また二重にしてしまいました!
本当にドジな私です!
ファイル 5 がんばれ!矢口
翌朝、安倍は七時に矢口を起こしに行った。昨夜は大暴れをした矢口だった
が、普通は翌朝になるとケロッとしている。しかし、今回は肝機能が低下して
いたことも手伝い、凄まじい二日酔いになっていた。
「ヤッホー、矢口ー、朝だべさ」
安倍は矢口の部屋に入り、キッチンで湯を沸かしだす。これまでの仕事とは、
生活サイクルが変わったので、朝食はこの時間に摂るしかない。安倍は冷蔵庫
からハムと玉子を取り出す。
「うっ!・・・・・・なっちさん・・・・・・天井が・・・・・・回ってるよ・・・・・・うえっ!」
「矢口、大丈夫だべ・・・・・・うっ・・・・・・ひゃー!お酒臭いべさ」
矢口は深刻な状態であり、早急な対応が必要だった。まさか転校(?)二日目か
ら休むわけには行かない。かといって、このまま登校させるのは、どう考えて
も無理である。困った安倍は、二日酔いとの付き合いの豊富な中澤に電話をし
てみた。
「裕ちゃん、矢口が二日酔いで大変だべさ」
<二日酔い?どんな症状なんや>
安倍が振り返ると、矢口はトイレで吐いていた。しかも、かなり苦しそうであ
る。安倍は矢口の小さな背中を擦りながら、中澤に症状を伝えた。
<胃がやられてると、何を食っても飲んでも戻してまうで>
「どうしよう・・・・・・」
<とりあえず風呂入れて、ソルマックでも飲まし>
「ソルマックだべね。買ってくるべさ」
安倍は急いで風呂を沸かすと、近くのコンビニにソルマックを買いに走った。
「ソルマックあるべかァァァァァァァァァー!」
安倍の形相にびびりまくるコンビニ店員。安倍は店員の胸倉を掴む。
「時間が無いべさァァァァァァァー!早く持って来るべさァァァァァァァー!」
「ははははは・・・・・・はいィィィィィィィー!ここここここ・・・・・・これです!」
「いくらだべさァァァァァァァァァァー!」
「えーと・・・・・・」
「お釣りはいらないべさァァァァァァァァァー!」
安倍は千円札を置くと、ソルマックを握り締めて、コンビニを飛び出して行った。
安倍は熱い風呂に矢口を入れて汗をかかせると、ソルマックを一気に飲ませ
た。そしてフラフラの矢口に制服を着せると、鞄を持たせて外に放り出す。
「ののちゃん!矢口を頼んだべさ!」
安倍は飯田の部屋をノックし、出て来た希美に言った。希美は意外と力がある
ので、矢口を抱えて登校する事くらいは容易い。
「矢口さんは二日酔いなんれすか?てへてへてへ・・・・・・」
希美は「いってきまーす!」と元気良く安倍と飯田に言うと、矢口の腕を掴んで
学校に向かった。
安倍は矢口の部屋で食事すると、とりあえず会社に向かった。あの調子だと
早退するかもしれないが、安倍は会社で矢口にアドバイスし、夏からの指示を
待たなくてはならない。
安倍は少しでも体力をつけるため、会社には歩いて通う。片道三キロの道程
だが、忙しかった頃は一日に二十キロ近く歩いていたため、全く苦にならずに
歩ききってしまっていた。安倍が歩き始めてすぐに、学校についた矢口から電
話が入る。
「矢口、大丈夫だべか?」
<吐き気が止まらないよー・・・・・・うえっ!>
「給食までにはリバースするっしょ」
<だといいけど・・・・・・うえっ!>
「一時間目の授業は何?」
<音楽だよ・・・・・・うえっ!>
「・・・・・・最悪だべさ」
確かに最悪だった。二日酔いの吐き気がある状態で発声練習などやろうものな
ら、本当に吐いてしまうに違いない。矢口は最悪の状況に突入した。
音楽室でぐったりする矢口は、希美と亜衣に抱かかえられている。額に脂汗
を浮かべ、こみ上げる胃液を堪えていた。
「矢口さん、保健室で休んでた方がいいのれす」
「そ・・・・・・そうは行かないのよ・・・・・・うえっ!」
「昨夜の暴れ方は凄かったらしいやないけ。うちをブチ投げた後、なっちさんを
潰したそうやないか。調子ん乗るからじゃ!判ってんのか?アアン!」
亜衣は道玄坂中学で最高に人気があるものの、その性格のきつさを知る者は少
ない。特に、今は無抵抗の矢口に対し、昨夜の恨みをぶちまけたのである。
「あんた、ずいぶん態度が変わったじゃん・・・・・・うえっ!」
「いい気味じゃ。ウルァ!ウルァ!ウルァ!ウルァ!」
亜衣は矢口の背中を擦った。一見、優しく見えるが、吐き気のある者の背中を
擦れば、自然と吐いてしまうものである。
「や・・・・・・やめ・・・・・・うえっ!うえっ!うえっ!」
矢口は辛うじて胃液を飲み込み、戻すには至らなかったが、その苦しみは凄ま
じいものだった。
「あいぼん、もうやめるれす。矢口さんが可哀想れすよ」
「まだまだや。ええか?これからやで」
「こいつ・・・・・・元はといえば、あんたがウォッカを・・・・・・うえっ!」
矢口が脂汗を流して苦しんでいると、音楽教師がやって来た。彼女は荒井沙紀
といい、声楽が専門である。
「さあ、今日も発声練習から始めるで。ええか?」
荒井はピアノを鳴らす。生徒達はその音階に合わせて、大きな声で発生しなけ
ればならない。
「アーアーアーアーアー・・・・・・うえっ!」
「?」
「アーアーアーアーアー・・・・・・うえっ!」
「??」
「アーアーアーアーアー・・・・・・うえっ!」
「???」
「アーアーアーアーアー・・・・・・うえっ!」
「!」
荒井はピアノをやめて立ち上がった。そして生徒達を見回して首を傾げる。ど
うも妙な声がするからだ。
「誰やの?誰が変な声出してんね」
「すみません、私です・・・・・・うえっ!」
矢口は仕方なく手を挙げた。脂汗を流しながら肩で息をする矢口を見て、荒井
は心配そうに声をかける。
「顔色が悪いで。矢口さんやったな。どした?」
こんな時でも矢口は考えていた。普通に言うべきか、それともボケを入れてみ
るか。元気で明るいといった事でクラスに溶け込む努力をしていた矢口は、や
はりウケを狙ってみる。
「つ・・・・・・つわりです・・・・・・うえっ!」
矢口は爆笑を待った。しかし、爆笑はいくら待っても訪れない。高校二年の二
学期、食中毒で同じように吐き気がしていた時は、確かに「つわり」で大爆笑を
誘った。矢口は動揺する。まさか、思いっきり外してしまったのか?
「ほ・・・・・・ほんまかァァァァァァァァァァー!」
荒井は眼を剥いて顔色を変えた。他には物音一つしない。音楽室は防音工事を
しているので少々デッドになるが、ここまで音が聞こえないという事は、クラ
ス全員が固まっている証拠である。
「じょ・・・・・・冗談に決まってるじゃないですか・・・・・・うえっ!」
「お・・・・・・脅かすんやないわ・・・・・・はー、驚いた」
荒井が溜息をつくと、クラス全体に安堵の吐息が洩れた。矢口は完璧に外して
いたのである。
「胃を壊しただけですよ・・・・・・うえっ!」
「・・・・・・あんた、かなり吉本向きの性格やな。まあええわ。飯田さん、矢口さん
を保健室に連れてってや」
「はーい」
希美は矢口の手を引いて、音楽室を出て行った。
廊下に出た矢口は、保健室で休める安堵感と同時に、自信があったボケにシ
ョックを受けていた。やはり横浜と東京は違うのだろうか。
「矢口さん、あの冗談はきつ過ぎますよ。中学生には強烈過ぎるのれす」
「そ・・・・・・そうか!しまった!・・・・・・ここは中学校だった・・・・・・うえっ!」
希美は矢口を抱えるように保健室へ向かった。
「うえっ!」
ファイル 6 捜査会議
その日の放課後、完全に二日酔いから脱却した矢口は、体育館の二階に忍び
込み、そこの窓から双眼鏡で職員室の藤井を監視した。ここからだと、職員室
がよく見える。
(おやっ?ケイタイに電話がかかってきたみたいだなー)
藤井は電話に出ると、深刻な顔をして話している。藤井は電話を切ると、ポケ
ットから財布を出し、一万円札を五枚ほど封筒に入れた。そして裏門に移動し
、あたりを警戒しながら、一台の黒いベンツに近付いて行く。ベンツは窓を開
けて藤井から封筒を受け取ると、そのまま行ってしまった。
(ナンバーナンバーっと)
矢口はベンツのナンバーをメモし、藤井の動きを追った。藤井は荒れているら
しい。裏口近くに置かれているゴミ箱を蹴っている。その後、藤井は職員室か
ら動かなかったので、矢口は帰る事にした。一応、安倍に電話を入れてみる。
「なっちさん、藤井が誰かに現金を渡してたよ」
<うん、裕ちゃんも確認してるべさ。今、ナンバーの照会をしてる>
「それじゃ、これから帰るねー」
<判った。なっちも矢口の部屋に行くべさ>
こうして矢口は体育館から渡り廊下を通り、昇降口にやって来た。
「男の子も願ってるーうっ!みんなで楽しくひなまちゅり♪」
矢口は歌を歌いながら下駄箱を開ける。すると、矢口の靴の間に何かが挟まっ
ていた。どうやら何かの紙らしい。
「何だ?」
矢口はその紙を引っ張り出した。手にとってみると、それは封筒に入った手紙
である。亜衣や希美は毎日のように、こういった手紙を受け取るらしい。
「何だよ。あたしにコクるのかよー」
矢口は嬉しそうに手紙を開いた。すると、そこにはワープロで妙な内容が書か
れている。矢口は首を傾げながら、その文章を読んだ。
矢口君へ
大切な話があります。午後四時に屋上で待っています。
君が来るまで毎日待っています。
T・F
「げげー!藤井?・・・・・・そんな事はないだろうなー。うーん、四時半か・・・・・・明
日だな。明日は土曜日か?来週だね」
矢口は手紙を鞄にしまうと、靴を履き替え、昇降口から正門に向かって歩き出
した。前方から太陽が照りつけ、眩しさに顔を顰める矢口。ふと校舎を見上げ
ると、三階の窓から一人の少女が矢口を見つめていた。
(あいつは同じクラスの紺野だったっけ。確か空手をやってるんだよなー)
矢口は紺野に手を振った。しかし、紺野は無表情のまま、矢口を見つめ続けて
ている。いつも同じ表情しかしない紺野は、どこか不気味であった。
(あいつだけは、何を考えてるのか判らないなー)
矢口は首を傾げながら、校門を出て行った。風に吹かれて舞った桜の花びらが
、一枚だけ矢口の髪に貼り付く。矢口はそれに気付かず、自分の城へ急いだ。
矢口がアパートに帰って来ると、ドアの外で安倍と会った。安倍は矢口を呼
びとめ、大切そうにハンカチを開く。
「ヤッホー、矢口おかえりー。ほら、桜の花びらだよ」
「ただいまー・・・・・・なっちさん、また桜?本当に飽きないねー」
矢口が呆れていると、二階から稲葉と石黒が降りて来た。以前は犬猿の仲の二
人も、最近では少しは仲良くなったようで、一緒にいる事も多い。
「なっち、桜?」
石黒は嬉しそうに安倍のハンカチを覗き込んだ。石黒も桜が好きである。どち
らかというと桜餅の方が好きなのだが、安倍同様、薄ピンク色の花びらにウキ
ウキするのだ。同じ北海道出身だが、夏生まれの安倍と違い、春生まれの石黒
は、長く閉ざされた冬の終わりを告げる桜に、自分の誕生日を重ね合わせてい
たのである。幼心に、薄ピンク色の花吹雪の中で、桜餅を食べる事が最高の幸
せだった。
「石黒、あんた桜が好きなんか?ほな、希望出して警視庁へ来や。何せ桜田門や
しな」
稲葉は石黒の肩を叩いた。稲葉は桜に対して特別な想い入れは無かったが、桜
は花見が出来るから好きである。というより酒が好きなのだが。
「そんなにいいかねー」
矢口は少女のような顔で、桜の花びらを覗き込む二人に溜息をつきながら、自
室に入って行った。
こうして中澤が戻って来ると、矢口の部屋で捜査会議が始まった。稲葉と石
黒は昨夜行われた松浦の通夜に行っており、原宿高校バレー部の面々から話を
聞いたのである。
「まず、部長は福田明日香って子で、三年生なんだ。背は低いけど、東京で1、
2を争うセッターらしいよ。選手としては勿論、精神的にも部員の支えになっ
てるみたい。いわばバレー部のカリスマだね」
石黒が説明すると安倍が頷いた。春の高校バレーで有名な選手だからである。
運動音痴の安倍だったが、バレーボールを観るのが好きで、オレンジアタッカ
ーズの吉原知子のファンだった。
「確か原宿高校のエースは、吉澤ひとみって子だったっしょ」
「そうや。他には高橋愛、松浦亜弥、留学生のミカがそうやな。全体に小粒なん
やけど、キューバの選手並のジャンプ力で、全国大会の常連校やで」
稲葉もバレー好きらしく、大人気の吉澤と握手した事を自慢していた。吉澤は
Cクイックが得意であるため、ファンからは『よっC』と呼ばれている。エー
スアタッカーとしては小柄だが、抜群のジャンプ力を活かしたバックアタック
も得意としていた。
間も無く稲葉のケイタイに電話が入り、ベンツの所有者が判明する。福田武
雄というスナックの経営者だった。
「福田武雄?『焼銀杏』のオーナーだべさ」
「やっぱりそうや。福田が元締めで、藤井が売人で決まりやな」
稲葉が確信を持って言うと、中澤が首を傾げる。中澤はベンツの近くで待機し
ていたが、運転していたのは若い男であり、後部座席は暗くてよく見えなかっ
た。しかし、かなり小柄な者が乗っていたようで、藤井の差し出した封筒を受
け取った奴は、手しか見えなかったのである。
「福田武雄は百七十センチ以上やろ?どうも引っ掛かるんや」
『焼銀杏』は夏の部下である小湊と大谷がマークしていた。二人に状況を確か
めると、ベンツは若い男が運転して行ったという。
「そうなると、若い男がどこかで誰かを乗せてから、藤井のところへ行ったんだ
べね?」
「そうなるわな」
中澤は腕を組んだ。安倍も謎が多いため、今回は苦戦している。木村・平家・
松浦といった若い女性の死は、普通なら色恋沙汰の果てに起こるものだ。しか
し今回は麻薬が絡んでいる。
「ねえ、話は変わるけどさー、こんな手紙が下駄箱に入ってたんだー」
矢口はテーブルに手紙を置いた。中澤が開くと、稲葉と石黒、そして安倍が覗
き込む。
「T・Fは藤井隆?いや、福田武雄?」
石黒は首を傾げた。藤井が矢口の動きに感づく事は無いだろうし、福田が矢口
の存在を知っているのもおかしい。
「道玄坂中学の教師で、T・Fちゅうのは、他におんのか?」
中澤が訊くと稲葉はメモを見ながら確認を始めた。犬井・酒本・喜多・国井・
渡辺は違う。
「藤田朋子がそうやな。それから不破哲治。藤田は美術教師で、不破は英語」
「『矢口君』やしな。女性やないで。そうなると不破がそうか?」
中澤は英語教師が怪しいと思ったのである。しかし、不破は定年間近の老教師
で、退職後はマレーシアで悠々自適な生活を送ろうとしていた。そんな人間が
犯罪に手を染めるとは考えられない。
「裕ちゃん、教師とは限らないべさ。同い年の男の子でも、女の子を『君』で呼
ぶっしょ?」
最近では女性を『君』と呼ぶ男性は少なくなったが、会社などでは上司が部下
の女性を『君』で呼ぶ事も珍しくない。筆者も中学時代、生徒会の仕事をして
いた時、先輩から『君』で呼ばれた記憶がある。
「三年生か」
稲葉はプリントされた名簿を見る。一応、稲葉は捜査資料として、全校生徒の
名簿をコピーしていた。
「A組の藤原竜也とC組の船井輝彦の二人やな」
「これってさー、コクるのかなー」
矢口は嬉しそうに微笑んだ。中澤と稲葉、石黒は苦笑するが、安倍は妙にムキ
になっている。
「矢口は五歳も年下がいいんだべか?」
「別にそうじゃないけどさー、コクられたら嬉しいじゃん。あたしだって女の子
なんだからさー」
「言っとくけどね、何かしたら犯罪だよ。相手は中学生だべさ!」
