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夏なので7時を過ぎると太陽はとうに地上に昇っていた。
未知のエネルギーによって起こった内部の反応で私はどのように変貌し
たのだろうか。太陽はどこまでこの姿を晒し者にするのであろうか。
眩しく光る朝もやに目を覆いながら、私は家路に着いた。
マリはもう起きていた。明色のカケラもない後姿が目に入り、私は途端
に憂鬱になる。
しかし今、マリはテレビをつけている。テレビの向こう側には少なから
ず人がいる。声を出して、笑っている。
私以外の人間を見ているということだけでもマリのココロが癒えてきて
いる証拠なのかもしれないと思い、ほっとすることに努めた。
「ただいま」と言うと、振り向いて「おかえり」とお決まりの言葉を発
する。それからは会話は途切れ、テレビの音だけが聞こえる数秒間。マリ
の背中の小ささだけが虚しく胸を拉ぐ。
先に口を開いたのはマリだった。
「遅かったじゃん。遊んでたの?」
思ったより軽やかだった。無理しているといえばそれまでだが、やはり
気持ちが楽になる。
「うん、ちょっとね」
「誰と?」
「え?」
私は一瞬耳を疑う。私だって過去に何回か朝帰りはしていた。そんな時
もマリは少し意味深な笑みを浮かべることはあっても大して追求してこな
かった。こんな問いかけは初めてだった。
「マリ‥ちょっと聞いて」
出方をうかがうような口調で呟くと、私をなじっているような目線で私
を突き刺す――もう次の私の言葉を知っているかのように。
ユウキの顔を思い浮かべた。
あの表情や温もりがはるかな残像のように胸を打つ。一つの成就がココ
ロの底を流れているのを感じていた。
「何?」
マリは表情を変えずに聞いた。私は深いため息をつく。
「私ね、彼氏できたの」
今のマリには”彼”という言葉でさえ大変な刺激物かもしれない。それ
を考慮した上で敢えて私は言った。これからも二人暮しを続けていく以上、
言わなければいけないことだと思ったからだ。気を遣って過ごすのだけは
避けたかった。
それに、朝帰りをし”女の匂い”を散布している私を見て、付き合いの
深いマリは気づいてしまったのでは?と思ったからでもある。
あの突き刺すような目はその考えを助長させた。
元々セックス三昧だったワケだからそんなことはないはずなのだが、や
はり今回は過剰な意識があったのだろう。
「ふ〜ん、おめでと‥」
そこには最初に発した軽やかさはなかった。マリは感情を押し込めたよ
うに言う。上手に描かれた弓なりの眉がピクピク痙攣を起こしたような動
き方をしている。まるで戸惑いがその眉に集約されているようだった。
きっと今、マリの脳裏にはトシヤがいるのだろう。そういうことを想像
するだけで私はぞっとした。
「ありがと」
以降、裏を孕んだ言葉のやりとりはピタリと止まった。ただ、テレビの
スピーカーから流れる笑い声だけが無機質に場を包んだ。
私はとりあえずシャワーを浴びることにした。
ラブホテルでも起きた後にシャワーは浴びたのだが、自分の家のシャワー
とはどこか違い、安心感をもたらしてはくれない。きっとカラダが自分の家の
浴室の匂い、大きさ、水の出る角度、水質に慣れてしまっているからだろう。
私はお湯の蛇口をひねらずにほとんど水のまま浴びた。冷たく尖ったよう
な水が皮膚の穴一つ一つを刺激する。
いろんな意味で疲れたカラダが癒されていく。まるで聖水のようだ。
そんな安らぎが再びユウキとの出来事を甦らせた。
初めての愛の存在を噛みしめながら行ったセックスを終えた後、ユウキ
は澄み切った美しい瞳でもって「俺と付き合ってください」と告白してき
た。二人とも裸のままシルクカバーの布団に入り、お互いのカラダの温も
りを感じあっていた時だった。
「なんか、順番が逆だよね。エッチしてから告白だなんて」
私は言った。優しくトゲのない言葉は紛れもなく十代としての純粋なも
の。言った言葉がユウキのカラダや、夜が明け光が差し込んだせいで優美さ
