遠方より聞こえてくる、犬の遠吠えに怯えるというお約束をかましつつ、
いいらさんは玄関灯の前に立ちました。
じっとする事、数秒。神妙な顔つきに変わるいいらさん。
「……ピンポーン」
「あの、インターホンはここなのれす」
「あらシツレイ。ホホホ」
ピンポーン。
【……。はーい、どちら様ですか?】
「あ、お母さんれす」
「ゴホン、えー。おい、お前のむすめは預かっ」
ドスッ、ヴォェッ、ゴッ。タッタッタッタッ。
いい感じに一発入れ、いいらさんを担ぎ上げたののちゃんは、
急いで門柱脇に隠れました。自分でも信じられない力でした。
「いいらさん!! 何言ってるんれすか!!」
一瞬苦しそうな表情をするいいらさんでしたが、ののちゃんの鬼気迫る顔の前に、
シュンとしました。
「いやあ、ゲホッ。ぶっちゃけ、テンパっちゃって」
「もぉー、どうしてこの人は。もういいのれす。のののクラスに新しく来た、
教育実習の先生という事にするのれす。いいれすね? 文句ないれすね?」
言葉を発する代わりに、両手を挙げ賛同の意を示すいいらさん。
【どうしたんですか? ののちゃんなの? ののちゃん帰ったの?】
「はい、今帰ったのれす。新しい先生に送ってもらったれす」
どうやらお母さんには、この騒動を聞かれなかった様です。
ガチャ。
「お帰りなさい、先生って?」
ドアを開けたののちゃんのお母さん。そして、ののちゃんの隣にいいらさんを見つけると、
深々と頭を下げ一通りの礼をしました。
「どうも申し訳ありません、送っていただいてしまって」
「あ、い、いえ、こちらこそ」
気を動転させたいいらさんは言葉に詰まりましたが、咄嗟にののちゃんは、
助け舟を出しました。
「先生は臨時の講師で今日から来たのれすよ」
「臨時? 中澤先生に何かあったの?」
くびを振るののちゃん。
「副担任の制度の、試験的などうにゅうとか言ってたれす」
「ふーん。あ、そんな所に立たせてしまってすいません。どうぞ中へ入ってください」
瞬間、ののちゃんは嫌な予感がしました。
「そうですか? それではお言葉に甘えさせてもらって」
敵中。
このまますぐに帰れば良かったのに。いいらさんの厚かましさに辟易するののちゃん。
「どうぞこちらへ」
用意されたスリッパを履き、招待された客間へいいらさんは悠々と入っていきます。
「いやぁご立派なウチですなぁ。カ、私のウチは四畳一間の仮住まいですよ」
何故かおじさん口調のいいらさん。このままでは絶対に足を出すと察したののちゃんは、
またも機転を利かせました。
「ねーお母さん、先生にののの部屋に来てもらっていいれすよね?」
「え、でも……」
ののちゃんのお母さんは、いいらさんの方を向きます。同じように、
いいらさんの方を向くののちゃん。その目は、不器用なウィンクで合図を送っていました。
なんとかして気づいて。精一杯パチクリさせるののちゃん。
「カオリは構わないですよ。家庭訪問気分ですから」
どうにか体裁を繕い、自分の部屋へ誘導させる事に成功したののちゃん。
「紅茶で構いませんか? それともコーヒー?」
「あ紅茶で結構ですよ」
ベッド脇に居住まいを正したいいらさんは、何気に楽しそうな様子です。
「じゃあとで持ってきますので。ののちゃん、先生に迷惑かけちゃダメよ」
「へい」
いいらさんとお母さんと離し、ようやくののちゃんは一息つきました。人間、
死ぬ気になれば何でも出来る、そんな言葉が頭に浮びました。
あとに残る様々な説明も今は、まった考えられません。
本当に疲れたののちゃんでした。