安倍の剣幕に中澤が吹き出した。稲葉と石黒も続く。安倍がムキになったのは
、矢口が羨ましかったのである。中学生のような子供と成就するとは思ってな
いが、可愛らしい恋の当事者になってみたかったのだ。
「何が可笑しいんだべさァァァァァァー!」
安倍は眼を剥いた。安倍と矢口は歳が近いので、こういった羨ましい感覚が生
まれるのだろう。三十を目前にした中澤と稲葉、そして主婦でもある石黒には
、単なる他人事でしかない。
「中学生の男の子を襲う矢口やで。想像してみいや。アハハハハ・・・・・・」
中澤は本当に可笑しそうに笑った。稲葉と石黒も失笑する。しかし、笑いもの
にされた矢口は面白くない。
「それって酷いだろー?どうしてあたしが襲わなきゃいけないんだよ!裕子!」
「矢口、相手は中学生だべさ。刺激的な事をしたら駄目だからね」
安倍は羨ましいのが半分、矢口が心配なのが半分だった。矢口に対する心配と
は、勿論、相手を挑発する事である。
「けど、気いつけーよ。もし、相手が藤井やったら、面倒な事になるかもしれん
しな。一人では行くんやない。ええな?」
中澤も矢口が心配である。すぐに駆けつけられる体勢は布いているが、実際に
校内で松浦が殺されている経緯があるからだ。
「裕ちゃん、圭織をつけようか?今度の少年課の課長は、刑事課に協力したがっ
てるの。ほら、捜査に協力すると、感謝状が貰えるじゃない。あれの数も課長
の評価に繋がるんだってさ」
「そやな。飯田がおれば怖いもん無しや。矢口、屋上に行く時は、ケイタイの電
源は入れとけ。それで少しでも早く対応出来るしな」
「はーい」
矢口は元気に手を上げた。手を上げてみて、矢口はふと思い出す。三階から見
つめていた紺野の事を。
「そういえば、クラスの紺野あさ美って子が気になるの。今日ね、帰りにね、校
門の手前で何気に振り返ったら、その子がじーっとあたしを見てた」
「紺野ね・・・・・・紺野紺野・・・・・・あった。ああ、平家が殺された時間のアリバイが
ないね。まあ、ちゃんとしたアリバイがある方が少ないんだけど」
石黒も稲葉同様、名簿を持っていた。渋谷署では十五人も捜査員を掻き集め、
道玄坂中学全員から話を聞いていたのである。紺野を尋問したのは石黒だった
ため、割と特徴を憶えていた。無表情でとろ臭い感じはしたものの、空手をや
っているということが印象的である。段こそないが、拳にできた胼胝が練習量
を物語っていた。
「紺野って空手をやってるじゃん。ちょっと怖いなー」
「空手やて?」
稲葉は驚きの表情を隠せなかった。平家の死体を解剖した結果、致命傷の他に
あちこちに殴られたと思われる打撲がみつかっからである。
「空手か・・・・・・あっちゃん、怪しいね」
石黒は稲葉を『あっちゃん』と呼んでいる。これは稲葉が希望したもので、中
澤の事を、みんなが『裕ちゃん』と呼ぶのが羨ましかったのだ。
「矢口、紺野をマークせえ。勿論、校内で構わんけどな」
稲葉は矢口に指示を出す。確かに瓦を十枚も割る腕を持っていれば、か弱い女
性を殴り殺す事が出来るだろう。後は動機だ。
「紺野と藤井か・・・・・・忙しいねー。裕ちゃん、ボーナスくれる?」
矢口は得意の甘えた声で言った。中澤はこの声に弱い。
「しゃあないな。考えておくわ」
「やったー!」
こうしてターゲットを絞り込み、矢口の潜入捜査は続くのだった。
ファイル 7 真希と亜衣
捜査会議が終わると、中澤は安倍と亜衣を連れて後藤家に向かった。夕飯が
遅くなってしまうため、中澤は帰りに三人で外食にしようと思っていたのであ
る。
「住所から行くと、このあたりなんやけどな」
中澤は代官山の住宅街にクルマを停めた。安倍と亜衣は窓から首を出して、キ
ョロキョロとあたりを見回す。大きな家が建ち並び、チャイムを押すと執事が
出て来そうな家もあった。
「あっ、お姉ちゃん、この家やないの?」
亜衣が指差した家の表札には、明朝体で『後藤』と書かれていた。すると、安
倍も隣の家を指差す。その家はローマ字で『GOTOU』と書かれていた。
「どっちや?・・・・・・ああっ?この二つで一軒やな。後の邸宅と、この小さい家は
同じ敷地の中にあるで」
小さい家といっても、2DKくらいは確実にある。こっちの家の方に誰かいる
ようなので、三人はチャイムを押してみた。
「はーい」
出て来たのは真希であった。真希は安倍を見ると、笑顔で頭を下げる。その顔
は、昨日よりも確実に明るくなっていた。やはり、安倍に話をして、かなり気
持ちが楽になったのだろう。
「後藤先輩にそっくりや!」
亜衣が驚きの声を上げる。確かに真希とユウキはそっくりだった。恐らく、ほ
とんど同じDNAに違いない。他人から見ると、二人に違いがあるとすれば、
それは男女といった事以外には無いだろう。
「こら、亜衣」
中澤に睨まれ、亜衣は頭を掻いた。真希は亜衣の可愛らしい仕草に、優しそう
な笑顔を浮かべる。その顔を見た亜衣も、ニッコリと笑う。
「ここでは何ですから、どうぞ上がって下さい」
真希に勧められ、三人は真希の家に上がった。この家は真希の姉が結婚した時
、娘夫婦に住んで貰おうと、母親が建てたものである。しかし、姉が結婚する
までは、真希が使っていた。
真希は他の姉弟と違い、幼稚園から大学までの一貫教育で知られた某学園に
入ったが、十三年目にしてそこを辞めた。それはピアスといった些細な事が発
端である。しかし、以前から真希は、井の中の蛙になってしまうのを怖れてい
た。真希の探究心がそうさせたのである。だから真希は、教師にピアスを注意
されると、躊躇することなく、高校を自主退学したのだった。
「実は、依頼された件なんやけど、結論から言うと、引き受けられないんや。実
は、すでに他の人から依頼されておって、真希ちゃんから引き受けると、二重
になってまうしな。結果的に、真希ちゃんの依頼通りになって行くんやけど」
中澤は警察の依頼による潜入捜査は伏せて、慎重に状況を説明した。真希は黙
って中澤の話を聞く。
安倍は中澤の話し方を研究していたが、どうしても真希の家が気になる。若
い女性であれば、それは当然の事だろう。真希の家の中は、モノトーンで統一
されており、人間だけが浮き出て見える。この雰囲気は、安倍の美的感覚を大
いに刺激した。
「お話は判りました。そういった事情でしたら、私の依頼は取り下げましょう」
真希は素直である。同時に大人でもあった。そんな真希を、亜衣は憧れの眼差
しで見ている。普段は美人だが、その笑顔が可愛らしい。亜衣はそんな女性に
なりたかったのだ。その女性が今、亜衣の眼前にいる。
「あ・・・・・・あの、訊いてもええやろか」
話が一段落したところで、亜衣は真希に訊いた。真希は優しそうな視線を亜衣
に送り、首を傾げながら「なあに?」と訊ねる。
「一人暮らしなんですか?」
希美ほどではないが、少々舌足らずな亜衣は、大人の雰囲気を持つ真希に対し
、恥ずかしそうに訊ねた。
「うーん、ここには一人で住んでるけど、そっちの母屋には、母と姉二人、それ
と弟が住んでるの」
「あの、お父さんは?」
「亜衣!」
中澤が亜衣を睨んだ。亜衣は素直なのだが、こういった事を訊いてしまうとこ
ろが、まだまだ子供だったのである。俯きながら中澤を上目遣いに見る亜衣を
見て、真希は眼を細めて微笑んだ。
「お父さんは、ずっと前に死んじゃったの」
「えっ?・・・・・・ごめんなさい」
亜衣は俯いたままになってしまった。真希は亜衣が可哀想になり、助け舟を出
してやる。真希は可愛らしい亜衣を気に入ったようだ。
「亜衣ちゃんは誰と住んでるの?」
「お姉ちゃんと二人や」
亜衣は笑顔で顔を上げる。この笑顔には中澤も嬉しそうだ。亜衣は真希に父親
の事を訊いてしまった罪悪感から、訊かれもしない自分の境遇を話し出す。
「そんでな、うちは異母妹なんやけど、お姉ちゃんがな」
「あんたねー、そんな事は普通話さないべさ」
「えっ?ほんま?」
亜衣は安倍と中澤を交互に見ながら、再び俯いてしまった。真希は声を上げて
笑うと、再び助け舟を出してやる。
「亜衣ちゃんは寂しくないの?」
「うん。みんながおるし、やっぱりお姉ちゃんと一緒だもん」
この一言で、中澤は思わず眼を潤ませた。中澤にとって、最高に幸せな一瞬だ
ったに違いない。恐らく今日の帰りに、亜衣が一食二万円のフルコースをねだ
っても、中澤は二つ返事でOKするだろう。
「そっか、亜衣ちゃんは幸せだね」
「うん!」
亜衣は満面の笑みで頷いた。真希には妹がいない。しかし、真希は妹が欲しか
った。同性でないと、ある時期を境に、スキンシップが出来なくなってしまう
。姉とのスキンシップはあっても、それは単なる甘えでしかなく、真希の母性
や慈しみの欲求を満たすには至らない。
「ねえ、亜衣ちゃん。良かったら遊びに来てよ。バレー部を辞めちゃったからユ
ウキもいるし」
「うん!」
亜衣は本当に嬉しそうだった。
帰りのクルマの中で、安倍は中澤に訊いた。真希はバイセクシャルである。
亜衣に対して性的な好意を持っているかもしれない。
「いいの?彼女は・・・・・・」
「別にええやないか。相手が男やったら心配やけど、女同士やったら妊娠したり
せえへんしな」
「そういった問題だべか?」
安倍は首を傾げた。すると亜衣が会話に入って来る。亜衣には真希がバイセク
シャルである事は話していなかった。
「誰が妊娠するって?お姉ちゃんはそろそろ頑張らんと、高齢出産になるで」
「じゃかましいわァァァァァァァァァー!まだ稲葉もおるやろ!」
中澤の額に青筋が浮き出る。しかし、中澤は上機嫌だった。やはり、亜衣が自
分と一緒だから寂しくないと言ったのが効いている。結局、この日の晩は、上
機嫌な中澤が寿司をおごった。
ファイル 8 バレー勝負
今年度から学校も土曜日は完全に休みとなり、今日ばかりは、矢口も潜入す
る必要が無い。しかし、七時三十分になると、希美が迎えに来た。
「眠いー!もう!今日は休みでしょう?少しは寝坊させてよ!」
矢口は眠そうな顔で玄関から顔を覗かせる。希美は困った顔をしながら、矢口
に詳しく説明をした。バレー部の希美は、今日も練習があったのだ。
「矢口さん、バレー部の練習が見たいって、言ってたじゃないれすか」
「あー、そうだったね。それじゃ着替えて来るから、ちょっと待っててー」
「ちなみに、ダイナマイトを発明したのは誰れすか?」
「ノーベルに決まってんだろう!このヴォケ!」
矢口は希美を睨みつけると、ドアを閉めてしまった。希美が矢口を待っている
と、飯田も部屋から出て来る。実は飯田もバレーファンであり、ヨーコ=ゼッ
ターランドのファンであった。
「やっぱり圭織も行くー」
「体育館は土足厳禁れすよ。靴は持ちましたか?」
希美が訊くと、飯田はまだ履いていないスニーカーを見せる。こうして希美・
矢口・飯田の三人は、道玄坂中学校へ向かった。
中学校の体育館では、すでに高校生達が来て練習を始めていた。高校生達は
軽く練習をしてから中学生を指導し、中学生達が食事の間、また練習をする。
そしてまた指導し、中学生が帰ると午後八時まで練習をするのだ。
「もう桜も終わりだねー。なっちさんは寂しいんじゃないかなー」
矢口が言うと飯田が首を傾げる。飯田も安倍や石黒と同じ北海道出身だが、桜
に関しては何の感情も抱いていなかった。まあ、飯田にしても警察官である以
上、桜と接する機会は多い。しかし、桜や国旗に頭を下げるような事には抵抗
を感じていた。飯田は無神論者であるため、偶像崇拝的な行為は大嫌いだった
のである。中澤と気が合ったのも、こういった警官らしからぬ考えがあったか
らに違いない。
「ののはこの時期、桜餅がないと寂しいれす」
「また食い物かよ!」
矢口に突っ込まれ、思わず舌を出す希美。
「ねえねえ、何で指にテーピングしてるの?」
飯田はボール拾いをしている高校生の女子部員に訊いた。女子部員が「突き指す
るから」と説明すると、飯田は困ったように首を傾げる。飯田は矢口に近付くと
、それとなく訊いてみた。
「矢口、何で突き指なんてするんだろ」
「多いのはブロックする時だろうね。敵はタッチを狙って来るから、横とか上に
ぶつけるんだよ」
「何でそんな事知ってんの?」
「アハハハハ・・・・・・雑学雑学」
矢口の身長でバレーボールをやっていたとは信じにくい。しかし、どうして選
手のような事を知っているのだろう。雑学で片付けるには、少々抵抗がある。
「あれ?ひょっとして、飯田さんじゃないですか?」
飯田に声をかけたのは、何かプレーをする度に、黄色い歓声が聞こえる吉澤で
あった。飯田は吉澤が中学時代に、夜遊びしていたのを補導した事がある。ど
ういうわけか吉澤と飯田は相性が良く、話が盛り上がってしまい、一晩中お喋
りをしていた。そんな過去があったのである。
「ひとみちゃんだよね。凄い人気じゃん」
「飯田さんもバレーをやるんですか?」
「観るのは好きだけどねー」
「吉澤、どうしたの?」
そこへやって来たのは、バレー部のカリスマである福田だった。吉澤が福田に
飯田を紹介すると、バレー部のカリスマは露骨に嫌な顔をする。
「また警察?もう話す事は何もない!」
福田は飯田を睨みつけた。飯田は苦笑するが、それは引き攣っただけである。
福田は尚も飯田に言い放った。
「観てるだけなら邪魔しないでよね!」
これには矢口がキレた。短気ではないが、矢口は気が強い。福田を睨みつける
と、大声で怒鳴った。
「そういう言い方はねえだろうがァァァァァァァァァー!」
「矢口さん、駄目なのれす。やめて下さい」
希美は矢口を引っ張る。また、高橋も福田を羽交い絞めにしていた。
「福田さん、怒ったらいかんの。判っとるじゃろ?」
体育館内に張り詰めた空気が漂う。誰もが固まっていた。この雰囲気の中では
、最初に動いた奴が悪者にされるだろう。だから誰も動けずにいたのである。
「れ・・・・・・練習しましょうよ」
そう言ったのは吉澤だった。バレー部のカリスマに、唯一意見出来るのは、ス
ーパーエースの吉澤だけである。
「そうは行かないよ!このチビは、あたしに対して怒鳴りやがった。どうしても
観たければ、勝負しな!」
「上等じゃねえか!いつでも勝負してやるぞ!さあ、かかってきな!」
矢口も興奮している。一応は中学生なのだが、十九歳という面子があった。年
下の高校生に舐められては、矢口の気持ちがおさまらない。
「バカ!勝負はバレーだよ。互いに十本勝負だ。まあ、素人さんだからね。一本
でも決められたら、あんた達の勝ちだ。まあ、無理だろうけど」
「ふざけんじゃねえ!勝負は蓋を開けてみるまで判んねえんだよ!」
「ちょっとー、何で圭織を前に押し出すわけ?」
矢口はいつの間にか後に回りこみ、飯田を押し出していた。考えてみれば、矢
口がいくら頑張ったところで、ネットの上に手を出す事は不可能である。そう
なると、頼りになるのは飯田しかいない。
「あたしがトスするから、吉澤!手を抜くんじゃないよ!」
福田は厳しい口調で言った。飯田は仕方なく、希美にレシーブの仕方を教わる
。そんな飯田を見て矢口はイライラして来た。
「圭織さんはとろそうだから、レシーブはあたしがやる!」
矢口は二人を押しのけ、一人でコートに立った。一人で立つコートは、物凄く
広く見える。特に小柄な矢口にとっては、倍以上に感じられた。
「それじゃ、行きますよ」
吉澤が声をかけ、最初のトスが上がる。吉澤はライトから軽くストレートを打
ってみた。矢口は一歩も動けない。
(す・・・・・・すげー!)
