-34-
交通量が多い国道沿いの高層マンションに私たちは入る。リカによると、
昼はうるさいけれども、夜になったら結構静かになるらしい。しかもリカた
ちの部屋は10階でその部屋からの車の騒音は遥か遠くの音にすぎないらし
い。
「おじゃまします」
誰もいない部屋に向かって私は言った。別にヒトミがいるかも、と思って
言ったことではない。そういう癖なのだ。しかし、リカは「ヒトミちゃんは
いませんって」と念を押していた。
部屋の中は結構汚い。台所に置かれたまだ洗っていない御飯茶碗と鍋。リ
ビングルームに入ると、ファッション雑誌や漫画本がライトグリーンの背も
たれのほとんどないラブソファの上に散らかって置いてあり、さらに向こう
のテーブルにも同じように本、そしてなぜか綿棒が散らばっている。ソファ
の反対側に秘書室にでもありそうな回転椅子が違和感たっぷりに置かれてい
る。その上にも畳まれた服が山積みされている。
「ヒトミちゃんは結構きれい好きなんだけど、私が”散らかし屋さん”で‥」
「片付けるの手伝おっか?」
あんまり人のことは言えたものではないが、これはかなり汚い。「すいま
せん」と言いながらリカはピンク生地に幾何学的な模様が入ったバンダナを
拾い、頭に巻きつけていた。本来のかわいさのおかげか若くておしゃれな奥
様のような雰囲気を醸し出していた。
私は床に落ちている下着などを拾い、適当なスペースに固めて置く。
この部屋がリカの性質で蔓延していることにやや驚きを覚えていた。少な
くともリカの前では絶対的な抑圧者であるヒトミの部屋だから、リカの匂い
はほとんどないものだと思い込んでいた。
「この部屋のどこで寝てるの?」
私は呆れながらリカに聞いた。こんなに散らかっていては寝る場所なんて
あるようには見えない。
「ああ、あっちです。もう一つ部屋があるので‥」
と言いながらリカが指差す方向には扉があった。どうやら2LDKのようだ。
特に理由もなく「見ていい?」と聞くと、リカは「いいですよ」とうなず
いたのでその扉を開けた。
セミダブルのベッドが中央に構えてあるのがまず目に飛び込んだ。どうや
らここで二人一緒に寝ているようだ。また、部屋の端にはおしゃれのかけら
もない白色のパソコンが置いてあった。他にも大きなタンスがあったりして、
そのせいか妙に狭く感じられた。
ピピッという音がして振り返る。どうやらリカがクーラーの電源を入れた
ようだ。噴き出す冷気は埃っぽかったらしく、まともに顔に浴びたリカはゴ
ホゴホとセキをする。
「使ってなかったの?」
「いえ、使ってるんですが最初はいつも汚い空気が出ちゃうんですよね」
「フィルターとか掃除すれば?」
「はい、今度」
こうやってあとあとに物事を延ばそうとする人間はえてして、部屋を汚す
タイプだ。今は私という来客が来ているから当然なのかもしれないが、リカ
の性格が垣間見えた気がして、少し顔が綻んだ。
そんな緩んだ顔をパチパチと軽く叩きながら、ここへ来てからずっと緊張
をしていたことに気づく。ヒトミがいないとわかっていてもその漂う気配に
警戒していたのだろう。もしかしたら、向こうの部屋を見たかったのもヒト
ミがいるのでは? と思っていたからかもしれない。
リカはとりあえず座るスペースを作ろうとソファの上に積み重なって置か
れた雑誌をどかす。しかし、その雑誌もすぐ横のテーブルの上に置いただけ
ので、殆ど片付けにはなっていなかった。そんな風に無意味にせわしなく動
くリカを傍目に私はきょろきょろと散らかった部屋を眺めた。
黒くて無骨な17インチテレビの上の物体が目に入る。手紙ぐらいの大きさ
のフォトスタンドだ。中にはリカとヒトミが小さい枠の中で寄り添うように
頬と頬をくっつけながら微笑んでいる写真が挟まっている。
さらに周りを見渡すと、簡易的なクリップボードの上には同じように二人
で映っている写真が部屋のアートとして8枚ほど貼り付けられている。
見れば見るほど戸惑う。ヒトミの狂気的な性質はまったくと言っていいほ
