謝った。わたしはまた視線を戻す。辻はゆっくりと携帯を鞄の中にしまっていた。
自嘲気味な笑みが浮かんだ。
わたし……必要ないじゃん……。
多分、同じ事をわたしがやったとして、辻は言うことを聞いてくれなかっただ
ろう。それは昨日、何度も明らかになった事実だ。
圭ちゃんがため息をついて戻ってくる。しかしソファに座ることなく、その足
はわたしの目の前で止まった。何事かと顔を上げると、彼女は眉間に皺を寄せて
見下ろしていた。
「カオリも」
圭ちゃんは苛立っている様子だった。
わたしは胸の奥の嫌悪感を抑えるのに苦労する。
190 :
:02/03/07 04:08 ID:segSHGYk
「カオリも、もっとシッカリしてよ」
圭ちゃんは言った。
気がつくと周りのスタッフが様子を伺っているのに気がついた。ソファに座っ
ている吉澤も辻も視線を向けている。
なぜか苛々としてくる。
圭ちゃんはこれ以上わたしに惨めな思いをさせてどうするつもりだろう? わ
たしはまだ傷つけられないといけないのだろうか?
楽譜を持っていた手に力が入る。
圭ちゃんはわたしを見下しているのではないだろうか?
もしかしたら圭ちゃんはわたしがリーダーになった事を認めていないのではな
いだろうか?
自分より年下なのに。
そう思っているのではないだろうか?
だからこれ見よがしにわたしを追い詰めるんだ。
それは行き過ぎた妄想だということには気がついていた。圭ちゃんがそう言う
ような人間じゃないということぐらい、よくわかっていたはずなのに卑屈になっ
たわたしの心はその事実を否定する。
「カオリ、前みたいに――」
「ごめん」
これ以上圭ちゃんの言葉を聞きたくなくて、わたしは遮るように言うとゆっく
りと立ち上がった。丁度レコーディングの曲が一段落して、スタジオに無言の空
気が数秒だけ流れる。
191 :
:02/03/07 04:11 ID:segSHGYk
「ごめん……トイレ」
それだけを言うと、わたしは持っていた楽譜をテーブルの上に置いた。何か圭
ちゃんが言いたそうな顔をしていたが、それを無視して重い扉を開ける。スタジ
オの篭った空気とは別の新鮮なそれが肺の中に入ってきて、頭を侵食していた苛
立ちが収まっていくのを感じた。
スタッフの人たちとすれ違いながら廊下を歩く。窓から外に視線を向けると空
には雲が覆い始めて、輝く太陽の顔を半分隠していた。
紗耶香はこの空の下で何をしているのだろう?
そう思うと息苦しさを感じる。
トイレの扉を開く。すぐ脇にある洗面台の蛇口を捻って右手を濡らした。冷た
さが腕から脳に伝わるように走り抜けて、わたしの苛立ちも覚ましてくれること
を期待したが大して意味がなかった。多分、胸の靄は圭ちゃんへの嫌悪だけでは
ない。いつしか塵のように小さいものが蓄積されて、それは気がついたときには
手につけられ状態になっていたんだ。
わたしはまだ大丈夫なのだろうか?
限界の容量は越えていないのだろうか?
その判断さえも付ける事が出来なかった。
幸いか、トイレには他に人が居ないようだ。わたしはゆっくりと流れる水から
右手を抜くと、それを青白い蛍光灯にかざす。水滴が一粒鼻先に落ちて、それは
ゆっくりと頬を伝っていく。目の前にある鏡を見ると、疲れ果てた自分の顔がま
るでアンドロイドのように無表情に映っていた。
水道を止めてから、わたしは扉の横に設置してあるエアータオルに手を突っ込
む。けたたましい音が狭い空間に鳴り響いた。
192 :
:02/03/07 04:13 ID:segSHGYk
「カオリ」
その時、扉が開いたかと思うとそこから圭ちゃんが入ってきてすぐ脇に居るわ
たしに向かって声を掛けた。彼女はゆっくりと中に入ると、無言のまま横を通り
過ぎて鏡の前に立った。
エアータオルから手を引く。一瞬のうちに静かな空間が完成した。
わたしは圭ちゃんと顔を合わせることが出来なかった。出来る事なら話したく
ないとさえ思った。
一方的な嫉妬は確実に自己嫌悪の材料になる。せめて自分の気持ちを悟られな
いように装うのが精一杯だった。
「……追いかけてきたの?」
呟くようにわたしは言う。
圭ちゃんは鏡に視線を向けたまま、振り返ろうとはしなかった。多分、そこに
映るわたしの姿を見ていたのだろう、間接的にも視線を合わせることを避けたか
ったため、わたしの視線はずっと下がったまま、エアータオルのオレンジ色の光
を見ているだけだった。
「難しいよ……わかるつもりだよ、あたしは」
圭ちゃんは呟くように言った。
その言葉がどう言う意味を示しているのかそれは明らかだった。
リーダーとして辛い立場に居るということを理解している、と言う意味だろう。
しかしその言葉はなぜか偽善的に聞こえて、胸の中の不満を一層と強くさせる。
わたしよりリーダーらしく振舞っているのに、どうしてそんな言葉が言えるのだ
ろう?
193 :
:02/03/07 04:16 ID:segSHGYk
「でもカオリ――」
また苛立ちが沸き起こる。
わたしはそれを抑えるように、水に晒して冷え切った右手を額につけた。
「いつの間にかカオリは――」
「わかってる」
わたしは圭ちゃんの言葉を切るように言った。彼女はすぐに口を閉じる。
頭の中心が脈を打っている。
不満や不安、それに嫌悪が全て統合していくような気がする。
「……わかってるから」
それ以上何も喋りたくなかった。
圭ちゃんは僅かな間口を閉じて、冷たい空気を感じている。少しでも身動きを
すればたちまちそれが空間を支配する音になるほど、わたしたちはその間黙った
ままだった。
わたしはゆっくりと扉に手をかける。力を入れて押そうとした時、それを遮る
ように圭ちゃんは呟いた。
「……紗耶香と何かあった?」
動きが止まる。
思わず振り返って圭ちゃんを見る。
その瞬間、鏡越しに視線が合って青白い顔色の自分を目の前で晒された。
「……あったんだ」
わたしの表情から圭ちゃんは自分の言葉が図星だったことを悟ったらしい。返
事を聞かないままその言葉は断定的だった。
194 :
:02/03/07 04:18 ID:segSHGYk
「どうして……?」
意識していない言葉のせいか、それは唇からこぼれるように出た。圭ちゃんは
ゆっくりと振り返ってわたしを見る。
「電話があった」
「……紗耶香から?」
圭ちゃんは短く頷いた。
「何か言ってた?」
わたしたちの出来事を他人に知られることは避けたかった。決して自慢できる
ことをしてきたわけではなく、むしろ恥ずかしいことだとさえ思った。それが圭
ちゃんへ知られていないか、一瞬だけ不安を抱いたが、彼女が首を横に振る動作
を確認すると、それは安心へと変わる。
「カオリの様子を聞いてきただけ……それだけ聞くと切れちゃったから」
「……そっか」
「……何があったの?」
何でもないよ、とわたしは言って扉を押した。廊下に充満する陽射が人工的な
光の中に混じるように入り込んで来る。それと同時に、僅かだが人の声も聞こえ
てきた。
「カオリが様子おかしいのも、紗耶香のせいなの?」
何も答えたくなかった。
自分の感情を抑えるのに必死だったから。
195 :
:02/03/07 04:19 ID:segSHGYk
「紗耶香と何かあったから――」
それでもその名前を出されると、わたしの心は過剰なほど反応する。半分ほど
開けた扉から、正面の窓を通して街路樹の先端が見えた。それは風に降られて横
に揺れている。青々と茂った葉があの川原を連想させた。
「カオリ、このままじゃ――」
「わかってるって言ったでしょう」
堪り兼ねたように口から出た言葉。それでも苛立ちを抑えたつもりだったが、
圭ちゃんが口を閉じたのを見ると、多分刺々しい物が混じっていたのかもしれな
い。わたしは一瞬だけ我に戻って謝ろうかと口を開くが、まだプライドが残って
いたらしい、それを遮らせた。
「カオリ……」
わたしは圭ちゃんを無視してトイレから出る。自動的に扉が閉じると、数歩廊
下を歩いてから振り返ってみた。
追いかけては来ない。
一つため息をつく。
それからわたしは元来た道を戻る。冷たい廊下の上に、それとは対照的な音楽
が縦横無尽に漏れてくる。一直線上の廊下が頭の中で歪んだのに気がついたとき、
わたしは思った。
どこが悪いのだろう?
わたしのどこが悪いのだろう?
