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昨日の夜の出来事があって私はイライラしていた。
朝目覚めても明るいマリはいなかった。それはもしかしたら昨日のこと
は全部夢だったのでは?という愚かな希望を打ち砕くものだった。
マリはカラダにもココロにも傷を負っている。
私はどれだけ癒せるだろう?
約束した病院に行くことをマリは今日になって拒否した。妊娠について
は不安ではあるけれど焦ってもしかたがない。
それよりもカラダの至るところの傷を何とかしてあげたかった。もしこ
のまま放置しておいて、痕が残ったとしたら、今後別に好きな人ができて、
セックスしようとしても戦争の痕のようなおびただしい傷の数々に男の方
は引いてしまうかもしれない。
それだけではない。
マリは一生そのカラダと付き合わなければならないのだ。
カラダの傷よりココロの傷の方が大事なのかもしれないけれど、ココロ
がたとえ癒されてもカラダに忌々しい過去を想起させるようなものが残っ
てしまえば、ココロは決して癒されることにはならないのだ。
あれ?
何を考えてるのだろう。
私はカラダとココロが乖離したいと思っている。それが非現実的なこと
と知りながら、求めつづけている。
でも今はひどく現実的に不可能だと否定している自分がいた。
「ココロとカラダは分離できないんだ」と。
そういえば、今日もマキが現れなかった。
目覚めてもう1時間が経っている。
私は起きるとすぐにマキのことを考える。マキが現れた日はもちろんだ
が、たとえ現れなくても「何で出てこないの?」と夢の中のマキに訴えて
いたのに、今日はしなかった。
「忘れた」とするのであれば普通ならばごく自然な理由だろう。でも、
私とマキはそれは理由にならない。なぜなら二人はココロでしか繋がって
いないから。
忘れることはマキとの関係を断絶することになるのだ。
どうしてだろう?
ジャムがたっぷり塗られた食パンを手に持ったまま呆然とした。
マリのことがあったからだろうか?
それとも――?
――何かが私の中で変わろうとしている。
わずかずつだけど確実に未来の道はカーブしている。
その先にあるのは私が思ってもみなかった世界。
きっと期待よりも不安が大きい。
私はマリに無理をさせたくなかったので家にいるように指示した。
「やっぱり精神的にもサヤカの方が上なんだよね」
マリは言った。
「どういうこと?」
「私さあ、サヤカにコンプレックスがあったんだ‥」
私が出かける直前のことだった。
積年して重くなった思いを告白するようにゆっくり、そしてはっきりつ
ぶやいた。
マリの傍にずっといてやろうと思っていたけれどマリは、
「仕事なんなら行ってきて。私は大丈夫だから」
と言ったので行くことに決めた。
マリは私の仕事の詮索はしないから詳しいことは知らないはずだ。
もちろん夜に出かける仕事かつ大層な収入を得られる仕事だということ
は知っているから、まともな仕事ではないことぐらいは勘づいているだろ
う。しかし、ここまで汚れた仕事をしているとは思ってはいないだろう。
いつ暴露してもいいとは昔は思っていたが、レイプされたマリにとって
こういう仕事をどう感じるようになるのか考えたとき、私はもう言うべき
ではないと固く心に決めた。
「コンプレックスってコレ?」
私は自分の頭のてっぺんに手のひらをかざし、2度ほど手首を振る。
マリはうなずいた。
「私ね、サヤカに追いつきたくて大っキライな牛乳飲んだこともあったんだ」
「へえ、マリがねぇ」
マリの牛乳嫌いは筋金入りだ。小2の時なんか給食に出る牛乳を小1の
クラスにいる私のところに毎日持ってきたほどだ。
「でもやっぱり続かなくて‥へへへ‥一度サヤカがキライになった‥」
「‥‥」
「バカだよね、『私の方がお姉ちゃんなんだ〜』って感じで‥。でも身長
だけじゃないんだよね、ココロん中もずっと私より大人だ。私、頼ってば
っかりだ‥」
「そんなことないよ。私、マリがここに来たときすっごく嬉しかった。そ
れからずっとマリに頼りっぱなし。昔も今も――マリは私のお姉ちゃんだよ」
私はマリの頭を撫でた。
「それ、子供扱いしてる‥」
口を尖らせて私を見つめた。
そして、お互い笑った。
そこには純粋なものだけにはどうしてもならない――世間を知ってしま
った大人としての汚れた部分がある笑顔だった。
「じゃ行ってくる」
「うん、サヤカ」
「何?」
「お仕事、がんばって」
「‥うん」
私は性を商売にしている。
時にはレイプのシチュエーションでやったりもしている。
イメージと本番では違うとはいえ、私はマリが味わった屈辱を擬似体験
し、お金に換金しているのだ。
チクリと胸の真ん中が蜂に刺されたような痛みを覚える。
――私はマリを裏切っている。
そんな背徳感がカラダを襲っていた。
ドアを開けると、ねっとりとした雨が降っていた。