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「ヒトミちゃんは私を”モノ”みたいに扱うようになりました」
私は無反応で細い肩を震わすリカを見つめる。涙で潤んだ瞳の裏側には
リカ自身にもよくわかっていない感情が形成されているのだろう。薄いル
ージュを引いた唇が小刻みに揺れる。
「いや、元々そうだったのかもしれないです。エッチなことをヒトミちゃ
んはしょっちゅうしてきます」
一度、リカは息を大きく吸い込んだ。場を包むコーヒーの苦味のある香
りはリカに勇気を与えたのだろうか、一気にまくし立てるように喋る。
「でも、それは常に一方的で‥‥私からは決してヒトミちゃんのカラダに
触れさせてもらえないんです。ホントはヒトミちゃんの白く透き通った肌
とか、潤んだ瞳とか乱れた髪とかを見てみたい。それに‥悶え声とか立っ
た乳首とか濡れたアソコとか‥そんな淫らに感じるヒトミちゃんを‥私に
支配されるヒトミちゃんを見てみたい‥。でもヒトミちゃんは激しく拒絶
するんです。ちょっとそんな素振りをしようとすると私をより一層苛め
ます、行動や卑猥な言葉で」
私は黙ったまま、リカの言葉を記憶に留め、整理した。
ヒトミから放たれるオーラのようなものは触れたもの全てを圧倒する。
まだ2、3回しか会ってはいないが私はヒトミに対してそういうイメージ
を漠然とながら持っていた。
リカの話を聞いてそのぼやけたヒトミ像の輪郭が妙にくっきりとした。
ヒトミの性癖と言ってしまえばそれまでだろう。サディスティックな欲望
だけがヒトミを支配し、マゾヒスティックな部分は完全に遮断する。後者
の部分はヒトミにとって憎しみ以外の何物でもないのかもしれない。
「ある日、ヒトミちゃんが寝ている時に私はキスをしてしまったんです。
ヒトミちゃんが頑なに拒みつづけていたから、私がリードしたいって欲が
反比例して生まれたんだと思います。衝動に駆られて‥ホントどうかして
たんです、あの時の私は‥」
一度リカは私を見た。ちゃんと聞いているのか確認したかったのだろう。
聞いているよ、という意志として「うん」と頷くと、リカは過去への後悔
からか力無く微笑み、再び目線を下に落とす。
「ヒトミちゃんはキスにも気づかずに眠ったままでした。だから服を脱がし
てヒトミちゃんの胸に触れました。真っ暗だったから色とか形とかはわから
なかったんですけどとにかく柔らかくて温かくて‥どんどん理性がきかなく
なりました。自分の顔をヒトミちゃんの胸にうずめたりもしました。あんま
りにも気持ちよくて、嬉しくて私はそのままその場で眠ってしまいました。
次の日、私は殴られました。その時のヒトミちゃんは‥もう前にも後にもな
い鬼のような形相でした。そして、全てが変わったんです‥」
口が止まったリカ。まぶたには涙が溜まっている。店内の音楽や向こうに
いる人のひそひそとした声が消え、リカの息を飲む音さえもはっきり聞こえ
るようだった。今私の耳はリカの創り出す音だけのために機能していた。静
寂に浮かぶ悲調の叫びが私のココロを急く。
汗ばんだ手を擦り合わせながら私は「どう変わったの?」と促した。積悪
にもたれたリカは口重に話を再開する。
「‥ヒトミちゃんはより暴力的になりました。エッチしている時に殴ったり、
手錠とか縄とか変な道具を使うようにもなりました‥。今までそんなコトは
なくて愛撫するときはずっと優しかったのに‥」
「‥‥」
「とうとうヒトミちゃんは私を性の奴隷にしてきました‥。見知らぬ男の人
を連れてきて‥それで‥」
リカはそこまで言って唇を噛みしめた。ヒトミの狂態に怯えるリカに私は
息を呑む。口を閉ざすその先の言葉と連想させてマリが映し出される。リカ
もマリと同じように幾人もの男にレイプのようなことをされた。
でも決定的に違うのは―――
「リカちゃんにとってそれは裏切りなの?」
私の突然の問いかけにリカはハッと顔をあげる。その拍子に両方の目から
温かそうな雫が2、3滴テーブルにこぼれ落ちる。
そしてリカはこれ以上落とさないようにゆっくりと首を横に振る。
私は「やっぱり」と音は出さずに口だけを動かした。
その行為は傍から見れば、残忍なことに見えるがヒトミというサディステ
ィックの塊の人間にとっては、恋人を他人を使ってレイプすることさえも愛
情の一種なのだ。