196 :
:02/03/07 04:21 ID:segSHGYk
スタジオが近づいてくる。数人のスタッフの人がわたしにすれ違い様に話し掛
けてきたが、それに返すことはなかった。
わたしは悪くない。
わたしは精一杯みんなのこと考えてきた。
ドアノブに手を掛ける。金属の冷たさを感じた。
色んなこと考えてきた。仕事のこともメンバーのことも考えてきた。紗耶香の
事だっていつも頭の中にあった。それなのに、どうして掌から水がこぼれ落ちる
ように大事なものだけ消えていくのだろう?
重いドアを開ける。それと同時に吉澤の歌声が聞こえてきた。視界に広がる光
景。僅かに重苦しい、緊張感が漂う空気。低音が腹部に響く。光射す場所。
わたしは胃がキリリと痛むのを感じた。それでもいつものようにそこに手を当
てない。ドアが閉まってしばらく経ち尽くす。脳を刺激する痛覚がわたしの感情
を煽る。
一歩足を踏み出す。
スタジオ内には機材の前でなっちが楽譜片手にスタッフの人と話をしていて、
ブースの中には吉澤が居た。ヘッドホンを着けながら、低い声が音楽に乗る。そ
の正面から壁に突き当たりの位置の長いソファには、辻が一人座っていた。テー
ブルの上の飲茶楼はすでに空になっているものもある。わたしが出て行くときに
置いた楽譜も変わらない位置に置いてあった。
辻の手には携帯が握られている。
わたしは下唇を噛んだ。
ゆっくりと辻の元に歩く。わたしの感情はまるでこの時消えうせてしまったか
のように、胸の中は空っぽになっていた。
197 :
:02/03/07 04:23 ID:segSHGYk
圭ちゃんじゃない。
圭ちゃんがリーダーなわけじゃない。
わたしがリーダーなんだ。
近づくわたしの気配を察して辻が顔を上げた。二つに結った髪が微かに揺れて
いる。手に持った携帯を離そうとはしなかった。
「辻……」
喉から出た声は、いつもより低い感じがした。まるで自分の物ではないように、
この時のわたしは、もしかしたら消えうせたと思った感情に操られていたのかも
しれない。
「携帯をしまいなさい……」
「…………」
辻は顔を下げて露骨にわたしを無視した。
胸に熱いものが沸き起こる。
「もう一度言うよ……携帯をしまいなさい」
「…………」
しかし辻の反応は昨日と同じで言うことを聞かない。圭ちゃんとわたしではま
るで態度が違かった。
熱いものが噴出したような気がした。
カッ、とわたしの体温が熱くなる。
一歩足を踏み出して、携帯に手を伸ばす。突然の行動に辻の手からは滑るよう
にそれが離れた。わたしは携帯を閉じる。辻が唖然と見上げた。
数秒間があって、辻は声をあげた。
198 :
:02/03/07 04:26 ID:segSHGYk
「何するんですか!」
その声に何事かと後ろにいたなっちとスタッフの人が首を向けた。依然として
レコーディングは続いていて、吉澤の歌声は止まない。
「仕事中でしょう! さっき圭ちゃんに注意されたばっかりじゃない!」
わたしは声を張り上げていた。それに驚いたのはもちろん辻もそうだが、周り
にいたスタッフの人も同様だった。突然音楽が止まる。戸惑った吉澤の声が聞こ
えてきたが、ブースの中からでもわたしたちが見えたようだ、すぐに異常な雰囲
気を感じたらしい。
一瞬のうちに静まり返る空間。辻は怯えた表情を見せたが、すぐに思春期に親
に反抗するような態度でわたしが奪った携帯に手を伸ばした。
「かえしてください!」
わたしは乱暴にその手を払う。
「いい加減にしなさい! メールなんて後でも出来るでしょう!」
それでも辻は反抗する。泣きそうな表情で何度も携帯に手を伸ばす。
反抗を続ける辻にわたしの体は熱くなる。消えうせた感情が沸騰しているのだ
と気がついた。それは自分で止める事が出来ない。
どうしてわたしのいう事を聞かないのだろう?
どうしてリーダーのわたしの言う事を聞かないのだろうか?
そう頭で思っているとき、不意に必死で手を伸ばす辻の姿にわたしは子供の頃
の自分を重ねた。わたしも同じように反抗していた時がある。母親に、同じよう
に反抗していた時があった。
199 :
:02/03/07 04:27 ID:segSHGYk
「どうして言うことが聞けないの! どうしてわたしの言う事を聞けないの!」
それは悲鳴とも近い言葉だった。周りに居る人たちは唖然としたまま口を挟む
事も忘れていたようだ。
辻が反抗するように叫ぶ。
「いいださんの言うことなんか聞きません! あいぼんの事も守れなかったいい
ださんの事なんて聞けません!」
辻は必死にわたしを見上げながら叫んだ。
わたしの胸はきつく締め上げられる。
どうして……。
どうしてわかってくれないの?
「中澤さんは恐かったけどみんなの味方でした! 恐かったけど優しかったで
す! もっとみんなも安心できてました! でもいいださんは大人の味方でみん
なのこと考えてくれないんです!」
違う。
違う。
わたしは必死に考えてた。辻の事も加護の事、みんなの事も……わたしは必死
に考えてきたんだ。
「だからいいださんの言うことなんて聞けないんです!」
鼓動が高鳴る。
目の前にいる辻の顔がぼやけた。
わたしは――。
200 :
:02/03/07 04:29 ID:segSHGYk
「中澤さんが居た頃の方が良かった! 中澤さんの方がいいださんより良かった
です!」
――カオリは泣き虫だからね……心配だよ。
不意に紗耶香と電話での会話を思い出した。
――カオリは綺麗に歳を重ねて行くね。
――誉めても何もやらないぞ。
空間が歪む。
胸が張り裂けるほど、感情が溢れ出す。
――でも紗耶香……。
――ん?
――大丈夫だと思うんだ。多分ね、大丈夫だと思うの。
――どうして?
――裕ちゃんが居なくなって一杯不安だけど……でも大丈夫。
「だからいいださんの言うことなんて聞けません!」
――みんなしっかりしてるから。何かあったら圭ちゃんが助けてくれる。
――サブリーダー?
――チビッコ二人は少し心配だけど――でもわたしはあの子達の事大好きだから。
――うん。
――辻の惚けた顔見てると、優しい気持ちになれるんだよ。
――うん。
――だからね、わたしは大丈夫だと思うんだ。
201 :
:02/03/07 04:32 ID:segSHGYk
乾いた音が響いた。
わたしの掌に微かに熱が篭っている。
辻はいつの間にか叫ぶことを止めて顔を横に向けていた。
その手は頬に当てられている。
「……あっ」
わたしは振り下ろされた掌を胸に着ける。心臓が跳ね上がっていた。
辻は呆然とした表情のままゆっくりと顔を上げてわたしを見た。
「カオ……カオリ……」
圭ちゃんの声が聞こえた。
ゆっくりと首を向けると、ドアを半分開けて中に入ろうとしていた圭ちゃんの
姿が見えた。
その場には物音一つしない静寂が訪れる。
わたしは自分の掌に視線を落とす。僅かに赤くなっていた。
「カオリ……あなた……」
圭ちゃんの言葉でわたしは気がつく。
わたしは辻を打ったんだ。
202 :
:02/03/07 04:46 ID:segSHGYk
目の前にいる辻は驚きの方が強かったのかもしれない、どうすることもなく唖
然としているだけだった。その姿を見ていると、急にわたしは自分を消してしま
いたい衝動に駆られた。
わたし……なんて事を……。
自分の行動が信じられなかった。
その時唖然としていた辻が口から漏れるように呟いた。
「……いいださん?」
わたしは気がついた。
頬に暖かいものが伝う。
慌ててそれを掌で拭き取るが、積を切ったように涙は止まる事がなかった。
わたしが叩かれたわけじゃないのに……わたしが痛いわけじゃないのに。
それなのに涙は止まらない。
恥ずかしくなった。
この場に居ることも、辻の前で泣いていることも、全てが恥ずかしくなった。
「カオリ!」
圭ちゃんが我に戻って声をあげる。
その瞬間にわたしは逃げ出すようにドアに向かって走り出していた。
圭ちゃんの横を通り過ぎた瞬間に、腕を捕まれる。それはきつく皮膚に食い込
んだ。
203 :
:02/03/07 04:49 ID:segSHGYk
「カオリ! 叩く事なんか――」
そう言った圭ちゃんが口を閉じたのはわたしの涙を見たせいだった。一瞬言葉
に詰まった彼女は、それでもすぐに気を取り戻して言う。
「手を上げるなんて最低だよ!」
