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家に帰ればそこには必ずマリがいる。
見慣れた道をとぼとぼと歩く私のココロに描かれるのは扉を開けた後に見
えるマリの姿だ。背中の折れ曲がったリストラ直後のサラリーマンのような
姿が何度も何度も浮かんでは消える。そんな風にして堆積されていく暗愁な
気持ちも度を過ぎると、現実的なことを麻痺させるようで、マリは「おかえ
り!」と快活な声で私を迎え入れてくれるという妄想がむくむくと膨らんで
くる。そんな架空の偶像に縋りつきつつも、一方でそんなことはレイプ事件
以前にもなかったことだという現実的思考も当然残っており、この相反する
偶像が勝敗の決まっている闘いを起こし、私をさらに暗鈍とさせる。
「おかえり!」
しかし、扉を開けるとマリの笑顔と快活な声が、妄想を超えて私を迎え入
れた。その近寄ってくる小さな姿を足の先から頭のてっぺんまで見つめると、
瀕死だったその妄想は、聖水を飲んだ勇者のように息を吹き返し、しっかり
と有形なものに変容していく。
「た、ただいま‥」
「グッドタイミング! ちょうど出来たとこだったんだ!」
「何を?」
「いいからいいから」
マリは私の背後に回り背中を押す。そのまま、ダイニングルームに連れて
行かれると、料理が所狭しと食卓に並んでいた。冷凍食品でかためられたお
手軽料理のようだが、色彩が豊かでおいしそうだ。
「おいしそうでしょ?」
「うん」
「食べて」
「うん」
素直にうなずきながら目の前の椅子に座る。対面にはマリが薄いキャミソ
ールの上にエプロンを着たまま座った。身長に合わず足首までの長さのエプ
ロンは私が愛用しているものだった。
「食べて」
「うん」
私は促されるままに目の前のカニクリームコロッケに口をつける。
「どう?」
「うん、おいしい」
お世辞ではない。他の料理に少しずつ口をつけてみたが全部結構おいしか
った。それは料理が上手いだけではなくて食卓の向こう側に座っているマリ
が笑っていたからというのもあるのだろう。
「ホントおいしいよ。特にこの肉団子」
片栗粉のせいでネバッとした団子を食べたあと、ごはん粒のついた箸を上
げる。マリは肘を食卓につけたまま目を細めた。
まるで幸せの到達点であるかのように。
ふと細くて冷たい一筋の空気が鼻の頭を掠めた。それは奇妙な偏頭痛を起こ
し、私は眉間を寄せた。
「どうしたの? まずかった?」
心配気に身を乗り出すマリの顔とその周りの壁やテーブルが一瞬ねじれたよ
うに歪む。声には電波障害のような雑音が入る。まるで傷が入った映画のフィ
ルムのようだ。
「ううん、おいしいよ」
動揺を隠すように私は小刻みに首を揺らす。目の前にいるマリはあまりにも
純粋すぎて、その分やけに薄っぺらくて剥れやすいことにようやく気付く。
ここは幻想ではない。現実なのだ。
夢見ごこちにいたような気持ちが吹き飛ぶ。
台所の換気扇の音が聞こえる。
後ろのクーラーの音が聞こえる。
しかし、それ以外は私の食べる音しか聞こえない。マリは動く肖像画のよう
に微かに目や口を動かすだけで全く音が生まれない。
何かが違うと思った。
マリは笑っている。過去を清算した穏やかな笑顔だ。それは私に不気味さ
を与えていた。マリが味わった屈辱はこの先何があったって払拭できるもの
ではない。しかし、目の前にいるマリはそんな過去をたった半日で忘却の海
に深く沈め、穏やかに昇る幸せという朝日を待っていた。
何かと似ていると思った。
その”何か”はすぐわかった。今日のリカだ。ヒトミにキスをされて、そ
の後、しばらく精気を奪われたかのように忘失と立ち尽くしていたリカと似
ているのだ。
「ホント大丈夫?」
マリは笑顔を保ったまま、リカとマリの像を重ね合わせている私に聞いて
きた。奈落に突き落とされたマリは本来ならば自分の力で一歩ずつ崖を登っ