矢口は一発目でびびってしまう。あんなものが顔面に当たったら、鼻血どころ
の騒ぎでは済まないと思った。何が怖いって、空気を切り裂きながら飛んで来
るボールの音である。一メートルも左に落ちたのに、ボールによって生まれた
風で、矢口の髪が揺れた。
「次!」
二打目は吉澤が得意なCクイックである。クイックはクロスやストレートに比
べてスピードは無いが、タイミングを外されるので、想定していないと拾う事
は不可能だ。昭和三十九年の東京オリンピックでは、『東洋の魔女』と呼ばれ
た日本女子チームが、AクイックとBクイックだけで金メダルを取ったのであ
る。当時は必殺技だったが、それは力道山の空手チョップと同じで、今では決
してノックアウト出来る技ではない。
中澤のCクイックは、三十センチ横に決まるが、矢口の手は出なかった。こ
うなると一方的であり、吉澤はクロスからバックアタックまで決め、矢口は一
球も拾う事が出来なかったのである。
「口惜しい・・・・・・」
矢口は高校生全国レベルの実力を見せつけられ、涙をのんでコートを後にした
。後は飯田のスパイクに懸けるしか無い。
「圭織さん、頼んだよ!」
矢口は悔し涙を溢しながら、飯田に抱き付いた。トスは希美が上げる。
「ミカ!全部拾えよ!」
福田はミカを激励する。ミカは百五十センチという小柄な選手だが、リベロと
しての実力は、津雲博子や往年の佐伯美香に迫るものだった。
「Oh、任せてネ」
「あまり気合を入れ過ぎるなよ。どうせ大した事はないんだから」
この福田の一言が、渋谷署の最終兵器である飯田に火を点けた。飯田が不気味
な薄笑いを浮かべると、その髪が逆立って行く。
「げげー!圭織姉ちゃんがスーパーサイヤ人になったのれす」
飯田は戦闘モードに入ると、髪が逆立ったのである。そうなったら、もう誰に
も止められない。
「行きますよ!」
吉澤のタイミングを見ながら付け焼き刃で学習した飯田だったが、希美のトス
が完璧に入る。飯田はそこを思い切りスパイクした。ボールはミカの肩を直撃
し、天井にぶつかって床に落ちる。唖然とする高校生達。
「す・・・・・・すげー!まるでバーバラ=イエリッチだよ!」
「肩が・・・・・・」
ミカの肩が腫れ上がり、後輩達がアイシングを始めた。仰天して声も出ない福
田。
「圭織姉ちゃん、やったのれすー」
抱きつこうとすると、飯田は据わった眼で希美を見る。髪が逆立ったままなの
で、飯田は戦闘モードを解除していない。希美は困惑しながら訊いてみた。
「おしまいじゃないんれすか?」
「次」
「へっ?」
希美が眼を剥くと、レシーブには自信のある高橋が踊り出た。ミカの陰で目立
たないが、高橋のレシーブにも定評がある。高橋はジャンプサーブも打てるの
で、『原宿高校の大貫』の異名を持つ。
「今度は私が拾うわ。ええじゃろ?」
「どうなっても知らないのれす」
希美は次のトスを上げた。今度は少し高かったものの、飯田は凄まじいジャン
プ力で飛び上がると、渾身の力でスパイクする。そのボールは、迫撃砲弾のような、空気を切り裂く音がした。吉澤の打ったボールも唸りを上げるが、これ
ほど金属的な音はしない。抜群の反射神経で手を出した高橋だったが、バーバ
ラ=イエリッチを彷彿とさせるボールは、その手を弾き飛ばしてしまった。
「手・・・・・・手が・・・・・・」
高橋の手の甲が、みるみる紫色に変わって行く。これ以上メンバーを潰されて
は困るので、吉澤が敗北を宣言した。そこで飯田はようやく戦闘モードを解除
したのである。
「飯田さん、スゲ―!」
吉澤は眼を丸くして走って来た。飯田は笑顔で吉澤の頭を撫でる。矢口と福田
は唖然として同じ事を思っていた。
(何でこいつが警察なんかやってるワケ?)
ファイル 9 石黒の家
刑事というものは、基本的に事件の捜査中には休む事が出来ない。しかし、
事件が長期化しそうな場合は、捜査主任の判断で、交代に休みを取っていた。
今日は稲葉と石黒に休日が与えられ、束の間の休日を送る事になる。一人暮ら
しの稲葉や安倍は、午前中に洗濯や掃除を行い、午後になると代々木にある石
黒のマンションに集合した。石黒の提案で明治神宮の桜吹雪を眺めながら、桜
餅を食べようという事になったのである。
「もう、稲葉さん遅刻だべさ」
石黒の家に来た事がない稲葉は、原宿の駅で安倍と待ち合わせをしていた。し
かし、稲葉がやって来たのは、約束の二時三十分を十分ほど過ぎた頃だった。
「すまんすまん、ちょっと早いけど、水羊羹を買うて来たんや」
「酒飲みのくせに、甘いものが好きなの?」
「こう見えても女の子やしな」
「『女の子』はきついべさ」
二人は談笑しながら石黒のマンションへ向かう。石黒のマンションは、原宿の
駅から代々木方面に少し行ったところにある。南西向きの石黒の家からは、眼
下に明治神宮の森が良く見えた。
「おじゃましまーす」
安倍と稲葉がマンションの七階にある石黒の家に着いたのは、三時少し前だっ
た。甘いものを食べるのには丁度良い時間である。
「いらっしゃーい」
石黒が笑顔で二人を迎えた。その胸には一歳半の愛娘が抱かれている。子供好
きの安倍は、顔をほころばせて「可愛いー」と覗き込む。やっとヨチヨチ歩きを
始めており、人生の中で一番可愛い時期である。
「今日、主人は仕事なの。だから遠慮しないでね」
石黒は笑顔で二人をリビングに案内する。その石黒の顔は、仕事中には決して
見る事の出来ない表情をしていた。家では貞淑な妻であり、優しい母なのであ
る。今は『石黒彩』ではなく『山田彩』なのだ。
それが刑事になると、凶悪犯でもびびりまくる鬼のような表情になるから驚
きである。希美にしても、最初から石黒のこういった顔を見ていれば、怖がら
ずに済んだだろう。
「うわー!凄いねー」
安倍は嬉しそうに、窓から明治神宮の桜吹雪を見た。安倍と同じくらいの身長
である稲葉も、安倍の横から覗き込む。
「こりゃええな。石黒、ちょっと早いけど水羊羹や。これなら娘も食えるやろ」
「うん、ありがとう、あっちゃん」
石黒は冷蔵庫から、麦茶と水だし玉露を取り出し、リビングのテーブルに置い
た。いよいよ桜餅パーティの始まりである。
「やっぱり、こうなったべね」
安倍は溜息をついた。稲葉と石黒は、桜餅を食べ終わると、飲み出したのであ
る。二人とも嫌いではないので、ガンガン飲み出し、ビールの次は日本酒、そ
してウイスキーに突入していた。
「ほんま、可愛いな。うちも子供が欲しくなるわ」
稲葉は石黒の娘を見ながら言った。今日は女性ばかりなので、人見知りする娘
も、それほど興奮していない。そればかりか、自分から安倍や稲葉のところへ
歩いて行くほどだった。
「あっちゃんも早いところ、結婚した方がいいよ」
「そうなんやけどな。こればかりは相手がおらんとあかん問題やし」
稲葉は寂しそうに言った。警視庁捜査一課の刑事をやっていては、結婚などは
夢のまた夢である。稲葉の部下で結婚しているのは小湊だけであり、彼女にし
ても、夫と姑の理解があって初めて刑事をやっていられた。
「よっしゃー!裕子より先に結婚したるで!」
稲葉が所信表明演説を始めると、そこへ山田が帰って来た。突然の帰宅に動揺
する石黒。
「お・・・・・・おじゃましてます」
安倍と稲葉は緊張して頭を下げた。山田は二人の顔を見て、空缶や一升瓶に視
線を移す。かなりまずい雰囲気のようだ。
「彩、飲んでたのか?」
「・・・・・・うん」
「あの・・・・・・」
稲葉が山田を宥めようと、言葉をかけた時、山田は信じられない事を言った。
「何で二人が来る事を黙ってたんだよ。さあさあ、座って座って。いやいやいや
、何飲んでるの?ウイスキー?彩、俺のコップもー、さあさあ、飲もう飲もう」
山田は大の酒好きで、しかも今日は二人の若い女性が来ている。嬉しくて仕方
がない様子だ。
「さっきの緊張した雰囲気は何だったんだべか?」
「アハハハハ・・・・・・何となく」
石黒は笑顔で頭を掻いた。
「何となくじゃないべさァァァァァァァー!」
「まあまあまあ、ああ、君がなっちだろ?そうか飲めないのか、残念だなあ」
この小太りの男は実に陽気で、稲葉と盛り上がっていた。それからファミリー
レストランのデリバリーサービスを頼み、夜十時まで盛り上がったのである。
安倍や稲葉には、この一家が理想の家族に見えた。楽しくて優しい夫に気の利
く妻、そして可愛い娘。稲葉は泥酔状態でタクシーに乗るが、「石黒はええな」
と連発している。稲葉をタクシーに乗せた安倍は、久し振りに温かな家庭の雰
囲気を満喫し、嬉しそうに帰路についたのだった。
ファイル10 傷心矢口
月曜日になると、矢口も中学生振りが板につき、希美と亜衣を率いて登校す
る。やはり一番人気のある亜衣と二番目の希美が一緒であるため、嫌でも矢口
は目立ってしまう。
「なあ、A組の藤原ってどいつよ」
矢口は今日の四時に屋上へ行ってみるつもりだ。その前に、どんな男か知って
おきたかったのである。矢口達が校門に入ると、希美が矢口の肩を叩いた。
「ほら、あの青いジャージの人れすよ」
「アアン?」
矢口が振り向くと、サッカー部が朝練を終えてトンボをかけている。その中で
青いジャージを着た奴が、後輩らしい二人と話をしていた。
「ええっ!あの青いジャージの子?」
「ああ、ほんまやな」
亜衣が頷いた。途端に矢口は笑顔ではしゃぎ出す。
「かわいいー!タイプかもしれない」
「矢口さん、中学生に手を出したら犯罪れすよ!」
「ほんまやで。あんた十九やろ?」
矢口は本当に嬉しそうだった。不細工な男だったら、散々脅かしてやろうと思
っていたので、矢口は天にも舞い上がる気分である。
授業が終わると、矢口は安倍に電話した。もう、これは完全な自慢である。
とにかく矢口は安倍に自慢したかったのだ。
「なっちさん!藤原って子、凄いイケ面なのー。コクられたらどうしようかなー
、きゃは!」
<何が『きゃは!』だべさ!仕事っていうのを忘れんじゃないよ!>
安倍は矢口がコクられると考えると、次第に腹が立って来た。何で矢口だけが
いい思いをするのか。安倍は無性にイライラして来る。
「でもさー、あっさり断っちゃうのもどうかなー」
<いい加減にするべさァァァァァァァァァァァー!>
「アハハハハ・・・・・・なっちさん、妬いてるの?ねえ、な・・・・・・切りやがった!」
矢口が一人で浮かれていると、中澤から電話がかかって来た。電話を傍受して
いるため、全て内容が筒抜けである。
<矢口ー!あんまり安倍をからかうんやない。ええか?どんなイケ面でも、絶対
に油断したらあかんで。ええな?>
「はーい、大丈夫でーす」
<おっと、またベンツや。矢口、しっかり仕事せえよ>
中澤が電話を切ると、矢口は体育館へ移動する。そして例の場所から、藤井を
監視するのだ。矢口が双眼鏡で職員室を見ると、そこに藤井の姿は無い。
(どこに行ってるんだ?)
