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ヒトミは私とヒトミとの間にあったラブソファの背もたれをポンポンと叩
き、私に目を向けさせる。
「どうぞ、座ってください‥ってちょっと待ってください」
どうやら私がヒトミを殴った時にソファの位置がズレたようで、ヒトミは
前のテーブルと平行になるようにして直した。そして再び手のひらを見せ、
私を座るように促した。
「ありがとう」も言えず、私はヒトミを警戒心でもって見つめる。ヒトミ
がもう何もしないことは何となくわかってはいたが、ついさっき味わった屈
辱が背中を見せることを多分にためらわせる。そんな心情に気づいたのかヒ
トミはソファから離れ、リカに近づく。私はヒトミの横顔を見ながら腰を下
ろした。
「大丈夫?」なんて声がリカから出る。ヒトミはそんな心配気なリカに
「大丈夫」と言い、バンダナが巻かれた頭を軽く撫でている。
「ごめん」
私は殴った拳の痛みを感じながら言った。謝罪なんて気持ちは毛頭ないが
殴ったことは事実だからだ。
「いや、全然大丈夫ですから。殴られるようなことをしたんですから。それ
よりも私に構わずくつろいでってくださいね」
まるでホームパーティーの主催者のような言い回しをした後、リカに
「じゃ」と言い、隣りの部屋に行こうとする。
クーラーの音が静かになった。どうやら十分室温が下がったみたいだ。し
かし、私のカラダは火照っている。殺伐とした空間は私の緊張の糸を張りっ
放しにする。
「あ、ヒトミちゃん!」
そんな糸をぷつりと切ったのはリカだった。リカは隣りの部屋のドアノブ
に触れようとしていたヒトミを呼びとめた。ヒトミが振り返ると、「お鍋!」
と台所の方を指差しながら叫んだ。
私もその方向に目を向ける。するとぐつぐつという音が聞こえてきた。ど
うやら鍋の中の水はもう沸騰しているようだ。
「ああ〜、忘れてた!」
ヒトミはヤケに低音の慌てた声を上げると同時に、台所に飛んでいった。
火を止めると同時に鍋からはモクモクと白い湯気が沸き立つ。
「これじゃあ、カチコチだよ‥」
がっかりとした様子でその湯気の中の卵を上から覗く。そして、さらにが
っかりと肩を落とし、涙を拭うように右の人差し指で目の下をこすっている。
ヒトミは湯切りしたあと、卵をボウルにいれ、それを右手に、左手には牛
乳パックを持つ。「リカちゃん、手伝って」と言うとリカは「うん」とうな
ずき、台所に向かった。
リカはコップを三つとヒトミの左手にあった牛乳を持ってきてテーブルの
端に置く。リカにはいつの間にかいつもの気配が戻っていた。テーブルに投
影されたリカの顔は生きた笑顔だった。
「食べてってください。おやつなんです。小皿は今持ってきますから」
リカは前かがみになり、テーブルに置いてあった雑誌類を床に置きながら
私に話しかける。
「リカちゃ〜ん、醤油どこだっけ?」
台所にまだいるヒトミから声が飛ぶ。
「あ、え〜っと下の戸棚の中」
「そうだっけ? う〜んと‥ないよぉ」
「あったって」
リカは再び立ち上がり台所へ向かう。そしてヒトミが探している戸棚を覗
いて手を出して、「ほら」と醤油を見せた。
「端っこの方にあったんだ」
「うん」
二人は醤油とゆで卵4つと小皿3つを持ってやってきた。
私は今のやりとりにまた固めようとした真実が歪められた気がして唖然と
する。
「どうしたんですか、サヤカさん? ゆで卵、キライですか?」
リカが不思議そうに尋ねる。
「いや、別に‥」
とりあえず口を濁した。数分前では想像もつかなかった光景が繰り広げら