を失った壁に反射して私の耳に届いたとき、一瞬「今の誰が言ったんだ?」
と思った。
それほど、こんな優しい気持ちを有している自分が不思議で仕方なかった。
純粋な性の獣に豹変したあとは、こんなにも優しい動物に生まれ変われる
のだということを初めて知った。
私はユウキの唇に自分の人差し指をくっつけた。私なりの茶目っけめい
た行動だ。少しユウキは顔を赤らめ、私の指を邪魔そうにしながら「そう
ですね」と口を開く。
「私って最低な女だよ。それでもいいの?」
ユウキは「いい」と即答する。
「悪いことも数え切れないくらいやってきたよ」
「俺は今のサヤカさんが好きだから。過去とか未来がどうだとか考えるの
は止めたんだ」
私の手を男の力でがっしりと握ってきた。拒否は断固許さないという横
暴な意思だった。
腕に痛みと愛情を感じながら、その考え方は危ういね、と憂う――人は
いつまでも過去を背負わなければいけない。未来を見ていかなければいけ
ない。現在なんて1秒すらないんだよ。
そんな変な思想に辿り着いてから、「そうか」と気づく。
ユウキはマキの代わりだから――時間という概念を知らない人間なのだ。
「いいよ、付き合っても。私もユウキ君が好きだから」
ユウキは顔色を明るく染めると私のカラダを強引に自分に引き寄せた。
筋肉が硬く突っ張ってはいるがまだまだ薄板のユウキの胸に私の頭は押し
付けられた。
少しベトベトした皮膚の向こう側からユウキの鼓動が聞こえる。昔母が
子守唄を歌いながら私の背中をポンポンと叩いたあのリズムに似ていた。
きっとあの時の母も葛藤に苛まれながら、何とか私に愛の形を見せようと
していたのだろう。
それから私はユウキの年を尋ねると、ちょっとためらった後で「中学生。
15になったばかり」と答えた。少なくとも高校生だと思っていたから驚
くばかりだった。一応こっちの年齢も言うと同じように驚いてくれてちょ
っと嬉しかった。
「サヤカさんって本名なの?」
エッチな雰囲気ではなく、ただ寄り添いお互いの鼓動を安らぎの動脈と
して感じている時、ユウキはそう聞いてきた。私は「うん」とうなずく。
「イチイサヤカ。れっきとした本名」
「俺も本名。ゴトウユウキ。ありふれた名前だから困ってるんだ」
何に困るの?と思いつつ、その質問は口にせず、替わりに温かい胸元に
キスをした。
シャワーを浴び終えて、居間に戻ってもマリは再び同じ状態でテレビの
前に座っている。人生の大半を終え、生きがいをなくした老婆みたいに腰
を曲げ、焦点も合わさないで光る画面を見つめている。
私がシャワーを終えて近くにきていることぐらいわかるだろうに、全く
反応しない。二人の間には見えないガラスの壁があって、音とか気配とか
を全てを遮断されているような錯覚を覚えた。
それを作ったのは私か、マリか――あるいは両方か。
時の流れは本当にマリを癒してくれるのだろうか。
彼女が落ちてしまった深い闇から救いの光を与える機会があるのだろう
か。這い上がる力はあるのだろうか。
そんな鬱な気持ちに圧迫されそうになりながら、机の上に置かれた自分
の携帯電話を手に取る。チェックをすると留守電が2件も入っていた。
簡易留守録なのでセンターに繋がないでもメッセージを聞くことができ
る。1件目はケイで、リカにも私の電話番号を教えておいたという内容だ
った。となると2件目は当然リカだ。
「あの…一緒に働いているヒトミです。今日会えませんか?連絡待ってい
ます」
2回聞かないと聞き漏らしてしまうぐらいの小声でメッセージが入って
いた。朝早くだったことも忘れて私はすぐさまリカに電話すると、リカは
起きていたようですぐに出た。
二人が共通して知っている喫茶店で3時間後、落ち合うことにした。
一度ぐっすり寝ようと思っていたけど仕方がない。
白基調のTシャツに膝ほどの外用のスカートに着替え、いつもより若干
濃い目の化粧を済ませたあと、家を出た。
一応マリに「行ってきます」と言ってはみたが返事はなかった。