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何という曲かわからない。
だけど甘い匂いを誘う旋律であることは本能的に読み取った。
そして、同時にやってくる足音が悪意に満ちたものであることも本能的
に気づいていたのだろう。
ここまで感性が優れていたのは私の脳細胞がまだ未分化だったからだろ
うか。
足音の主が私を見つめる。
微かに口元が動いた。私の耳にもちゃんと届いたようだけど何て言って
いるかわからない。読み取る力がまだないのだ。
私はただ、その”愛さなければいけない人物”とその上に見える輪っか
型の電球を眩しげに見ていた。
私は意味もわからないまま泣く。喜びとか苦しみとか悲しみとか――全
ての感情を泣くという人間の一番の本能の部分でしか表現できない。
目の前の人には伝わっているだろうか。これは喜びの表現なんだと。だ
からもっと愛してほしい。その瞳をもっと温かくして、もっともっと私を
見つめてほしい。
ただ、近くに来てくれるだけで、私の中には愛が生まれる。そして、き
っと向こうも―――
しかし、その人物の手が喉元に押し当てられたとき、真実の裏側を知っ
た。
縦50センチ、横40センチの檻の中、私が自由に動き回れる空間。そ
の中を通行許可証である笑顔を私に見せ通過してきた手。
大きくて柔らかくて、全てを包んでくれそうな手は間違いなく”母”の
もの。
――もっとも私を愛してくれるはずの存在。
今その手は確実に死へと導いていた。
泣くことができなくなった。
苦しさから泣こうとしてもその感情すら止められてしまう。必死で抵抗
しようとするが、手も足も動かすことしか知らない私のカラダは抵抗とは
程遠く、ただ空しく宙を掻くだけだった。
酸素がなくなる。脳細胞が徐々に死んでいくように真っ白な情景が目の
前に広がる。
私を動かしているのは生きるという本能ではなく、庇護する立場のはず
の母の手が突然、破壊する存在に裏返りしたことに対する絶望的な憎悪だ。
そんな感情を脳裏に焼き付けたまま私は白の世界にココロもカラダも埋
められていく―――
意識が戻ったときには地獄に追い詰めたその腕に抱かれていた。
汗ひとつ掻いていない。
さっきまでのことがウソだったかのように、母は笑顔で、「いい子
ねぇ〜」と背中をさする。
あれは夢だったのだろうか?
いや、違う。もし夢が存在しているとするならば、この母の笑顔こそが
夢で虚無的なものなのだ。
母が喉を締め付けたせいか、その日から気管支性肺炎を発症し、嘔吐と
夜泣きを繰り返した。
母は手厚い看護をする一方で、時折人が変わったかのように私を屑のよ
うに痛みつける。
私の小さな世界に入ってきた母は私のぶよぶよとした腕をつねる。黒目
が大きい私の目をは虫類のような冷徹な目つきでえぐるように睨む。
この善と悪の繰り返しは何なんだ?
