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夜の川岸には人がほとんどいない。
等間隔に設置された黄色灯が私とユウキの歩く、幅2mほどの小さな歩
道を照らす。その遠方はほとんど何も見えなくて、まるで光は私たちを死
地へと導いているようだ。
文明という名目のもと、人の思い通りに汚してきた空気の隙間を割って
輝く星たちがまばらに見える。
川は先日雨が降ったからか、そこそこの水量で流れているみたいだ。そ
の中で繁茂した藻の匂いが私とユウキを包み、強く意思表示をする。
夜の帳に埋もれたユウキのカラダの輪郭はぼやけており、それがどこか
リアリティを乏しくさせ、私をほっとさせた。私はユウキの半歩後ろに位
置し、その後ろ姿とかろうじて見える鼻のてっぺんを不思議な気持ちで見
つめる。
ユウキがあの虚空に包まれた部屋に現れた時、私は彼の名を一度つぶや
くだけで、しばらくは何も言えなかった。そして、つい3秒前に感じてい
た男の腐った匂いに対峙する恐怖さえ忘れた。
「ほか行こう」
他の言葉は何もいらなかった。
ただそれだけ言うとユウキは小さくうなずいた。ケイに適当な説明をし
ている時もユウキは何も言わずただ俯いていた。
視覚は夜の闇によって失い、嗅覚は水辺に浮かぶ藻の匂いに支配される。
二人のメトロノームのように正確にリズムを刻む足音だけが聴覚を刺激し、
少し離れた位置にいるユウキに触れることはできず、ただ空気を触っている。
事業を開き、不況の煽りを受け、金策にも失敗し、進む道を全て断絶され
てしまい、自殺に陥る直前の中年夫婦のように前を見ずに歩く私たち二人。
それは危ういバランスを保っており、少し違う行動をするだけで次元を歪ま
せ、二人の存在自体が弾けてしまうような気がした。
喧噪という言葉も静寂という言葉も永遠に似合わない夜のラブホテル街に
自然と足が向く。それぞれが二人だけの会話に執着し、他人のことなどほと
んど気にとめない。糸にならずに点在する淫靡的なまどろみたちは決して異
質ではなく、他人から見れば私たちも同類なのかもしれない。
遠回りしたみたいだけど、このホテル街は私もよく行くところだった。そ
して、昨日私はこの道を腐敗に汚染され、混乱していた精神状態の時に通っ
た。点でしか存在しなかった意識感情がレーザービームのようにある人間に
向けられた。
一方通行の戸惑いと絶望の光線。
私には何の力もなく逆に闇に吸収されていく。
そんな記憶をすぐ近くの同じ対象物を見ながら思い出していた。
ユウキが足を止めたのは、予想通り私の記憶にしっかりとあったアラビア
風の古めかしいホテルの前。
半歩後ろにいた私の方を俯き加減に振り向く。何か言おうとしていたよう
だが、私は一歩前に出て、ユウキの左手を掴んだ。
私たちは言葉を交わすどころか目も一度も合わせないまま、そのホテルに
入った。
中は外とは正反対の少し近代的な様相を呈していた。
白色の壁には深海に住んでいそうな怪しげな青や金や紫に光輝く魚影と幾
千万もの流星群が飛散しているシルエットが人工の光によって鮮やかに作ら
れていて、私は目を瞬かせた。
ベッドにはシルクだけで作られたような薄光りのする真っ白な布団とその
上に、きちんと畳まれて置かれた2つの真っ白なバスローブ。その横にはカ
ラオケらしき機材と上にはミラーボールが申し訳程度に置いてある。反対側
には大きそうな浴室があり、間には大きなガラスがある。シャワーを浴びて
いる様子などはベッドからはっきり見える。おそらくマジックミラーにでも
なっているのだろう。
「シャワー‥浴びてくる‥」
ユウキが重々しそうに口を開いた。少し悶々とした静寂の中、割って入っ