ていくしかない。しかし、マリは今、自分の力を使わずに”タケコプター”
を使って一気に頂上に登ってきたみたいな――まるで時空さえも飛び越えて
きた人間のような感じがした。
「マリこそ‥何かあったの?」
漠然とした恐怖に引きつりながらも、私は笑顔を作って聞いた。
明らかに私の描く復活の過程とはかけ離れている。私は虚像の幸せを構築
しようとするマリに動揺を悟られないように注意する。
裏技を使うには何か新しいことがなければならない。時間の流れに身を任
せるだけでは決して見つからない。
「別に何にもないよ。でも‥」
「でも‥?」
「幸せのカタチを見つけたような気がするんだ」
マリは立ち上がった。そして平らげて空になった食器を下げようとする。
「どこで見つけたの? それでマリは立ち直っ――」
「お願いがあるの」
マリは慌て口調の私の言葉を遮った。神妙に表情を硬くして椅子に座って
いる私の元にやってくる。
1秒ほどの静寂。クーラーと換気扇の音だけが低い音を立てて鳴り響き、
心地良いはずの適度な冷気が、私の内部を凍らすまでに至ろうとしている。
「キスして」
独特のキーンとした張り詰めた流氷に亀裂が入る瞬間の音のような高い声。
マリは立っている。私は座っている。
しかし、身長差がある分、目の高さは近かった。やや高い位置にあるマリ
の瞳が有機的に輝く。しかし決して透明にはきらめかずに、何か生きるため
のパーツを一つ失ってしまったようなまどろんだ輝きだ。
マリはゆっくりと私の右手首をつかみ、エプロンの裏の自分の左胸に持っ
ていった。
冷たい肌触りと体格相応の形の良い胸の弾力の向こう側で心臓が強く速く
脈打っているのがわかる。中指と薬指の先には皮膚に凹凸があることを示す
感触が走る。例の錨の刻印だ。皮膚が爛れたこの傷は一生治らないと知らせ
る深さとグロテスクさを有する。
驚嘆と狼狽から顔を背けた私の横顔に向かってマリは、凍りかけた内部を
壊しかねない氷の亀裂の響きを再び発する。
「そしたら立ち直れるような気がする」
カラダ中の細胞がこの尖ったフレーズをリフレインする。私がこの数日間
マリに対して切に願っていた言葉だ。曖昧に逃げて、拒否するつもりだった
気持ちがぐらつく。マリの心拍数が増していることが手から伝わる。それは
私だけに向けたマリの全衝動のしるしだ。
「今度は不意打ちとかじゃなくて‥きちんと目を見て、優しくしてほしい‥」
マリをもう一度まっすぐ見た。
盲目にその灰色の輝きを私に捧げている。ほとんどの感情を排除し、た
だ一心に見つめた結果、生じるのは天秤に乗っているかのような不安定な
笑顔。それは哀しいぐらい冷たく、私を不純物の入った黒い氷の世界に吸
い込んでゆく。
よくテレビで”自己啓発セミナー”と銘打った集会に参加し、宗教にはま
り、だまされていると傍目には見えるにも関わらず、何の迷いもなく数百万
単位の金をいかがわしく髭をたくわえたその宗教の祖に捧げる人間の顔に見
える。
昔はその笑顔をブラウン管を通して見ると、少し羨ましいという気持ちが
あった。”洗脳”された人間は混沌とした鬱積を捨て、至福が全てを包み、
その結果、安定しているのだと思っていたから。
しかし今は違う。目の前で、しかももっとも付き合いの深い人間が同じよ
うな状態に陥っているのを見ると、安定とはかけ離れた、次の瞬間全てが崩
壊してしまいかねない危うい状況なのだということに気付いた。
テレビの向こうに映る洗脳された人間はいくつもの環境から得て、いくつ
もの方向に糸を張り、支えるはずの自我を、その宗教一つだけに向けている。
もしその全てを傾倒してきた教祖がまがいものだと気付かされる――つま
り一方向の糸が切断されると自己を完全に失ってしまう。まるで支点が砕け
た天秤のように、残るものは何の存在意義のない魂。
――マリは何に全ての自我を置こうとしている?
