矢口さんとの電話を切ってから、ひとみちゃんは考え込むような顔つきでしば
らく黙っていました。腕を組んで、そう。視線をちょっと落として。
私には、わかる。ひとみちゃんがそうして、何を考えているのか。矢口さんに
対して、ありがとうって思う気持ちと、すみませんって思う気持ちが、心の中
で行ったり来たりしてるのよね。私もそう。結婚の噂が本当だったっていうの
も、やっぱりショックだよ‥矢口さん、有能だもの‥。
この頃になると私はもう、ひとみちゃんの考え方とか、感情の起伏とか、そう
いったモノをだいたい読み取れるようになっていました。私だってすごく分か
りやすい方だから、きっと、ひとみちゃんも同じ。信頼、そういう意識が、私
たちの中に確実に根ざして来ていました。いろいろな事を乗り越えて私達は、
これからもきっと上手くやって行けるのでしょう。
後藤真希ちゃんと出会ったのが、良い事なのか、悪い事なのか、この時の私達
にはまだ、はっきりと解らなかった。(でもやっぱり、アイドルってかわいい
なー、と思いました。)昨日、真希ちゃんが現れて、それからいろいろ話して
いる間に、ひとみちゃんの目は、なんだかポーっとしてた。ひとみちゃんは見
栄っ張りだし、表情をあまり変えない方だから、真希ちゃんにも加護ちゃんに
も、その幸福は多分バレてないと思うけど、私にはわかるよ。すごく嬉しいん
でしょ?
でも私はなぜか、それで良いと思いました。真希ちゃんに見つめられて、照れ
て、でもとても楽しそうな瞳の輝きに正直、嫉妬しないかと言えば、それは嘘
になります。でも私はお姉さんだし(ある意味本当に)、それにひとみちゃん
がどれだけ私の事を大切に思ってくれているのか、ちゃんと知っていたから、
だから平気。許せる。
ひとみちゃんには私、いっぱい苦労をかけたから、これはきっと頑張ってる
ひとみちゃんへの、神様がくれたご褒美なのだと思います。
でも私にも、ちゃんと優しくしてね。
真希ちゃんがいいコで良かったね。
携帯を床に置いたひとみちゃんは、黙り込んでいろいろ考えているみたいでした。
しばらくして私は離れて、置いてあった雑誌をパラパラめくりました。加護ちゃ
んが多分、ゆうべこの広い部屋に忘れていったのだと思います。雑誌はテレビの
脇に、ポツリと放置されたように置いてありました。
アイドル雑誌だったから、やっぱり真希ちゃんは載っていた。それどころか、大
きな特集を組まれていました。ティーン向けだから扱いは、ワイドショーなどと
やはり違います。カリスマとしてもてはやされ、陰口の類いはまるで見あたりま
せん。
大きな見開きのページには、真希ちゃんが珍しく、シンプルなシャツを着せられ
て映っていました。テレビなどで良く見慣れた普段のカッコいい真希ちゃんもい
いけれど、こういう清楚な雰囲気も本当はよく似合うんだな‥。と、感心してい
た時、ふと、思い出しました。真希ちゃんを叩いている雑誌のうちの、特に有名
なものの一つと、このアイドル雑誌の出版社が、確か同じだったこと。大きな会
社だったし2つともとても有名な雑誌だから、私にもわかりました。父と家に住
んでいた頃、この2つが並んだ新聞の広告を目にした事が何度もあるんです。
「キャッ。」
私はびっくりして、声を上げてしまいました。立ち上がったひとみちゃんが、歩
いて来て、突然うしろから覆いかぶさってきたからでした。
「もう、何かヒトコト言ってよ。びっくりするじゃない。」
ひとみちゃんは無言でため息をつきます。私の横の髪の毛が、サラサラと少し揺
れました。
「ひとみちゃんさー、」
肩に絡んだ長い腕に、私は自分の手を重ねて。
「考えたって、今の私達にはできる事がないんだわ。なりゆきに任せるしか‥。
好意は素直に受け取っておこうよ?ていうか。それしかなくない‥?」
「‥そうなんだよね。」
ひとみちゃんも解ってはいるようです。
「でも、そうやって何でも真剣に考えちゃうトコも、結構好き。ホラ、テレビでも
見よう?」
側にあったリモコンに手をのばすと、私の肩口からひとみちゃんが顔を上げました。
ウィンと軽く唸ってテレビの電源が入り、すぐににぎやかな音声が辺りを満たし始
めます。かわりに、それまで絶えず聞こえていた部屋の空調の回転音が、全くどこ
かへ消えてしまい、やがてそれすら忘れた頃に、真希ちゃんのCMが流れました。
2人して、しばらくテレビを眺めていました。昼間だし、あまり面白そうなのは