てきた久しぶりの言葉の縦波は過剰に私の鼓膜を震わせる。
私は掴んでいたユウキの腕をさらに強く掴んだ。今度はユウキが過敏に反
応する。
目が合う。
深いユウキの瞳に吸い込まれそうになりながら、私はようやくユウキに笑
みを見せることができた。
「ちょっと‥話そ」
言葉と同時に掴んでいた腕の力を緩める。しかし、目はユウキの目の奥
を覗いたまま。
ちょっとした間の後、ユウキは私の目の圧力に怯えたように目を反らし
てから無言でうなずいた。
二人同時にベッドに座ると柔らかすぎるスプリングが音をあまり立てずに
伸縮する。
「お茶飲む?」と聞くとユウキは「うん、俺がやる」とベッドの脇に取り
付けられた背の低い冷蔵庫から缶のウーロン茶を取り出す。一つ私に手渡す
ともう一個の缶のプルタブを空け、半分ぐらいまでゴクゴクと飲み干す。
私はその間、乾ききっていた喉を潤す程度に口をつけた。水分は粘膜に吸
収され、喉にはあまり行き渡らなかった。
「ふう」と一旦目を閉じ、一息ついてからユウキは重々しそうに口を開い
た。
「昨日、このホテルに入ったんです」
私は両手に大事そうに持っていたウーロン茶を脇に置く。
「知ってる。見てた」
余韻とか後腐れとかを全く残さない断定的なもの言いがユウキを強く驚か
せる。
「私が歩いていたら、ユウキ君とその横に小さくてかわいい女の子が腕を絡
ませながら街を彷徨っているのが見えた。それで二人とも緊張したように顔
を強ばらせながらこのホテルに入っていくのを見た」
小さかったけど、語気が段々と強くなっていくのが自分でもわかった。口
調もまるで小説の地の文を朗読しているような感じになった。
それには明らかに嫉妬心から来たものだ。
私は確かな根拠の元でユウキが次に放つ言葉を期待する。
私のシナリオは再会の瞬間から構築されている。そして次の瞬間、私が製
作した”ユウキ”という登場人物の台詞をユウキは一字一句間違わずに演じ
てくれた。
「あの子とは別れたから」
その時私はどんな顔を浮かべたのか、ココロの鏡で覗いてみる。テレクラ
に熟達した男が見せるような卑猥で狡猾な笑みだった。
「何で‥?」
その答えもきっと私のシナリオ通り。ユウキは一度下の唇を舐める。左眉
だけをピクピクと痙攣させる。
「サヤカさんが忘れられなかったから」
『天使の絹衣を纏い、悪魔の牙を持つサヤカに俺は全てを奪われたんだ』
私の瞳を映す美しい虹彩の光がそんな葛藤を乗せて私の脳髄をくすぐる。
『それは私も同じだよ。
マキの顔を装いながら現世に降り立ち、愚物であるべきカラダを私の眼
前に捧げたんだよ。あの時、私を矛盾したオーラが包みこみ内部破壊を起
こしたんだ。ユウキはずっと信じてやまなかったマキという唯一の真実を
いとも簡単にブチ壊した悪魔なんだ。
その代償をどう補ってくれるの?』
私の瞳から発散される光はどこまでユウキに伝わったかわからない。だ
けどその後、ユウキはごく自然に私の首筋に手を回し、顔を近づけた。
キスの直前、ユウキの口から洩れる柔らかな吐息が私の唇に触れる。
この感触が何かが終え、そして何かが始まるスタートサイン。
夢でしか見られなかったマキの顔に私は何度も触れる。そこには確かに
マキが見える。吐息が聞こえる。ほのかなカラダの匂いが薫る。
二つの舌が根元で出会い、お互いが作った唾液を交換する。そのまま私
が下になってベッドに倒れこむ。
前とは違い、私は最初リードされた。耳や額、首筋、そしてもちろん口
にとユウキは唾液を残しながら暖かくて柔らかい口を押し付ける。キャリ
アウーマンチックな白のカッターシャツのボタンをゆっくりと外され、表
れたマシュマロパッドのホワイトブラの下を下からユウキの右手はまさぐ
り込み、突起した私の乳首を優しく愛撫する。
