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これ以上居ても迷惑だと思い、帰る旨を伝えた。
ヒトミは「せっかくだから夕御飯でも食べて行きません?」と誘ってき
たが丁重に断った。すると、ヒトミの提案でリカが最寄の駅まで送ってく
れることになった。小さい子供じゃないのだから、とは思ったがちょっと
ヒトミがいないところでリカと話したいこともあったので付いてきてもら
うことにした。
帰宅ラッシュ時間に入っていて横の車道は混雑している。窓の向こうに
映るライトバンに乗った男性がイライラをハンドルにぶつけたりしていた。
私たちはその横の比較的幅が広い舗道されたアスファルトの上を、車の動
く速さよりも速く歩いた。
リカは赤のミュールを履いてきたため高い音が鳴る。雑踏の中でも隣で
リズムよく鳴る足音は妙に私の耳に届いた。いつしか、私の中でも同じリ
ズムを刻み、パタパタとした私の足音とリカの足音はぴったり重なってい
った。
「今日はいろいろすみませんでした。それにありがとうございました」
角を曲がり大通りから離れた小道にさしかかった時に、リカがあらため
るようにして言った。足の回転が遅くなり、足音が乱れる。
”すみません”は愚痴を聞いてあげたこととか、「今日はいない」と言
っていたヒトミがすぐにやってきたことだろう。ワザとなのか本当に偶然
なのかわからないがどっちだって同じだ。ヒトミと出会ってしまったこと
は変わらないのだから。
しかし、何に対して”ありがとう”なのだろう?
「私、何にもしてないけど。ただリカちゃんの話を聞いただけ。そしてた
だ私が混乱しただけ」
深い意味は含ませずに言った。しかしリカには、少しつっけんどんとし
たものに聞こえたらしく、歩きながらうなだれた体勢で「すみません」と
呟く。
「うん」
そんなちょっとした誤解を解くこともなく、私はただ相づちを打った。
無言のまま私たちは駅に向かう。足音だけがリカが私の後ろにぴったりと
付いてきていることを知らせる唯一の情報となっていた。
再び、私とリカの足音が上手くハモる。そのことに気付き、意味もなく数
えはじめること10回。11回目はリカが立ち止まったようで、私の足音だ
けになった。12回目は私の足音までも消えた。
「どうしたの?」
振り返ると、リカの頭のてっぺんの生え際が見えた。
「‥‥」
「ねえ」
「‥私って二重人格なのかもしれません‥」
リカは突然顔を上げ、私を涙目で見る。太陽の当たらない小道にいたせい
か、リカの元々陰暗とした顔つきにさらに陰が塗りつけられている。どうや
ら本気で悩んでいるようだ。
「何でそう思うの?」
「だって、どっちもホントですから。私はヒトミちゃんを憎んでいるし、
愛しています」
私は意図的に冷ややかな目線をリカに送る。リカが少し恐々としたよう
に顔を引きつるのを確認してから、リカに近づき、肩を軽く叩く。
「いいんじゃない、それで」
リカは私の開き直った言い方に反抗する。
「何でですか? だっておかしいですよ‥そんなの‥」
私は昔に植え付けた記憶を掘り起こす。
「アンビバレントって知ってる?」
「アン‥ビバレント‥ですか?」
リカは首をかしげながら反復した。
「うん。両面感情って意味。ジレンマといったほうがわかりやすいかな。こ
ういう感情は誰でも持ってるものらしいよ」
「どういう意味なんですか?」
藁にもすがる思いでリカは食いつく。私は再びくるりと振り返り、駅の方
角に足を進める。リカは私より大きな歩幅でもって私の横に付く。
「つまり憎しみと愛ってのは表裏一体ってことかな?」
どこかの宣教師のような言葉を宣教師らしく言うと、横にいたリカから
「え?」という声が洩れる。
「コインみたいなもの。物事に表があるならば絶対裏がある。その二つは
決して引き裂くことはできない。そこに愛があるなら確実に憎しみは表れ
る。同じ分だけね」
たとえば独占欲は一人を自分だけが手に入れたいという究極の愛の形の
一つだ。しかし、それは周りを徹底的に排除するという憎しみの形も受け
持つ。
独占欲に限らずどんな愛情の形だって――愛情には必ず相反する憎しみ