矢口が校舎の窓を探していると、三年C組の教室にいる藤井を発見した。藤井
は誰かと話をしている様子である。その相手が誰なのかは、矢口の場所からは
見えなかった。
(まあいいや。もうじき四時になるし、教室を覗いてやるか)
矢口は体育館の中でバレーの練習をしている希美に声をかける。今日は希美と
一緒に屋上へ行く事にしていた。
「のの、そろそろ行くよ」
「はーい」
希美が練習から離脱すると、男子バレー部の部員から溜息が洩れる。希美の近
くにいられるという理由だけで、男子バレー部は大所帯になっていた。
「早くしろよ」
矢口は希美を急がせる。屋上も気になるが、どうしても藤井が話している相手
を知りたかったからだ。希美はジャージの上からスカートを穿き、上着を着た
だけで矢口の後を追う。
「矢口さーん、待ってくらさい」
矢口は渡り廊下を走りぬけ、階段を昇り始めた。すると、踊り場に三人の女子
生徒がタムロしている。彼女達はC組の不良達だった。
「おい転校生、そんなに急いでどこへ行く?」
「悪いんだけどさ、ちょっとカネ貸してくんない?」
矢口は行く手を遮られ、階段を昇る事が出来ない。イライラした矢口は、中の
一人の胸倉を掴んだ。
「テメエ!どかねえと痛い思いをするぞ。急いでんだよ!」
矢口が凄むと、やはり中学生である。矢口の迫力に負けて道を空けた。やはり
矢口は小柄ではあるが、中学生からすれば十九歳の大人である。
「あいつ・・・・・・本当はかなりのワルなのかも」
不良の一人が言うと、他の二人が首を傾げる。仲が良いのは希美と亜衣だし、
至って普通の中学生に見えるからだ。
「ど・・・・・・どんな風に?」
「大人からカネをまきあげてんじゃない?」
「それはスゲーな」
中澤と安倍にたかる矢口。まんざら外れではないようだ。そこへ地響きを立て
て希美がやって来る。
「ののちゃん、どうしたの?」
「あはっ!いつも可愛いねー」
「お姉さんに宜しくー」
希美は首を傾げながら通過して行った。この不良三人娘は、希美の姉が警官だ
と知っていたので、いつも媚を売っていたのである。
「ハァハァハァ・・・・・・三階まで一気に駆け上がると、やすがに苦しいや」
矢口が息を切らせていると、希美もやって来るが、彼女は全く息を乱していな
い。矢口は呼吸を整えると、C組の教室前へ移動し、壁に耳をつけてみた。
「ぼそぼそぼそぼそ」
「ぼそぼそぼそぼそぼそ」
「ぼそぼそ」
「ぼそぼそぼそぼそ」
「ぼそぼそぼそぼそぼそぼそぼそ」
(聞こえねえぞ)
(声が小さすぎるんれす)
(盗聴失敗かー、仕方ない。顔だけでも確認するか)
矢口はドアの隙間から中を覗きこむ。すると、そこには藤井と紺野がいた。
(すげえ怪しいぞ。こいつら)
(まさか、藤井先生、紺野ちゃんを口説いてるんれすかねー)
(知るか!そんなこと)
(あっ、矢口さん、もう四時を過ぎたのれす)
(是非もなしか・・・・・・)
矢口は屋上へと移動した。そこで待っていたのは、やはり藤沢である。矢口の
心臓は、自分でも恥ずかしくなるほどドキドキしていた。
「来てくれたんだね」
藤原は嬉しそうに矢口を見つめる。矢口はすっかり中学生になりきって、フェ
ンスに指を絡ませながらモジモジしていた。
「てへてへてへ・・・・・・見てられないのれす」
希美は二人から離れた場所で、フェンスにつかまって遠くの高層ビルを見てい
た。なるべく邪魔をしないようにとの配慮である。
「あたしに話って・・・・・・何?」
矢口は恥ずかしそうに訊いた。これから愛の告白を受けると思うと、矢口は嬉
しくて仕方が無い。自分で思いつく最高に可愛い顔を作ってみたりする。
「実は・・・・・・」
藤原は矢口の顔に自分の顔を寄せる。矢口は思わず眼を瞑ろうと思ったが、一
応、中学生なので、驚いた振りをした。
(おおう!積極的な奴だなー!気に入ったぜー!)
矢口は涎を垂らさないかと心配しながら、藤原の唇を待った。
(さあ!ブチュッと来い!ブチュッと!)
矢口は興奮して鼻血が出そうだった。最近では中澤にしかキスされないので、
こういった美少年にされたかったのである。矢口は頭の片隅で考えた。舌を入
れられたらどうするか。抱き締められたらどうするか。それ以上を望まれたら
どうするか。
ここは十九歳の自信と責任において、この少年に感動的なキスを提供する義
務があると思った。そのためには、多少は官能的な演出も必要ではあるまいか
。溜息のポイントやタイミング。キスが終わった時の表情や行動。もし、藤原
が興奮して押し倒された時にはどうするか。矢口の頭は凄まじい速さで回転を
始めた。ところが、藤原は矢口の耳元へ唇を持って行く。
「人がいるから大きな声では話せないけど、藤井と紺野には近付かない方がいい
。いったい、何を調べてるの?」
「へっ?」
矢口は固まってしまう。あまりにも予想外の展開だったからだ。可愛らしい恋
のヒロインから、一気にマヌケへ急降下した矢口は、激しい自己嫌悪を感じて
いる。
「藤井は暴力団と繋がっているらしいよ。噂では女の人をクスリ漬けにして、風
俗で働かせているらしい。紺野は松浦先輩を殺した犯人だって言われてる」
矢口はようやく自分を取り戻し、藤原の話に耳を傾ける事が出来るようになっ
た。考えてみると、藤原が気付いたという事は、かなり不自然な行動があったのだろう。
「調べる?何の事?」
矢口はとぼけてみた。ここで肯定すれば、潜入捜査の中止を意味するからであ
る。そんな事になったら、中澤や安倍に顔向け出来なくなってしまう。
「僕はずっと君を見ていたんだ。だから判る。君が何かを調べているのが」
「えっ?」
それって、もしかして・・・・・・矢口は再び淡い期待をしてしまう。しかし、人生
そんなに甘いものではない。
「君は加護君と仲がいいだろう?僕の気持ちを伝えて欲しいんだ」
「・・・・・・ろよ」
「何だって?」
「テメエで伝えろって言ってんだよ!」
矢口は藤原の胸倉を掴んだ。びびりまくる藤原。これに気付いた希美が止めに
入った。
「矢口さん、暴力はいけないのれす」
「バカ野郎!」
矢口は藤原を突き飛ばすと、凄い形相で屋上を後にした。何が何だか判らない
藤原は、唖然とした顔で希美に訊いてみる。
「僕は何か悪い事をしたのかな?」
「あなたは乙女心を傷つけたのれす」
「誰の?」
「本当に判らないのれすか?そんな鈍感な人、あいぼんは好きになってくれない
れしょうね」
希美は矢口の後を追った。
矢口は傷ついていた。確かに勝気な性格であるし、希美や亜衣に比べて老け
てはいるだろう。それでも、心のどこかで、自分も意外と可愛いのでは。と思
っていた。そういった意識の全てが、否定されたようなショックを受けてしま
ったのである。
「また来たよ」
先ほどの不良三人娘が矢口を睨む。よせばいいのに、中の一人が矢口の悪口を
言った。
「チビのくせに」
普段ならば睨み返す程度で済んだだろうが、矢口は傷ついている。その悲しみ
が怒りに変化して行くのは、ごく自然の成り行きだ。深く傷つけば傷つくほど
、その怒りに比例してしまう。
「テメエ等・・・・・・」
矢口は三人と向き合った。
希美は矢口の後を追って階段を駆け降りる。あれだけ浮かれていたのだから
、そのショックは相当なものだろう。希美は矢口が心配でならない。
(この下に不良さんがいたのれす。ちょっと怖いのれす)
希美は不良三人娘と眼を合わさないよう、一気に階段を駆け降りようとした。
ところが、希美に何も声をかけて来る気配は無い。希美が恐る恐る眼をやると
、そこには白目を剥いて昏倒する不良三人娘がいた。
「あちゃー、矢口さんれすね」
矢口はケンカが強いわけではなかった。しかし、いくら小柄でも、矢口は十九
歳である。不良三人娘は矢口の怒りの表情に戦慄を覚え、足が竦んでしまった
のだ。後は一方的に矢口にやられてしまったのである。
ファイル11 反省
深く傷ついた矢口は、家に帰れなかった。帰ったらみんなの笑いものになる
と思うと、このままどこかに消えてしまいたくなる。
「どうや」
「駄目。ケイタイの電源を切ってるべさ」
安倍の部屋では、中澤と稲葉、石黒、飯田の五人が、矢口を心配していた。希
美から全て聞いた五人は、最初は大笑いとなったが、傷ついた矢口を思うと、
可哀想で仕方が無い。誰もが一度や二度は、過去にこういった経験をしている
からだ。
「裕ちゃん、もう十一時になるし、みんなで探そうよ」
石黒は矢口が心配で仕方が無い。しかし、この中で一番心配していたのは、中
澤と安倍だった。
「そうやで裕子。な、探しに行こう」
「ちょっと待ち。矢口かてもう子供やない。うちかて心配やけど、ここは矢口を
信じて待つべきちゃうか?」
中澤の本音は、今すぐにでも矢口を探しに飛び出したい。だが、それは矢口の
ためにならなかった。飯田の横で泣きそうな顔をしている安倍を思うと、石黒
や稲葉の意見に気持ちが動きそうになる。それを辛うじて払拭出来たのは、矢
口を信じていたからだ。
「そやかて裕子・・・・・・」
稲葉が言いかけた時、安倍のケイタイが鳴った。安倍が慌てて表示を見ると、
液晶画面に「矢口真里」と表示されている。
「もしもし!矢口だべか?今、どこだべさ!」
<・・・・・・アパートの前>
安倍は玄関に走って行き、ドアを開けた。すると、アパートの前に小柄な影が
ある。
「矢口!」
安倍はケイタイを放り投げると、裸足のまま階段を駆け降りた。他の四人も次
々と飛び出して来る。
「矢口!バカァァァァァァァー!」
安倍の平手が飛んだ。頬を押えて俯く矢口。
「どれほど心配したと思ってるんだべさァァァァァァー!」
安倍は泣きながら矢口を抱き締めた。
「ご・・・・・・ごめんなさい」
矢口も安倍に抱きつくと、声を上げて泣き出した。それを見た中澤は、階段の
手摺につかまってしゃがみ込む。中澤はそれほど心配していたのである。
「裕子、あんたらしいで」
稲葉は中澤を抱き上げる。中澤は涙を堪えながら、笑顔の稲葉の肩を借りた。
「全く世話の焼ける妹達やろ?」
「あんたもな」
中澤は稲葉を見て笑顔になる。
安倍と矢口は抱き合ったまま号泣していた。石黒と飯田が二人の肩にてを掛
けると、安倍は泣きじゃくりながら、矢口の頭を撫でる。
「矢口が・・・・・・逃げたい気持ち・・・・・・は判るべさ。みんなそん・・・・・・な事は経験
し・・・・・・てるんだよ・・・・・・みんなは笑・・・・・・うかもしれ・・・・・・ないよ・・・・・・で
もそ・・・・・・れは自分の照・・・・・・れ隠しだべさ」
「さあ、中に入ろうよ」
石黒が二人に優しく声をかけた。
矢口の部屋に集まった五人の前で、矢口は土下座をして謝った。これだけ反
省されては、お説教する気でいた中澤も、何も言えなくなってしまう。
「もういいべさ。矢口の気持ちは、みんな判ってるんだから」
安倍は矢口を抱き上げる。矢口は再び涙を溢しながら安倍に抱き付いた。石黒
は全員にお茶を煎れ、気分が落ち着くようにする。
「けど、何かを探っているのが気付かれたとはな」
稲葉は残念そうに言った。まさか中学生に感づかれるとは思っていなかったの
である。いくら矢口が素人とはいえ、それなりに気付かれない努力はしていた
に違いない。
「矢口、残念だけど、これで終わりにするべさ」
「そやな。これ以上続けると、矢口が危険や」
稲葉も頃合だと踏んでいた。しかし、もう少し引っ張る事を主張したのが、石
黒と中澤である。『焼銀杏』と藤井が繋がっており、後は証拠を揃えるだけだ
ったので、何としてでも継続を力説した。
「あたしはやる!」
矢口が継続の意思表示をしたので、稲葉と安倍は折れる形となる。しかし、稲
葉は明日で打ち切りを宣言した。つまり、矢口は明日一日で証拠を掴まなくて
はならない。
「矢口、間違えても無理は駄目だよ」
安倍は矢口が心配だった。出来れば傍にいてやりたいのだが、安倍には留守番
という大役がある。安倍と矢口を繋ぐものは、小さなケイタイだけだった。
「よっしゃー、それじゃ、事件を整理するで。殺されたのは木村アヤカ・平家み
ちよ・松浦亜弥の三人やな。犯行の手口は一緒、後頭部を鈍器のようなもので
一撃や。木村・平家の線で出て来るのが藤井やな。木村と藤井は愛人関係。平
家は職場の同僚や。そうなると・・・・・・」
稲葉はここで詰まってしまう。しかし、それから先が問題なのだ。安倍はどう
なったら人を憎むようになるのか、そればかりを考えている。
「うーん・・・・・・もしかすると。あたし達は大きな間違いをしてるかもしれない」
安倍は何かを感じたようである。だが、あとひとつなのだ。あとひとつ何かが
判れば、安倍の推理が走り出すのである。
「間違い?」
稲葉が怪訝そうに安倍を見た。一本気な稲葉にしてみれば、藤井が主犯で紺野
が実行犯である図式が成り立っている。ただし、平家と松浦殺害については、
その動機といった部分で行き詰まっていた。
「木村アヤカ殺害については、藤井が絡んでいるのは確実だべさ。問題は平家と
松浦の殺害。これはきっと後藤姉弟が鍵を握っているっしょ」
「後藤姉弟が犯人?」
飯田が安倍を覗き込んだ。全員が安倍に注目する。安倍は首を振りながら否定
した。後藤姉弟には、それこそ動機が無いのである。
「それじゃ、矢口の努力は報われないって事?」
矢口は安倍を睨む。恥ずかしい思いもした。傷ついて逃げ出したくもなった。
そんな努力が無意味だったとしたら、矢口は立ち直れないだろう。
「そうじゃないべさ。これはあくまで仮定だけど、他に真犯人がいたとすれば、
矢口が動き出したのを知って、かなり動揺してるはずっしょ?なぜなら、向こ
うは、こっちがどれだけ調べているかは、全く知らないんだべさ」
安倍の考えには説得力があった。稲葉は証拠が揃わない内に絞込み過ぎたのか
と、自分の捜査方針を反省する。
「まあ、何にしてもやな」中澤は全員を見ながら「明日以降やな」と締め括った。
ファイル12 矢口を探せ!