それが”裏技”を使うための条件なのか?
もし、私がキスの要求を断ればマリはどこへ飛んでいく?
制御の効かなくなったタケコプターは光でも闇でもない世界に飛ばしてし
まうのではないか?
自我が喪失し、調整の効かない性格破綻に陥るのではないか?
「ねえ、お願い‥」
マリの催促は砂漠で彷徨い喉が枯渇した人間がオアシスでようやく水を
得た時のような驚くべき速さで脳内に吸収されていく。
無下に「できない」とは言えなかった。
それくらいマリは狂気に身を浸しているように見えた。
マリにとって私は自我の置き場所なのだ。たった一人のための絶対主とい
ってもいい。そしてそのたった一つの置き場所を失わないように強く深く、
私を求めようとしている。こういう立場に立ったことのない私はひどい重圧
とともに狼狽した。私自身、そういう絶対的な人間にはなれないタイプだと
知っている。マリの笑顔は私というまがいものの人間に全てを委ねた脆すぎ
る幻想なのだ。
しばらく悩む間もマリの鼓動は落ち着く様子を見せない。私も苦しくなり、
まるで心臓が水を求める魚のようにのたうちまわり、加速度的に鼓動を速め
ていく。
マリは”求める”といってもヒトミとリカのような性交関係を私に望んで
いるわけではないはずだ。
現実とマリが創る幻想が交わり、競合する。空間が歪み、私は目をしばた
かせる。そして、その時に生じる亀裂の裂け目から映し出されるのは、遠い
昔のマリとの過去だ。
物心がついた時から隣りにはマリがいた。二人の間に構築されているもの
は他者ではなく自己としての愛情。本当の家族よりも深い血の濃さ。精神的
遺伝子の同化。一心同体。双子のようなシンクロシニティ。
そんな歴史が私を”求める”全ての要因だ。
「一回だけだからね」
これが正解だとは思えない。しかし拒否したときのマリの予測できない変
化が怖かった。私はしぶしぶ願いを受け入れ、立ち上がると椅子がズズズッ
と床を引きずる音が聞こえた。マリにしてみれば当然だったのか顔色一つ変
えない。
目の高さが逆転する。マリの大きな目はまばたきさえせずに私の顔を見つ
づけている。マリは顔を横に向け、私の胸のあたりに耳を押し付けるように
して抱きつく。短い両腕が私の背中で交差してくる。私はマリの頭のてっぺ
んを一度撫でたあと、押し付けられたマリの頭に優しく腕を巻きつけた。
「サヤカってやっぱあったかいね‥」
「マリも‥あったかいよ‥」
私はマリの金に染められた髪の毛を梳く。
「昔はずっとこうやってサヤカの鼓動を感じながら生きていたのにね‥。い
つの間にか忘れちゃってた‥」
「うん、そうだね」
頷くしかなかった。少し震えているのは過去への憧憬か現在への後悔かわ
からない。おそらくどちらともなのだろう。
震えが収まると同時にマリは顔を上げた。焦点がまとまっていない虚ろな
目はキスを求める仕草の一つ。
肌はかなり荒れていた。ココ3ヶ月ぐらいで極端にボロボロになっていっ
たのだと思う。しかしよく考えると、その前がキレイだったかなんて覚えて
いない。
毎日のように寝食を共にしながら全然マリを見ていなかったような気がし
てしまう。
私は今までマリのどこを見てきたのだろう? 今の私にはマリの笑顔の似
顔絵を描くことはできない。ただ目が二つに鼻が一つ耳が二つに口が一つの
人間共通のデフォルトデータしか浮かばないのだ。
こんなコトがないときちんとマリを見つめられなかったことに後悔を覚え
る。
マリは目を閉じた。カールされたまつげが私に向かって伸びている。私は
肩を強く握り、ゆっくり唇を近づけた。細い呼吸を繰り返していたマリの唇
を覆う。
私も目を閉じた。感覚はお互いの唇だけに集められた。さっきから響いて
いたクーラーや換気扇の機械音さえ耳の外側に押しやった。
