259 :
第十話:
明日の夜か明後日の朝には帰ってくるつもりでバッグをつめる。
着替え、下着、歯ブラシ、タオル、お財布…。
ぱんぱんにはならないけど、持ち歩くならこれが限界ってほどに。
真希の入っていた鏡は、壊したりしたくないので置いていくことにした。
準備は出来た。
ゆっくり立ち上がって部屋のドアを開ける。中を見ないように後ろ手でそっと閉めた。
パタン。
部屋の中には、なっちだけの世界があった。
あの中ではなっちは愛らしい姫で、優しい王子役のぬいぐるみ達もいた。
外敵から守ってくれるネバーランド。空想の物語にあふれていたティルナノーグ。
『なっちの部屋が?』
そう。私は振り返って閉じたドアに触れながら続ける。
誰も入ってこないしさ、なにもしなくても許される場所だったんだ。
『ふぅん。そんな感じの場所、身におぼえがあるよ』
うん。
なっちも出てみてわかったよ。残りの人生がずっとここなんて嫌だ。
外側の檻は開いていた。
内側の檻の鍵は開けた。いつだって戻れる。だから今は――出てみようと思う。
260 :
第十話:01/12/27 00:51 ID:2x8tDrva
階段を降りた私は、すぐ家を出ないで、まず居間に行った。
『どうしたの? 準備できたんでしょ?』
うん。その前にさ。
私はキッチンに立つと、お母さんのエプロンをしてお弁当箱を洗い、ていねいに
水気を取ってテーブルに置いた。
そしてその横に白い紙とペンを持ってくる。
『なるほどね』
……。
こんな感じかな。ペンにふたをして、ふたりで読み返す。
『良いんじゃない?』
じゃぁ。
私はペンのふたをまた外して、紙にペンを走らせる。
『それなに?』
付け足しって意味の記号。…よし。
『なるほどね』
どう?
『良いんじゃない』
真希の声はさっきより高くなって私の頭に響いた。
お父さん お母さん
停学なんかになっちゃってごめんなさい
でも私は後悔はしてません
仕返しする必要があるだけのことをやられたと思ってます
だから謝りにも行きたくありません
向こうが謝ってくれたら私も謝ります
突然だけど今回のことで私を助けてくれた友達のために
京都に行ってこようと思います
明日の夜か明後日の朝には帰ってきます
ごめんなさい
帰ってきたら全部あわせて怒られます
なつみ
P.S.
お父さん いつも遅くまでお仕事ご苦労さま
お母さん おいしいお弁当いつもありがとう ごちそうさま
262 :
第十話:01/12/27 00:54 ID:2x8tDrva
五時になった。あとはもう家を出るだけ。
靴はもう決めてる。ブーツを履いた。
旅立ちなんだからやっぱりブーツってね。
『ぶーつ?』
そう。ブーツ。
私は指でとんとんとかかとをつつく。
この靴の名前にはね、なにかを始めよう、って素敵な意味があるんだ。
立ち上がって振り向いた私は、誰も居ない居間に向かって叫んだ。
「行ってきます」
ちょっとだけ、出かけてくるからね。
263 :
第十話:01/12/27 00:55 ID:2x8tDrva
いつも行かない駅への道を、私はバッグを両手で持って歩く。
やけにふくらんだバッグが家出とか思われそうでちょっと恥ずかしい。
家出じゃなくて、遠出です、って。
初めてのひとり旅。
――ひとりじゃないけど。
行き方もいまいち良くわかんないし、お金がどれくらいかかるかもわかんない。
『ちょっと。大丈夫なの?』
多分ね。
東京駅に行けば、そこからなんとしてでも行ける。
まずは駅だ。
駅に行かなきゃ。
リズミカルにブーツのかかとが鳴る。私はいつの間にか走り出していた。
264 :
第十話:01/12/27 00:56 ID:2x8tDrva
駅に来ていた電車に駆け込む。
時間帯が悪かったのか、家に帰ろうとする社会人がいっぱい居た。
ちょっと長い間揺られたり、乗り継いだりして着いた、ぐんと広い場所。
東京駅。
久しぶり。中学校の修学旅行以来。
ふっとなっちの頭の中を、友達と遊んだ思い出が駆け抜ける。
つまんないことで笑って、何でもないことで騒いで。
『なっち』
ごめんね。また暗くなっちゃった。
昔はね、なっちにも、友達が居たんだよ。
なっちのこと「なっち」って優しく呼んでくれて。
『ふぅん』
…信じられない?
『わかるよ。嘘ついてないのくらい。その子達、今は?』
今は、口も聞いてくれなくなっちゃった。
『なんでだろうね』
なっちが、とろい子だからかな。
その言葉を明るくからかってくれると思ってたのに、真希の言葉はなかった。
265 :
第十話:01/12/27 00:58 ID:2x8tDrva
甘かった。
東京駅まで来たら、京都まで行ける電車なんてごろごろあると思ってたのに
新幹線しかないなんて。
『じゃあ良いじゃない、それで』
ちょっと値段が高すぎて…。
夜行列車かなんかあると思ってたんだけどなぁ。
普通の電車を乗り継いでなんて、なっちと真希じゃ絶対行けない気がする。
初めての抵抗があっさり終わろうとしてた時、私の手があがって遠くの看板を
指差した。
『あれあれ。あっちに夜行なんとかって書いてあるよ』
…夜行バス!
近寄って看板を読むと、東京−京都間のもあった。時間は、八時発。
私は時計を探す。あと一時間ちょっと。
「ふぅ」
バッグを床に置いて、なっちもしゃがむ。
すべてが不思議と順調に進んでいる気がする。なんか、私らしくない感じ。
『私も居るから、かな?』
真希の言葉に笑みがこぼれる。ふふっ。うん。素直にそう思うよ。
ねぇ、時間までなにしよっか?