がどこかに存在する。その”どこか”とはその愛情を捧げる対象とその周
辺もしくは自己に調和をとって注ぐものだ。
リカはきっとヒトミという存在を独占したいのだろう。愛があれば大小
の差があるとはいえ必ず独占欲がある。しかしヒトミはそれを満たしては
くれない。誰かに浮気するという方法ではなく、リカからの接触を拒絶す
ることで、リカは独占欲を徹底的に拒否されている。
つまり愛情の一つとしてもたらされるべきものの欠如が今のリカを混乱
の渦に巻き込ませている。
リカは外がまるで見えない頑丈な箱に閉じ込められた状態にいるような
ものだ。そのため、リカは憎しみの対象をヒトミとリカ自身以外の誰にも
ぶつけることができない。リカはヒトミに憎しみを向けることを問題にし
ているが、おそらくはヒトミよりも自分自身に憎しみを向ける割合が大き
いのだろう。よりネガティブになり、自分を虐げてしまう。
一方のヒトミはその箱から離れたリカには見えないところで自由に飛び
回っている。リカはヒトミに独占されていて、ヒトミは決してリカに独占
されないという一方的な享受関係――そこが他の恋愛とは違うところであ
って、ヒトミという絶対的な存在にもなりうる力を持つ人間が相手だから
こその悲劇だ。
「だから、それでいいと思う。リカちゃんの本質は他人から見たらヒトミち
ゃんを愛してるってことに繋がっているように見えるよ」
「そうですかね‥」
リカは少し安心するようにビルとビルの間にある小さい空を見上げる。夕
陽のせいで赤茶色に焦げた空だった。その自然の輝きはリカの黒めの肌を赤
褐色に帯びさせている。
リカは確かに二重人格になりうる要素をもってはいるが、私は少なくとも
今はそうではないと思っている。そもそも二重人格というのは無意識の中に
抑圧され充足されずにいた欲求が乖離されて独立し別の人格を通して意識の
表面に突出し、その願望を充足させようとする状態のことだ。
だから”ヒトミを先導したい”という欲求を頭ごなしに抑圧され続けてい
るリカはこのまま人格が独立することがあるかもしれない。しかしその”先
導したい”という感情が一人歩きしていない以上、リカは一つの人格を保っ
ていると言える。
だが、ヒトミはどうか?
自分の恋人を男にマワさせたり、風俗に働かせたりさせるなんて、それが
たとえ恋人が望んでいたことだとしても理解できない。
ヒトミは口では「愛している」と言う。そして、リカは「愛されている」
と感じている。だから恋愛関係は成立している。しかし、実際はリカを確実
に崩壊の一途に導いており、その危険性をヒトミは認識していながら推し進
めている。
ヒトミはリカを愛し、そしてまた違った意味でリカを憎んでいる。
リカと違うのはそのベクトルが次元の違う形で存在していることだ。
つまりリカに向ける愛情と憎しみはその対象物が根本的に異なっているよう
に感じるのだ。
ある意味二重人格だ。二つの反目する感情で持って、ヒトミはリカを締め
付けている。ヒトミが何を抑圧されているのかわからない。愛情は世間一般
とさして違わないが憎しみはもっとリカの深いところを突き刺していて、愛
情と変換されるものでは決してない。
リカはそんな性質のヒトミに合わせているにすぎない。
どこからその憎しみが生まれるのだろう? やはりリカの何かがヒトミ
に憎しみを創り上げていると考えるべきなのだろうが、私には想像もつか
ない。ヒトミにとってリカは単なる奴隷といってもいい存在なのに。
もちろん、それは私の思考の範疇内の解釈であって、ヒトミから見れば
その憎しみは十分愛情の裏返しいうアンビバレントなものなのかもしれな
い。愛は憎しみよりも種類が豊富だから、私が認められない領域の愛の形
を求めているのかもしれない。
サドとかマゾとかを超えた何かを――。
「ところでサヤカさんって本当に彼氏いるんですか?」
リカは少し落ち着いたのか、私の顔を覗き込むようにして興味津々に聞
いてきた。今まで自分のことばかり喋っていたので少しは話題を私のほうに
移して抵抗しようと思っているようだ。夕陽が大地によって遮られはじめ、
