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リカの両親が交通事故で突然命を失ったのは2年前。リカがまだ中学生
の時だ。一人残されたリカは叔父さん夫婦に預けられるが、相性は良くな
かった。
もともと、リカの父とその叔父とは仲が良くなかったみたいだ。リカは
その夫婦と子供に、食事がないとか目には見えにくい虐待を受ける。
それでも私を引き取ってくれたんだ、と大抵のことは従うリカ。
決定的な嫌悪が生まれたのは、叔父さんがリカのカラダを求めてきたこ
とだ。
吐露するリカは唇を噛んだ。苦痛に満ちた言葉たちが一旦停止する。
私も波長を合わせるように苦痛の表情を浮かべる。そこは飛ばしていい
と言おうとした矢先、リカは再び口を開く。
「家出を決意したのは、叔父さんが私にちょっかいを出していることを叔
母さんは知っている、という事実を知ったとき」
私の肩がビクリと震える。灰色に褪せたリカの瞳が私のココロを射抜く。
リカの叔母は叔父がリカに関係を強要していることを知っていながら、
見て見ぬフリをしたのだ。
「理由はわからない」とリカは言う。
しいて言うなら、叔父と叔母の夫婦関係はもう長いことなくて、愛自体
も皆無に近かったから。叔父がすることに嫉妬さえも生まれなかったのだ。
しかし、女としての共鳴みたいな部分はあるはずだ。男に陵辱を受け、
泣哭する女を同じ女性として救おうとする気持ちは叔母にはなかった。
そこにリカは絶望を覚え、家出という行動を起こした。
街でリカは防御手段を知らない赤子のように見るもの全てに脅えながら
見つかるはずもない出口を求めてさまよう。
しばらくは密かに貯めていた小遣いがあったから、食べ物は普通に食す
ことができた。とりあえず風があまり当たらない民家の間とかを寝床にし
た。最初は全く寝られずに夜から朝に変わる空をただぼんやりと眺めてい
たが、三、四日も経てば、寝つけるようになった。
しかし、二週間も同じような生活を続けていると資金も底をついてくる。
下着も替えなんてものはなく、カラダが異臭に満ちているのが自分でもわ
かる。何度もリカは鼻に手の甲を押し当て、その体臭に顔を歪めた。
ひもじさから眩暈がする。だけど、家には帰りたくない。警察官やパトカ
ーを見ると叔父夫婦は捜索願を出していて私を探しているんじゃないかと
思い、逃げ出す。そうじゃなくても保護という形で捕まるかもしれない。
そう常に警戒心を抱きながらふらふらと歩くリカ。すれ違う人間はリカ
を汚い物を見るように卑俗的な目でねめかく。そんな視線が段々怖くなり、
さらに逃げ出す。人気のないところを探しながら、行く当てもなく路頭に
迷う――そんな生活が続いた。
事件が、そして運命がやってきたのはある月が輝き、遠くで鳥が薄気味
悪く鳴いている夜の一時。
公園のベンチの下で眠っているリカをある力が引っ張りだした。
女とはいえ、異臭が匂い立つリカを獲物とする人間はいないと思ってい
た。しかし、それは甘かった。リカを女として見る奴がまだいたのだ。
それは今のリカと同じ放浪者。社会の軋轢に飲まれ、家や家庭を失った
人間から見ればホームレス歴2週間のリカはまだまだ社会の匂いが染みつ
いている輝きを放つ者。
そして、男たちには俗世を離れた人間にも決して消えることのない性欲
を保持している。その捌け口をリカのカラダに求めた。飢えた獣のような
目が6コ。
逃げなきゃ、と思うも虚しく、両手両足をざらついた手で掴まれ、一人
の白髪の男が黒ずんだ顔に近づけてきた。リカは自分の体臭をさらに上回
る異臭に吐き気がした。その男は唇に噛み付いた。男にとってはキスだっ
たのかもしれないが、それはリカが今まで経験してきたキスとは全く異質
のもので何の魅力も感じられない粗暴的なもの。痛さがじんわりと感じて
いく中で血が唇から滲み出ているのがわかった。
「助けて」なんて叫ぶ気力もない。一枚しかないパンツを男たちの手で
破られ、倒されてベンチに後頭部を打ちつけた時に最終的な絶望を感じた。
朦朧とした意識の中、夜の空が視界の大部分を占める。想像を絶するほど
遠くにある星は涙で掠れていった。