欲望に満ちた男たちのとも、ユウキのとも違う、まるで感情が交換しあう
ようなキスだった。そして、なぜか異常に冷たかった。
弾力のあるマリの唇が名残惜しそうに離れる。マリの表情を知りたくなっ
たのか目を開けた。するとマリも目を開けていてこちらの瞳を覗いていた。
枝分かれのないマリの感情が私だけに注がれる、ピアツーピアの存在。愛
情や友情とかとは違う。無から生まれた純粋な、それゆえに凶器になるほど
鋭く尖ったココロが見え隠れする。
世界中に私とマリしかいなくて、二人の共有感覚だけがその場を支配する。
どちらかが消えればもう一方も抹消されてしまう危うい空間だ。
この共有感覚が昇華して辿り着く先には永遠という言葉が待っている。し
かし、それはどこか漆黒に満ちていて恐怖にも姿を変えてしまうものだ。私
はココロのどこかに安全装置が備え付けられていたのだろう。無意識にブラ
ックホールのように私が”私”として認めるパーツの全てを吸い込もうとす
るマリの瞳から目を逸らした。
「これでいい?」
狼狽めいた口調で私は言った。不思議な戦慄が調子を硬くする。
「うん、ありがとう。何か目の前の世界が変わった気がする」
私とは正反対に柔らかさを乗せてマリは言った。顔や目は見ることができ
ない。見れば究極的に脆く儚い空間に逆戻りするような気がしたから。しか
し、多分マリはキス以前よりも吹っ切れた――レイプされた事実なんて記憶
の最も深い部分からノミで強引に削り取ったような、ひどくバランスの傾い
た笑顔をしていることは想像がつく。
途端に後悔が訪れた。いつの間にか、マリのまるで決壊したダムの奔流の
ような感情が私の精神の斜面をえぐり、異常をきたしていたのだ。敢然とし
たつもりの行動は実はマリの思うがままの愚かなものだった。
もう後戻りはできない。
おぼつかない闇の中でマリは決して闇の中でさえも輝くことのない幻想の
光を手に入れた。例えそれが幻想だと知らされても、行き場を失った信者の
残党と同じように手離すことはないだろう。
「お風呂入る?」
マリは聞いてきた。滲み出る幸福を噛みしめた満足感は私にとっては残忍
以外何物でもない。
「ううん、今日はいいや。朝にでもシャワー浴びる」
私は平静を取り繕って言った。
「じゃあ私は入るね」
マリは部屋を出た。
マリが部屋からいなくなったことにほっとする自分を少し嘲りながら、一
度深呼吸をした。
私ができることはマリを見守るぐらいしかないのだ。マリはどんな幻想を
持っていようと、その幻想が崩壊しようと、私には具体的な手助けはできな
い。無責任かもしれないが、そう思わないと自分を支えられなかった。カラ
ダの中心を焼き付けるような罪悪感と闘うほうが幾分かはマシだった。
私は布団を敷いた。太陽の匂いがして生暖かい。マリが干したのだろう。
家には小さなベランダがあるが西向きで夕日のエネルギーを吸収してくれる
ことになっている。夏だからそのパワーは偉大だ。
私は布団の中に入ってからすぐさま飛び起き、携帯電話を持ってきた。
しばし怖ぶる気持ちを抑えて電気を消し、布団にもぐる。真っ暗になった
空間から携帯の液晶部分が光る。私が突き落とされた闇に映える一筋の光。
その先にはある人の名前が電話番号と共に表示されている。
声が聞きたい。
できれば、会いたい。
焦燥感、寂寥感がムクムクともたげてくる。こんな感覚は初めてだ。
マリとキスなんかしたからか、恋人を持って初めての一人の夜がそうさせ
るのかわからない。
でもこの気持ちは夢でも幻でもない。真実だ。
生き生きと尾を左右に振る魚を掴む時のように携帯電話を両手でがしりと
持ち、通話ボタンを押す。
6回もコールが鳴ってから恋人は出た。
