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雨は何かを溶かそうとしているのだろうか?
誰かのために泣いているのだろうか?
それとも何かを告げる合図なのか?
油じみた驟雨がココロもカラダも滅入らせていた。
電車の中は湿度が高かった。
赤や紺の傘の先からポタポタと水が滴っている。人一倍汗っかきそうな
禿げたオッサンはもう何日も洗っていないような汚いハンカチで必死で広
い額を拭っていた。
そんな日だったからか人の体温がムンと感じていた。
今日は休むべきだったと後悔した。
オレンジやスイカが腐ったようなオヤジの匂いに「気持ち悪い」と思う
のではなく、小さな憎悪の炎がくすぶっていた。
アンタらと同じ男がマリを壊したんだと。
男という人類の半分の存在を敵対物として見つめていた。
ケイは相変わらずの調子で声をかけてきた。こんな時、ケイが女であっ
て本当によかったと思う。
入ったばかりのころは私もエンコー慣れしていたとはいえ男の一物を乱
暴に咥えさせられたりして、それを単なる仕事としか見ていなく冷ややか
に見守るケイを憎んだものだ。
そんな時、ケイが男だったら――その同類にそそり立つ下半身を見つめ、
私はさらに憎しみを倍加させることになっただろう。
今のくすぶりはその時の気持ちに似ていた。
仕事場の部屋に入ったときから、私は心臓の鼓動が私というカラダを支
配していた。
緊張とかではない――私のまだ微かに残っている清潔な部分がこの密室
に拒否反応を示しているのだ。私は水を口に含み、その得体のしれない動
揺を溶かそうとした。
「こんちゃーす。よろしく」
その客は一見は気概のいい男だった。少しだけ染め上げた髪を上手くウ
ェーブしていて、髪型だけみればホストっぽい。鼻が低いので顔は中の中
といったところか。背も平均より若干低めだ。
「雨の中いらっしゃいませ」
「ああ、雨やったらもう上がってたよ」
「そうなんですか。それならよかった」
男は私のカラダをジロジロと見る。
制服がきつめなため、自分のラインがはっきりと出ている。私は少し恥
ずかしげに身をよじる。
「う〜ん、写真で見るより大人っぽい子やなぁ、立たんかもしれへんなぁ」
男はちょっと関西弁訛りを出しながらフレンドリーに話しかけてきた。
「そうなんですか?」
「俺な、ちょいロリコン入ってんねん」
若干の羞恥を持ちながら自分のことをロリコンと正面切って話す男に、
私は逆に好感を持った。
「チェンジ‥しましょうか?」
「いや、いいねん。別に専門っちゅうわけやないしな。それに今日は気分
転換のつもりやったからな」
少し照れた時のくせなのか頬の辺りをポリポリと掻いていた。
「そうですよね。専門だったらこの店、来ないですもんね。みんなハタチ
以上だし」
「でも、サヤカちゃんはそれより下やろ?」
カマをかけている言い方だと勘付いたのも経験からだろう。というかそ
ういう客はかなりいる。
「いやいや、そんなことないですよ」
「ウソや」
「ホントです。でも若く見てくれて嬉しいです」
しばらく考えた様子を見せた後、諦めたように口を開く。
「そっか、俺の目も狂ってきたかな‥。そんじゃあ、はじめていい?」
私は小さくうなずいた。
最初の客がこの人で良かった、と思った。
この店には歪んだ性癖の持ち主が来ることが多い。
この男も公言している通り、ロリコンという歪んだ性癖なのだろうが、
その癖は私にとっては大したことではなかった。
男はコスプレも要求せず、私を純粋に裸にし、愛撫しようとしてきた。
性の玩具としてではなく一人の女性に接するように。本当にロリコンなの
かと思うくらいサド的な要素もなかった(ロリコンの大概はSだ)。
「君のおかげで、対象年齢上がりそうやわ」