聞いてすぐ気づく。――聞くまでもないか。そして予想通りの答え。
『じゃあさぁ、ご飯食べよ』
266 :
第十話:01/12/27 00:59 ID:2x8tDrva
『や、もう。すっごく美味しかったぁ』
カレーの辛さと美味しさに、真希はずっと感動してた。安上がりだなぁ。
時間が来るまで、駅を行く人を眺めてた。
帰りを急ぐサラリーマンやOLさん、これから出かけるような若いお兄さん、塾に
行ってたっぽい子供達、なっちと年の近そうな女の子達。
色んな人が居て、それぞれに違う人生があるなんて、ちょっと信じられないくらい。
この中にはきっと、なっち以上につらい生活をしてる人もいるんだろうな。
『そうかもね』
そっけない返事に私は続ける。
なっちだけが逃げ出したりしてさ、良いのかなって。
『逃げる?』
右手がやわらかくなっちの頬をつねった。
『違うじゃん。真希のために京都に行ってくれるんでしょ?』
そうだね。
…ありがと。
やわらかい痛みは温かさを伝えてくれる。
ふと顔を上げると、通りすがりの人が変な目でなっちを見ていた。
私はあわててつねっていた手を頬から離した。
267 :
第十話:01/12/27 01:00 ID:2x8tDrva
まったく。
何やってるんだろう。ボーッと人を見ててバスに乗り遅れたら笑うに笑えない。
バッグを抱えて駅の中を走る。
バスはすでに乗り場に着いていて、もう発車するように見えた。
急いでキップを買って、乗り込む――その直前に気づいた。
私は動きを止める。
『なっち?』
「お客さん?」
鳥肌が立った。間違いない。この瞬間が、人生の分岐点。
「もう行っちゃうよ。乗るの? 乗らないの?」
運転手さんの言葉がなっちの頭をぐるぐるまわる。
乗るの? 乗らないの? 乗って良いの? 乗っての良いの? 本当に良いの?
…良い方に変わるの?
『なっち?』
まだ間に合う。まだやり直せる。今なら引き返せる。
つばを飲む音がなっちの耳に大きく響く。
「お客さん!」
「あっ」
バスのドアが閉まった。
268 :
第十話:01/12/27 01:04 ID:2x8tDrva
車内はガラガラだった。お客さんも私達の他に四人しかいない。
私はバスに乗っていた。
いや、なっちじゃなくて、真希。閉まる前に駆け乗ったのは真希だった。
『だって乗るんでしょ?』
真希の問いに答えないでいると、運転手さんからも質問がきた。
「危ないから座って。それともやっぱり降りるのかい?」
瞬間。
目を閉じて、開く。
最後の選択肢に私が出した答え。
「…いえ」
私はゆっくり歩き出した。「乗ります」
269 :
第十話:01/12/27 01:06 ID:2x8tDrva
自分の声に誘われるようにすとん、と空いてる席に座ってすぐ、すごく疲れが
襲ってきた。
ふぅ。
乗っちゃったんだ。もう考えるのよそう。
『京に着いたらすぐお墓見に行くの?』
うぅん。その前にお墓の場所を調べなきゃだし、お風呂にも入りたい…ふぁぁ。
ひと息ついたとたんに眠くなってきた。
八時になったばっかりなのに、さっきから途端にあくびも連発で出る。
今日も一日、色々あったからね。
『なっち、眠ろっか』
うん、真希。ちょっと眠ろう。
そうだね。
時間もたっぷりあるんだしね。起きた後のことはさ、起きてから考えよう。
『おやすみ』
おやすみ。
270 :
第十話:01/12/27 01:07 ID:2x8tDrva
あぜ道を石を蹴りながら歩いていた。
天気も良く、これといってすることもない。私は何度もあくびをする。
うん?
しまった。
前から人が歩いてくるのに目を取られ、蹴ってた石を見失った。私は前をにらむ。
三人。浪人と、その妻子だろうか。貧乏そうだ。
女は病気持ちなのか、途中で咳き込んだりしている。その背中を浪人がさする。
ふと芽生える悪戯ごころ。
――突然あの浪人が死んじゃったりしたら、あの女。どうするかな?
よし。
お互いに歩き続けている。すれ違うまであと十歩、切ったかな、ってところで子供が
なにかしゃべったようだった。浪人とその妻が微笑ましく笑ってる。
私も微笑んだ。
なるほどね。家族で居れば幸せってわけだ。…予定変更。
子供が死んで、泣き叫ぶ両親の姿が見てみたい。
あと三歩も歩けばすれ違う。
私は左手に力を込める。
すっと、爪の先が尖った。
あと二歩。一歩。すれ違い様、私の左手は鞭のようにしなる。
――そんな夢を見て。
私はびくん、と身体を震わせて、起きた。
夢。
じわっと額に浮いている汗を手でぬぐう。
周りを見渡すと、乗客はすべて眠っていた。…起こしたりしなくて良かった。
でも知ってる。
これは単なる夢じゃなくて真希の記憶。
…真希。
そっと呼びかけても、真希は起きなかった。
大丈夫だよね。こんなの、はるか昔の思い出話だし。右手で左手首をつかみながら
そう自分を言いきかした。
時間は一時をまわったばっかりで、まだまだ京都は遠い。
胸に残る嫌な気持ちに気づかない振りをしながら、私はまた目を閉じた。
左手の手首をつかんだままで――。
第一部 完了