翌日、矢口は全身に決意を漲らせながら、引き締まった表情で登校した。そ
の迫力に、きつい性格の亜衣でさえ、言葉をかけられないくらいである。下手
に話し掛けようものなら、殴られそうな雰囲気だったからだ。
矢口達が校門から校内に入ると、昨日の藤原がサッカーボールを片手に走っ
て来る。その爽やかな動きに、希美はときめいてしまう。昨年まではユウキが
モテモテだったが、今は藤原が道玄坂中学校女子生徒の憧れの的であった。
「矢口君、昨日は怒らせてしまったようだね。僕が悪かったのなら謝るよ」
「別にどうだっていいわ。あたしには関係の無い事だから」
「僕、考えたんだ。本当に加護君が好きだったのかな?って。それでようやく判
った。どうして君が気になっていたのかって。それは僕が好きなのは・・・・・・」
藤原が振り返ると、そこには誰もいなかった。矢口達はすでに昇降口に入りか
けている。
「僕ってマヌケ?」
藤原は固まったまま動かなくなってしまった。
矢口は昼休みになると、職員室の藤井を監視すべく、渡り廊下に移動した。
ここからだと双眼鏡を使わなくても良いが、こっちも丸見えなので、カモフラ
ージュが必要である。矢口はカモフラージュに、大きなダンボールを使った。
そこから藤井を監視するのだが、何かの用事で廊下を通る生徒達は、不思議そ
うに矢口とダンボールを見る。
「見世物じゃねえんだよ!早く通れ。このガキ!」
矢口が凄むと、一年生の男子生徒などは、べそをかきながら走って行く。矢口
は相手が強かろうが、平気でケンカを売る。しかし、弱い者には徹底して、き
つく当たっていた。簡単に言えば、矢口の頭の中には、弱者救済の論理が無い
のである。『弱い者は強くなるか、工夫をする』これが矢口のポリシーだった
。実際に矢口はこの方法で、現在の自分を築いて来たのである。
「何だ?すげー空ろな眼だなー」
矢口は藤井が妙な目つきになっているのに気付いた。薬物中毒なのだろうか。
やがて藤井は席を立ち、フラフラと職員室を出て行く。矢口はダンボールを置
き、慌てて後を追う。すると藤井は、ゆっくりと階段を昇って行った。その魂
の抜けたような歩き方は、誰かに操られているようにも見える。
(麻薬をやると、こんな風になっちゃうのかなー)
矢口は藤井の後を追いながら、薬物には手を出さないと決心した。やがて藤井
は階段を昇りきり、ドアを開けて屋上へ出て行く。矢口はドアまで一気に移動
すると、そこから藤井の様子を観察した。
(校庭を見てるな。誰かいるのかな?)
矢口が首を伸ばすと、藤井は何を思ったか、フェンスを乗り越えてしまう。矢
口は慌てて屋上に飛び出した。
「何をする気なの?ねえ!」
矢口が声をかけると、藤井は空ろな眼で振り向き、満面の笑みを浮かべた。
「私は飛ばなければいけない。アハハハハ・・・・・・」
「ちょちょちょちょ・・・・・・ちょっとー!ここは屋上だよ。飛んだら死んじゃう」
矢口は蒼くなって藤井を止めた。しかし、藤井は狂ったように笑い出す。
「アハハハハ・・・・・・明日香ちゃん」
藤井は人生最後の跳躍をする。人間が死ぬ瞬間を見ていた矢口は、眼を剥いて
震えていた。鈍い衝突音に混じって、骨の砕ける音がする。矢口は震える足を
引き摺って、とにかく屋上から出ようとした。矢口にしてみれば、藤井が最後
に言葉を交わした人間である。そのショックは大きかった。
「ふじふじふじ・・・・・・藤井先生が・・・・・・」
矢口がドアにたどり着くと、そこには紺野が立っていた。紺野は無表情のまま
矢口を見つめる。矢口は藤井の自殺を知らせようと、眼前の紺野に訴えた。
「ここここ・・・・・・紺野・・・・・・ふじ」
矢口の言葉はここで途切れた。紺野が矢口の腹を蹴ったからである。
「バカな子」
紺野は無表情のまま、冷たく言い放つと、矢口を大きなスポーツバッグに押し
込み、それを担いで階段を駆け降りて行った。
中澤と飯田は裏門近くに停めたクルマの中で待機していたが、藤井が自殺し
た事を知らなかった。すると中澤のケイタイに電話がかかって来る。
「おう、安倍。どないした?」
<そっちの様子はどうだべさ!矢口が電話に出ないの!>
中澤には安倍が言っている意味が判らない。安倍は藤井の自殺を、稲葉から教
えて貰ったのである。矢口に電話をしても出ないため、慌てて中澤に連絡した
のだ。
「何かあったんか?」
<何言ってるべさァァァァァァァー!藤井が屋上から飛び降りたのー!>
「ほんまか!すぐ急行する!飯田!藤井が飛び降りたらしいで!」
「ええっ?矢口は?」
二人は走って中学校の中に入って行った。
現場に到着すると、飯田が藤井の死体に駆け寄り、中澤が取り巻きを遠ざけ
た。飯田が藤井の死体を調べると、すでに心肺停止の状態である。頭蓋骨が変
形し、血や脳漿が飛び散っていた。恐らく即死だったのだろう。
「ええか?全校生徒を体育館に集めるんや!」
中澤が教師に指示すると、抱きついて来た少女がいた。亜衣である。
「亜衣、矢口はどした?」
「いないの。さっきから探してんやけど」
そこへ夏・稲葉・石黒の三人が到着した。生徒達は続々と体育館に集結してお
り、その光景は砂糖に群がる蟻のようである。
「飯田、状況は?」
「屋上からでしょうね。ほとんど即死だったみたい」
中澤は夏に矢口が行方不明になっている事を告げた。いきなり夏の表情が曇る
。それは夏が矢口の身に、危険が迫っている事を感じたからだ。
「矢口はどうしたべさァァァァァァァー!」
到着したばかりのパトカーから、安倍が血相を変えて飛び出して来た。妹のよ
うに可愛がっている矢口が失踪したのだ。落ち着いてはいられない。
「なっち、矢口がいないの」
飯田が困ったように言うと、安倍は中澤の胸倉を掴んだ。石黒が慌てて止めに
入るが、安倍は泣きながら中澤に噛み付く。
「裕ちゃんがついてて、何やってんだべさァァァァァァー!」
「すまん・・・・・・」
中澤は俯いた。夏は中澤から引き離すと、厳しい表情で安倍を叱る。
「中澤を責めるんじゃない!そんな事を言ってる場合じゃないだろう!しっかり
しろ!安倍!」
「そ・・・・・・そうだべさ。なっちがしっかりしなきゃ」
安倍がようやく冷静になった時、稲葉が体育館から走って来た。かなり焦って
おり、深刻な事態である事が覗える。
「全校生徒でいなくなったんは、矢口と紺野の二人だけやで!」
「よし、安倍と飯田は紺野の自宅へ急行しろ。中澤と石黒は『焼銀杏』、稲葉と
大谷は警官四人を連れて校舎の中だ」
夏が素早く指示を出すと、すぐに全員が走った。こういった時に冷静な指示が
出せる夏はさすがだ。
飯田は相変わらず凄まじい運転をし、二分足らずで二キロ離れている紺野の
自宅に到着した。二人が踏み込むと、母親が悲鳴を上げる。
「あさ美はどこだべさァァァァァァァァー!」
安倍が凄まじい表情で睨むと、紺野の母親は腰を抜かしてしまう。飯田が警察
手帳と身分証を提示し、状況を説明した。
「あさ美は帰ってませんが」
「本当だべな?嘘つくと絞め殺すべよ。アアン!」
安倍が胸倉を掴むと、母親は確認しても構わない旨を言った。飯田は紺野がい
ないと確信し、安倍を引き寄せる。
「ここにはいないよ」
「それじゃ『焼銀杏』だべさァァァァァァァー!」
安倍は母親を突き飛ばすと、飯田を引き摺ってクルマに戻った。
ファイル13 矢口危うし!
矢口が目覚めると、そこはどこかのスナックのようだった。彼女は柔らかな
椅子の上に置かれており、三人の男が矢口を見下ろしている。
「気がついたみたいだぜ」
そう言ったのは、背の高いトモヤという男だ。いかにも凶悪そうな顔をしてお
り、その筋の若い衆といった感じである。
「本当に姦っちまっていいのか?」
ちょっと人が良さそうなのがマサヒロである。この男がベンツを運転していた
らしい。
「ああ、ちゃんと許可をとってあるさ」
一番の老け顔がタイチだった。この男は三人のリーダー格であり、噂によると
最も凶暴な性格らしい。
(何となく、かなりヤバイ感じだなー)
矢口は本能的に、自分の身が危険に曝されているのを感じた。拘束されていな
いのが不幸中の幸いであり、矢口は三人の隙を覗う事にする。
「順番だぜ。最初は俺だ」
タイチが他の二人に言った。不満そうな声を漏らす二人。矢口はいきなり立ち
上がると、出口に向かって走り出した。
「バーカ」
瞬く間に矢口は三人に囲まれてしまう。絶体絶命の矢口は、カウンターの中に
入り、三人にグラスやボトルを投げつけた。
「来ないでよ!あたしに何かしたら、警視庁を敵にまわす事になるからね!」
矢口が言うのも満更嘘ではないが、三人は矢口に脅しをかける。
「テメエ!いい加減にしねえと、東京湾に浮かんで貰うぞ!」
矢口は勝気な性格だったが、こういった脅しには弱かった。恐怖と絶望感が矢
口を襲い、カウンターの隅に座り込んで泣き出してしまう。
「やめて・・・・・・くれないよね」
「変な詮索するからだ。まあ、自業自得と思って諦めるんだな」
タイチはロバートブラウンのボトルを抱き締めて、蹲っている矢口を引き起こ
した。そしてタイチは矢口を抱かかえる。
「背は低いが、ちゃんと女の身体をしてるじゃねえか。抵抗しなけりゃ、ショッ
クも少ないっていう話だぜ」
「もう・・・・・・諦めたよ・・・・・・でも・・・・・・怖いよォォォォォォー!」
矢口は号泣しながら、ロバートブラウンを一気に呷った。酔ってしまえば、少
しは気が紛れるかと思ったのである。身体に恵まれなかった矢口の、せめても
の自己防衛手段であった。
「おい、服を脱がせろ」
タイチは二人に命令した。
ファイル14 飯田VS紺野
『焼銀杏』は福田家の地下にあった。玄関の前の階段を下りて行くと、ちょ
っとしたスペースがあり、この奥に入口がある。到着した石黒は、自分が着て
いた防弾ベストを中澤に渡す。
「一応、着てくれる?」
「アホ、あんたはどうすんのや」
中澤が降りようとするのを石黒が引き戻した。石黒を睨む中澤。しかし石黒は
真剣な表情で言った。
「裕ちゃんに何かあったら、亜衣ちゃんが困るでしょう?あたしはこれがあるか
ら」
石黒は簡易型のプロテクターを装着する。中澤に渡した方のベストは、44マ
グナム弾からも身を守るタイプで、安全性の高い高級品だった。一方の石黒が
装着したものは、9ミリパラベラム弾から身を守るために開発された汎用タイ
プである。石黒は一応、拳銃を握ってクルマから降りた。中澤も防弾ベストの
装着が終わると、特殊警棒を持って石黒に続く。
二人は薄暗い階段を降りて行く。石黒は拳銃を構えながら、ゆっくりと階段
を踏みしめた。そして一番下に降り立った時、石黒の拳銃が蹴り上げられ、放
物線を描いて拳銃が飛ばされる。
「どした!」
中澤が声をかけた瞬間、石黒のこめかみに踵が入り、彼女は二回転して昏倒し
た。中澤は反射的に特殊警棒を繰り出したものの、それは空を斬ってしまう。
「ここは通さないよ。楽に殺してあげるから、抵抗はしない方がいいんだって」
そう言ったのは、行方不明になっていた紺野である。紺野がここにいれば、矢
口も近くにいるはずだ。
「じゃっかましいんじゃァァァァァァァー!」
中澤は再度警棒を振るう。しかし、今度は紺野に受け止められ、中澤は太腿に
激しいキックを受けた。
「あがっ!何て凄まじい蹴りなんや」
中澤の左太腿が麻痺してしまう威力である。こんな蹴りを急所に受けたら、良
くても大怪我は避けられそうに無い。
「アハハハハ・・・・・・楽に殺してあげるってば」
紺野は再びキックを繰り出した。顔面に迫る紺野の足を、中澤は腕でガードす
る。大きな音がして中澤が飛ばされた。中澤はタイル張りの床に倒れこむ。
「あうううう・・・・・・手首が」
この一撃で中澤の手首の骨にヒビが入っていた。いくら空手をやっているから
といっても、この強さは異常である。
「しぶといんだから。でも、これで終わりだよ」
紺野が最後の一撃を中澤に決めようとした時、唸りを上げて特殊警棒が飛んで
来た。紺野はこれを避けるのが精一杯である。
「もう、誰?こんなものを投げつけるのは」
紺野が特殊警棒を蹴っ飛ばすと、階段の上には飯田が立っていた。横では飯田
の運転でクルマ酔いした安倍が戻している。
「暴力は駄目だよ。話し合いで解決しよう」
飯田は全く緊張感の無い声で言うと、笑顔で階段を降りて来た。そして石黒と
中澤の様子をみる。
「ね?暴力は駄目だからさ。何が不満なの?圭織が話を聞くよ」
「頭の方は大丈夫?あんたもこれから殺されるんだけど」
紺野は飯田に説明する。しかし、飯田は首を傾げて困ってしまう。
「飯田、油断するんやない。こいつ、異常な強さやで」
中澤は左手の手首を庇いながら、無防備な飯田に忠告する。それでも飯田は全
く無防備のままだった。
「あんたバカだね。それじゃ、順番を変更して、あんたから殺してあげる」
頭を掻く飯田の脇腹に、紺野は渾身のキックをヒットさせた。中澤は眼を剥い
て叫ぶ。
「飯田ァァァァァァァァァァー!」
しかし、飯田は倒れない。二、三歩よろけただけである。普通の人間なら肝臓
破裂で、ほぼ即死だろう。
「痛いなー、何すんのよー。何、裕ちゃん。ちょっと待っててね」
飯田は肩を押されたくらいの感覚で言った。これには中澤は勿論、紺野が仰天
する。
「あんた、サイボーグだったの?」
「サイボーグ?それって失礼じゃないの?こんな可愛いサイボーグがいる?」
飯田は可笑しそうに言った。これに激昂した紺野は、再び唸るようなキックを
繰り出す。飯田はそのミドルキックを脛で受けた。骨の砕ける音が響き、飯田
は痛みに顔を顰める。
「あいたたたたた・・・・・・ここだけは鍛えようが無いもんね。失敗した」
「バカだね。本当に・・・・・・あれっ?」
紺野は右足をついてみた。しかし、身体のバランスがおかしい。
「あーっ!足が!」
紺野は自分の右足を見て仰天した。何と、足首から下が完全に折れ曲がってい
たからである。飯田の足を蹴り折ったつもりが、自分の足を折ってしまった。
「足が駄目でも、こいつがあるさー!」
紺野は飯田の顔面に掌底を決める。これは一般的な瓦割りに使われる打撃方法
であり、拳とは違って骨折の心配が無い。瓦を十枚も割る紺野の一撃は、一般
人なら確実に頭蓋骨を粉砕していただろう。しかし、相手は飯田である。
「痛い!・・・・・・あーっ!鼻血が出ちゃったじゃん。アハハハハ・・・・・・怒ったよ」
飯田の髪が逆立って行く。ついに戦闘モードに突入したのである。
「あんた、やっぱり人間じゃなかったんだ!スーパーサイヤ人なんて反則だよ」
紺野は不服そうに文句を言う。中澤は初めて見る飯田の戦闘モードを、手首の
痛みを忘れて見ていた。
「誰がスーパーサイヤ人だよ!失礼な事を言うんじゃねえよ。紺野とかいったね
。キックの見本を見せてやる。まあ、ちょっと寝てろよ」
飯田はスカイダイビングのフリーフォールの時と同じような風を切る音がする
、渾身のキックを繰り出した。そのキックを胸に受けた紺野は、『焼銀杏』の
ドアに激突し、閂と蝶番を破壊してドアごと店内に飛び込んでしまう。
「アハハハハ・・・・・・愛を・・・・・・くだ・・・・・・さ・・・・・・い・・・・・・がくっ!」
ついに紺野は全身打撲で失神した。それを見た飯田は、戦闘モードを解除して
行く。飯田を見上げ、怯える中澤。
「彩さん、大丈夫だべか?」
ようやくクルマ酔いから立ち直った安倍は、白目を剥いて昏倒している石黒を
抱き上げる。石黒はその時、以前の中澤同様、最高のトリップ感の中にいた。
「わかって・・・・・・ないじゃ・・・・・・ない・・・・・・アハハハハ・・・・・・」
石黒の意識は無重力で、ゆっくり回転しながら、桜吹雪の中を漂っている。こ
んな素晴らしい感覚を味わえるのなら、全てを犠牲に出来るほどの快感だった
。酒のような嫌悪感は一切なく、高校時代にイタズラ半分で体験した咳止めの
一気飲みよりも、はるかにトリップ感がある。あの時は蛍光灯が笑って怖かっ
たが、今回は文句なしでハイになっていた。
「しっかりするべさァァァァァァァー!」
べさァ・・・・・・べさァ・・・・・・べさァ・・・・・・べさァ・・・・・・べさァ・・・・・・・・・・・・・・・
それは懐かしい故郷の方言だった。石黒の意識は札幌までルーラしてしまう。
時計台・・・・・・雪祭り・・・・・・五稜郭・・・・・・?・・・・・・五稜郭は函館か?
