紺野のスポ根(紺)小説

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タクシーに乗って30分。試合会場の後楽園ホールはあと数分の距離だ。しかし、
「あの、まだ着かないんですか?」
運転手さんに吉澤さんが言う。
「そんなこと言ってもこれ見てくれよ。こんな渋滞じゃ進めないよ」
「・・・。あ〜、ついてないなぁ。まさか目の前で渋滞に巻き込まれるなんてさ」
そんなに慌てるほどの時間かなあ・・・。
「あの、このチラシには、試合開始は3時からって書いてますよ」
時計を見ると、まだ2時ちょっと。渋滞とは言え、充分間に合う時間だ。
「違うよ、それはメイン開始の時間!そいつ出るのはセミだからもう始まってるの」
「・・・?」
「虫じゃないよ。セミファイナル。簡単に言えば、メインが主役なら、セミは準主役みたいな感じ」
「あ〜・・・なるほど」
「ふふん、これでまた一つ賢くなったね。・・・ってそんな事言ってる場合じゃない!運転手さん、ここで止めて!」
吉澤さんが言うと同時に急ブレーキをしてタクシーが止まった。
「・・・急ブレーキは危険ですよ」
「そんなこと言ってるヒマないって!あ〜やばい!走るよ!」
吉澤さんは1000円置いて「お釣りはいいです!」と言ってタクシーを降りた。
私も降りようとすると、運転手さんが私を引き止めた。
「あの、お金」
お金?今払った・・・と思ったらメーターは1500円。
私は財布から500円出して運転手さんに渡した。
「紺野、何してんの?ボーっとしてないで早く行くよ!」
吉澤さんが叫んでいる。それはないです・・・。

「あちゃー!やっぱりもうやってるよ!」
ホールに入ると、すでにリングの上では試合の真っ最中だ。
「え〜と今は・・・第8ラウンドか。おっ、西島さん!いいよいいよ〜!もっと打って!」
吉澤さんが声を出して応援する。パンフレットを見ると、メインの日本タイトルマッチの下に小さく「セミファイナル西島義則(ヨネクラ)」と書かれている。
リングを見ると、赤いトランクスの選手が黒のトランクスの選手を打ちまくっている。
おそらく赤の選手が、吉澤さんの応援している西島さんだろう。
黒のトランクスの選手はこめかみまでガードを固めてはいるものの、全く手が出ない。
亀のように固まっている相手に、西島さんは容赦ない連打を浴びせる。
「あ〜!相手しぶといな〜!西島さん、もっともっと!」
吉澤さんの声に反応したかのように、西島さんのパンチが相手のガードの隙間を縫ってヒットし、相手選手がよろめいた。
「うお〜〜〜!!今だ!行け〜!」
ここぞとばかりに西島さんが前に出て止めのパンチを繰り出す。
「あっ!」
私は思わず声が出てしまった。パンチがヒットして倒れたのは西島さんの方だった。
西島さんのパンチが当たる瞬間、相手選手はガードを下げてパンチを避け、逆にパンチを繰り出したのだった。クロスカウンターだ。
相手選手のカウンターを顎に直撃し、西島さんは倒れたまま動かない。
レフェリーが途中でカウントを止め、ドクターを呼ぶ。相手選手の逆転KO勝ちだ。
「・・・はあ・・・。まあ、こういうこともあるわな」
吉澤さんが私の横でため息をつくのが聞こえる。しかし、私は試合の終わったリングの上から眼を離せなかった。
「・・・私はこれから控え室に行って、様子見てくるけど、あんたはどうする?」
私には吉澤さんの声が耳に入らなかった。ただ一心にリングの中を見つめている。
西島さんがスタッフに担がれて退場するのを見ると同時に吉澤さんは「じゃあ、私は控え室にいるから」と言って、出ていった。
それでも私は動かなかった。いや、動けないのだ。私は相手選手がガードを下げたのを見た瞬間に金縛りにあった。何故なら・・・。
「ただ今のKOタイムをお知らせいまします。8ラウンド1分37秒、8ラウンド1分37秒、戸高覚士選手のKO勝ちでございます」
ガードを下げた時に見えた顔。それはあの戸高さんだった。