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夏の陽射しがあまりにも強いため、直射を受けている腕にはジンジンと
した痛みとともに紫外線が吸収されていく。出かけにガブ飲みした紙パッ
クのお茶の分が汗となって肘から手首、そして指の爪の先まで伝う。
勤めているカラオケ”三日月”の前を通った。窓ガラスの向こうにいる
赤色の服のバイト仲間を探すが誰もいない。今日はまだ暇のようだ。フロ
ントに突っ立っているのも疲れたので厨房の中にでも入っているのだろう。
そこから10分も歩けば”フランジ”という名の喫茶店に辿り着く。名
前の由来はよくわからないが、機械の接合部分のことだろうか。
私はココに来ると大抵豚キムチチャーハンや、特製オムライスなどを注
文する。この店の定番というわけではないがゴハン系は特筆して美味しい。
カラオケのバイトの帰りには、家とは反対側の方向にあるにも関わらず、
わざわざ足を運んでココで夕食を済ましたりもしていた。
リカもこの店のことを「知っている」と言ったので待ち合わせ場所にし
た。この店の名前を出したのは私だ。どれだけの深い話になるのかわから
ないが、とにかくこみ合ったトークの戦場は自陣の方がやりやすい。
ドアの上に取り付けられた二つの青銅色の小さな鐘がぶつかり「カラン
コロン」と鳴る。ちょっと古めかしいこの音が私は好きだ。
ほぼ無意識に店全体を見回す。3組ほど客がいるが、どうやらリカはい
ないみたいだ。
「いらっしゃいませ、あら」
長いストレートの黒髪に白いスカーフを巻きつけているマスターの奥さ
んが私に向かって声をかける。そんなに常連というほどでもないのだが、
私の顔を覚えてくれていたようだ。こういう客商売は数回来た客の顔はき
ちんと覚えないといけないのだろう。ナツミの顔と名前が一致するのに3
日かかった私には不適正な職業かもしれない。
「いつもと違う時間ね」
「はい、今日は待ち合わせで」
と言いながら、もう一度店を見回す振りをするがいないことは、わかって
いる。わかっていても、やってしまうのは私だけじゃなくて、人間の習性
だろう。
「今のところそんなお客さんはいないわよ」
奥さんは同じように店を見回して言った。
「みたいですね」
もともと店の人がフレンドリーに話しかけてくるようなアットホームな
店ではない。奥さんとの会話はそれで終わりで、私はコーヒーを頼んだ。
4人が座れるテーブルに腰を掛けると、すぐに白一色であまりおしゃれ
ではないカップに入ったコーヒーを奥さんが持ってくる。ちょっと猫舌の
私なので、慎重に口をつける。ここのコーヒーは初めて飲んだのだが結構
美味しかった。しかし、一杯600円は少々高い気がする。
壁に掛けられている中学の図画工作の授業時に描くような花瓶とりんご
の絵を見ながら座ったがすぐに場所が悪いと思った。入口に背を向けて座
ってしまう体勢だったからだ。
「カランコロン」という扉が開く音を聞くたびに私は振り向くハメにな
る。2度ほどその扉は開いたのだが、リカではなく、”振り返りゾン”を
くらっていた。
だから、場所を替えようと思った。顔を上げるだけで入ってくる客の顔
を確かめられるように私は対面側の椅子に座り直そうとして立ち上がる。
その時、扉の鐘が鳴り、振り返るとリカがいた。
私はその容姿にはっと息を飲んだ。少なからず想像はしていたが、昼と
夜とではこの少女は輝きが違う。清楚なライトイエローのワンピースに身
を包み、ストレートでちょっとだけ茶色がかった髪は、そこら辺でブラつ
くギャルとはいるべきところが違うとさえ思わせてしまう。
そして、何より薄幸そうな翳を有する顔つきは、男だったらなりふり構
わず抱きしめてやりたいかわいさなのだろう。
なぜこんな子が夜のコウモリさえも不気味がる都会の汚濁地に身を浸し
ているのだろう? そして、なぜ昼になるとこうも清廉な少女に戻れるの
だろう?
