ところかわってここは職員室。午後に行なう入学式にそなえ、
忙しなく準備を進めている先生や、受け持ちクラスへ配布する為の、
プリント作成などをする先生も見えます。
ほとんどの教師が、昼食を抜かして働いているのです。
ののちゃん達の担任である中澤先生も、お昼ご飯を回避した一人でした。
朝食を取らぬまま学校へ来てしまう、そんな事の多い中澤先生にとって、
遅めのブランチは、必要不可欠な栄養補給のはずですが、今日ばかりは、
そうも言っていられませんでした。
校舎の2階に位置する職員室。そのベランダは、喫煙組の先生達にとっての、
憩いの場となっています。
職員室内にも応接セットがあり、そこに灰皿は置かれているのですが、
見晴らしが良く、また、嫌煙組の教師に文句を言われる事のないこのベランダが、
最も好まれる喫煙所となっているのです。
愛する生徒達のはしゃぐ姿を見て、愛する煙草を一服する。
自らも喫煙をたしなむ中澤先生は、ここからの眺めが、学校内で一番好きでした。
そして今も、中澤先生はベランダにおります。
「どうやった? C組の印象は」
「んーそうだなぁ」
誰が持ってきたのか、いつからかそこに置いてある折り畳みイスに腰を下ろす、
中澤先生と、ィーダカオリ改め、飯田圭織先生。
この二人の教師が初めて出会ったのは、今日から二日ばかり前のことでした。
生徒達にとっての新学期よりだいぶ前から、教職員達の新学期はスタートしています。
小さな事柄から大きな事柄まで、一つ一つが大切な準備なのです。
そんなある日、いつもの様に職員室へ入る中澤先生に、校長からお呼びがかかりました。
「げっ、なんやろ」
動きの止まる中澤先生を、今年度から教師になった平家がからかいます。
彼女はかつて、教師一年目時代の中澤に、生徒として師事を受けた経験があるのです。
破天荒な教師に、何を間違ったか感銘を受け、同じ道を選んでしまったこの教え子は、
中澤にとって数少ない本音を話せる仲であり、恥ずかしい過去を知っている相手でもあるのです。
「中澤先生、また何か失敗したんとちゃいます?」
「そんなんあるかい……。いや、またやってしもたんかなぁ……」
酒豪で知られた中澤先生ですが、一度や二度、三度や四度、お酒の席で、
はめを外し過ぎた経験がありました。
「昨日あった親睦会、中澤先生けっこう飲んでましたよね」
「そうかあ? 別に記憶なくなるほどは、……飲んでへんと思うねんけど」
「ホンマですの? 中澤、セ、ン、セ、イ」
「ってお前なあ、もう同じ立場なんやから、裕ちゃんって呼べ言うたやろ」
お肌の曲がり角をかなり以前に迎えた中澤先生は、その頃から、
身近な人に対し自分のことを、愛称で呼べと強要しているのです。
「裕ちゃんって年齢でもないでしょうに」
「ウッサイ、これもそれも全部、愛情表現の一つや。文句は言わさん」
「ひー裕ちゃん先生が怒ったー。早く校長室行っちゃえー」
「あ、忘れてた」
小声の寸劇を興じ終えた中澤先生。足取り重く校長室へ向かい、その扉をノックします。
コツ、コツ。
「中澤です、失礼しますっ」
返事もまたず室内へ入るとそこに、見慣れた禿頭の校長と、長髪の女性が立っておりました。
「ああ中澤先生が来ましたよ。中澤先生、こちらに来て下さい」
「は、い」
小言の一つも言われるかと心配していた中澤先生ですが、校長の表情を見ると、
そういう事ではなさそうです。
要領の得ぬまま、促されてソファへと近づく中澤先生に、隣合う形となった、
その長髪の女性が頭を下げます。
「中澤先生は今年、C組の担任でしたよね?」
「そうですけど、こちらの方は?」
女性の横顔に目をやりながら、自分よりだいぶ若そうだけど、
まさか転校生でもあるまいし、と思う中澤先生。
「こちらは飯田先生です」
「え、教師なんですか?」
失礼を承知で、中澤先生は女性の顔をまじまじと見ました。
これでも30年近く生きてきた中澤先生です、顔や仕草で年齢を察するくらいは、
それほど遠からず当てる自信はありました。
たまご型の顔にあって、印象的なほどに大きな瞳の所為か、
小皺の多い目の周辺――隈がちょい目立つなぁ――でしたが、肌の張りやきめの細かさ、
立ち居振る舞いから想像するに、まだまだ二十歳程度、下手すれば大学生と言っても、
何ら疑問は湧かない、そのくらいに見えます。
「教師と言ってもまだ学生さんなんですよね?」
自分の驚きを察してか、説明を求める校長。そして、その意図を読み取り自己紹介する、
飯田と呼ばれた女性。
「はい、旭乃教育大に通っています、今年三回生の飯田圭織です」
やっぱりと、中澤先生は自分の勘は当っていたことに納得しました。
「県の教育委員会で、モデル校を選んでいるという話しは先日話しましたよね?」
「はあ」
校長のその言葉を受けて、中澤先生には一つの解答が思い浮かびました。
新しい教育の形や教師の形を模索する為、教師を目指す大学生の在学期間に、
副担任として小学校、もしくは中学に派遣し、丸々1年の教鞭を取らせ実習をさせる。
そんな制度の立ち上げを目指した、実施モデル校を選定しているという話しは、
確かに聞いたことがありました。
ということは、と中澤先生は思います。
大学での講義ではなく、派遣先の学校での業務如何で、単位の取得を決めるわけですから、
それなりに大学側からも、また預かる学校側からも、充分な信頼が必要で、
極めて優秀な学生が選ばれ、派遣されたことになるのでした。
「大変難しい審査を合格して、この旭乃中学に来られたのが、飯田先生なのです。
もちろ我が校にとっても、モデル校に選ばれたことは名誉なことなんですよ?」
尊大な口調の校長に、それとこの飯田と呼ばれる学生教師を前に、
優秀とは言い難いと自己分析する中澤先生は、少し冷めた気持ちになりました。
「飯田先生には3年C組の副担任を勤めてもらいます。
本来なら受験を控える大事な学年ではなくて、もっと低学年をと思っていたんですけど、
飯田先生たっての願いを、教育委員会も承諾した、ということで」
説明しながら、苦々しい顔をする校長。
その訳は、中澤先生にもよくわかりました。
派遣された学生の、指導と採点を任されるのは、正担任なのです。
金髪ハデハデ姉ちゃんである自分に、そんな大切な仕事をさせるのは、
さぞ不安やろなぁと思う、中澤裕子もうすぐ30歳、未婚。