ど感じられない。女同士ということを除けば、どうみても幸せいっぱいの恋
人同士。
そして、ここは聖なる愛の巣。散らばる物たちが至極平凡な生活感を漂わ
せる。
実際に目視する甘い情景と告白された辛い状況とのギャップを感じながら、
私はカーペットに散らばる紙切れなどのゴミを拾ったりした。
一段落し、リカも落ち着きはじめると私はラブソファの中央に座った。一
番最初にリカが作ってくれたスペースだ。目の前のテーブルに積まれていた
本の一番上を取ると、それは「プチバースディ」と書かれたローティーン向
けの月刊誌だった。表紙と裏表紙がピカピカとした素材で少女漫画のような
イラストと飾られた文字が所狭しに書かれている。これだけで大分コストが
かかっていそうだ。
「これってリカちゃんの趣味?」
表紙をリカに見せながら聞いた。リカはテレビのリモコンを手にとり、テ
レビの電源をつけようとしていた。私が持っている雑誌を一瞥したあと言う。
「あ、はい。でもヒトミちゃんもたまに見てますよ」
リカは私が持っている雑誌を一瞥したあと何の気もなく言う。
「へぇ‥」
パラパラとめくると占いや運勢に多数のページが割かれており、また彼氏
のタイプだとかベストな髪型だとかのフローチャートが至るところで見られ
た。リカもヒトミも16、7だとしてこの雑誌の対象年齢はもっと低いはず
だ。リカはともかくヒトミもこういうものを見て、今日のラッキーカラーは
緑だとか信じたりするのだろうか。
「ねえ、リカちゃん‥」
私が呼びかけた時だった。玄関から鍵を開けている音がした。
「あれ、ヒトミちゃん‥帰ってきちゃった?」
リカは腰を浮かす。
「マジ‥?」
一度玄関の方を振り向き、顔をしかめながらリカと同じように腰を浮かす。
そのあと、隠れるところは? なんて慌てるがよく考えたらヒトミから逃げ
る理由は何一つないことに気づき、来るなら来いという気持ちでソファにド
スンと腰を据えた。
「た〜だいま〜。お客さん来てるの?」
ヒトミの声を聞いてソファから立ち上がり振り向く。
「こんにちは。お邪魔しています」
自分でもフシギなくらい礼儀正しく会釈をした。
「どうも。もしかして掃除手伝って‥って、ああ確か‥カラオケの‥」
ヒトミは一度部屋を見回してから私を見る。ワンテンポ置いて、ようやく
私の顔に見覚えがあることに気づいたようだ。少し眉を寄せ、目をパチクリ
させて名前を必死で思い出そうとしている。
「はい、サヤカです。イチイサヤカ」
「そうそう、サヤカさん。もしかしてリカちゃんと友達だったんですか?」
「まあ、あんまり付き合いはないんですけど。今日はたまたま‥」
”たまたま”の部分を強調した。しかし、ヒトミは私の微妙な主張など気
にも留めない感じだ。
「そうなんだ。何でリカちゃん、あの時言ってくれなかったの?」
ヒトミはリカの元に駆け寄る。バンダナの上から頭を撫でる。そして、柔
らかそうなほっぺを一度細い指で優しく突く。まるで小さな子供を扱うよう
な行動だ。
ヒトミは至って正常の人間に見えた。レイプだとか、暴力だとかとは無縁
の永遠の美少女。
「ほら、だって‥あんなコトした後だったから‥恥ずかしくって」
リカは恥ずかしそうに自分の指をいじりながらヒトミを見つめるがその目
は淡い緑色に輝く。それも欲求に全てを傾倒させたいという毒々しいもので
はなく、ただ純粋にヒトミに寄り添いたいという安らぎを求める少女として
の目だ。
「あんなコト‥ってどんなコト?」
さらにリカは恥ずかしくなったのか顔が赤みを帯びてくる。ヒトミから目
を離し私を見た。するとほぼ同時にヒトミも私の方を見た。
大きく私のココロさえも覗けるような大きな瞳。日本人らしく高くも低く
もない整った鼻立ち。口紅もつけていないのに淡い桃色をしている柔らかそ
うな唇。
全てが合わさって感じるのは絶対的な”美”の存在。
私は一瞬、その玉殊のように輝く容姿に吸い込まれそうになる。
しかし、その吸引を止めたのは当のヒトミだった。
完璧なる無表情の顔を上品かつ淫靡という常人には不可能な笑顔に歪ませ