私の胸を揉みしごいているときに男は言った。私は関西弁口調のこの男
に合わせて「おおきに」と言う。
「俺、ホンマはこんなヤツやないねんけどな‥」
「‥‥‥」
私は演技が入ったトロンとした目で見つめ、男の次の言葉を待つ。
「サヤカちゃんのカラダ見ていると、ヘンな気持ちにならんわ、やっぱ‥」
「‥というと?」
”ヘンな気持ち”というのは欲情のことだろうか。男は私の乳首をコロ
コロ転がしていた舌の動きを止める。
「ま、エエがな‥」
男はためらいまじりにそうつぶやいた。その言動たちは理解できなかっ
た。しかし、これ以上私も詮索する必要もないし、したいとも思わなかっ
たので何も言わないでいると、男は再び愛撫に集中しはじめた。
「ほな、そろそろしてもいい?」
男は私を仰向けにし、膝を開かせた。もう全裸だったので恥部が男の目に
ははっきり映っているだろう。
「はい」
「でも大丈夫なん?」
男の口からそんな言葉が出た。ためらいがそこにはあった。
「え?」
最初はわからなかったが、男が聞きたかったことをすぐ理解した。
「ああ。大丈夫です。今日は安全日です」
「‥‥‥」
「それに、もし何かあってもお客様には責任は取らせませんから」
「‥‥‥」
「大体、わかるのは数日後のことだし‥そうなったら誰のかわからない
わけですから責任を取らせようにも不可能です」
「‥そっか、安心した」
しばらく間を空けて、男はあまり安心した顔色を見せずに言った。い
つのまにか豊かな表情が消えていることに気づく。少し緊張を帯びてい
るようだが場慣れしていないからというわけではなさそうだ。
かといって理性が消え、凶暴な情欲男に変貌する様子もない。
しかし、それもどうだっていい。
男の一転して無表情になったところは気にはなったが、それ以外はあ
まり変わっていなかった。
最初に言ったとおり、性の対象外なため、あまり欲情していないだけ
なのかもしれない。
これなら楽勝――普通にセックスして終わるだろう。それこそ、社交
辞令のような薄くて愛のないセックスになるはずだ。
そう。いつもなら楽勝になるはずだった。
しかし、今日は違った。
「そしたら、いれるで」
男が半立ちになっているペニスを見せたときに、再び拒否反応が起こ
った。胃の中のものが逆流するとともに、頭の中では悲鳴が駆け回る。
幻聴だとはわかった。しかし、この悲鳴がマリのものだとわかったと
き、狂いそうな昂ぶりが身を襲った。
「どうしたん?」
目に見えて震え、接触を拒絶しようとしている私を不審そうに見つめ
る。
その時私はその客が妖怪のような目で私を見ているように見えた。そ
の妖怪は私のココロをえぐろうとさらに手を伸ばす。ネバネバしていて
妖怪の触手のように見えた。
「そんなに大きくないとは思うねんけどな」
恐怖に引きつった私を男は演技だと思ったのか腕をつかんで少し強引
に引っ張った。私の中で何かが切れた音がした。
「うわあああ!!」
私は拳に近くにあった固いものを持って思い切りふり下ろした。
男の後頭部にあたり、前のめりになって倒れた。
「はぁはぁ‥」
壁によしかかり横を見ると、鏡があった。裸になった私の全身を映し
出している見える。そこにはあるはずのないカラダ全体に渡った火傷の
あとや、カッターで切り刻まれた傷、そして、イカリの刻印が胸に焼き
ついていてその部分が特別熱かった。
「何これ?」
やがて、カラダの至るところにあった傷から激痛が走り出す。一つ一
つが意志を持っているかのように痛みが激しく波打つ。
目の前に客が気絶している。
この客が私をこんな目に遭わせたの?
痛い。
苦しい。
死ぬよりもずっとつらい。
私は地の底から湧きあがるような絶望の悲鳴をあげた。
まだ頭の中で響き渡るマリの悲鳴と共鳴し、底の見えない奈落へと落ち
ていく―――