ソナチネ(彼女たちの場合)

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111que
亜弥の視線は乗客の足元に向けられていた。
乗客の視線の先には自分がいる。顔を上げてその目を、心を読んでしまうのが嫌
だった。
誰かが話しかけてくるまで。それまでは、目は伏せておく事にした。
「亜弥ちゃん」
「はい?」愛の声に顔を上げる。
「飲み物がない」
亜弥は「ああ」と顔をしかめた。「そうか」
112que:01/12/19 14:02 ID:Nr6yjWvb
二人は次の駅で下車した。
「何がいい?」
「愛ちゃんの好きなので」
「うわあ、買いにくいな。亜弥ちゃんの好きなの言ってよ」
「牛乳で」
「牛乳でいいの?」

亜弥をベンチで待たせて、愛は売店に向かった。

売店には自分の100%オレンジはあったものの牛乳は無かった。愛は青ざめて探し
たが、どうやら品切れのようだった。

ベンチに戻った愛が袋から出したのはコーヒー牛乳。
「いいよこれで」亜弥は受け取って笑った。

再び車両に乗り、先程同様プラカードを立てる。
113que:01/12/19 14:03 ID:Nr6yjWvb
さほど進まないうちに車両が急停止した。がくんと大きく揺れて車内がざわめ
く。その拍子にプラカードが乗客の足元に滑り落ちた。それはちょうど乗客の目
に止まる具合。
やがて車両はのろのろと動き出す。
亜弥は顔を上げた。床に集まるはずの視線を確認する為に。けれども、そんなに
都合良くはいかなかった。落ちた瞬間だけ目をくれる人。興味も示さず雑誌を読
み続ける人。寝てる人。
愛が腰を重たげに上げてそれを拾い、ゴミを払ってからシートの後ろに立てた。
114que:01/12/19 14:03 ID:Nr6yjWvb
ドアが開いては人が吐き出され、入ってくる。
その数も徐々に少なくなりはじめた頃、旅行の帰りらしい家族連れがぞろぞろと
乗り込んできた。疲労の表情だった父親は、すぐにプラカードに気付いた。何が
書かれてあるかが気になるのか、二人の前にやってきて目をこらす。二人はまじ
まじとその顔をみつめた。
文字を読んで眉をひそめた彼がなにか言いかけたとき、ドアの方で騒ぐ子供に手
をやいた母親が父親を呼んだ。
「なんとかして!」その叫びに父親はあわてて戻って行った。
115que:01/12/19 14:04 ID:Nr6yjWvb
じゃらじゃらと錠剤を手に注いで、思わず揃って背筋を伸ばす。
お互いの手をみつめて、緊張したまま。
思わず笑い合った。

亜弥は勢い良く手の物を全て口に放り込んだ。それをコーヒー牛乳で流し
込む。
愛も続いた。手におさまりきらなかった分も袋から出して全部飲み込んだ。
無理に流し込んで、げふと戻しそうになる。
116que:01/12/19 14:10 ID:sDGelBNf
しばらく二人は宙をみつめて待ったが、なにも異常は感じられない。
――?
不可解な表情のまま、再び乗客の観察に戻った。

半分近く減ったが、相変わらず微動だにしない乗客。
一定のレールのリズム。
愛は見つめる対象のいなくなった前方のシートをただ眺めていた。
117que:01/12/19 14:10 ID:sDGelBNf
亜弥は目を床に伏せたままの体勢を変えずに、あれこれ考えていた。
もしひとりだったら、どういう行動をとっていただろう。これとは違う方法?わ
からない。
気丈に振る舞うのはもうやめていいのかな。別に悲しくはなかったんだけど。

でも、もう遅いです。

ぱたんとまぶたが落ちてきて、あわてて大きく見開いた。
こんなに明るかっただろうか?車内が急に白くなったような気がした。
118que:01/12/19 14:11 ID:sDGelBNf
愛も同様、まぶたをさかんに動かしていた。
――ちょっと怖いかも。そんな不安がしだいに大きくなってきて。
愛は亜弥の手を探り当てると、軽く握った。
119que:01/12/19 14:11 ID:sDGelBNf
「亜弥ちゃんはいいなあと思う人とかいるの?」
その声の方を見ると伏目がちの愛がいた。急に田舎くさくなった気がする。ちょ
うど初めて会った頃のような。こんなにダサかったかな。亜弥は苦笑した。

「そうだな、すごいなって思う人はたくさん。だけど、いろんな人と会ったけ
ど、特にこれといって。たぶんわたしに見る目がないんだと思う。感受性ってい
うの?そういうのが足りないのかも」
「嫌いじゃないの?」
「誰が?」と顔をゆがめた。
「あ、その顔」
指摘されて、あわてて手で顔を確かめる。

「周りの人を」
「なんでそう思うの」
「なんとなくそんな風に見えるから」
「ひどいな」
「ウチは嫌いにならないでね」
「あはは」亜弥は笑って愛の頬をつねった。「どうしたの愛ちゃん」
120que:01/12/19 14:13 ID:sDGelBNf
どれくらい経ったのだろう。亜弥はふと目をさました。相変わらず車内は白くぼ
んやりしていたが、まだ乗客はちらほら乗っているのが薄目でもわかる。愛に目
をやると、すでに眠っていた。
愛ちゃん
――
大声で呼んだつもりが、声が出なくて驚いた。もう一度呼ぼうとしたがやはり無
理で、亜弥は自分の手に力なく触れている愛の手をぎゅっと握り返した。それで
も、さほど強くは握られなかったが。
そして愛の肩にもたれて眠った。
121que:01/12/19 14:14 ID:0NFuHoN8
二人から少し離れたシートで参考書を読んでいた予備校生は、足元に落ちている
手製らしきプラカードを拾った。靴の跡にまみれた派手な文字を一通り読み、首
をかしげた。
やがて車両が停車して、彼はそれをシートに残し下車していった。
終点に近付き、二人の乗った車両はついに誰もいなくなった。
122que:01/12/19 14:14 ID:0NFuHoN8
終点で残りの乗客を全て降ろした車両は、ドアを閉めて再び発車していく。あと
は倉庫に向けて走るのみ。最小限の照明が入っただけの暗い構内を、車両は低速
で進んだ。
123que:01/12/19 14:15 ID:0NFuHoN8
倉庫に入った車両は止まり、小さく揺れる。ドアが開放されて、運転手は早々と
出て行った。
車掌はいつも通り、車内の見回りを始めるはずだったが、死んだように疲れた体
にムチを入れる必要はないと思った。彼は今日初めて見回り作業をさぼり、構内
へと消えて行った。
124que:01/12/19 14:16 ID:0NFuHoN8
二人の体は停止したはずみで崩れかかったものの、離れる事はなかった。愛は亜
弥のひざの上に、亜弥はそれを守るように。
やがて構内と車両の照明が静かに消えた。