リカは特にそれを知っている、というか思い込んでいるから完全に否定で
きない。だからヒトミから離れられることができない。
「じゃあ、”マリア”に働きはじめたのもヒトミの指示?」
リカはうなずき、
「どうせならもっと稼げるほうがいいね、って‥」
と小声で言った。
リカの言ったこの言葉は私の脳内でヒトミの声色に変換された。自分の恋
人を貶める究極的なサディスティック行為。その”恋人”であるリカは震え
るカラダに”愛”と”憎”を刻む。どちらもヒトミにだけ注ぎ、葛藤し、両
者衰えぬまま昇華している。
「リカちゃんが”ヒトミ”の名を使ったのはリカちゃんの意思?」
私はリカが首を縦に振るのを待った。リカは一度ツバを飲み込んで予想通
りのことをした。苦衷の中、底から沸き上がる震えは強さを増しているよう
で一生懸命カラダを強ばらせていた。
リカが”ヒトミ”の名前を用いたのは、ヒトミへの精一杯の抵抗とプライ
ド、そして自分の葛藤を正当化するためだ。
一つは自分のカラダを”ヒトミ”とし、愚鈍な男たちに弄られるのは自分
ではなく、ヨシザワヒトミなのだと偽る。そして、”ヒトミ”という名の人
間はこんな男たちに服従する卑しき存在なのだ、と罵る――そんな憎しみ。
もう一つは”ヒトミが性に屈し、マゾ的な部分を見せている”と自分のカ
ラダを使って表現する。そして、ヒトミにその”感じる”ことへの偉大さを
示そうとする――そんな愛しさ。
ヒトミには何一つ伝わらないことだとしても、後に弾劾されるべきことだ
としてもリカはそんな愚鈍な行動をやめるわけにはいかなかった。
ヒトミと偽ることで、”ココロはリカでカラダはヒトミなんだ”と強制的
に分離させる。本物のヒトミでは決して得られなかった快感と欲求を、
”二人”で満たしていく。
その狂気じみた願望の本質は私と似ている。人の関わりを避け気味だった
私が出会ってからこうして今でも付き合いがあるのはそういうインスピレー
ションをココロのどこかで感じていたからかもしれない。
ヒトミが求めているもの。
リカが求めているもの。
それはきっとお互いであるにも関わらず、その二つの欲求は競合しあい、
反発する。
私は事情を聞いて慰める気はさらさらないし、もしあったとしても不可能
だろう。リカにとってこの苦しみは一つの真実なのだから。
リカもそれを分かっている。真実は真実と認知しているならばそれを歪曲
することはできない。
リカは私にきちんとした答えを求めているわけではない。ただリカの投げ
かけを受け止め、そっくりそのまま返すだけだ。
私はリカの震えが収まるまでずっと待つことにした。
約1時間後、リカは顔を見上げ、私に「もう大丈夫」という意志の笑顔を
見せた。それは偽りのものには違いなかったが、ココロに鬱積した苦渋を私
に吐いたのだ。その空っぽの笑顔の中には本物の喜びが埋まっていくことを
ただ願った。
私たちは喫茶店を出た。コーヒー一杯で長いこと居座っていた悪しき客だ
ったにも関わらず、奥さんは「また来てね」と言ってくれた。社交辞令とは
いえほっとした。
昼が似合わない汚れきった二人がかんかんに熱せられて見えない蒸気が立
ち昇るアスファルトの上を歩く。ロールプレイングゲームの毒エリアを一歩
一歩進むように前に進めば進むほど生命力が失われていく気分だ。
行く当てもなく歩いていたので、リカに「どこか建物入らない?」と言お
うとして「リカちゃん」と呼びかけた。すると、リカは私の方を向き、
「もし、まだ暇でしたら私の家に寄っていきません?」
と言ってきた。
「近いの?」
「電車で二駅ほどです。歩いてでも着きます」
私は少し考える。リカの家はつまりヒトミの家ということだ。ヒトミがい
るかもしれない。
「ヒトミちゃんはいませんよ。昨日から出かけているんです。明日にならな
いと帰ってこないって言ってました」
見透かしたようにリカはこう付け加える。
「それじゃあ行こうかな。でも歩きはイヤだ。電車で行こう」
舌を出し、真っ青の空と強烈に照りつける太陽に目配せをし、暑さをアピ
ールした。リカは太陽の光を遮るように額に手をかざしながら「そうですね」
と言い、微笑んだ。昼下がりにふさわしい少女としての爽然さを巻きつけた
ような笑顔だ。これは私にはもうできない笑顔で決定的にリカと私の違う部
分だと思った。
そして、私たちは最寄りの駅に方向転換した。