「矢口さん、ケッコン‥-----、」
「今、どこにいるの?」
お互いの関心はお互いの安否。要するに。らしくない矢口さんの珍しく頑なな口調
で、私の質問がかき消されてしまった。
矢口さんは人気者で、もともと多忙な人物だ。婚約したという現在は聞くところに
よると習い事が増えてなおさら。このところ音信不通だったが、昨晩私達が家に帰
らなかったことを、おそらくどこからか聞いたんだろう。
忙しいはずなのに昨日の今日でさっそく電話してきた矢口さんの愛というか、一定
以上の感情を普段ならつとめて隠そうとする、そんな矢口さんが向けてくれる私達
への好意を、改めて私は噛みしめずにはいられなかった。
こみあげる感謝と親愛の気持ちを私は特にそうする必要もないのに、照れ隠しの苦
笑に変えて通話口の奥へと送った。
私の折り畳んだ膝に無意識に手をついた梨華は、矢口さんと私のそんなやりとりを
真剣なおももちで見守っている。
「もう知ってるんですか。矢口さん早いなー。」
「ちょっとした用があって、昨日マスターに電話したんだよ。それで聞いた、帰っ
てないらしい、って。正確にはバーテンが騒いでたみたいなんだけどね。『部屋の
明かりがついてない!!』ってさ。」
ああ、心配してるんだろうなー‥、と少し胸が痛んだ。昨日、私達は仕事が休みだっ
たけれども、もともと私達は夜遊びをあまりしない。仕事のない夜はたいがい部屋で
過ごしていることを、おせっかいなバーテンは知っていた。
「とにかく‥、無事なの!?」
世話になったあの店を思い出して私がしばらく黙り込んでいると、矢口さんの口調
に心配している様子が強くあらわれた。
「‥はい。」
「どこにいるの?‥外?」
「いえ‥。快適な‥、室内です。今は、‥安全です。」
場所は、しばらくはまだ言わない方が良いと判断した。
「矢口さん、」
私は深呼吸をして、問われる前に話を始めた。
「昨日、警察って名乗る人に、ウチら、いろいろ絡まれて‥。家を出てすぐくらい
から、ずっと後を‥、尾けられてたみたいです‥。手帳とか見せられて、なんか本物
っぽかったし、きっとホンモノの刑事なんだと、私は、思ったんですけど。」
「う‥ん。」
理由を聞いた矢口さんもやっぱり戸惑ったみたいだった。言葉としては冷静なものが
返って来たのだけれど、発声の仕方が矢口さんとしてはぎこちなかった。
「でも、逮捕っていう雰囲気じゃなくて、なんていうか、狩られる‥っていうか、
追い詰めて、楽しんでる、みたいな‥。ヘンなチンピラっぽい若い仲間連れてたし、
とにかく気味が悪いんです。」
「それで‥?」
「それから‥。私達のこと‥、随分知ってるみたいでした‥。」
能面のようだった男の顔を思い出した私は、話ながらいつのまにか汗をかいていた。
いったん言葉を切って額を拭うと、眉間に皺をよせた梨華の顔が目の前にはあった。
私の膝の上にある華奢な梨華の手は先程から固く握りしめられていたが、私と目が
合った瞬間に梨華はハッとして、思い出したようにその力をゆるめた。
私はいちど息を吸った。
「ねえ、矢口さん‥。」
「何?」
「私ヒトを、撃っちゃいましたよ‥。昨日‥。」
矢口さんは何も言わない。
「でも不思議と、後悔してないんです‥。」
「‥そう。」
ほんのしばらく黙ったあと、矢口さんはそれだけ答えた。
私からも梨華からも、それに電話の向こうの矢口さんからも、不思議な程何も言葉が
出なかった。みんなそれぞれに考え込んで、次に何を言うべきなのか、探していた。
それ程長くもないけれども、かと言って決して短くなかった沈黙を、最初に破って
くれたのは、やっぱり頼りになる矢口さんだ。それでもその声は暗くて、そしてそれ
なのに良く透き通っていた。
「わかった‥。じゃあ、あのバーにはしばらく戻れないんだね‥。」
(おそらく永遠に‥、という事をお互い知っていたけれど、口に出さなかった。)