れている。少なくとも先ほどまでの全てを抑えつけるようなヒトミやそんな
ヒトミに魂を抜かれたように呆然とするリカはいない。そんな二人を許容し
ていた空間もいつの間にか冷房の効いた心地よいものに様変わりしていた。
そんな変化についていけない私は一人取り残されている感じがした。
リカは枕に近い花柄のクッションを持ってきて、そこに正座する。ヒトミ
も後からやってきて、回転椅子に座り、嬉しそうに袖をまくる。
「食べてってくださいね」
ヒトミは私の前に置かれた卵を見ながら言う。私は無言で頷いた。
「ヒトミちゃんたらおやつはゆで卵しか食べないんですよ。おかげで私も毎
日ゆで卵生活」
リカは殻を向き、光沢のある白身を二つの親指でこすりながら愚痴混じり
に呟いた。
「でもリカちゃんも結構好きになったでしょ?」
「元々キライじゃなかったよ。逆にキライになったかも? 飽き飽きしちゃ
って‥」
「そんなこと言ったって卵食べるのはやめないからね」
「わかってるって。ヒトミちゃんから卵をとりあげることがどんなことか私
が一番よく知ってるもん」
ヒトミはゆで卵のてっぺんを箸で穴を開け、その中に醤油を数滴入れる。
染み込むのを確認してから大きく口を開き、一口でゆで卵を食べた。手元に
はもう一個ある。4つ持ってきたゆで卵のうち、2つはヒトミのものらしい。
なんだろう、この二人は‥?
甘い日常を見せられてつくづくそう思った。
リカはヒトミにとっては始終、奴隷にすぎない人間なのだと思っていた。
ヒトミは奇妙な能力でもってリカの存在を全て掌握していて、だからリカは
ヒトミから離れた時、その魔法のような力が薄れ、ふっとつらくなるのだと。
しかし、それは違う。
ヒトミとリカは対等の恋人同士なのかもしれない。
主従関係が生まれるのは性欲が二人を支配したときだけ。普段の生活の中
では二人はお互いを尊敬し合っている。ヒトミはリカを掌握しているわけで
はない。だから、この部屋にはきちんとリカの匂いが含まれていたのだ。
そんなことがあるのだろうか――キチガイじみた性生活と恋人としての日
常生活を分けることが。
私はリカを一瞥する。ゆで卵をビーバーが木を削る時のように前歯を使
って細かく齧っていた。
滑稽な姿に思わず苦笑した。それを見たヒトミはリカの方を向き、同じよ
うに苦笑した。穏やかにただその光景を見られることが幸せだというよう
な恋人を見る目をしていた。
「ヒトミちゃん、私どうしても聞きたいことがあるんだ」
2つ目のゆで卵も同じようにして食べようとしていた。「何ですか?」と
至福の瞬間を邪魔されたせいか、スネた子供のように口を尖らせている。
幼稚すぎてさっきまでのヒトミとのギャップを感じる。もう戸惑いを超えて
ヒトミという個体が何者なのかすら怪しくなってきた。それくらい混乱してい
る。ヒトミにされたことの不快な色は違った色素を混ぜられ、ぼかされよう
としていた。
「リカちゃんを愛してる?」
「はい、大好きです」
まるで私の問いを知っているかのような即答だった。キリスト教徒が神に
誓う時のように背筋をピンと伸ばし、私を見つめていた。
「‥だってよかったね。リカちゃん」
脱力気味に私はリカに声をかけた。リカは言葉を出さずにうなずいた。何
か言いたげな顔にも見えたが私は無視する。
私には理解できないことが多すぎて整理できていなかったから、今のリカ
の求める何かを私は拾い上げることさえできない。考えれば考えるほどそれ
は愚慮だと感じる。
それくらい矛盾に満ちていた。そんな中、認めるしかない一つの真実をリ
カとヒトミを見交わしながら噛みしめた。
二人は愛情と憎悪を融合させた、れっきとした”恋人同士”なのだと。