る。リカの言った通り、限りなくサディスティックで、支配的な至福感が漂
っている。
「こんなコト?」
ヒトミは素早くリカの唇にキスをした。
深いキスだ。1秒、2秒、3秒‥と時計の針は時を刻む。まるで精気を吸
い取るような濃厚なキスが目の前で起きていた。
唇が離れた時、リカはヒトミの甘くて黒い罠にはまったような恍惚な表情
を浮かべていた。その表情のまま私をちらりと見た。焦点の合わない瞳がゆ
らゆらと揺らめきながら私を刺す。
――驚いた。
キス一つでこんなにも変わるものなのだろうか。クーラーが効いていて涼
しいはずなのに、汗がカラダの表面に滲む。
「リカちゃんったら風俗店で私の名前を使って働いているんですよ」
ヒトミは俯いているリカをよそに回転椅子に、背もたれを前にして座った。
あまり反応が強くなかった私に対し、口端を再び歪める。
「あ、やっぱり知ってたんですね」
「何が?」
リカの味方の立場を取っていたからか、余裕たっぷりのヒトミが気に入ら
ない。顎をしゃくりながら私は軽くメンチを切る。
「リカちゃんが多種多様の男に抱かれている淫乱な女だってこと」
ヒトミも私のくすぶる感情に触発されたのか、強い口調を発する。もう最
初に見た”美”を包んでいる人間ではない。冷たい支配性が私を貫く。私の
中にある小さかった火種が勢いを増す。
「あなたがやらせたんでしょ? リカちゃんは嫌がっているっていうのに」
語気が荒々しくなった。リカはその間に、「もういいから」と呟いたよう
だが私の言葉に消されてしまう。
「そんなことないですよ。私はリカちゃんの全ての気持ちを知ってるから。
リカちゃんって私だけじゃ飽き足らず、いろんな人と寝たいってずっと思っ
ていたんですよ。だから紹介してあげたんです」
淡々と話すヒトミの言葉は非常識極まりない。もし二人が恋人だったら
――いやそれ以前に血の通った人間であれば到底ありえない言葉だ。私はヒ
トミに向ける憎悪の目を強くさせた。普通に考えたらヒトミはリカを断じて
愛してはいない。しかし――、
「リカちゃんが思うわけないじゃん。バカじゃないの?」
言った自分に強がりの部分が垣間見える。強がりは負けの前兆だ。
「嫌がってはいないよね? リカちゃん」
ヒトミはリカを見ながら立ち上がる。そして、今まで座っていたところに
呆然と直立しているリカを座らせた。糸をつけられた操り人形のようにリカ
はヒトミにされるがままに椅子に座る。ヒトミはその椅子をぐるんと回した。
半回転してリカのカラダは私と向き合う。そして、淡白な表情のまま首を縦
に振った。
私は唇を少し噛む。敗北とは認めたくないが、ヒトミの余裕の仮面を剥が
せることは到底不可能だと悟った。”ヒトミは普通ではない”とヒトミと出
会ったたった二、三回の歴史が常識を覆す。
「ところでどういう関係なんですか? リカちゃんとは?」
ヒトミの言葉に私はギクリと腰を浮かす。
ヒトミはどこまで知っているのだろう? 返答に窮し、ぎゅっと喉を締
め付けたが、ヒトミは私の答えを待たずに、「ちょっと待って」と言い残
し、台所の方に向かい冷蔵庫を開け、鍋にいっぱいの水を張り、塩を少量
加え、ガスコンロに火をつけた。
「へへへ‥ゆで卵‥。今無性に食べたくなって」
と言いながらヒトミは戻ってくる。
「リカちゃんから聞いてないの?」
「うん、あんまりリカちゃんの交友関係って知らないんですよ」
ヒトミは言った。
「リカちゃんのことを全部知ってるんじゃなかったっけ?」
「そんなこと言いましたっけ?」
「うん」
初めて勝ったような気がしてつい顔がほころぶ。
「そうですね。じゃあ99%知ってるって訂正してください」
そんな私をさらりと交わすヒトミ。続けて、
「でもまあ大体わかりますけどね」
ヒトミは私の背後にやってきた。ソファに座っている私は顔だけを後ろに
向ける。
「ソープ嬢なんでしょ?」
私の反応を待つ前に後ろからソファを挟んで私の下半身に手を入れてきた。
自分の身に危険が及ぶなんて思ってもいなかった私がその咄嗟の行動に驚