リカはすぐ私がいることに気づいた。ムリもない、私は半立ちの情けな
い姿でいたから。
「おはよう‥」
「お、おはようございます‥」
私はリカを促してこの喫茶店の奥の方へと移動した。当初は待ち合わせ
場所に使うだけで、別のもっと人気の少ないところに連れていく予定だっ
たが、ココも十分人が少なかったし、何よりあまりにも今日という日は太
陽がまるでゴジラのように地上を焼き尽くす日で、どっちかというと主に
夜に棲息する私にはそれが耐えられなかったので、このままココで話すこ
とにした。
リカはやや緊張気味に口元を震わせながら、やってきた店の奥さんにオ
レンジジュースを注文した。
「で、話って何?」
奥さんが離れるのを確認して私は対面に座るリカに聞く。すると、リカ
は少しきょとんとした顔を見せる。
「え? だって、サヤカさんの方から‥」
「用があるって言ったのは、そっち。私は電話番号を聞いただけ」
リカは同じことですよ、とでも言いたげにちょっと反抗的な態度を目で
表す。私は余裕ぶって優雅にアフタヌーンティーを飲む貴婦人のようにコ
ーヒーを飲む。出されてからもう大分時間が経っていたので、慎重になら
なくてもいいぬるさだった。
「ま、話の内容は同じだと思うけどね。リカちゃん」
”リカ”の部分を強調して言うと、リカは過敏に反応した。
微妙に紅く頬を染める。私の視線がき裂の入った感情に入り込み、痛み
を覚えたのか、胸の辺りを無意識に触れていた。
コーヒーソーサーには茶色の輪っかが作られている。その上にカップ
を乗せるとコトリと音がした。やっぱ高貴な人間にはなれそうにはない
な、と苦笑した。
「‥すいませんでした」
いろんなことを全部ひっくるめるようにリカは謝る。私は飄々とした顔
で「何で?」と聞いた。
「だって、偽名を使って‥」
「私だって偽名だよ」
「え? ウソ? だってカラオケの店でも――」
「っていうのはウソ。本名」
リカはからかう私を柔らかく睨みながら唸る。ちょうどやってきたオレ
ンジジュースを半分ぐらいまで一気に飲んだ。どうやら相当喉が渇いてい
たようだ。
500 :
500:02/01/11 18:22 ID:TNuPAK2p
祝500。
「でも、私みたいな人は少ないって。普通は偽名だよ。店に張ってある他
の従業員の名前見た? ”ミルク”ちゃんとか”クルミ”ちゃんとか。ど
う見たって偽名じゃん」
「そうなんですけど‥」
渋い表情で私を見るリカに対し、私は目をコーヒーカップに落としなが
ら言った。
「‥で、どうなの? 自分の恋人の名前を耳元で囁かれながら、男のアレ
を咥える気分は?」
コーヒーに映し出された自分の顔を見ながら、下卑た言い方をしたこと
に対して苦笑する。私は真昼間から、私たちのいる腐敗した世界にリカを
引きこむ効果を期待した。しかし、そんな必要はないのかもしれない。リ
カは清純そうなカラダを纏いながら、その実、昼でも公然とエッチを見せ
つけるような人間なのだから。
リカは遠目でもはっきりわかるくらい顔を赤らめた。
「ヘンなことこんなことで言わないでくださいよ。男の‥だなんて‥」
リカは慌てながら周囲を見回す。私はちょうど店を一望できる位置にい
たので周りには誰もいないことを知っていた。さすがの私でも誰か人がい
たら、そんなことを言ったりはしないだろう。
リカは少し額を伝った汗を補うようにストローに口をつけた。
しかし本当に恥ずかしそうだ。私からすれば見られているのを知ってい
ながら、淫らなカラダを晒し、イっちゃうほうがよっぽど恥ずかしい。
「やっぱ、恋人なんだ。ヨシザワヒトミさんとは」
私はレズがどうとか、あまり偏見や先入観を持たずに聞いたつもりだ。
男は女、女は男しか好きになってはいけないという古代からの一般観念は
持っていなかったからナツミみたいに嫌な顔をすることは決してない。
リカのストローを咥える口がピタリと止まった。二、三度瞬きして私を
見つめるその瞳は戸惑いの涙を表面に湧出していた。それは決してトゲの
ある言い方をし続ける私に対するものではない。
「どうしたの?」
思わず優しい声で聞いてしまった。
「‥恋人って言えるのかなぁ」
リカは物憂げに横を見る。相変わらず強い陽射しが外では放たれている
ようで、暗い眼差しは撥ね返される。少し焦りながらリカは顔を元に戻し
た。
「言えるんじゃない? 別に女同士だってそんなにヘンなことじゃないよ」
「ううん、そういうことじゃなくって‥」
私は少し身を乗り出す。リカには聞く気マンマンの態度に見えたらしく、
少しのけぞる。ちょっと私らしくないことをしたな、と反省する。
「別に言いたくなかったらいいよ」
リカは少し笑った。久しぶりの微笑みだ。暗い泉に埋もれていたところ
からちらりと垣間見えるような微かな光が私をほっとさせる。リカは表情
を小さく変化させるだけで人のココロをくすぐる能力があるようだ。
「サヤカさんっていっつもそんなこと言ってるけど、ホントはすっごく聞
きたそうな顔してる」
「そう?」
今度は私が顔を赤らめる番。自分でも意識はしていたが、まさかリカに
見透かされるとは思ってもみなかった。
リカは「はい」とうなずいたあと、その表情を闇に落とした。
「私はヒトミちゃんのことが好きなんです。でも‥ヒトミちゃんは私のこ
とが好きかどうかわかりません‥」
出だしはまるで恋愛相談だ。
何でこんなことを言わせているのだろう? そして、何でリカは言おう
としているのだろう? リカは刺さったトゲを一つ一つ抜くように痛みを
時折浮かべながらぼそぼそと喋りはじめる―――。