周りの人たちが黙ってわたしたちに視線を向けている。わたしはこの場から逃
げ出したくて、腕を掴んでいる圭ちゃんの存在が疎ましくなった。
嫉妬心がまだ残っていたようだ。
わたしは圭ちゃんを睨んでいた。
圭ちゃんがそれに驚いて手を離す。わたしは一度だけ溢れる涙を拭くと、沸き
起こる嫉妬心に操られるように口を開いていた。
「圭ちゃんはわたしを見下しているんでしょう? わたしよりリーダーみたいだ
から……自分より年下がリーダーになることが嫌だったんでしょ?」
「カオリ……何言ってるの?」
圭ちゃんはわたしの言葉に傷つけられたように表情を歪めた。
悔しかった。
わたしがこの場に居ることも、圭ちゃんにこんな事を言っている自分も悔しく
てしょうがなかった。
わたしは吐き捨てるように言った。
「圭ちゃんがリーダーすればいいんだよ」
「ちょ――カオリ」
わたしはドアを開けて逃げ出すように走った。
冷たい廊下をただ走る。
もうこの場には居られない。この場所に居たくない。
全てが崩れていくのを感じた。
それはわたし自身で崩したことも気がついていた。
ほぜむ
保全
保全
ああ。
208 :
ななしで:02/03/12 17:50 ID:998D9oqb
hozem
209 :
:02/03/14 03:42 ID:BHrRoZLd
◆
手の痺れが取れない。
雲が覆い始めた空の下、歩道を誰が追ってくるわけでもないのに走り続けてい
ても、携帯がうるさいぐらい鳴って脅迫観念に苛まれても、心臓は跳ね上がって
いるのに手の痺れは一向に取れなかった。
スタジオから離れた場所でタクシーを拾って、家に戻ってくる。ドアを開ける
と朝と変わらない冷たい空気が肺を刺激した。靴が一速足りない。テレビの音が
聞こえない。電気もカーテンも朝出て行くときと変わらなかった。
テーブルにはコップと置手紙。開けっ放しの寝室の引き戸から、皺くちゃにな
った蒲団とシーツ。その向こう側にある鏡台にわたしの姿が小さく映っていた。
急に激しい孤独がわたしを襲う。
静かな空間に立ち尽くし、後悔と罪悪感から逃げる術を切断される。それが孤
独となって次第に絶望感へと変わっていた。
涙は枯れていた。
もう何もできないような気がした。
210 :
:02/03/14 03:44 ID:BHrRoZLd
携帯を見ると液晶に着信あり、と言う表示がされている。もちろん相手の予想
が出来ていたため、履歴を確認しないままそれをソファに投げ捨てる。その着地
の反動でストラップが液晶に当たって小さな音を立てた。
力なくわたしはその場に座り込んで顔を下げた。
掌を見ると赤みはすでに消えているのに、辻を打った瞬間に感じた痺れは、
まるでわたしの体に未だに残っている紗耶香の温もりのように、焼きついてしま
っている事を感じた。
最低、と何度も呟いた。
辻の事、言える立場じゃない。わたしは仕事を途中で抜け出してしまったのだ。
リーダーとして、なによりプロとしてわたしはしては行けな事をしてしまった。
今頃マネージャーや事務所の人間は慌てているだろう。メンバーも驚いているか
もしれない。わたしのせいでレコーディングも大幅に遅れるだろうし、スケジュ
ールも組み直さなければいけなくなるかもしれない。色んな人に迷惑が掛かるだ
ろう。
――わたし達のために働いてくれているスタッフの人たちにも迷惑がかかるの。
いつか加護に言ったことがあった。
わたしが今度は言われる立場になるのだろうか?
最低、とまた呟いた。
静まり返る空間の中で、わたしはずっと座り込んだまま、一歩も動かなかった。
携帯は何度か鳴ったがもちろん出ることはしなかった。締め切られたカーテンが
徐々にオレンジ色に染まり始める。その光が下に置いてあるスケッチブックを包
み始めて長方形の影を作った。
211 :
:02/03/14 03:47 ID:BHrRoZLd
戻ることは出来なかった。
後悔に苛まれて、罪悪感に傷つけられて、孤独が部屋を出ることを提言してい
るのに、わたしはその場から動くことが出来なかった。
何をしたらいいのかもわからなかった。
――紗耶香と何かあった?
ふとその時わたしは圭ちゃんの言葉を思い出した。
紗耶香から電話があったこと、圭ちゃんはそうわたしに伝えた。昨日あった出
来事に、紗耶香も気にして圭ちゃんに探りを入れたのかもしれない。それはまだ
わたしを気に掛けてくれているからだろうか?
わたしはゆっくりと立ち上がると、ソファの上の携帯を拾った。
紗耶香の顔と声が頭を過ぎる。
会いたかった。
今すぐ会いたい、今すぐ声が聞きたい。
昨日のように傷つけられても良いと思った。わたしを責め続ける言葉でも、紗
耶香の声が聞きたくてしょうがなかった。多分、この孤独は彼女しか求めていな
い。なぜだか、確信とも近い思いがわたしを支配する。
212 :
:02/03/14 03:49 ID:BHrRoZLd
しかしわたしは携帯を掛けることはしなかった。
何度も液晶に番号を表示しても、通話ボタンを押すことが出来なかった。その
頃には事務所やメンバーからの電話は止んでいて、多分わたしに気を使っていた
のかもしれない、着信は落ち着いていた。
携帯をそっとテーブルの上に置く。そこには紗耶香のコップ、置手紙、携帯と
言う順番で並んで、その他のものは何もなかった。オレンジ色の光に包まれなが
ら、ゆっくりとスケッチブックを手に取る。画材をその三つしか置いてなかった
テーブルの上に広げて、わたしはソファに腰を下ろす。髪を一つに纏めて、膝を
体育座りのように立てると、その太股辺りにスケッチブックを置いた。
目の前の問題から逃避するために絵を書く。
それは紗耶香と体を重ねた翌日とまったく同じ行動だった。
わたしはもしかしたら自分を保とうとしていたのかもしれない。仕事などでの
別の顔、それはいつしか本当の自分を隠して、偽りの姿を演じていたのかもしれ
ない。それを続けていくことで、本当の自分を見失うのが恐かった。だから、わ
たしは絵にその姿を探していたのかもしれない。
無心に絵を書き続ける。
画用紙の中に広がる風景の中に、自分を溶け込ませようと思った。
それと同時に、紗耶香からの電話も待った。
でも携帯は鳴ってくれない。
日が沈んで、部屋の中に青白い光が支配して、サインペンを持つ指が痺れてき
ても、紗耶香からの電話は来なかった。画用紙の中にあの時の川原が現れ始める。
広がる緑と草の匂い。同じリズムでわたしたちを包んだ川の音。突き上げるよう
な青空――もちろんそれらがすべて再現されたわけではなかったが、わたしの胸
で焼きついて姿を変えたその光景は、ほぼ膝の上に現れていた。
213 :
:02/03/14 03:50 ID:BHrRoZLd
食事も取らなかった。もちろん飲み物も口に入れなかった。ただ無心に絵を書
き続ける。今のわたしにはそれしかないと思った。
気がつくと時計の針が天辺まで来ていた。体はいつの間にか疲れ果てている。
サインペンを持つ指が震えていて、僅かに赤くなっていた。頭の中がぼんやりと
している。数時間、絵を書いていたときの記憶が途切れ途切れで、急に今居る自
分も現実ではなく、夢の中のように心細い存在に感じた。
結局、紗耶香からの電話は無かった。
わたしはゆっくりと立ち上がると、居間の電気を消す。何一つ無い闇が襲って
きてわたし自身を別の世界に連れ去っていくような気がした。
ソファに倒れる。
スケッチブックがその衝動で落ちた。
その上で仰向けになるように横になると、ゆっくりと眼を閉じる。
体が重くて、心は押し潰された。気がつくと涙が一粒流れて、耳の横を通り過
ぎていった。
それから数時間、わたしは眼を閉じていたが眠りにつくことは出来なかった。
眼を開けるとすでに闇に慣れたのか、居間の光景がぼんやりと把握できた。そこ
からわたしはしまっていた睡眠薬を取り出した。
いつもより、ほんの多めに。
何も考えられないように、いつもより多めに――。
わたしはそれを飲んで、ソファに倒れた。
意識が無くなった。
214 :
:02/03/14 03:53 ID:BHrRoZLd
保全ありがとうございます。
ちなみに近いうちに終わります。
あぁ、終わりが近付いてますか。
おつかれさまです。
飯田さん、市井ちゃん、どうなんだろ?