しかし意識が消える直前に、カラダ全身で味わっていた屈辱の感触が離
れた。
疑問に替わる前に、耳からは乱闘劇がすぐそこで起こっていることを知
らせる音が聞こえる。目を開け、自由になった上体を起こすとそこには月
の幻惑的な光に照らされて立っている人間がいた。
そしてリカを襲った男3人はその人間を中心に地べたに這いつくばって
いた。
「そのヒーローがヒトミだったんだ」
聞き入っていた私が、ちょっと口を挟むと幸せそうにリカはうなずいた。
ヒトミは「大丈夫?」と言いながらやってくる。
腰砕けの状態のリカは立つことができずベンチを懸命に掴みながら立と
うとする。
リカはその時逃げたかった。王子様の到来はリカに運命を感じると同時
に、現在の落伍者としての自分を見せたくないという感情が生じたからだ。
そんな思いも虚しく、ヒトミはリカの前に立つ。
そして手を差し延べてくる。
月の光だけが頼りの世界ではどんな華美な服を着ていても、黒を基調と
した妖しげなものに替えさせられる。ヒトミの服も皮膚の色もそうだった。
しかし、一つだけそんな世界に屈しないものが差し出されたヒトミの手
にあった。
「あ‥」
二人同時に気づいた。ヒトミは一度手を引っ込めて、笑いながら舐める。
「相手の歯を殴ったからね」
舐めた口からポタポタと流れ落ちる血。倒れている男たちの返り血では
なく、紛れもなくつい少し前までヒトミの中を流れていた血だ。月の光を
喰い、不気味な赤色となって映えていた。
「う〜ん‥結構出てるね」
他人事のようにヒトミは言った。
尋常ではない――そう思い、引きつるリカは恐怖と絶望で使い物になって
いなかったカラダを懸命に揺り起こしてヒトミのその手に触れた。
「手当て‥しなきゃ‥」
「大丈夫だって。舐めときゃなおる」
舐めて治る範囲の血の量ではない。蒼白なリカは自分の服をビリビリと
引き裂いてヒトミの腕にきつく巻きつけた――。
「なるほど。王子様だね」
ナツミの時と同じく恋人のことを”王子様”と表現した。
誇張されているところはあるだろうけど、要するにヒトミは自分のカラ
ダを傷つけてまでリカの窮地を救ってやった命の恩人というワケだ。
リカはうなずく。”王子様”という言葉を含羞なく受け入れたのはリカ
が自分で言ったとおりロマンチストで、よほどヒトミが好きだったからだ
ろう。
ヒトミは汚いボロ雑巾のようなリカを戸惑いなく受け入れた。それがリ
カにとって一番嬉しかったことだと言う。
「その時は、ヒトミちゃんが女の子ってわからなかったんですけど、後で
女だって知って、戸惑うどころか逆に好きになっていって――」
その心状を何となくながら理解した。リカにとっては、叔父、そして放
浪者とことごとく性欲の対象にされた”男”という種は自分の体内に精子
をただぶっかけるだけに存在するものと当時は見えたのだろう。そして対
照的に”女”を求める意識が強くなったのかもしれない。
「しばらくいていいよ。殺風景な部屋だけど」
ヒトミは自分の家に連れていき、軽いノリで言う。
一旦拒否するも、ヒトミの優しさと美しさに、結局リカは甘えることに
なる。
ヒトミは一人暮らしで高校一年生。親はアメリカに住んでいて金持ちだ
から毎月、相当のお金が振り込まれるので金銭面には苦労しない。リカは
その家に彷徨える子羊として迷いこんだ。
同棲ではなく同居――もっと的確に表すのならば居候。
そんな二人はやがてカラダを重ねるようになった。
私とマリのような普通の友人の域を越えない同性の同居になれなかった
のは出会いがあまりにも劇的で、リカは悲劇のヒロイン、ヒトミはヒーロ
ーなる図式が即座に成立していたからだろう。
ここまで長々と聞いていて、私が知りたかったことはまだ一つとして到
達していない。
なぜ、二人は恋人と言えないと思うのか。
なぜ、リカは”マリア”で働くことになったのか。
そして、なぜリカは”ヒトミ”の名を騙ったのか。
「で、それからどうなったの?」
そんな疑問を一切合財まとめて、そう聞いた。
リカはコップの下の外気とオレンジジュースとの温度差によって表面に
作られた水滴を”∞”の形になぞる。
そして、私に催眠術をかけられたように、ゆっくりと喋りだす。