それは前回私が教えた通りの順番だった。
目が合った。
男の抑圧的にもなれる筋肉質の肉体に抱擁されながら、野生の獣の眼に
なりゆく自分をユウキの真っ黒な瞳で確認する。
高鳴る鼓動をお互いに感じ、その脈の波長が完全に一致した直後に、私
は行動に出た。
柔らかい生地で作られたスラックスの下に膨らんだ股間を服越しに触れ
る。愛撫していたユウキの右手は一度動きを止め、口からは小さな喘ぎ声
が一瞬洩れる。
私は麻痺したかのように口の片端だけを淫靡に歪ませ、スラックスのジ
ッパーを下ろし、トランクスのボタンを開けた。
ユウキは顔を少し離し、背筋を反る。
あどけない顔から大人の顔を含ませた不思議な表情。窮屈そうにした、
はちきれんばかりに勃起したユウキの息子は弓のようにしなりを作り、透
明な液体を少し弾かせながら表れた。
私は左手の爪の長い人差し指で亀頭の側面を軽く掻く。すると頭上から
「イタッ!」という声が聞こえるとともに、先端から液体が火山のように
飛び、溶岩となって裾野を下りる。そして掻いていた部分を暖かく濡らす。
ユウキは上体を起こしてベッドに倒れこんだ。
合わせて私が上になる。ペニスを口に含み、しごきながら、とっくに洪
水になった自分のパンツをもう一方の手でその濡れ具合を確かめる。
ユウキの両腿が射精を耐えようと硬直した時、私は一度フェラチオを止
め、顔を上げた。絶頂の瞬間の茶色の目をするユウキの頭上の向こう側に
は、入る時に見た七色の光で作られた星や魚達が目に入る。あまりの鮮や
かさに私は再び目を奪われ、そして、自分のココロと対比した。
私のココロはどれだけの色に染められているのだろう?
きっと人よりもずっと色のない汚れたキャンバスで埋め尽くされている
に違いない。
私は目という抹消器官から見る様々な色の優美さに憧れていたのだと思
う。しかし、どんなに目がその美しさをとらえても決してココロにまで染
色することはない。
いつかその可能性をも否定した。カラダという存在の限界を感じ、私は
マキという有りもしない存在を宗教のように陶酔していった。
ユウキを――いや、マキを見た。
ねえ、君は――ユウキの正体はマキなんでしょ?
実際に現れてくれるようになったから、私の夢の中には現れないように
なったんでしょ?
マキは私に一つの道を与えているんだ。
私は本当のセックスを知らないから。
もし、私のカラダが求める最高のセックスというものがあるならば、そ
れはきっとマキとココロを同化させて行うセックスだ。
カラダを単なる触媒にして雲の上で一心不乱にお互いの存在だけを求め
合う。
――その儀式を行うための試験に今私は足を踏み入れる。
一度射精を済ました後でもなお、天に突き出るユウキのペニスを湿地帯
に変わった俗物的なヴァギナでカラダの芯まで深く包み込ませる。子宮の
裏側のもっとも鋭敏なスポットに鍵と鍵穴のようにすっぽりと吸いつく。
私が上下に揺れると足の先から脳細胞まで突き上げる。
全身が麻痺した。神経は挿入部だけに集約され、他の手や足や目や脳た
ちは盲腸のような全く意味のない進化の過程で不必要になったモノになっ
ていく。
そう。
今、この感覚が人の究極の進化型なのかもしれない。
進化の過程の集団生活の必要性として作られた倫理や理性は究極的には
邪魔になる。
欲望だけが自立し支配していく、そんな形。
幻覚と現実の両方をミックスした世界を見ながら私とユウキは頂点に達
した。
残像だけが残る曖昧な意識に身を漂わせながら、私の中の決してこの世
には適合しないおぞましい化学物質がユウキの精子によって化学反応を起
こし、白なのか黒なのかわからない灰色のエネルギーがまばゆい昇天に変
化していくのを感じていた。