楽しみに待ってます
217 :
:02/03/15 16:43 ID:k9Od4/TY
◆
喉の奥に何かが引っかかった感じがして、わたしは咳き込みながら目を覚まし
た。その勢いでソファから落ちて、スケッチブックを下敷きにする。
肺がヒリヒリしている。喉の痙攣が治まらなくて、咳き込みはいつしか嗚咽へ
と変わっていった。
苦しさからテーブルの上の画材を腕で払い除ける。紗耶香が使っていたコップ
の液体がまだ残っていたのに気がついて、わたしはそれを掴んで一気に飲み干そ
うとする。しかしうまく液体が喉を通らない。また咳き込みながら液体をテーブ
ルの上に吐き出した。
ゲホゲホ、と蹲りながら咳き込む。吐き出された空気を吸うことが出来ない。
苦しさから涙が出てきて体が震えた。
数分そんな事をしていると、ゆっくりと呼吸を取り戻す。眼の涙を手の甲で拭
って立ち上がる。まるでお風呂から急に上がろうとした時に似た貧血が襲ってき
て、わたしはふらふらと壁に移動して自分の体を支えた。
口の中が苦い。頭の中に鉛でも入っているのではないかと思わせるように、ず
っしりと重さを感じる。胸のむかつきが突き上げるように襲ってきて、頼りない
わたしの体重を支える二本の足が震えていた。
何とか落ち着きを取り戻すと部屋を見渡す。テーブルを汚す液体に、紗耶香の
置手紙が濡らされている。床にはサインペンが広い範囲で転がっていて、わたし
が飛ばした勢いでキャップが外れたものもあった。ソファの横にスケッチブック。
テーブルの下にはテレビのリモコン。わたしは肩で息をしながら、ゆっくりとキ
ッチンに向かうと、コップに水を汲んで、それを一息つきながら口の中に入れた。
218 :
:02/03/15 16:45 ID:k9Od4/TY
水道から水が流れ出る。ステンレスに叩きつけられて、小さな空気の泡を造っ
ていた。
半分ほど残った水をまるで植物に注ぐように手を上げて流しに捨てる。微かに
指が震えていて、コップを落としそうになった。
蛇口を捻りなおしてわたしはまた居間に移動する。布巾でテーブルの上を掃除
して、散らばったサインペンを集めた。テレビのリモコンをテーブルの上に置く。
さっきのコップが倒れたままになっていた。
それを起こして落ちていたスケッチブックをソファの上に置く。ある程度余裕
が出来ると、そっと窓に近づいて久し振りにカーテンを開けてみた。
わたしは眩しいぐらいの陽射を期待していた。しかし目の前に現れたのは、黒
い雲がどこまでも続く空。灰色の建物はひっそりと存在を殺して、それでもその
雲に背を伸ばしている。車道に車が走り抜ける。道を歩く人々の手には傘が握ら
れていて、どうやら雨が降るらしいということを知った。
振り返ってわたしは時計を確認した。
219 :
:02/03/15 16:47 ID:k9Od4/TY
「……仕事……行かなくちゃ」
体は依然として重かった。
多分、気持ちも深く沈んでいたのだと思う。
鏡台の前に座ったわたしは、そこに映る自分の姿にもはや驚くことは無かった。
何かを隠すように、少し厚めの化粧をする。
でも、その表情は隠せないのだと知った。
あなたの存在価値は?
そう尋ねられているような気がして、わたしは鏡を見ることをやめた。
ずっと頭の中に、子犬の鳴き声が聞こえていた。
220 :
:02/03/15 16:49 ID:k9Od4/TY
◆
重い雲が蓋のように覆っている。
湿気が強いせいか、青々と茂った街路樹の葉が湿っている。水滴になったそれ
が数滴地面に落ちて、アスファルトを黒く染めた。
陽射も出ていないのにサングラス掛けるのは変だよな、とわたしはぼんやりと
思いながら、片手に持った傘を地面に杖のように突き立てながら駅までの道のり
を歩いた。ガードレールのすぐ横を車が通っていく。白い煙があちらこちらで舞
い上がり、まるであの雲を製造しているのではないかと思わせるほど、それは空
中に舞って消えていく。
すれ違う人々は足早で、色とりどりの傘が揺れた。顔を下げながら、足元だけ
を見る。擦り切れた靴がわたしの横を通り過ぎていった。
ママ、と言う声が聞こえてわたしは顔を上げた。数歩ほど前で、コンビニの中
に入ろうとする子供が親の手を引いている姿が見えた。まだ学校に上がるか上が
らないくらいかの女の子だ。ピンク色のTシャツが鮮やかで、この重い雲に光を
遮断された世界には少し浮いて見えた。
ダダをこねる女の子に負けたようで母親が引き摺られるようにコンビニの中に
入っていった。わたしはその横を通り過ぎて、ガラスの中の店内に視線を渡した。
女の子はすぐにお菓子コーナーに消えていった。
221 :
:02/03/15 16:51 ID:k9Od4/TY
足を止める。
雨粒が一粒首筋に感じた。
辻に会ったら、お菓子を食べさせるのをやめさせようと思った。
あれ以上太っちゃったら新しく入ってくるメンバーにも示しが着かなくなっち
ゃうね。
そう思いながら再び歩く。
加護に会ったら体のことを気にしてあげよう。
吉澤に会ったら今度のユニット頑張ろうと言おう。
石川に会ったらポジティブになったねって誉めよう。
矢口やなっちにはいつもありがとうと言おう。
後藤にはもっと輝いてって言おう。
そして圭ちゃんには――。
頬に一粒の涙が伝ったのに気がついた。
わたしはそれを拭うことなどせず、また足を止めて垂れ下がる雲を見る。サン
グラスに数滴の雨粒が当たった。
222 :
:02/03/15 16:55 ID:k9Od4/TY
自分には、何て言おう?
わたし自身には、なんて言う言葉を掛けられるだろうか?
横を通り過ぎていく男性が一瞬顔を上に向けてから持っていた傘を広げた。ま
るでそれが合図だったかのように、周りの人たちも次々と彩りどの傘を広げる。
生暖かい風に湿気が篭っている。肌をジットリと湿らせて、雨の粒を横から連
れ去るように逃げていく。傘を広げる人の波の中、わたしの足は動くことをやめ
て、その場に立ち止まる。そんなに長い距離を歩いたわけではないのに、肩で息
をするわたしは、きっと周りの人から見ても変だっただろう。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
わたしは後ろに振り向く。
色とりどりの傘がわたしに向かってくる。
人々の顔はまるでマネキンのように表情が無かった。
まだ心臓が高鳴る。わたしは一歩足を踏み出した。
雨が徐々に強くなり始めていた。それでもわたしは持っていた傘を広げること
は無く、頭の中で響く声に導かれるように歩く。
ああ、と思った。
あの声だ。
昔CMで見た子犬の鳴き声だ。
223 :
:02/03/15 16:57 ID:k9Od4/TY
わたしはその鳴き声を辿るように走り出す。雨粒が顔に当たる。人の波の隙間
を縫って、その子犬の姿を見つけようとした。しかしどんなに走り続けても、ど
んなに周りを見渡しても、その子犬の姿は見つからない。
歩道橋を駆け上がって上から道路を見下ろす。過ぎ去っていく車が途切れるこ
とは無く、向こう側の青信号を突っ切っていく。わたしの上を覆う屋根に雨が当
たって、まるで音楽のようにその細長い空間に響いていた。
耳の奥で子犬の鳴き声が止まない。
それはすぐ近くから聞こえているような気がしたし、遙遠くからのような気も
した。雨のリズムより強く、肌を濡らす不快感よりも激しくわたしの感覚を奪う。
見つけなきゃいけない。わたしはあの子犬を見つけなきゃいけないんだ。
それは強迫観念に近いものだったような気がする。あの時、ただテレビを見て
可哀相だと思っていたわたしの思いを今救ってあげなくちゃいけないんだと思っ
た。そうすることで、その子犬を無視していった無数の人間たちよりわたしは胸
を張られる。胸を張ってその子犬を抱きかかえることが出来るんだ。
224 :
:02/03/15 16:59 ID:k9Od4/TY
歩道橋から降りて強くなり始めた雨に当たる。そっと顔を拭って辺りを見渡す。
そこには何も変わらない風景が灰色の建物と共に並んでいた。
息を切らしながら一歩足を踏み出す。
手に持っている傘が邪魔なような気がした。
車の騒音と共にわたしの携帯が音を上げた。
我に戻って携帯を鞄から抜き出す。青白く光る液晶に雨粒が当たる。携帯のス
トラップが生暖かい風に吹かれて揺れる。
相手は事務所からだった。
腕時計を見ると事務所への集合時間が過ぎていることに気がついた。
わたしはその液晶に視線を落としながら立ち尽くす。通話ボタンの上に置いた
親指に力が入らない。しばらくの間、頭の中が真っ白になったが、わたしを急か
すように響く子犬の鳴き声は止まなかった。
わたしは携帯を切った。
それを鞄の中にしまうと、ゆっくりと顔を上げた。
225 :
:02/03/15 17:01 ID:k9Od4/TY
「……ここにはいない」
自分でも聞き取れない声で呟いた。
ここにはあの子犬はいない。
わたしはずっとあの子犬と共に一緒にいた。ずっと一緒の時間を過ごして、泣
いたり笑ったり、そんな時間を一緒に過ごした。
胸の奥に、その子犬に包まれた時のぬくもりが残っている。
震える、ぬくもり。
救わなきゃ。
あの子を救わなきゃ、わたしはダメになるんだ。
駅とは反対方向に走った。
それから家に戻ってスケッチブックを手にした。
嗚呼、ホント、いい、なんかもう吸い込まれます。文章に上手すぎ!