「もおォォォォォォォォォー!しっかりしなきゃ駄目っしょ!」
っしょ・・・・・・っしょ・・・・・・っしょ・・・・・・っしょ・・・・・・っしょ・・・・・・・・・・・・・・・
そうだ。故郷の響き・・・・・・しかし、その響きは、石黒を急速に覚醒へ向かわせ
ていた。嫌だ!このまま、もっとトリップしていたい!そんな石黒の願いも空
しく、彼女の意識は元にあった場所へ帰って来る。
「優しいあなたアアーン!」
「彩さん!しっかりするべさー!」
安倍は石黒の頬を叩いた。その行為が石黒の覚醒を加速させ、彼女はトリップ
の終了する嫌悪感から、安倍を突き飛ばす。
「痛いじゃんかよー!」
石黒は頭を押えながら立ち上がった。タイル張りの床に転がった安倍は、嬉し
そうに立ち上がり、石黒の肩を叩く。
「ようやく気がついたべね。さあ、矢口を・・・・・・」
安倍が『焼銀杏』を振り向いた時、中澤が悲鳴を上げた。中澤は破壊されたド
アから中を覗きこんでいたのである。
「や・・・・・・矢口ィィィィィィィィー!」
中澤は力が脱けたように座り込んでしまう。横にいた飯田も、口を押えて立ち
尽くしていた。
「矢口・・・・・・酷い・・・・・・酷過ぎるよ!」
安倍は最悪の状況を覚悟する。一瞬だけ気が遠くなり、石黒に支えられた。そ
れでも安倍は確認しなければならない。例え矢口が肉片になっていても、先輩
として、同僚として、親友として、そして姉として、見届けなければならなか
った。矢口の死体を見たら、恐らく正気ではいられないだろう。
安倍はゆっくりとドアのあった場所へ歩いて行く。全てがスローモーション
のようだ。身体中のアドレナリンが沸騰するような感覚の中で、心臓の鼓動だ
けが凄まじく大きな音をたてている。
「安倍、矢口やで・・・・・・」
中澤は涙を流していた。安倍の脳裏には安らかな矢口の死顔と、誰だか判らな
いくらいに破壊された矢口の顔が、交互に浮かび上がっている。
「まさか、あそこまでやるなんて・・・・・・何考えてんのよ」
飯田は茫然としているように見えた。すでに安倍の神経は、髪の毛より細い糸
で、辛うじて繋がっている。心臓の音が更に大きくなり、安倍は耳を塞ぎたく
なるくらいだった。
そして安倍は、意を決して薄暗い店内を覗き込んだ。そこには直視出来ない
ほどの悲惨な現実が存在していたのである。
つづきは明日です。
436 :
名無し。:02/03/23 04:20 ID:UliTr6vb
更新乙かれです^^
作者さんはバレー詳しいんですね〜
私もバレーやってたんでおもしろく読めました。。
矢口がああなってるんだろうなぁ、と思いつつ
期待待ち。。
ファイル15 『焼銀杏』の惨状
メチャメチャになった店の中には、そこだけがポツンと押し広げられたよう
な空間が存在していた。そしてその中央に、うつ伏せになった血まみれの矢口
がいる。
「矢口・・・・・・」
浜辺の波打ち際に立った時のように、安倍は自分の足元から崩れていくような
感覚に見舞われた。いつも明るい笑顔で、「おつかれさまー」と言ってコーヒー
を煎れてくれた矢口。寝ぼけて安倍の乳首を吸った甘えん坊の矢口。中澤が危
篤で取り乱した矢口。安倍の頭の中では、矢口との思い出が駆け巡っている。
しかし、安倍の眼前には、冷たい躯となった矢口が横たわっていた。
「や・・・・・・矢口・・・・・・迎えに来たよ。起きて・・・・・・ねえ、起きてよ」
安倍は矢口に話し掛けるが、何の反応も無い。それは当たり前である。そこに
横たわっているのは、紛れも無く、以前、矢口だったものだ。
「矢口、ほら桜吹雪だべさ。外はきれいだよ・・・・・・矢口・・・・・・返事するべさ。ね
え、矢口・・・・・・嫌ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァー!」
安倍は眼の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちた。
本当にもうしわけありませんが、友達の家で不幸があり、
次回の更新は、早くても明日の晩になりそうです。
実をいうと、まだパソコンに打ち込み終わっていないのです。
ですから、それまで、つづくということで・・・・・・
友達のお母さんが亡くなったので、手伝いに行ってました。
>>437 は下の弟が、どうしても載せろと言うので
不本意ながら載せてみました。
続きを考える身にもなってほしいものです。
ある程度できたので、更新させてください。
「なっち、ねえなっち。起きてよ」
それは石黒の声だった。安倍が眼を開けると、石黒が済まなそうな顔をして覗
き込んでいるのが見える。
「彩さん・・・・・・矢口が・・・・・・」
安倍の視界は涙で歪んだ。手遅れだった。昨夜、矢口が何と言おうとも、もう
潜入させるべきでは無かった。誰が何と言おうと、矢口は自分で守るべきだっ
た。安倍は後悔で胸がいっぱいになる。
「どうしたのよー、矢口を救出しよう」
石黒は安倍を引き起こした。しかし、安倍は石黒に抱きついて号泣してしまう
。
「突き飛ばしてごめん、痛かった?」
「ウワァァァァァァァ・・・・・・へっ?」
安倍は石黒の顔を見る。石黒は頭を掻きながら舌を出した。安倍は自分の記憶
を辿ってみる。
「あれ?確か店の中で矢口が死んでて・・・・・・」
「何言ってんの?いいから」
石黒は安倍の手を引いて、茫然とする中澤と飯田の間から、店の中を覗き込ん
だ。安倍は俯いて眼を閉じていたが、意を決して現実と向き合う。
そこは正に地獄だった。椅子は吹き飛び、テーブルは破壊されている。店内
の少し広くなった場所には、血まみれで全く動かない三人の男が重なり合って
倒れており、その上で泥酔した矢口が雄叫びを上げていたのだ。
「へっ?」
安倍は数秒間、心臓の鼓動も停止してしまった。ようやく鼓動が復活すると、
正気に戻った石黒に突き飛ばされ、頭を打って意識を失った事が判って来る。
つまり、安倍は矢口が死んだ夢を観ていたのだ。
「ギャーハハハハー!この矢口様をレイプしようなんざ、五十六年早いってんだ
ァァァァァァァー!」
「何で半端な数字なの?」
飯田は首を傾げた。普段は何も考えていないくせに、こういった場合に限って
考え込んでしまうのが飯田である。
「そんなに深く考え込む事じゃないと思うんだけど。だいたいさー、五十六年も
経ったら、この人達はレイプじゃなくても無理なんじゃない?ねえ、なっち」
石黒が言うと、安倍は大きく頷いて飯田の肩を叩く。看護士の娘だけあって、
大概の事は知っていた。
「うん、人間の生殖能力は・・・・・・何を言わせるんだべさァァァァァァァァー!」
安倍は真っ赤になって石黒を睨んだ。その顔を見て、中澤はようやく落ち着い
て来る。やはり、矢口が拉致された責任を感じていたのだ。
「無事な矢口を見て、一気に緊張の糸が切れたんや。ふー、堪忍な」
中澤は完全に腰が抜けてしまい、まるで立ち上がる事が出来なくなってしまっ
た。飯田は三人の男の様子をみる。
「あららら・・・・・・頭部裂傷、頭蓋骨陥没骨折、眼底出血。やり過ぎだよ」
「何じゃコラァァァァァァァァー!テメエ、この矢口様に意見するのくゎァ?」
矢口の眼は完全に据わっている。ロバートブラウンを一気飲みした矢口は、凄
まじく凶暴になっていた。この状態で三人を殺さなかったのが不思議なくらい
である。
「正当防衛だろうけどさー、限度ってものがあるの」
「何ィィィィィィィー!アメリカじゃレイプされそうになったら、撃ち殺しても
いいそうじゃねえか!どうして日本じゃいけねえんだァァァァァァー!」
アメリカの法律と日本の法律は、根本的に違っている。アメリカでは個人の利
益が最優先されるが、日本では国家の利益が最優先されるのだ。アメリカでは
個人の生命や財産を守る権利が確立しており、勝手に敷地内に侵入した者を発
見したら、撃ち殺しても構わない。ところが、日本の法律は無茶苦茶であり、
どんな状況であっても、人を殺せば殺人である。自分の命が危険であったとい
う事が証明されて、初めて正当防衛という特別な措置の扱いを受けられるのだ
。また、相手に殺意が無かった場合、例えレイプされようが何をされようが、
殺してしまうと罪になる。つまり、そういった相手には、手加減しなさいとい
うのだ。相手が子供ならまだしも、女性を襲うのは男である。か弱い女性が自
分の身を守るには、中途半端な攻撃は逆効果だ。レイプを諦めて殺害といった
ケースも多いため、それすら出来ないまで攻撃するしかない。相手が死んでし
まうかどうかなど、考えている余裕はないはずだ。過剰防衛などという言葉が
あるのは、日本くらいなものである。すでに安全神話が崩壊した日本において
は、早急に法律の整備が必要だ。元グリーンベレー大尉で作家の柘植久慶氏も
、著書の中で、こういった法律の矛盾に触れている。
「矢口ィー、逮捕はしないけど、後で出頭して貰うからね」
「何だと?ふざけるなァァァァァァァァー!」
矢口は飯田に踵落としを繰り出した。しかし、飯田は難なく矢口の足を掴む。
飯田に足を掴まれて逆さまになった矢口は、暴れながら怒鳴り散らした。
「離せ!このヴォケ!離さんかァァァァァァァァァー!」
「矢口、これ以上やると、公務執行妨害だからさー、ちょっと寝てなよ」
「ふざけるな!もうネタが無いんじゃァァァァァァァァァァー!」
飯田は暴れる矢口を放り投げた。矢口はカラオケ用のTVモニターをひっくり
返し、五メートルは離れているトイレのドアを破壊して洗面台に激突。そして
動かなくなった。
「ら・・・・・・らぶらぶ・・・・・・らぶふぁ・・・・・・くと・・・・・・りー・・・・・・がくっ!」
店内に静寂が訪れると、四人に安堵感が湧き出して来る。こういった時には、
笑いしか出て来ない。四人は互いの顔を見ながら、暫くの間、笑い続けていた
のである。
ファイル16 死ぬな!石黒!