いよいよ夜の気配を帯びてきた。
「まあね。つい最近っていうか昨日できたばかりだけどね」
「へえ〜、うらやましいですね。仕事のこと知ってるんですか?」
「もちろん‥ていうかお客さんだったんだけどね。妙に波長が合っちゃっ
て‥」
「ますますうらやましいなぁ」
恋する乙女のような淡い輝きがリカの瞳に映る。
私は多分リカが思うほど幸せではないと思う。こうやってユウキと離れ、
ユウキのことを想う時、胸を掻き毟られるような焦燥に駆られる。それは
今ユウキは浮気しているのでは? という嫉妬めいたものではなく、ユウキ
という人間は現実に存在しているのか? というキチガイめいたものが原因
だ。
おそらく今こうやってユウキに向ける感情が私に存在していたこと自体が
不可思議なことなのだろう。
私とユウキにはまだ1回のセックスでしか確固たる交わりはない。たった
1回で全てをわかった気になるのは愚かなことだ。しかし、セックスの意味
を限りなく低いものとしてぞんざいに扱ってきた私は、例え回数を重ね、ユ
ウキの存在を確かめ続けたとしても、その不安は常に付きまとうだろう。
それに仕事はどうするべきか。頭の悩むところだったりする。
しかし、そうやって迷いながら進んでいくことこそが人並みの幸せとも言
える。私にもそういう普通の幸せを得る権利が与えられたのだろうか。それ
とも元々あったのだろうか。
今まで生き方と矛盾する感情の到来に戸惑いながら、期待している自分が
いた。
「あ、電話」
リカは自分のサイドポーチから音が鳴っているのに気づくとチャックを
開け、携帯電話を取り出した。
「もしもし、うん‥うん、隣りにいるよ。だってまだ駅着いてないもん」
どうやら相手はヒトミのようだ。
私は電話に夢中になりながら歩いているリカを心配しながら横について
歩く。このまま一人で歩いていると赤信号の横断歩道さえも渡ってしまい
そうだ。
「え? うん、わかった。それじゃ‥」
少し寂しげにリカはボタンを押した。
「ヒトミちゃん?」
私はわかっていながら尋ねる。二人だけの話だったら私はそのまま無視
するつもりだったがリカの口ぶりや、電話中、一瞬私のほうに目をやった
仕草などから察するに私が関係していることは間違いないようだから、電
話の内容を聞いておきたかった。
「うん、ヒトミちゃんの携帯の番号をサヤカさんに教えてって‥」
「ああ、なるほどね」
私にも好都合だった。次にヒトミと連絡を取る時には、できればリカを
通さないでおきたかったからだ。ヒトミもそう思っていたようだ。
しかし、わざわざ電話してくる必要はないのに、と思い首をかしげた。
リカが家に戻ったら私の電話番号を教えてもらい、私に直接かければそ
れで電話番号の交換は成立する。これが一番、簡単な方法なはずだ。
私は自分の携帯電話を取り出す。
「じゃ、教えて」
「うん‥」
なぜか感情を押し殺したようにゆっくりとリカは数字を言った。私は言
われた数字を打ち込んで通話ボタンを押す。
「もしもし。あ、うん。教えてもらったから。今日はありがとう。それ
じゃ‥」
ヒトミが出て、軽く礼を言ってからすぐ切った。向こうは「リカちゃん
をよろしくお願いします」と言っていたが、見送ってもらう立場にいる私
にその言葉は少しおかしいだろう、と首をかしげた。
ふとリカを見ると、うつむきながら少し睨んでいた。小さな獣が弱いな
りに精一杯の鋭い目つきをしているようだ。日の当たり具合のせいか、リ
カの目の下にはクマみたいな陰ができている。
「どうしたの?」
臆することなく不思議そうに尋ねた。リカは「ううん、なんでもないで
す」と言い、目線を勢いをつけて反らした。
「あ‥」
私はリカの平らな横顔を見て思わず言葉を漏らす。
ヒトミが電話をかけてきた理由に気付いた。
ヒトミはリカのこんな些細なことでさえも広がる嫉妬の姿を私に見せつ
けたかったのだ。まるで首輪をつけられたサルのようにヒトミは思いのま
まにリカを操っている。
「行きましょう。駅はこっちです」
「うん‥」
リカのピンと張った背中を見ながら私は歩きだす。
リカの感情を遠隔操作できるとアピールするヒトミの徹底した行動に私
はため息をついた。