カオリンがんばれ市井ちゃんを救うんだ!とか言ってみる
ついでにまだ1日経ってないけど保全?
完結してほしくもあり、そうでなくもあり……
ワガママでスマソw
228 :
:02/03/17 23:43 ID:tfj3kUza
229 :
:02/03/18 03:39 ID:/A6WaKeO
◆
川原に着いた時、持ってきたスケッチブックは水分を吸い込んでボロボロにな
っていた。斜面を下るわたしの足は、数センチの草たちに巻きつかれて体勢を崩
される。
きゃ、と短い悲鳴を上げながらゴロゴロと土手を下るわたしの体。持っていた
赤い傘が風に吹かれて舞い上がる。口の中に泥が入り込んで、舌の奥を刺激する
苦味を感じた。
舞い上がる傘に視線を向ける。まるで風船のように空に向かって行ったその傘
は、数秒しないうちに川のほとりを転がり、茶色い水流に乗って連れ去られてい
った。
わたしはゆっくりと起き上がる。背中に当たる雨。生地が肌に張り付いて、そ
の動きを静止させようとしているような気がして、訳のわからない苛立ちが沸き
起こってきた。
息を切らしながらスケッチブックのページを捲る。昨日書いた風景が、すぐに
雨に濡らされてインクが溶け出していた。滲む色の中に、わたしは虚ろだった心
を見せ付けられたような気がする。
斜面を下って、砂利の道に足をつける。周りには人の姿は無く、川の流れが激
しく音を上げていた。
わたしはそのスケッチブックを抱きしめて、ゆっくりと砂利に座り込む。体中、
シャワーに当たったようにずぶ濡れになって、前髪の先から水滴が落ちる。それ
は額に着き、顔中を駆け巡っていった。
230 :
:02/03/18 03:41 ID:/A6WaKeO
「……紗耶香」
わたしは呟く。
まるで抱いているスケッチブックが彼女のように思えた。
絵は完成していた。
わたしがあの時に見た風景。宝石のように光り輝く川原に、手を伸ばして風を
感じる少女。その少女の髪の毛はわたしが知っている頃よりも金色になって、少
し大人っぽく成長した顔立ち。でもどこかに影を感じさせるのは、彼女に子犬の
姿を重ねていたせいだろう。
そっと抱いていた絵に視線を落とした。
彼女の姿は、掌のサイズになってそこに存在している。
顔を上げると厚い雲が落ちてきそうな圧迫感を醸し出している。遠くに見える
橋に数台の車が横切っていく。向こう岸のほうには民家が数件軒を連ねていて、
どこの家も厳重に窓を締めていた。
わたしはそっと溶け出したインクに触れる。その指先を横に移動させていくと、
七色混じって不思議な線が引かれた。紙は今にも破けそうなほど弱くなっている。
水分を吸い込んで、胸の中の風景を消そうとしていた。
それでもわたしは溶け出したインクを絵の上に引いていく。いつしか紙は破れ
て、鮮やかに乗せられた色が原形を留めないほど混ざり合っていく。それは絵を
汚す作業だった。わたしが見た風景は、表面上だけ。気取ったように書かれたそ
れは、わたしと紗耶香を書いたものじゃないと気づいた。
231 :
:02/03/18 03:43 ID:/A6WaKeO
あの時から、わたしたちの心はボロボロだったんだ。
それなのに、それを隠して書いたこの絵なんかに意味があるはずが無い。
そう思った。
絵を汚す作業にわたしは没頭した。
川原に一人、雨が当たる中座り込む女の子の光景は奇妙だったに違いない。わ
たしの姿は多分数人の眼に映っただろう。でもこの時のわたしにはそんな事は関
係なかった。
この絵を本当の意味で完成させないと紗耶香と会えないと思った。
あの子犬を抱き上げることが出来ないのだと思った。
だから他人の目なんか、この時のわたしには関係ない。
気がつくと涙なのか水滴なのかわからないものが頬を伝っていた。わたしの頭
の中にメンバーの顔が浮かぶ。一人一人の素敵な表情。
守らなきゃいけない。
全部、あの子達を不安にさせるものから守らなきゃいけないんだ。
携帯は依然として音を上げ続けていた。
メンバーから、事務所から、マネージャーから。
でもそれに出ることは無かった。
絵を汚す作業に、没頭していたから。
232 :
:02/03/18 03:46 ID:/A6WaKeO
それからどれぐらいの時間、わたしはそこでそうしていたのだろうか? 目の
前の絵はすでに原形を留めていない。ボロボロになった紙の屑が表面に転がって
いるだけだった。
携帯が音を上げた。
それと同時に視線を上げる。
向こう岸の奥、灰色のビルの、先端部分の隙間を縫って僅かに見える黒い雲の
中に、わたしはその時一瞬だけ光を見た。それは降り注ぐ陽射だったように思う。
顔を上げたわたしの視界に、向こう岸で傘を持っている人の姿が映った。赤い
色が鮮やかで瞼の裏側を刺激する。それが何故だか眩しくて眼を細めた。
携帯が止まった。
しかし数秒もしないうちにまた音を上げる。
その瞬間、わたしの体をきつく圧迫感が走った。
向こう岸の傘がゆっくりと持ち上がる。隠されていたその人物の姿が見えてき
て、携帯を耳に当てているのだとわかった。
わたしは立ち上がる。
弱々しい足取りでゆっくりと川に近づいた。
茶色い水流の音が激しくなる。それと比例するように、赤い傘の人物の姿が大
きくなった。
233 :
:02/03/18 03:48 ID:/A6WaKeO
「……紗耶香」
そう呟いてから、わたしは慌てて携帯を取り出した。
液晶には『市井紗耶香』の文字。
顔を上げると彼女は依然としてわたしを見ているのに気がついた。
そっと通話ボタンを押して、わたしは携帯を耳に当てた。
「……カオリ」
その聞こえる声になぜか落ち着いていくのを感じた。まるで彼女がここに来て、
始めからこうして電話を掛けてくるのを知っていたかのように、わたしの気持ち
は少しずつ開放される。
手に持ったスケッチブックに力が加わっていた。
「……ずぶ濡れじゃん」
呟く紗耶香の声が耳に入る。わたしはうん、とだけ頷いた。
「……髪もぼさぼさ」
「……うん」
「……メイクも剥がれてる」
「……うん」
「……体……震えてるよ」
「……うん」
それから紗耶香は一瞬だけ口を閉じてから言った。
「……カオリ……小さいね」
「……紗耶香も……小さいよ」
234 :
:02/03/18 03:50 ID:/A6WaKeO
ずっと頭の中に響いていた子犬の鳴き声が止んでいた。その空間にあったのは
川の音ではない。前から確実に存在していた安心感と紗耶香の姿。真っ白になっ
たわたしだけの世界に、その二つしかなかった。
紗耶香は僅かな間黙ったままだったが、口からこぼれるように呟いた。
「……ここだと思ったよ」
「…………」
「みんな心配してる。リーダーが仕事サボっちゃダメじゃん」
苦笑いする。その声が紗耶香にも聞こえたのかもしれない、口を閉じてわたし
の言葉を待っていた。
「……ダメリーダーだね」
その言葉に対して、紗耶香は何も言わなかった。
川を挟んでわたしたちは携帯で会話をする。雨は依然として降っていた。
「……圭ちゃんから電話あった。凄く慌ててるみたいだった」
「……うん」
「……後ろの方で矢口とかなっちとか……凄い騒いでる声が聞こえてた。バタバ
タしてるみたいだった」
「……うん」
「……でもあたしはカオリが行く所なんて知らないから、圭ちゃんには知らない
って言った」
「……うん」
「……でも、多分ココだろうなって」