『”真実”は存在しない』
――それが私の得た、紛れもない”真実”だった。
「すごい寝汗‥」
閉じられた目の向こう側で心配そうに私に向かって誰かが言った。寝返
りを打つと、背中がオネショでもしたかのように冷たかったので、異常に
早く覚醒する。
そして、今のが夢だと気づいたのはそれから数秒後のことだった。
でも普通の想像を含んだ夢ではなくて、きっと――。
「シャワー浴びたほうがいいよ」
目をあけると、いつものマリがいた。あいかわらず夏だというのに長袖
のトレーナーに腰を紐で縛る薄い生地の長ズボン。
季節感の外れた日常を見て、現実に戻ったのだと気づき、一瞬吐き気を
覚えてから、ようやく落ち着く。
「うん、今何時?」
「朝6時。起こしてゴメン。うなされてたようだったから不安になって‥」
「ありがと‥。助かったよ」
マリは頭上の電気をつけた。2度ほど点滅してから私たちを照らす。
「”マキ”の夢?」
少し恐れているようにマリは聞いた。マリは私にとってマキとは大切な
人物であることを知っている。それなのにそんな風に聞くのは、私がマキ
にココロを傾倒させることがイヤだったからだろう。
それだけマリは今私を頼っている。
うれしいようで哀しい。
私は首を横に振った。
「全然違う夢。それだったらこんな汗かかないよ」
「そうだよね」
と言いながらマリはうなずいた。
そして、「シャワーを浴びてきたら?」と私を促した後、「私はもう一
度寝る」と言った。布団にもぐろうとするマリを私は呼び止めた。
「今日こそ、病院行こうね」
布団の中でマリのカラダを揺さぶった。
「イヤ。ていうか行かなくて大丈夫だよ。傷も全部ちゃんと治りそうだし」
「ダメだって。全部完璧に消してもらうの。特にその胸‥」
今は常に隠されている胸に禍々しく映える刻印を想像すると一番吐き気
がした。
いくつもの傷があったがあれだけは何か劣悪な意志が込められていると
思っていた。
あの忌々しい印を消したい――そう願っていた。
「大丈夫だって。人間の自然治癒能力を信じなさい!」
「何、小難しいこと言ってんの?絶対行くんだからね!」
マリは突然布団をめくり上げた。
暖かくて悲しい目をする。どこか空虚で高級チーズのようにところどこ
ろに穴が開いていたマリの言葉に急速に意志が吹き込まれる。
「じゃあ、このカラダの事情を医者にどう説明すればいいの?」
「え?」
「私‥このカラダをいろんな人に見せなきゃいけないんだよ‥。そんなの
イヤだ」
静寂に私はカラダを浸した。
脳だけがフル回転でマリのココロを探ろうとしている。そして、浮かび
あがるのは後悔の部分。
レイプされた人間が告訴に踏み切るのはほんのごく一部だと聞く。それ
は自分が晒し者にされるからだ。よくは知らないが警察や裁判でどのよう
なことをされたのか公言しなければならない。
マリが法廷に立って苦渋に溢れた顔をしながらうつむき加減に告白する
シーンを思い浮かべた。周りは一部に30代くらいの女性の集団が真剣な
眼差しで見つめる以外は数寄物顔でマリを目で舐めまわしている。
想像で幾人もの無関係の人間がマリを犯している。
ゾッとした。
貧困な想像の中ででも血の気が引いた。
「ごめん‥」
私はココロから謝った。同じ女としてそんな単純な回路を解読できなか
った自分を貶した。本当はココロもカラダも同時に癒していかないといけ
ないのだ。
「じゃあ、寝るね‥」
小声でマリは言った。私はただうなずいた。
でも病院には行ってほしい。そんな強いココロをマリに持ってほしい。
純粋にそう思った。
シャワールームには小窓がついている。太陽の光はさすがに直接は入ら
ないが窓のおかげで大分明るかった。
ベトベトした汗を洗い流していると爽快ガムを噛んでいるかのように
すーっと冷たく心地よい刺激が脳をくすぐる。
冷静さが徐々に生まれ、それが今日の夢のことを想起させた。
あれは私が創った妄想ではない。
おそらく過去に現実として起こり、記憶の一番深いところに眠ってい
たものが、何らかの原因で表層にまで蘇ってきたのだろう。
きっとこの記憶は立つことすらままならない、物心がつく前の私だ。
だから、通常の記憶の引き出しには存在しなかった。