安倍は三人の男と矢口の状態を診た。全員、命に別状は無いが、軽傷なのは
矢口だけである。三人の男は重傷であり、傷が完治するまで数ヶ月はかかるだ
ろう。
「派手にやったもんやな・・・・・・痛!」
中澤は左手首を押えた。そこは紺野のキックを受け、骨にヒビが入っている。
青黒く腫れ上がり、破壊的な紺野のキックの凄まじさが感じられた。
「裕ちゃん、大丈夫ー?」
飯田が中澤の手首を診る。指が動くので、飯田は大袈裟な骨折ではないと判断
出来た。メチャメチャになった店内を見て、思わず溜息をついてしまったのが
石黒だった。
「裕ちゃん、殺害の実行犯は紺野で間違いないね。後は麻薬だけか」
「いや、違うべさ。紺野は誰も殺してないっしょ。恐らく、平家を殴ったのは紺
野、殺したのは真犯人でないかい?」
安倍が言うと中澤が嬉しそうに立ち上がった。石黒と飯田は怪訝そうに安倍を
見つめる。安倍の頬に、風に乗って流れて来た桜の花びらが貼り付いた。安倍
はその花びらに気付かなかったが、それは色白の彼女の肌にしがみつく、アク
セサリーにも見える。
「安倍、判ったんか?」
「うん、だいたいね」
「まあいいや。とりあえず救急車を手配して、警部に連絡するよ」
石黒はケイタイを出したが、生憎、圏外の表示が出ていた。地下であるため、
電波が遮断されているのだろう。
ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ
「圏外だってさ。しょうがないね」
石黒は苦笑しながら階段に向かった。その時、一発の銃声が轟き、石黒が胸を
押えて倒れこむ。その銃声は妙に軽い音だった。まるで竹を燃やした時の破裂
音のような音で、危険を感じさせる音では無い。しかし、現実に石黒が胸から
血を流して倒れているのだから、それは紛れも無い銃声である。
「彩さん!」
石黒に駆け寄ろうとする安倍に、中澤が飛びついて阻止した。単発銃でない限
り、二発目、三発目の銃撃が予測出来るからだ。人が撃たれたからといって、
むやみに近付いてはいけない。なぜなら、撃った奴は助けに来た人間を、次の
標的にしている可能性があるからだ。そういった点では、訓練を受けている飯
田の行動が正解である。飯田は掩蔽された部分に身を置いてから、持っていた
拳銃を取り出し、冷静に状況を見守っていた。
「何するべさ!彩さんが・・・・・・」
「アホ!死にたいんか!飯田、頼むで!」
中澤が合図すると、飯田は拳銃を構えて階段に近付く。そして一気に踊り出る
と、拳銃を二発発射した。こういったケースの場合、敵の人数も武器も判らな
い。本来ならば状況を判断しながら徐々に前進するのだが、今は撃たれた石黒
を助けるのが先決だ。
「あ、いない」
飯田が飛び出した時には、すでに犯人は逃げた後だった。飯田は犯人が隠れて
いる場合を想定し、警戒態勢に入る。
「石黒ー!」
中澤と安倍が石黒に駆け寄る。石黒は右の胸を撃たれていた。防弾プレートを
貫通した銃弾は、石黒の体内に入っている。いわゆる盲貫銃創だ。石黒が身に
つけていたのは、九ミリパラベラム弾用のプロテクターであるから、それより
も強力な銃で撃たれた事になる。
「飯田!救急車!」
「はい!」
中澤と安倍は素早く石黒の防弾プレートを外し、着ている洋服を捲った。石黒
は右の肺に穴が開いているようだ。かなりの重傷せあり、一刻も早い手術が必
要である。
「大丈夫や。石黒、安心せえ。それで犯人は見たんか?」
中澤はハンカチで石黒の傷を押え、彼女の手を握った。しかし、事態は深刻で
ある。石黒が咳き込むと、大量の血が吐き出された。肺の中で大出血が起きて
いる証拠だ。胸に穴が開くと、どんどん中の空気が抜け出し、肺は風船のよう
に萎んでしまう。そして、その空洞のスペースに、血が溜まって行くのだ。
「犯人は見えなかった。裕ちゃん・・・・・・トカレフだね」
石黒は血で喉を鳴らしながら言った。そこへ連絡を終えた飯田が帰って来る。
飯田は銃を離さない。何かあったら即応出来るように備えているのだ。
「彩っぺ、大丈夫?」
飯田が覗き込むと、石黒は笑みを浮かべるが、かなりの衰弱が見られた。石黒
の片肺は機能しておらず、かなりの息苦しさを感じているに違いない。その証
拠に、石黒の呼吸数は、普段の倍近くにまで上昇していた。
「裕ちゃん、出血が多いべさ。とりあえず上に運ぼう」
安倍の提案で、石黒を階段の上まで運ぶ。するとサイレンの音が聞こえて来た
。恐らく夏達であろう。すぐに夏と稲葉が到着し、その直後に救急車も到着す
る。続々と警察車両が集結し、『焼銀杏』前の道路は、大事件の様相を呈して
きた。
「石黒!しっかりせえ、大丈夫。大丈夫やで」
稲葉は石黒の手を握り、必死になって声をかける。中澤が刺された時は腹だっ
たため、自分で傷口を塞いで止血が出来た。しかし、石黒は胸を撃たれていた
ので、出血を止める事は不可能だった。最高責任者である夏は、状況を素早く
判断し、その場の全員に的確な指示を出す。
「飯田、救急車を運転しろ。安倍と稲葉は付き添い。中澤、すまんが居残りだ」
「早く乗せろー!」
飯田が怒鳴る。すると救急隊員が文句を言い出した。いきなり救急車に乗せた
ところで、搬送先が判らないから仕方が無いのだと言う。
「だから病院を確認しないと・・・・・・」
「そんな暇あるかい!」
確かに石黒は、一分、一秒でも早く病院に搬送されるべきだった。あまりにも
石黒の出血が激しかったからである。稲葉と安倍で石黒をストレッチャーに乗
せる。すると救急隊員が眼を剥いた。
「ああ、血で汚れちゃうよ」
この一言でブチキレた飯田は、その救急隊員を蹴り飛ばした。救急隊員は五メ
ートルも離れた隣家の壁に激突し、そのまま動かなくなってしまう。びびりま
くる二人の救急隊員を救急車に放り込むと、飯田はホイルスピンをさせて救急
車を発進させた。
「びょびょびょ・・・・・・病院の確認を・・・・・・」
救急車の助手席に座った救急隊員が言うと、安倍が眼を剥いて怒鳴った。
「救命救急センターに決まってるべさァァァァァァァー!」
「は・・・・・・はい!」
救急隊員は消防本部に連絡する。その間、飯田は凄まじい速度で一般道を疾走
した。マイクを握り締め、先ほどから怒鳴りっ放しである。飯田は運転をさせ
ると、他の誰よりも性格が変わってしまう。特に今は、一刻も早く石黒を病院
に運ばなければならないため、いつもより凄い言葉づかいになっていた。
「道を空けろ!早くどけ!タラタラ走ってんじゃねえんだよ!信号突っ切るぞ!
バカ野郎!サイレンが聞こえねえのかァァァァァァァァー!テメエ等、撃ち殺
すぞ!救急車が通るって言ってんだろうがァァァァァァァー!」
交差点をタイヤを鳴らしながらドリフトして左折すると、条件反射の白バイが
追って来た。緊急車なので飛ばすのは仕方ないが、その制限速度にも限度があ
る。
「走行中の救急車、左に寄って停まりなさい。救急車の制限速度は八十キロだ」
しかし、飯田が停まるわけがない。白バイは救急車の横につけ、「停車しろ」と
マイクで怒鳴っている。普通の神経であれば急いでいる理由を考えるのだが、
一部の警官には、こういった非常識な連中も存在した。それは権力志向そのも
のであり、警察至上主義に傾倒した危険思想でもあったのだ。
「もう!うるせえんだよ!」
飯田は救急車で白バイに体当たりした。白バイは転倒し、乗っていた交通機動
隊員が道路を滑る。一般人なら一大事だが、訓練を受けた白バイ隊員なら、大
した怪我にはならないだろう。
救急車の中では石黒の意識が混濁して来た。稲葉と安倍は必死に声をかける
。二人が声をかけると石黒は我に戻るが、またすぐに眼を瞑ってしまう。すで
に石黒は出血多量で、意識低下を起こしていたのだ。
「石黒!しっかりせえ!娘がおるんやろォォォォォォォー!」
すると石黒は眼を開け、稲葉の手を力強く握った。思わず稲葉に笑みが零れる
と石黒も笑みを浮かべる。やはり子供の事を言うと、母親は嫌でも元気になる
ものだ。
「あっちゃん、ケンカばかりしてたね。仲良くなれて・・・・・・良かった」
「アホ!これからも友達やで」
頷く安倍の頬に手を伸ばした石黒は、貼り付いていた桜の花びらを取る。石黒
はその花びらを見ながら、嬉しそうに呟いた。
「桜だよ・・・・・・なっちも桜が好きだったよね」
「彩さん、喋らない方がいいべさ」
「飯田ァァァァァァー!まだかァァァァァァァァー!」
「ウルセー!こっちだって必死なんだバカ野郎!」
石黒は胸の痛みに顔を顰める。稲葉と安倍は石黒を励ます事しか出来ない。こ
ういった時の数分は、何時間にも感じてしまうものだ。その間にも、石黒は確
実に衰弱している。大量の出血で、救急車の床に血溜まりが形成されつつあっ
た。いくら止血を試みても、出血が止まらないのである。
「あっちゃん、なっち・・・・・・娘と真矢を・・・・・・お願い」
「何言ってるべさ!」
「弱気になるんやない!しっかりせえ!」
稲葉はついに泣き出した。安倍は石黒の身体を触る。マッサージすると血行が
促進して出血が増えてしまうが、触るだけなら問題は無い。こうして触る事で
、少しでも石黒を刺激しようとしたのだ。
しかし、ここまで出血してしまうと、石黒が生きている方が不思議である。
すでに身体にあった血液の、半分が流れ出てしまっていた。いくら女性であっ
ても、失血死は目前にまで迫っている。
「桜餅・・・・・・美味しかったよね・・・・・・あはっ、真矢さん、動いたよ」
石黒は自分の腹に手を当てた。意識が朦朧となり、以前の楽しかった記憶が蘇
っているらしい。石黒にはもう苦悶の表情は無かった。限りなく『無』に近付
いた意識の中で、自分の分身である娘の事を思い出している。娘が生まれた時
、石黒は最高に幸せだった。両親は勿論、最愛の真矢が一番喜んでくれた。女
としての喜びを感じ、感涙が止まらなかった。生まれたばかりの娘を抱き上げ
て石黒は・・・・・・
「石黒ー!」
「彩さん!」
「・・・・・・ママだよ・・・・・・」
石黒は最高の笑みを浮かべたまま、ついに力尽きてしまった。
「死ぬんじゃない!死んじゃいけないべさァァァァァァァァァー!」
安倍は反射的に石黒に跨り、心臓マッサージを始める。あの素晴らしい家庭を
潰してはいけない。あの可愛い娘を泣かしてはいけない。安倍はそれだけを思
い、懸命に石黒を蘇生させようとした。
「これだけ出血してるんだよ!酸素を送らないと脳が死ぬべさァァァァァー!」
安倍は救急隊員を睨んだ。一刻も早く気道確保をし、高圧酸素を送り込むべき
である。石黒の脳は酸素を要求しているのだ。
「送管せえ!気道確保するんや!」
稲葉は救急隊員に怒鳴った。しかし、彼等は躊躇してしまう。送管の技術こそ
あるが、救急隊員が勝手にやる事は出来ないのだ。
「出来るんですが、医師の指示が無いと・・・・・・」
「やらなければ撃つで!」
稲葉は拳銃を向けた。これには救急隊員も仰天する。勝手に気道確保をした場
合、救急隊員は処分される可能性もあった。運が悪ければ救命救急士の資格を
剥奪され、懲戒免職もありうる。
「早くやるべさ!脳が酸欠になってる!」
石黒の顔色が変わって行く。いわゆるチアノーゼ状態であり、心臓停止に伴っ
て首から上に血液が循環しないために起こる症状だ。それは人体で最大の酸素
消費臓器である脳の悲鳴なのである。
「判りました!」
一人の救急隊員が意を決して送管を施す。安倍は全身汗だくになりながら、石
黒の生還を信じて心臓マッサージを続けた。石黒を乗せた救急車は、車道に落
ちた桜の花を舞い上がらせながら、救命救急センターに向かって疾走して行っ
た。
広尾病院の救命救急センターに到着すると、すぐに処置室へ運ばれ、石黒の
蘇生処置が始まる。石黒への心臓マッサージで全身汗だくの安倍は、飯田に抱
えられながらロビーの椅子に腰を降ろした。その横では稲葉が合掌しながら石
黒の生還を祈っている。この三人に出来る事は、石黒の生還を祈る事だけだっ
た。
三十分ほどで担当医師が姿を現した。三人は医師を見ると、反射的に駆け寄
って石黒の容態を訊く。しかし、医師は質問には答えず、「どうぞ」と言って処
置室の脇にある部屋へ三人を案内した。そこには寝台の上に、眼を閉じた石黒
が静かに横たわっている。その顔は透き通るような白さで、とてもきれいだっ
た。喜びや怒り、哀しみや楽しみといった世俗的なものから開放された石黒の
顔は、僅かに微笑んでいる。
「彩っぺ」
思わず飯田が駆け寄った。飯田は石黒が眠っていると思ったのだろう。しかし
、安倍には判っていた。あれだけ重傷ならば、生還した場合はチューブだらけ
である。だが、石黒の身体からは、全てが取り外されていた。何も繋がってい
ないという事は、疑う余地もなく石黒の死を意味していた。
「嫌ァァァァァァァー!」
安倍が泣き崩れると、稲葉は首を振って石黒の死を拒否する。お互いに気が強
く、何度もケンカしたが、心のどこかで稲葉は石黒を気に入っていた。中澤が
刑事を辞めると、稲葉にも徐々に変化が現れ、石黒も彼女の能力を評価してい
た。石黒が想像以上に優しい女だと感じた時、稲葉の彼女に対する蟠りが消え
た。そんな矢先に死んでしまうなんて、現実とは何と無情なのだろう。
「全ての力を注いだのですが、出血が多すぎました。専門的な話で恐縮ですが、
開胸心マ(開胸心臓マッサージ=胸を切開し、直接心臓をマッサージする方法。
ほとんど最終手段)をしても、蘇生してくれませんでした。残念です」
「え?・・・・・・嫌だよ・・・・・・そんなの・・・・・・ねえ、何とかしてよ・・・・・・ねえ!」
飯田は医師の胸倉を掴む。しかし、医師は残念そうに、そして済まなそうに首
を振った。もう何をどうしても、石黒は息を吹き返さないのである。飯田の眼
から大粒の涙が零れた。
「石黒・・・・・・アホ!あんな可愛い娘を残して・・・・・・アホがァァァァァァァー!」
稲葉は石黒に縋って号泣する。稲葉にとって石黒の早すぎる死は残酷過ぎた。
中澤が退職してから、渋谷署では一番仲が良かった飯田も、石黒の死は身を切
るほど辛い。
「なっち、彩っぺさー、死んじゃった・・・・・・どうすればいい?・・・・・・ねえ、なっ
ち・・・・・・圭織、どうすれば・・・・・・どうすればいいの?」
飯田は安倍に抱きついて号泣する。暫くの間、三人の泣き声だけが救命救急セ
ンターに響いていた。
結局、二人はいつまでも石黒から離れようとせず、安倍が外に出て中澤に連
絡した。石黒の遺体は大学病院に搬送され、司法解剖を受ける事になる。石黒
は病院で死亡確認を受けたが、法律によって、医療機関で処置を受けても、二
十四時間以内に死亡した場合は、充分な治療が行われていないという理由で、
行政解剖を受けなくてはならない。行政解剖は死因を特定するだけだが、石黒
は事件に巻き込まれて死亡したので、より詳しく司法解剖が行われるのだ。石
黒の遺体が遺族に渡されるのは、早くても明日の夜だろう。安倍は石黒の幼い
娘の事を考えると、胸が締め付けられる思いがした。
つづきは明後日になると思います。
ファイル17 現場検証
稲葉と飯田、安倍の三人は、憔悴しきった顔で現場に戻って来た。稲葉は夏
に抱き付いて号泣する。飯田も中澤に抱き付いた。唯一、安倍だけが冷静であ
る。確かに悲しいし残念だ。だが、それ以上に激しい怒りが、心の中から湧き
出しているのだ。
「絶対に許さない・・・・・・許さないべさァァァァァァァァァー!」
安倍は絶対に犯人を捕まえ、死刑台に送ってやろうと誓ったのだった。
現場では夏の指揮のもと、詳しい検証が行われた。この時の夏は、正に鬼の
夏である。測量で「約」を数字の前に付けようものなら、本気で殴られそうな雰
囲気だった。現場にいた三人への尋問では、何度も同じ質問する警官を、夏は
本気で蹴飛ばした。眼を剥いた警官だったが、今度は稲葉に胸倉を掴まれる。
「テメエ!この安倍はな、石黒に跨って汗だくになりながら心臓マッサージをし
たんや!何じゃあ!その口の利き方はァァァァァァァー!」
夏と稲葉の形相に、びびりまくる警官達。
「警部!射撃位置が出ました!」
鑑識課員が石黒のレントゲン写真や硝煙反応、足跡等で割り出したのである。
夏がその位置から石黒が撃たれた位置を見下ろす。
「六〜七メートルか?」
「直線で五・七三メートルです!」
拳銃は十メートルも離れると、命中させる事が難しい。毎日のように訓練を積
んでも、人間の胸に命中させるには、二十メートル程度が限界であった。犯人
が使ったトカレフは、反動が少ない割に貫通力の高い拳銃だったが、あまり命
中精度の高いものではない。素人ならば、せいぜい五〜六メートルが射程と考
えて良いだろう。
「どう考えても不自然な位置だな」
夏は自分で銃を構えるようにして、犯人がしていた体勢を考えてみる。それを
見上げていた安倍は、何気なく左手を突き出してみた。それでピンと来て、夏
に提言してみる。
「夏警部、犯人は左利きじゃないべか?」
安倍が言うと、夏は左手で構えてみる。それが正解だった。犯人は左利きなの
で、右利きの夏が構えると、不自然な位置になっていたのである。
「左利きとは気付かなかった。ありがとう」
鬼の顔に一瞬だけ笑顔が戻った。
ファイル18 あたしのせいだ!