「…………」
「……その後、後藤からも電話が来た」
「…………」
紗耶香は少しだけ間を開けた。その数秒に、わたしは色んな感情がこもってい
ることを知った。
235 :
:02/03/18 03:52 ID:/A6WaKeO
「カオリ……何やってるの?」
その言葉だけ、わたしは刺々しいものだけ混じっていることに気がついた。
そっとスケッチブックを脇に挟めて胃に手を当てる。内臓がグルグルと動いて
いる感じがした。
風が吹いて雨が横殴りになる。全身濡れた体には、それがどこから来ようとあ
まり関係は無かったが、耳に入り込んで来る雨粒だけ不快に思った。
胃の上の服を掴む。手が震えていた。
「……わたしは救わなくちゃいけないんだ」
「……救う?」
紗耶香の疑問の声があがる。それでもわたしにはそんな事関係なかった。
助けなくちゃいけない、抱き上げなくちゃいけないという思いは、この時のわ
たしの全てだった。だから目の前の存在は、探し続けていた子犬なのだと確信し
ていた。
下唇を噛んでから、わたしはゆっくりと口をあける。
「子供の頃の子犬……テレビの中の子犬……」
「…………」
「……可哀相だった……子供の頃見ていて……誰か救ってあげないのかって……
そう思ったの……でもそれは違うんだ。誰かじゃない。わたしがそうしないとい
けないんだって……だから……」
紗耶香は黙ったままわたしを見ていた。持っている赤い傘が微かに揺れている
様に思えて、その残像が目の奥に焼きつく。脳の後ろが締め付けられる感じがし
た。
236 :
:02/03/18 03:55 ID:/A6WaKeO
「紗耶香……ねぇ見てよ」
「…………」
わたしはスケッチブックを彼女に見えるように掲げた。
「あの時の絵が出来たの……この川原で書いていたあの絵が出来たの……ボロボ
ロになっちゃったけど……やっと完成したんだよ」
「……いいよ……もうわかったよ」
「うまくわたしたちのことを書けたかわからないけど……でも精一杯書いたよ。
紗耶香、わたしの絵が好きだって言ってくれたよね」
向こう岸の赤い傘は確かに揺れていた。紗耶香は何かを否定するように首を横
に振っていたようだ。
雨粒が当たっている顔を拭う。スケッチブックはすでに水分で重くなって曲が
っている。
「カオリ……違うよ……あたしたちは――」
機械を通して聞く紗耶香の声はどこか上ずっている。どうして悲しそうな声を
出すのかわたしにはわからなくて、早く好きだといってくれた絵を見せてあげな
くてはいけないという思いを強める。
「あたしたちは……お互いに弱さを見せちゃダメだったんだ……あたしもカオリ
も、それを受け止める事出来ないから……だから傷つけあうだけだった」
わたしは一歩川に足を入れた。冷たさが脳を突き上げる。
「余裕がないんだよ……あたしには……何かを受け止められる余裕が無い。だか
ら――」
237 :
:02/03/18 03:57 ID:/A6WaKeO
紗耶香の声が止まる。
何かに気がついたように一歩足を踏み出していた。
「カオ……カオリ――ねぇ何やってるの!」
わたしの両足はこの時すでに川に浸かっていた。流れる茶色い水流に逆らうよ
うに一歩一歩と歩く。
「カオリ! ちょっと!」
流れは速くなっていた。水量が膝辺りまでくると、足を取られないようにする
ことで精一杯になってくる。それでもそれはただの障害としかわたしには思えな
かった。わたしと紗耶香の間にある、ただの障害。それを乗り越えないと、スケ
ッチブックの中の絵を見せることが出来ない。
「やめてカオリ!」
叫ぶように紗耶香は言った。その声は電話の向こうからも聞こえてくる。唖然
とわたしを見ている彼女は、川の数歩前で足を止めていた。
流れに体をとられてわたしは持っていた携帯を離した。それはすぐに水の中に
沈んでいって、再び拾うことも出来なくなる。依然として振り注ぐ雨と、それに
跳ね上がる水滴。上と下からわたしに水の粒が当たってきて呼吸を邪魔する。そ
れでも前に進むことはやめなかった。川の三分の一ほどまで辿り付くと、水は腰
辺りまで来ていた。流れが異常に速くなって、否応無く足を取られていく。
238 :
:02/03/18 04:00 ID:/A6WaKeO
「カオリ! 危ないから戻って!」
紗耶香はすでに携帯を投げ捨てていた。その声は直接向こう岸から聞こえる。
視線を何度も水流に遮られて、口の中に泥の味がした。鼻腔を突き上げるのは生
臭さ。息を吸うたびに雨が肺の中に入り込んで何度も咳き込んだ。
「カオリ! お願い戻って!」
わたしは動きを止めた。
その瞬間、それを狙っていたかのように足を持っていかれる。思わず手を着こ
うと水中に腕を伸ばす。しかし体勢を崩したわたしの体は足を浮かせて頭から倒
れる。生臭い水の中、すぐに下流へと連れ去られていくのを感じて、必死で手を
伸ばして掴んだのは小さな石だった。まるで空気を掴むように手応えがない。口
をあけるとそれを狙っていたかのように肺の中に水が入ってくる。咳き込むと一
層と体の中に進入してきた。
その泥水の中でわたしは辻の顔を思い出す。
わたしは本当にみんなのことを考えてきたのだろうか?
わたしは考えているようで、何もわからなかったんだ。
顔を上げる。川の底に足が着いた。それを水流に逆らうように突き立たせると、
わたしは空気を求めて水面に起き上がった。
耳に聞こえたのは紗耶香の悲鳴だった。
「カオリ!」
紗耶香の姿が遠くになっている。どうやらたった数秒で流されてしまったよう
だ。
239 :
:02/03/18 04:02 ID:/A6WaKeO
「カオリ!」
紗耶香は傘を投げ捨てて土手を走る。真っ赤な傘がコロコロとその後を追うよ
うに転がっていた。
「カオリ!」
紗耶香はもう一度叫ぶ。
頭の中が真っ白になる。肺が痺れていて、何度も咳き込んだ。
水量はすでにお腹まで来ていた。それでも川を半分以上渡ったせいか、紗耶香
は戻ってとは言わなくなった。
わたしはもう一度歩く。
胸を張りたいから、この流れに逆らって歩く。
水流に視線を邪魔されながらも、紗耶香が叫ぶ顔が見えた。たった今傘を外し
ただけだというのに、あっという間に彼女は全身を濡らしている。
「紗耶香!」
わたしは流れに逆らいながら叫ぶ。
「わたしは――」
しかしすぐに体をとられそうになって言葉を切った。喋るたびに体の力が抜け
るのかもしれない。
そう思っていながらもまたわたしは口を開いた。
240 :
:02/03/18 04:05 ID:/A6WaKeO
「わたしは強くなりたいの!」
紗耶香が足を止める。
わたしは水をかくように前に進む。
「みんなを守れるくらい強くなりたいの!」
紗耶香が口を抑えている。その頬を伝うのは涙なのか雨粒なのかはっきりとし
なかった。
「だからわたし――」
そう声を上げた瞬間に、また水流に体を奪われた。
「カオリ!」
体をまた水が覆う。その一瞬だけ見えた紗耶香は走り寄るように川に足を踏み
入れていた。
川の中で体が浮く。体勢を整えようとじたばたしても、なにも突っかかるもの
が無く、それは虚しく水を切るだけ。体が一回転して、鼻の中に泥が入り込んで
来る。顔に当たる砂。それはまるでモデルガンの玉を当てられているかのように
痛みを感じた。
裕ちゃんはどうしてわたしをリーダーにしたんだろう?
こんなわたしをどうして選んだんだろう?