――私は母に虐待されていた。
夢なんて曖昧なものを根拠にするのは間違っているのかもしれないが、
それは真実だろうと私の中の何かが伝える。
そういえば私は低学年のころから離婚するまでずっと反抗期だった。
誰にでもある両親への反発心ではなく、陰にとじこめたような表出す
ることのない悪しき反抗。
もし、私が表面上に出た半生だけを書き綴り、それを誰かに見せると
する。
そこで、私は聞く。
「私がこんな人間になってしまったキッカケはなんだったか?」と。
すると、見た人間全てがこう答えるだろう。
「マキの夢を見るようになったからでしょ?」と。
しかし、それを私は自信を持って否定できる。
私のこの現代社会に不適合のココロは決してマキのせいなんかじゃ
ない。
――”先天性”なのだ。
きっと生まれる前からこんな人間だったのだ。
母はやはり自分の腹を痛めて産んだのだから一番私という人物を知
りえた人間だったのかもしれない。
母には「私を抹殺するように」という社会適合者としての本能が働
いたのであろう。一方で我が子に対する母性本能も働く。二つの本能
の対象が私という同じ生物に向けられている母は激しく葛藤する。
それが私にとっての善と悪を交互に繰り返させる。
これで今まで母が私を嫌っていた理由の説明が付く。
今回の夢でその考えは決定的になった。
シャワーを浴び終え、部屋に戻るとマリは数分間前のことをキレイ
サッパリ忘れてしまったかのようにすやすやと眠りに入っていた。
寝顔は幼くてかわいくて――どうしても姉というより妹のようだった。
私はマリに会えて――マリの幼馴染で本当に良かったと思う。
マリがいなければ今まで生きてこれなかっただろう。きっと喜びとい
う感情を知らずに社会に抹殺されていたに違いない。
マリは私とこの世界をつなぐ掛け橋となってくれた。
だからこそ、マリが私の昔棲んでいた闇の世界に落ちていきそうな今
の状態はどうしても許せなかった。今度は私がマリを救う番だと思った。
マリの為に下手なりに料理を作ろうと小さな台所に向かうと冷蔵庫に
は「今日はゴミの日」と書かれた付箋紙が貼られていた。マリの字だ。
きっと私宛ではなく自分自身に書いたものだろう。その付箋紙を剥が
して、私はゴミを集めた。
水色のゴミ袋にはいっぱいゴミが入っている。あまりにも多すぎて、
上手く結べなかった。私は二つに分けて捨てようと思い、もう一袋ゴミ
袋を持ってきて、半分だけ入れ替えた。
その時私はゴミの中にヘンなものを見つけた。
黒色のビデオテープだ。ラベルは貼っていない。ヘンだと思ったのは
ケースからテープが10mほど表に出ていたからだ。
どうみても誰かが引っ張りだした形跡だ。私はビデオの横に置いてあ
るテープを見た。3本が縦に並べられてあった。確か昨日も一昨日もず
っと前も3本だったから、そこにあったものではないことは確かなようだ。
私は息を呑んだ。
あんな社会に身を置いている以上、どうしてもそっちのイヤな方向に
想像させてしまったからだ。
そして、その推測が正しいとすると、マリが狂気に孕んだ行動に出た
のに1日のタイムラグあった理由にもなる‥。
30分後。
「おはよ」
眠い目をこすりながらマリはやってきた。
「あれから寝なかったんだ‥」
「うん、シャワー浴びると頭が冴えちゃって寝る気にならなかったんだ」
「あ、ご飯作ったんだ。珍しい。結構凝ってんじゃん」
テーブルに所狭しと置かれたご飯や味噌汁やポテトサラダを見てマリ
は言った。
私が料理をするとしたら大抵パンで、和食なんてものは作らなかった
から少し驚いているようだ。
「おいしいかどうかはわからないけど」
「うん、毒見してやるか」
「何よそれ。毒見って‥」
ふてくされ気味に私が頬を膨らませると、マリは笑いながら椅子に腰
掛ける。さっきのちょっとのケンカは忘れてくれているようだ。
少し私はほっとした。
「あ、そうそう、今日ゴミの日だったんだよね。ちゃんと捨てといたから」
言ってココロの中で少しガッツポーズ。ごく自然に言えた。
マリは冷蔵庫を一度見て、付箋紙がないのを確認したあと、「うん、あ
りがと」と言った。
ビデオテープはとりあえず私の通常使わないバッグの中に入れておいた。