やっていなかったけれど、他に特にやる事もなかったんです。この建物をでるのも
やっぱり危険だし‥。でもバーにいた時も、私達は昼のあいだよくこんなふうに過
ごしていたわ‥、環境変わっても、あんまり生活変わらないね、って、ちょっとおも
しろくなって、横のひとみちゃんを見てみると、ひとみちゃんはそれに気付いた。
「なに?」
って不思議そうに。ふふ。
「なんでもない。」
って、もっとニコニコ。
すると、
「梨華ちゃんてさー、どんどん変わっていくよね。前からおかしいと思っていたけ
ど、最近ますますヘン。」
って、ひとみちゃんが笑ったから、私はまた嬉しくなった。
いろいろ難しく考えるのを、私はもうやめました。
ただひとみちゃんと一緒に行くだけ。
ひとみちゃんは考えるのを多分やめられないだろうから、私達はそう、きっとそういう
役割分担なんでしょう。笑っている私を見て、ひとみちゃんはきっと救われ、私の事を
もっと好きになると思います。そうでしょう、ひとみちゃん。
(笑っているワタシが好きなんでしょう。ひとみちゃん。エ、そう言ってみなさいよ。)
って、言ってみたかったけど、やっぱりやめておきました。
真希ちゃんが何時の間にか、部屋の入り口に立っていて、それは昨夜の登場の仕方
にとてもよく似ていました。違う所といえば、昨日はもう暗かったこと。今はまだ
明るい。
この部屋の特徴的な壁紙は昼間、部屋全体をさらに眩しく明るく見せ、それでも入り
口の扉は北の方角についているから、彼女がいま立つ付近は少しうす暗いのだけれど。
「ただいま。」
って笑う真希ちゃんが壁の山脈や虹と妙にマッチしていて、私は一瞬、これはポスター
か何かだろうかと、一瞬目を疑った程です。
「おかえり、‥!」
そうひとみちゃんは言ったけど、私と同じで、さっきまでテレビとか雑誌の中にいた
真希ちゃんに、やっぱりちょっと落ち着かないみたい。
やっぱり、すごく不思議なカンジ。昨夜の出来事は嘘ではなく、ここがG教なのもまた
嘘じゃない。真希ちゃんを見ていると、現実と非現実が私達の場合、いったいどこから
逆転してしまったのか‥、と、そういう不思議な感情が巡ったりしました。
私達の様子を特に気にするわけでもなく、
「腹減った〜ン。」
などと言いながら、真希ちゃんはずんずん近付いて来ます。私達の横に来て、ぺたり
と腰を下ろします。まるで蝶の鱗粉のように、自分がオーラをまき散らしていること、
それに彼女自身、一体気づいているのでしょうか?
きらきらした残像を目で追いかけていたひとみちゃんはやがて、不器用に言いました。
「あ、ええと。早いんだね、なんか。もっと遅くなるのかと思ってた。」
「今日は本部に行ってきただけ。あとはオフよん。」
「加護ちゃんは?」
と、私がたずねると
「あのコは今日ずっと仕事。でも、そんなに遅くなんないんじゃないかなー。それより
そうめん食べる?」
と、逆に聞き返されちゃいました。
最上階の広大な部屋のとなりは、意外なことに、まるで新築のマンションのようなスペ
ースが設けてありました。壁紙の部屋を出て、ピカピカの木の廊下を歩くと、ベージュ
に塗られた鉄の扉が。真希ちゃんについて中に入ると、また別な素材の廊下が伸びて、
奥には、洋風と和風を足して割ったような居間。そしてきれいなキッチン。
「へえー‥。」
と驚いて、私達が感心していたら、
「へへ。いいでしょ。」
と、真希ちゃんは楽しそうに笑いました。
「頼んで作ってもらったんだ。自分で料理つくって、よくココで食べるよ。私。ま、メン
ドクサイ時は下の人に作ってもらうけど。でもたいがいココに運んでもらうなー。あいぼん
がいる時は一緒に食べるし、いない時はひとりで食べる。落ち着くのよ〜。」
置いてあるインテリアの類い、その全てがとても高価であると私はすぐに気付きまし
た。真希ちゃんの為に用意されたスペース。ある程度は予想できたはずなのに、それは
あまりにも豪華で、嫌味なく上品で。
何気なく壁にかけられた絵も、空間を仕切る柱も、出された座布団と湯呑み、全てがそう、
完璧で本物。その完全な、主張し過ぎない調和。
けれど、これら最高峰の調和の中において、最も高級で、最も完成された存在は、真希
ちゃん自身でした。腕に注射痕がいくつもある事に、私だって気付いてた筈なのに、私は
そう直感しました。
真希ちゃんこそが、王女。
王女がそうめんを茹でてるんだわ。