241 :
:02/03/18 04:08 ID:/A6WaKeO
空気が口から漏れていく。視界一杯に濁った水が覆う。髪の毛が無重力空間の
ように浮いているのが一瞬だけ見えた。
わたしは変わったんだ。
あの頃から――裕ちゃんがいなくなってわたしは変わったんだ。
わたしの腕を何かが掴んだ。それと同時に体が止まる。勢い良くわたしは水面
に顔を出した。
「カオリ!」
そこには紗耶香がいた。
紗耶香は必死にわたしの腕を掴んでいる。全身水浸しになって、短い髪を額に
つけながらも、その表情は必死だった。
「カオリ! 大丈夫!」
頷く余裕は無かった。多分彼女も返事を期待していない。ただ咳き込むわたし
を、その腕は力強く腰に回る。安心を胸に感じた。
「一歩ずつ! カオリ! 一歩ずつだよ!」
わたしは無言のまま頷く。
呼吸も合わせて、わたしは紗耶香のタイミングで歩いた。体に感じるぬくもり
は、あの時より冷たかったが、それでも心強いものだと思った。
242 :
:02/03/18 04:11 ID:/A6WaKeO
「紗耶香……わたし……」
「いいから。今は黙って」
前を向きながら紗耶香は言う。
それでもわたしは口を開いた。
「紗耶香……わたし恐かったんだと思う。ずっと恐かったんだ」
「いいから」
「必要とされたかったんだ。誰でもいいから、わたしを必要としてほしかった」
「…………」
「……だから恐かったの」
紗耶香はそれに何も返さなかった。
ただ前を向いて歩く。
川を半分以上渡りきって、水量が腰の下まで来るとわたしたちを連れ去ってい
こうとする水流の力は弱まっているのを感じた。それでも紗耶香は気を抜くこと
は無く、一歩一歩慎重に歩く。
その内水量はどんどんと下がっていって、膝の下辺りまでくると紗耶香はわた
しの腕を握って引っ張るように歩幅を広げる。
川を抜け出す。砂利の上に倒れるように逃げて、わたしは仰向けになって落ち
てくる雨を全身で感じた。紗耶香は肩で息をしながら横で膝をついている。水を
飲み込んだのだろう、わたしと同じように何度も咳き込んでいた。
紗耶香が投げ捨てた傘はどこにも見あたら無かった。わたしたちの位置は始め
にいた場所より流されていて、遠かった橋が大きく写っている。
243 :
:02/03/18 04:13 ID:/A6WaKeO
「カオ……カオリ……」
紗耶香が弱々しく立ち上がりながらわたしの元に寄ってくる。頭の上で膝を突
くとそっと掌を頬に当てた。
紗耶香の手は氷のように冷えきっていた。
「大丈夫?」
わたしはゆっくりと頷く。
「無茶だよ……本当に……無茶なことしないでよ」
わたしはゆっくりと腕を上げる。硬く握り締めていた手を彼女の目の前に突き
出すとそれを広げた。
彼女は掌にある紙切れを掴むと不思議そうに視線を落とす。
わたしは苦笑いしながら言った。
「絵……こんなにちっちゃくなっちゃったよ」
そう呟くと、紗耶香は大事そうにスケッチブックの切れ端を両手で掴んで何度
も頷いた。
雨が降り注ぐ。雲にはどこにも切れ目は無い。
紗耶香が電話をくれる前に、ビルの隙間を縫って見た陽射は幻だったのだろう
か?
そう思いながらわたしはゆっくりと立ち上がった。
244 :
:02/03/18 04:20 ID:/A6WaKeO
「カオリ……」
足が震えているせいだろう、紗耶香は心配そうに声を掛けた。
目の前の視線が霞む。体全体が悲鳴を上げているようで、震えが止まらなかっ
た。それでも頼りないわたしの二本の足は真っ直ぐに伸びて、その体重を支えて
くれる。眼に入る前髪が邪魔でかき上げる。視界が少しだけ広がったような気が
した。
幻じゃない……。
わたしは思う。
あの一瞬だけ見えた陽射は幻なんかじゃない。
子犬の鳴き声は止んでいる。その純粋に輝く瞳の理由が、この時不意にわたし
の頭の中に沸き起こってきて、言い知れない高揚感が気持ちを煽る。
両腕を雨が感じやすいように広げた。顔を上げて厚い雲を見る。あの向こうに
は眩しいぐらいの光が存在しているに違いない。そう思うと愉快な気持ちになっ
て、口元に笑みが浮かんだ。
「カオリ……」
紗耶香がわたしを見上げながら呟いた。どうして笑みを作っているのかわから
ない様子で、表情が強張っている。
雨は依然として弱くならない。それはさっきと変わらないはずなのに、なぜか
わたしはそれが酷く心地良いように思えた。
降り注ぐ雨。
わたしは腕を広げながらクルクルと回る。
馴染みのリズム。
245 :
:02/03/18 04:22 ID:/A6WaKeO
「カオリ」
紗耶香が立ち上がる。
わたしは彼女を見ると一度だけ頷いた。
それから一歩二歩、と歩く。それから徐々に歩幅を広げて小走りにした。
雨を全身に感じて、頼りない足取りだけど砂利の上を走る。いつしかその行為
自体が愉快に思えて、口元の笑みは笑いに変わっていった。
そうか。
あの子犬は捨てられたわけじゃなかったんだ――。
開放されていく気持ち。
わたしの心がどこかに飛んでいく――そんな気がした。
「カオリ!」
紗耶香がわたしの後を追って走り出す。すぐに追いついた彼女は背中に抱きつ
くようにわたしのお腹に腕を回した。
「カオリ! どうしたの? ねぇ!」
わたしはそれに答えることなく、また走り出そうとするが堪り兼ねた紗耶香が
強引に腕を引いて地面の上に押し倒した。背中にでこぼことした感触が突き刺さ
る。その上に紗耶香は覆い被さるようにわたしのお腹の両脇に膝をついて、腕を
顔の横に付き立てる。
「カオリ!」
水浸しになった顔でわたしを見下ろすその表情は不安の色を隠せない。一粒の
水滴が髪から滴り落ちて鼻先に当たると、そっとわたしは彼女の頬に手を当てる。
冷え切った肌の柔らかさを感じた。
246 :
:02/03/18 04:24 ID:/A6WaKeO
「カオリおかしくなったの? ねぇ! カオリ!」
大丈夫。
わたしは口の動きだけでそう言った。
「どっか行っちゃうよ! カオリが――」
大丈夫。
わたしは頬に当てていた手を離して、両腕を彼女の首の後ろに回した。それに
釣られるように紗耶香はゆっくりとわたしの上に覆い被さる。荒々しい息を耳元
に感じた。
「紗耶香……大丈夫だよ」
わたしは呟いた。
「わたしは大丈夫……もう大丈夫なんだ」
「……カオリ」
紗耶香の声が震えていた。
腕を離すと、紗耶香はゆっくりと起き上がってわたしから降りた。上半身だけ
を起こして、首を上に向ける。横にいる彼女は呆然とした眼差しを向けていたよ
うで、その視線を首筋に伝う水滴と共に感じる。
247 :
:02/03/18 04:27 ID:/A6WaKeO
「子犬……あの子犬は捨てられたわけじゃなかったんだ」
「…………」
視線の先はどこまでも続く黒い雲が広がる。降り続ける雨は眼や耳の中に入り
込んでは来ていたが、不快感どころかその時のわたしには気持ち良いとさえ思え
ていた。
「あの子犬の眼はね、前に紗耶香が話してくれた犬のような眼をしているんだ。
純粋に輝いている、誰かを信頼している――そんな眼をしていたんだ」
紗耶香は呆然とわたしを見ていた。一切口を挟むことは無い、ただ言葉の続き
を待っているのだと思った。
「あの子犬はきっと道に迷っちゃっただけなんだよ。ちゃんと帰るお家はあるの
……帰ったら暖かい家族が待っている……だからあんなに純粋な眼をしていたん
だと思う」
「……帰る場所?」
わたしは小さく頷く。
「あの子犬にはそこがあったんだと思う。だから、綺麗な眼をしていられたんだ」
わたしにもその場所があるのだと思う。八人の女の子がわたしを待っていてく
れる。そして紗耶香にもその場所がある。
紗耶香はその事に気がついたのだろうか、何かに駆られるように視線を遠くに
飛ばした。その向こう側にあるのは、あの雲を突き抜けるほどの光だったのだと
思う。わたしが見た、あの陽射だ。
248 :
:02/03/18 04:29 ID:/A6WaKeO
強く――わたしは強くならないといけない。
紗耶香だって同じだ。
わたしはメンバーを守るために強くなって、紗耶香は光に当たるために強くな
らないといけない。
でもそれは今すぐじゃなくてもいいのではないだろうか? 今すぐそうならな
くたっていいのではないだろうか?