いている間に、ヒトミの長くて細い指はきっちりパンツの中に入り込み、私
の性器まで到達していた。
女とは思えない強い腕力で私の腰だけを自分の元に引き寄せる。ちょうど
バックに入る前の”く”の字にさせられる。
「あ‥」
私は一瞬の喘ぎ声とともに、顔を上げた。
ヒトミは細く女性的な指を獰猛なヘビのように扱う。その荒々しさは、指
だけでイカされた手練れたホスト風の男の顔を思い出させる。確か3ヶ月前
ぐらいのことだ。小さな屈辱と歪んだ快感が最終的に得たものだった。
それと今似ている。およそ女性が作る動きとは思えない乱暴さだ。
必死の抵抗の最中、私の視界にはリカの顔が映った。キスの余韻なのか空
疎に包まれたままの表情からは全く感情が読み取れない。ただ生命のない壊
れた人形がぼーっと私の下半身を眺めている。きっとこのままだとあのホス
ト風の男にさせられたように最後までイってしまうのだろう。リカの見てい
る前でそれだけはしたくなかった。だから私は喘ぎ声を隠すように、「やめ
ろ!」と低く唸った。
すると、ヒトミはその動きをピタリと止め、入れていた指を抜いた。性感
が手や足などの抹消部を支配する直前のことで、軽く痙攣していた私は自重
を支えられずに、ソファの前でひざまづいた。
「や〜めた」
荒い息を立てながら首を曲げる私に対し、ヒトミはこの空間を司る人間の
ように私を見下ろしていた。まだ途中だったからかしびれはすぐに治ってい
く。私は立ち上がり、怒りに任せて、ヒトミの頬を拳を握り締めながら殴っ
た。
「やめて、サヤカさん!」
手元で放たれる衝撃音と一緒に、後ろで座ったままリカは久しぶりに叫ぶ。
リカに対する罪悪感。
ユウキに対する背徳心。
支配されそうになった私のカラダに対する自虐。
そして何より、そんな場を悠然と作ってしまうヒトミに対する決定的憎悪。
いろんな情動が拳になってあらわれた。
しかし、ヒトミはそれすらもあざ笑うように、まったく表情を変えない。
私の拳は当たったのか? そう疑問に思いながら左手で右の拳に触れると痛
みが走った。
私の拳が確実にヒトミの顔を捕らえていた証拠だ。
ジンジンと感じる右手の痛みと、何も変わらないヒトミの冷たい瞳――矛
盾した空間に佇む私の胸の鼓動は異常に速くなる。
「サヤカさんのプライド、しっかり感じました。すみませんでした。予想通
りリカちゃんとは違うみたいですね」
ヒトミは深く頭を下げ、謝罪した。笑みはないとはいえ怜悧に固めていた
表情が融けているところを見るとそれはココロからのものだと教えている。
「何のプライドよ‥」
「サヤカさん、恋人いるんでしょ? しかも最近できたアツアツの。私恋人
持ちにはあんまり刺激を与えないようにしてるんです」
ユウキのマキに似ている甘い顔を思い出す。その残像の向こう側で余裕そ
うに目を細めるヒトミには、会ったことのないはずのユウキの顔を思い浮か
べているような気がしてゾッとした。
「それに今サヤカさんの周りってすっごくいろんなことが起きていますね。
大変でしょうが頑張ってくださいね」
「‥なんでわかるの?」
ヒトミには私の背後で苦しむマリの顔さえ見えている――恐れや悔しさを
押さえつけるように上の歯と下の歯を強く合わせた。信じられないことだが
ヒトミには何かを見通す力があるようだ。そういえば初対面なはずのナツミ
を一目見るなり「うれしいことがあった?」と言っていたことを思い出した。
「なんとなく。具体的なことはよくわからないですけどね」
ヒトミが私には絶対勝てない神のように見える。それは私が最初にイメー
ジしたヒトミ像を超えたものだった。
「ただ、リカちゃんの考えていることははっきりわかりますけどね。例えば
今は‥」
ヒトミは付け加える。私は「何?」と尋ねる。リカもカラダを乗り出す。
「リカちゃんは今、私とサヤカさんと3Pしたいって思ってるんです。
どう? 変態でしょ?」
リカは赤面していた。
事実のようだ‥。
失望と絶望が私を打ちのめす。
リカ側に立とうとする少し前の私はもういなかった。