この6回はとてつもなく長く感じ、焦りの汗が手のひらに滲んだ。
「もしもし」と言うと「もしもし」と返ってきた。
「元気?」だと聞くと「元気」と返ってきた。
誰にでも英訳できそうなくらいの幼稚な会話たち。
それでも、凍ったココロにゆっくりと確実に滴る温かいものを感じずに
はいられない。
目を閉じると電波越しに映るユウキの顔が目の裏側に焼きついていた。
マキと似ていて――でもマキと似ていない温かい表情。
ユウキは私のことを本当に愛しているよね。
私は‥私もきっと愛している。
今真っ暗な部屋にいます。布団に染み付いた太陽のぬくもりだけが頼り
であとは何にも見えません。
私って怖がりなんだ。だからホントは叫びたいんだ。目をつぶって逃げ
出したいハズなんだ。
でもね、ユウキがいるから。
ユウキという”恋人”がいるから――
暗闇でもあんまり恐怖は感じません。
無言の数秒間に自分の気持ちを確かめるようにして、そんなまるで中学生
の淡い初恋のような感情――それは決して中学生時には味わえなかった永遠
の輝き――が流れ込んできた。
ユウキには伝わっただろうか。
伝わらなくてもいい。でも私のココロに伝わったことだけは確かだ。私は
生きているのだと知った。愛を知っている人間なのだと知った。
幸せだと思った。
「ねえ、サヤカさん」
静寂をユウキが破る。
「好きだから‥お願いがあるんだけど‥」
「何?」
私は予知能力があるわけではない。だが、なぜか言いたいことは言う前に
わかったから驚きはしなかった。そして結論はもう出ていた。
「お店‥辞めてほしい‥」
「うん、辞めるつもり」
即答に向こうは驚いていた。でもすぐに「よかった」と安堵感を滲ませた
声が聞こえてきた。
「だからね‥会いたい‥今すぐに」
私はぼやけた感じで言った。
「俺も会いたい」
ユウキははっきりと言った。
なぜかユウキと話していると”絶望”というキーワードが胸を襲う。出会
いは確かに普通ではなかったし、私の中には相変わらず”マキ”という少女
がいることは事実だけど、それのどこが絶望なのだろう?
何かが私の月並みの幸せを邪魔しようとしているのだろうか。
とにかく世界の終わりが目の前に来ていて、その崖の近くで見つめ合って
いるような気がする。
一歩先さえも確実な幸せはない。
だから、私は”今”を弛まず大事にしている。
だからこそ、私はこんなにも刹那的にユウキを求める。
二人にあるのは”今”だけ。
――次の瞬間、闇に包まれ引きちぎられようと、後悔しないように、深く
深くユウキを求める――。
私は電話を切って、急いで服を着替えた。
ちょうどその時マリがカラダに湯気を立たせながら風呂から出てきた。痛
々しい肌が目に入ったため少し目を逸らす。
「どっか行くの?」
きょとんとした目をするマリ。
「うん、ちょっと‥」
レイプという事実、そして明らかにマリは私を虚無の光として縋りつこう
としている事実を眼前に突き立てられている状況で、マリにきっぱりと言う
ことはできなかった。
「彼氏のところ?」
しかし、マリはすぐ察したように聞いてきた。少し演技じみた軽い調子だ
った。
私がためらいがちにうなずくと「いってらっしゃい」と優しい口調で言っ
てきた。そこにどんな葛藤があったのかはわからないが、焦っていた私はそ
れだけで救われた錯覚を覚える。
「じゃ、行ってきます」
マリを一人にして私は家を飛び出した。扉を閉めるともう頭の中にはマリ
はいなかった。
ユウキと近くの公園で会った。
すぐに抱きついてキスをした。
私を取り巻く憎悪と愛情、現実と幻想を一切合財飲み込むようにしてほと
んど無言のままセックスをした。
月と星が永遠に溶け込んだ闇の中で輝き、私の淫猥なカラダと不安定なコ
コロを妖艶に照らしていた。