わたしたちにはまだ時間が用意されている。だからゆっくりとそうなればいい
のだ。
紗耶香は強くわたしの右手を握った。
微かに暖かくなり始めている体温を感じる。
「あたしにも……ある?」
わたしは黙ったまま紗耶香を見ているだけで返事はしなかった。それに彼女は
苦笑いをする。
「あたしは……作り直さなきゃね」
気のせいか雨が弱まり始めているようだ。目の前の川は依然としてけたたまし
い音を上げ続けている。青々と茂った斜面に一瞬だけ視線を向けてから、わたし
は余ったもう片方の手で彼女の手の甲を包んだ。
わたしは少し考えてから、彼女の眼を見た。
249 :
:02/03/18 04:32 ID:/A6WaKeO
「雨は――」
紗耶香は虚ろな瞳でわたしを見返す。
「雨は……多分涙なんだ」
「…………」
「あの黒い雲はみんなのもやもやした気持ちで、嫌な事とか腹が立った事とか、
そんな感情があの中にあるんだよ。それが溜まっていって、こうしてみんなを覆
うんだ。それが一杯一杯、溢れるぐらいになると、今度は雨として涙が降ってく
るの……雨が降ると気持ちが沈んでいくのはそのせいなんだよ、きっと」
「…………」
「でも一杯一杯泣いたら気持ちが晴れていくみたいに、あの雲も無くなっちゃう
んだ。泣いた後はスッキリするから……だからねわたしたちは雨に当たらないと
いけないと思うの。みんなの悲しみを感じてあげないといけないと思うの。そう
しないと、その悲しみが可哀相だから……だれにも受け止められない悲しみほど、
悲しいことは無いと思うの」
紗耶香は黙ったままわたしを見ていた。その表情は何も変わらない。
それから一息呼吸を置くとわたしは言った。
「だから――空はいつか晴れるんだ」
呆然とわたしの言葉を聞いていた紗耶香の表情が、ゆっくりと崩れていく。
クスッと彼女は笑った。
250 :
:02/03/18 04:34 ID:/A6WaKeO
頬に水滴が伝っている。
それから顔を上げて、覆う雲を見た。細い首が伸びて雫がゆっくりと伝ってい
く。降り続く雨の中にその視線は何かを捕らえたようだった。
紗耶香はまたわたしを見る。
それから困ったように微笑んだ。
「意味わかんない」
紗耶香はけたけたと笑った。
それはわたしと過ごしてきた中で、決して見ることが出来なかった純粋な笑い
だということに気がついた。鏡台の前で気を使う笑いではない、間を繋げるため
の愛想笑いでもない。昔、いつも楽屋で聞こえていた時のように、楽しいと言う
気持ちだけが込められた声だった。
いつの間にかわたしも一緒になって笑う。
嬉しくて、一緒になって笑った。
ひとしきり笑い終えた彼女は、わたしの髪を触った。水分を含んで固まったそ
れを指先に絡めてから、そっと頬に手を当てる。
251 :
:02/03/18 04:37 ID:/A6WaKeO
雨は依然として降り続いていた。
風の中に微かな夏の匂いを感じさせる。
鳴り響く川の音の中で、紗耶香はそっとわたしの唇に口をつけた。
一秒もしない、ほんの僅かなくちづけ。
顔を離した彼女はありがとう、と小さく呟いた。
そのくちづけは、あの頃日常茶飯事に行なわれていた行為。
あの頃のように――。
触れるだけの刹那的なぬくもり。
252 :
:02/03/18 04:40 ID:/A6WaKeO
◆
紗耶香……雨止んだ?
どうかな? でも音は聞こえなくなったね。
空……晴れているかな?
どうだろ? カーテンはずっと暗いままだよ。
ちょっと疲れちゃった。
……うん。
もう一度だけ……眠らせてね。
……うん。
すぐ……起きるから。
……うん。
だから……少しだけ眠らせてね。
……おやすみ……カオリ。
253 :
:02/03/18 04:42 ID:/A6WaKeO
エピローグ
本番数分前、セットの裏で待機していると、圭ちゃんがうろうろと辺りを見渡
しながら歩み寄ってきた。
生のテレビ番組の収録で、セットの裏には色んなアーティストの人たちが待機
している。スタイリストの人たちが最後まで余念なく髪形などを治したり、汗を
拭いたりしている中、ハロープロジェクトの面々はその人数の多さからか高い声
で様々な言葉を飛び交わせていた。
どうしたの? とわたしが声を掛けると圭ちゃんは眉をしかめて辻がいないの、
と呟くように言った。わたしはその言葉を確かめるように、はっぴ姿の女の子の
人数を数えてみる。確かに九人しかいない。
「もう少しで本番なんだけど……」
わたしには思い当たる節があった。
リハーサル中、次々と無事に済ませていくユニットの中で、わたしたちは何度
かやり直しをさせられていた。それは十人と言う人数もさることながら、複雑に
入り組んだフォーメーションなど、確認するだけでも時間を取る。その中で辻は
何度か失敗をして、時間を押しているのは自分のせいだと思い込んでいたようで、
楽屋に戻っていく廊下では、その表情はずっと曇ったままだった。
「不安なのかもしれないね」
わたしは呟いた。
圭ちゃんは黙ったままわたしに視線を向けている。
「本番までまだ時間あるよね……呼んで来るよ」
そう言って背を向けたとき、圭ちゃんが呼び止めるようにわたしの名前を言っ
た。振り返ると彼女は複雑な表情を向けている。
254 :
:02/03/18 04:45 ID:/A6WaKeO
「カオリ……」
何を言いたいのか、何となくわかった。
わたしは空中に視線を泳がせてから、何も言葉が浮かばないことに気がついて、
一度だけ頷いた。
圭ちゃんは口を開いて何か言おうとしてやめた。
数秒の間を開ける。その間周りの賑やかな声は止まなかった。
「……時間……無いからね」
「わかってる」
わたしは駆け足でスタジオを抜け出した。
長い廊下の中、小走りで楽屋へと戻っていくわたしの足取りは、あの頃いつも
感じていた重さはなかった。依然として気苦労は耐えなかったし、胃も締め付け
られる。それでも、それでいいのだと思った。
数日前に久し振りに紗耶香と連絡を取ると、彼女は明るい声で復帰の目処が立
ちそうだと言うことを言った。これからまだまだ大変だと思うけど、スタートラ
インがやっとで見えた感じがするんだ、とそこには前向きな言葉が並ぶ。
一人で強がっていたカラッポのプライドをやっとで壊せたよ。
今朝目を覚ますとそんなメールが入っていた。
255 :
:02/03/18 04:47 ID:/A6WaKeO
わたしは足を止めて右手の窓を見る。太陽が天辺で輝いていて、縦並ぶビル郡
が大きな陰を作っている。眩しいぐらいの陽射の中、雲一つ無い空にわたしは気
持ちを広げた。
楽屋の前に着く。そっとドアを開けると薄暗い空気を感じた。
「辻」
わたしは声を出して中に入る。蛍光灯は消えていて、ブラインドの隙間からこ
ぼれる光だけが唯一の光源で、その中に埃がうっすらと漂っているのが見えた。
細長いテーブルの上にはわたしたちユニットのメンバーの荷物が乱雑に散らばり、
パイプ椅子がバラバラになって配置されている。その入り口から見て突き当たり
に辻がぽつん、と一人座っている姿が見えた。
鉢巻を頭に巻いて、髪を二つのお団子に結い上げている。赤地に青いラインの
はっぴはわたしが着ているものと一緒だった。
「辻……もう少しで本番だよ」
静けさだけがその空間を支配する。
ブラインドの隙間からこぼれる陽射は、テーブルの上に張り付いて、いくつも
の細長い線を描いていた。
辻はゆっくりと顔を上げる。その顔には不安があった。
わたしは思う。
辻はずっと不安だったんだ。裕ちゃんがやめて、わたしが不安だったように、
確実に変わったメンバー内の空気や周りの眼。それらを辻は感じていてのかもし
れない。だからずっと不安だったんだ。
256 :
:02/03/18 04:50 ID:/A6WaKeO
わたしはゆっくりと辻の元に歩み寄る。
足音がコツコツと壁に響いた。
数歩前で足を止める。
目の前の小さな女の子は、虚ろな眼でわたしを見上げた。
不安はこの先ずっと抱えていくものだろう。
一つの不安が解消されても、また新たなそれが生まれる。わたしたちはきっと
その繰り返しを延々と続けて、そして一歩ずつ何かに向かって歩いていくのだと
思う。
その過程で人を傷つけることもあるかもしれない。逆に傷つけられることもあ
るかもしれない。その度にわたしたちは悩んで、そして笑っていく。
大丈夫。
そのことがわかっていれば大丈夫だ。
わたしはゆっくりと息を吸い込むと、不安そうに顔を上げている辻に向かって
言った。
257 :
:02/03/18 04:52 ID:/A6WaKeO
「……行こう」
「…………」
小さなわたしの声が壁に反射する。
辻は黙ったままわたしを見ていた。
「辻……行こう」
「……いいださん」
鼓動が高鳴っていた。
体の奥が熱を持っている。
わたしは小さく深呼吸をすると、辻に手を伸ばして言った。
「わたしに――付いてきなさい」
静寂の中で力強く――。
わたしは辻の手を、硬く握った。
(終了)
258 :
:02/03/18 05:13 ID:/A6WaKeO
無事に終わりました。
考えていたより長くなってしまいました。
自分で地味と言っておきながら、最後まで本当に地味に終わって
いくとは思いませんでした。
至らない部分などあったと思いますが、レスや保全をしてくれた
方々に感謝します。
ありがとうございました。
>>226-228 保全とレスありがとうございます。
本当に励まされました。
しっかり完結させてくれた貴方に感謝。
お疲れ。
260 :
ななし:02/03/18 08:37 ID:sX5CVj1k
ハァ〜一番楽しみにしてたのが終わってしまった。
作者さん、お疲れ様。この数ヶ月楽しませてもらいました。
また、何か書いてちょ。
ほぜ〜ん
完結ありがとう。
さて、も一度最初から読み直すとするか。