翌日、安倍は中澤、飯田と共に矢口が搬送された病院に行った。矢口は全身
打撲と急性アルコール中毒で病院に担ぎ込まれたが、幸いにも軽傷で済み、明
日にでも退院が出来そうである。十五時間も昏睡状態が続いたものの、眼が覚
めると元気そのものだ。それでも安倍の顔を見ると、矢口は抱きついて泣き出
した。
「怖かった・・・・・・怖かったよー」
安倍や中澤、飯田にしてみれば、矢口の無事だけが救いだった。特に矢口を実
妹のように可愛がる安倍は、涙が出るほど嬉しかったのである。ここが四人部
屋でなくて個室だったら、恐らく安倍も泣き出していただろう。
「矢口、あのな・・・・・・石黒おったやろ?」
「石黒さん?」
矢口は安倍に抱き付いたまま、中澤に顔を向けた。中澤は辛そうな顔で矢口を
見つめる。中澤の横では、飯田が俯きながら手で顔を覆った。
「石黒・・・・・・殉職したんや」
「ええっ!石黒さんが・・・・・・そんな・・・・・・そんな・・・・・・」
安倍は矢口を抱き締める。すると矢口が震え出した。その震え方は尋常ではな
い。矢口を抱いている安倍までも震えるくらいだった。
「あたしが・・・・・・あたしが潜入を続けるなんて言わなければ・・・・・・」
「何を言うんだべさー」
安倍は矢口のせいじゃないと言うように、矢口を抱き締めて揺さぶった。しか
し、矢口は自分のせいだと思い込んでいる。
「あたしの・・・・・・あたしのせいだ・・・・・・どうしよう・・・・・・」
「違うよ、矢口。潜入続行を言い出したのは、彩さんだもん。まあ、裕ちゃんも
そうだけどさー」
飯田は矢口に責任は無いと言った。しかし、結果的に紺野に拉致され、救出に
向かった石黒が殺されたのは事実である。矢口はそれで苦しんでいたのだ。
「矢口のせいやない。あえて誰かのせいにするんやったら、うちのせいや」
「あたしのせいだよ」
全員が振り向くと、そこには夏と稲葉が立っていた。夏は歩み寄ると、中澤を
睨みつける。その表情には、取り違えるな。全ての責任は私にある。という気
持ちが溢れていた。
「お見舞いだべか?」
安倍は矢口の頭を撫でながら、布団を掛け直している。稲葉は石黒が娘の頭を
撫でながら寝かしつけていた事を思い出し、思わず涙を溢した。
「それもあるけど、事情聴取がメインかな?」
夏は矢口だけには優しい笑顔を向けた。未遂とはいえ、レイプ被害者であるか
らだ。もっとも、矢口に半殺しにされた三人は、全治二ヶ月から三ヶ月という
診断が出ているのだが。
「それじゃ、始めるよ。拉致された時の事を覚えてる?」
「ええ、あたしは藤井がフラフラと屋上に向かって行ったんで、その後を追った
んです。そうしたら、藤井がフェンスを乗り越えたんで、止めようと思ったんです」
矢口の話に、その場の全員が驚いた。矢口が藤井自殺の目撃者だったからであ
る。
「それで、藤井は何か言ったの?」
「確か、『飛ばなくちゃいけない』とか『アスカちゃん』って言ってましたね」
「気になるな。稲葉、メモ・・・・・・」
夏が振り返ると、稲葉は中澤に抱きついて号泣していた。夏は仕方なく、自分
のポケットから手帳を出してメモを取る。
「警部ー、圭織がメモしましょうか?」
「お前はいい。いつもメモする事が違ってるから」
「えー?そうだったんだー」
飯田は自分のメモが完璧だと思っていたので、夏に言われてショックを受けて
いた。確かに飯田のメモは、接続詞ばかりが書いてあり、肝腎な部分は全部記
憶に頼っている。考えてみれば凄い事なのだが、それでは他の人間が見ても、
全く意味不明なメモになってしまう。
「それからどうしたの?」
「あたしは怖くて、這うように階段へ向かったんです。そうしたら紺野がいて、
藤井の自殺を知らせたら、いきなり蹴られて・・・・・・気が付いたらどこかのスナ
ックでした」
「そうしたら、あの三人がいたのね?」
「はい。抵抗したんだけど、東京湾に浮かべるって言われて、怖くなっちゃって
・・・・・・酔っ払ったら少しは楽になれると思って、ウイスキーを一気に・・・・・・」
矢口が震えながら涙を溜めると、夏は笑顔で頷いた。そして、とても優しく矢
口を労わるように話を進める。
「あの三人は渋谷のチンピラなの。麻薬の売買にも関わってるんだって。でもさ
あ、あなた覚えてないかもしれないけど、半殺しにしちゃったのよ。だから、
あいつらが、あなたをレイプしようとした証拠が欲しいの」
「そう言われても・・・・・・あたしは服を脱がされそうになったところまでは、何と
か憶えてるんだけど・・・・・・」
矢口がそう言った途端、夏はドアに向かって叫んだ。
「指紋採取!」
夏が言うと、いきなり三人の女性鑑識課員が飛び込んで来て、矢口を下着だけ
に剥くと、腕や太腿に付いている指紋を採取した。
「おわっ!何?何なの?」
矢口は驚いて暴れるが、指紋採取が終わると、女性鑑識課員達は急いで退室し
て行った。
「な・・・・・・何だったんだべか?」
「人間の皮膚にも指紋が残るの。だから、あれは重要な証拠になるのよ」
夏は唖然とする矢口に説明した。すると、飯田が首を傾げながら質問する。
「警部ー、不法監禁で充分じゃないですか?紺野は送検出来なくても、未成年者
略取の共犯でも送検出来るし」
「いや、あいつらは口もきけないだろう?恐らく病院での取調べになっちゃう。
病院では時間がかかるからね。一つでも多くの逮捕状が必要なんだ」
こうして矢口から事情聴取が終わると、夏は新しい情報を提供した。ここまで
来たら、警察だけの力では真犯人を逮捕出来ないと踏んだのである。
「紺野が催眠術?」
飯田が眉を顰める。確かに紺野の強さは異常だった。あのキックは、神取忍か
アジャ=コング並みの破壊力である。しかも、自分の足が砕けても、全く痛み
を感じていなかった。
「そういえば聞いた事があるべさ。人間の身体は無理すると壊れてしまうから、
いつもはリミッターがついているんだって。でも、催眠術によって、そのリミ
ッターを排除出来るんだべさ」
俗に言う火事場のクソ力がそうである。普段は骨折の恐れがあるため、筋肉は
実力の半分以下でしか運動していない。しかし、人間は生命のピンチやパニッ
クによって箍が外れてしまうと、凄まじい力を出す事が出来るのだ。
「そうなんだ。催眠術によっては、痛みまでコントロール出来るらしい」
「そんなの、向こうが反則じゃんねー。人の事をサイボーグだのスーパーサイヤ
人だの言ってさ!」
飯田は紺野に言われた事を根に持っているらしい。飯田の戦闘モードが自己催
眠だとしても、紺野の足を砕く身体は尋常ではないだろう。
「そうか!藤井の眼が空ろだったのは、麻薬じゃなくて、催眠術をかけられてい
たんだ!」
矢口が思い出すと、夏が慌ててメモする。安倍は、ほぼ真犯人を確定していた
が、どうしてもその動機が掴めない。やはり、事件の鍵は後藤姉弟にあったの
である。
ファイル19 真犯人の確証?
安倍と中澤は、矢口の見舞いに行くと、夕方から亜衣を連れて後藤家に向か
った。安倍は中澤が運転するクルマの中で、先ほどから亜衣と話をしている。
「ユウキ君は凄くモテたんっしょ?」
「そうやな。うちが知ってるだけで、ののちゃんにまこっちゃん、紺野ちゃんに
A組が武田さん、上杉さん、伊達さん、朝倉さん、北条さん、佐竹さん、最上
さん。C組が竜造寺さん、島津さん、長宗我部さん、毛利さん、陶さん。年上
は松浦さん、まあ松浦さんは彼女やけどな。高橋さん、吉澤さん、加藤さん、
上戸さん、鈴木さん。下級生やと柴田、明智、丹羽、羽柴、滝川、佐々、前田
、池田、村井、木下、岩室、林、内藤、青山、平手、波多野、簗田、川尻、九
鬼、安藤、氏家、稲葉、中川、蒲生、森、坂井、不破、筒井、佐久間、飯尾、
水野、安食、太田、武井、道家、魚住、細川、長谷川、金森、祝、高山、津田
、堀、宮部、中川がそうやな」
「げげっ!六十六人もいるんだべか?」
安倍は仰天した。この世の中には、こういった不公平というものが存在する。
男前や美人がモテるというのは、種の保存という本能的な部分が影響している
という。つまり、モテる人には選択権があるわけだから、より良い遺伝子を持
つ異性を選ぶ事が出来るわけだ。こうしてより良い血統を残して行くのが、生
物の持つ最も原始的な『種の保存』という本能である。
「最近やと矢口さんに手紙を書いた藤原君やな」
「女の子じゃ誰がモテるんだべか?」
安倍が訊くと、亜衣は胸を張って自慢する。良きにつけ悪しきにつけ、一番に
なる事は良い事だが、中澤の心配が増えるだけだ。
「うち、ののちゃん、ずっと落ちて矢口さんやろな」
「矢口は中学生じゃないべさ」
「でも、ここに来て人気急上昇やで。たぶん、退院して学校に行ったら、下駄箱
ん中は手紙でいっぱいや。うちも二年生の男の子に呼び出されてな。コクられ
る思うたら、『矢口さんに渡して下さい』やて。うん、ちこっと危ない感じ。
『もっと鞭で打って〜』みたいな」
亜衣が言うところによると、矢口の事が好きな子は、マゾヒスト嗜好的なタイ
プだそうだ。安倍は矢口が中学生の男の子に、ハイヒールを舐めさせている情
景を想像し、思わず身震いをする。あの、順応性の高い矢口であれば、そうい
った世界でも無難にこなして行きそうだ。話を聞いていた中澤は、クルマを道
路の左に寄せて停車し、腹を抱えて笑い出す。やはり、安倍同様に想像してし
まったのだろう。
安倍が亜衣にこんな話をしたのは、ちゃんとした理由があった。安倍は平家
と松浦殺害については、麻薬絡みではなく、男女の問題であろうと考えていた
のである。恐らく、松浦殺害の犯人は、ユウキに想いを寄せている人物で、ほ
ぼ間違いはない。問題は平家を殺した動機である。安倍は平家とユウキの関係
を疑ったが、警察の調べによると、二人に面識は無かった。
後藤家に到着した安倍と中澤は、真希とユウキを見て仰天してしまう。二人
は双子かと思うくらいに、そっくりだったからである。姉弟とはいえ、ここま
で酷似しているのは稀であろう。
「ユウキ君は何でバレー部を辞めたの?」
安倍は無難な話から入る事にする。いきなり本題に入ると、相手が固くなって
しまい、大切な事を言い忘れてしまうかもしれないからだ。
「僕は中学の三年間、亜弥と一緒にバレーをやって来たんです。部活が楽しかっ
たのは、やっぱり亜弥がいたから・・・・・・」
ユウキは言葉を詰まらせ、悲しそうに俯いてしまった。安倍は何とか話を切り
替えようとするが、バレーの話を持ち出してしまう。
「なっちはオレンジアタッカーズの吉原さんのファンだったべさ。ユウキ君も誰
かのファン?」
「いや、僕は特に・・・・・・あえて言うなら、鮎原こずえかな?」
「アハハハハ・・・・・・アタックNO.1だべさ!」
『アタックNO.1』は、昭和四十年代に大ヒットしたアニメである。『巨人
の星』や『明日のジョー』とともに、スポコンアニメの頂点に君臨する作品で
あり、昭和三十年代生まれの女性に、圧倒的な支持を受けていた。その主人公
の名前が『鮎原こずえ』である。この作品は何度も再放送され、バレー少女な
ら誰もが夢中になり、涙するものであった。
「うちも知っとるで。 苦しくたって 悲しくたって コートの中では平気なの
♪やろ?」
亜衣が嬉しそうに歌ってみる。中澤に叱られて俯いた亜衣を見て、真希が思わ
ず微笑んだ。
「原宿高校のバレー部なんだけど、女子の方は知ってるべか?」
「ええ、小柄だけどトス回しや、ゲームの組み立てが上手い、福田さんを中心と
したクラブです。福田さんは本当に上手いですよ。往年の中西千枝子みたいで
すからね」
ユウキは淡々と答えて行く。安倍はユウキの話を聞きながら、核心に触れてみ
た。
「ユウキ君はモテモテだったんっしょ?バレンタインデーは、いくつチョコを貰
ったんだべか?」
「そんなに多くはないですよ。真希姐、亜弥、希美ちゃん、福田さんと紺野あさ
美って子くらいですよ」
「福田!」
中澤は思わず声に出してしまう。確かに福田を真犯人だと仮定すると、全てつ
じつまが合うのだ。
「ええ、意外でしたね」
ユウキは真希そっくりな顔で、驚いたような顔をしてみせた。すでに高校生で
あり、バレーの選手だったユウキは、決して華奢な身体つきではない。顔つき
も女性的ではないが、真希と並ぶと全く同じような顔をしていた。
「へえ、他の子は乙女の恥じらいなんだべね」
「違いますよ。僕を恋愛の対象にしてないんじゃないですか?」
安倍はメモを取りながら、なぜか違和感を感じた。まあ何にしろ、ポケットに
ヴォイスレコーダーを入れてあるので、帰ってから聞いてみればいい。
「もう一杯、お茶を煎れましょう」
ユウキは三人に気を遣っているようだ。中学を卒業したばかりにしては、気が
付く方である。
「ユウキ君、福田さんから貰ったチョコなんやけど、食べてしまったか?」
中澤がユウキに訊く。ユウキはぎこちない手付きでお茶を煎れながら、「いいえ
」と首を振った。その時、ユウキの左隣に座っていた真希の腕に急須が当たり、
彼女は「熱いなあ」と声を上げる。慌てて真希の腕を心配するユウキ。
「ユウキ君、悪いんやけど、そのチョコを預からせてくれへんか?」
「ええ構いませんよ」
ユウキは母屋にある自分の部屋へ、福田から貰ったチョコを取りに行く。安倍
は中澤の様子を覗う。どうやら中澤も、福田明日香を疑っているようだ。
「あの・・・・・・真希ちゃんはユウキさんと似てるやろ?間違われたりはしない?」
亜衣が恥ずかしそうに真希に訊いた。真希は笑顔で頷く。亜衣は真希に憧れて
おり、真希も亜衣を気に入っている。
「小学生の頃は、よく間違えられたかな?あたしも髪を短くしてたし」
中澤は自分の考えを確信したように、薄笑いを浮かべて大きく頷いた。