「はい‥。」
「うん‥。ヤグチからそう伝えておくよ。心配しないで。しっかりやる。」
「忙しいのに、ありがとうございます。私達が近付くと、皆に多分迷惑がかかります。」
「そうだね‥。」
それから矢口さんは、テキパキと物事を決めていった。声が低く多少重苦しいほかは、
矢口さんの口調に目立った澱みはなかった。
「とりあえず車は、ヤグチの家にこのまま置いといてあげる。」
「部屋の荷物は、処分してもらえるようにオーナーに頼んでおくよ。‥いい?」
「お金は、ヤグチの家に持って来るようにしとく。ハハ。一枚くらいはくすねちゃ
うかもね。嘘。安心して。他に、持って来て欲しい貴重品があれば‥。」
「一度、折りを見て会おう。その時、預かってたモノ、もろもろを渡すよ。それで
いいかな。」
矢口さんのこれら献身的とも言える提案を聞いている間、私は少なからず戸惑って
いた。矢口さんはなぜ、こんなに優しいのだろうか。これほどまでに良くしてもら
える何かを、過去私達は矢口さんにしたのだろうか? わからなかった。
「矢口さん‥、なんで‥、」
「なんでって?」
「こんなにいろいろしてもらって‥、ウチら、正直、恩返しできるかどうか‥。
不安です。」
受話口から漏れ聞こえる言葉を、梨華も、多少なりとも拾っている。
チラリと窺うと、梨華は瞳を伏せている。
「そんなコト、今は考えてる場合じゃないよ。だって、ヤグチがそうしなかったら、
よっすぃーたち、すごく困るでしょう?」
「‥ハイ。」
正論。
「ヤグチがこういう事するの、イチバン合理的じゃん。誰も困らない。みんな助かる。
そうじゃない?」
「それは、そうですけど‥。でも、矢口さんは‥?忙しいんじゃないんですか?」
「まあね、忙しいよ?」
「そもそも、結婚するって本当ですか?」
すると、矢口さんはけたたましく笑った。随分久しぶりに聞いた、矢口さんの大きな
笑い声だった。私はびっくりして、何がそんなに可笑しいのかさっぱり見当もつかな
いまま、携帯を少し、耳から離した。
「やっぱ知ってるんだ!? ちょっと、‥モシモシ!?」
「‥ハイ。」
矢口さんの声から笑いは消えない。
「ちょっと待って。順を追って話させて、イイ?‥ああおかしい。」
「何がですか。笑いごとじゃないじゃないですか。」
「そうだね、わらいごとじゃないね。」
笑いながら矢口さんは咳き込み、それを押さえ込むように静かに息をついた。
「結婚するのは、本当。」
それから、妙に落ち着いた声が聞こえた。
直接本人から聞くと、やっぱりちょっとくるモノがあった。
その正体が何なのかは、自分でも、説明できないのだけれど。
「今、花嫁修行やらなにやらで、ものすごく、忙しい。勉強も‥、頑張って点取ら
なきゃいけないし。正直遊んでるヒマないけど、そもそもこれは遊びじゃないじゃん。
よっすぃーたち今、矢口が必要でしょ?ならやるよ。それくらいの時間、取れるよ。」
「でも‥。」
「そのかわり、会っていろいろ渡せるのは、ちょっと先になっちゃうかも知れない。
いつ会ったりできるかは、まだはっきりとは解らない。予定が開いたら、こっちから
連絡するよ。よっすぃー達にも、リスクはある。ヤグチが言ってるのって、その程度
の事だよ?どう、納得した?」
私はそれでも躊躇っていた。それを軽く笑い飛ばした矢口さんはその後、再び神妙な
口調に戻る。
「バーにはやっぱり‥、直接連絡するのはやめたほうがいいかもね‥。大丈夫。あの
人たちは優しいよ‥、詮索なんかしない。時々人が消えたりとか‥。そういうことも
あるって、ちゃんと知ってるもん。」
直後、受話器の奥から鐘の音が響き、会話中ずっと矢口さんを包んでいた背後の喧噪が、
ひときわ激しくなった。
「あ、予鈴。」
そう言った矢口さんに私は慌ててお礼を言って、切る前に、もう一度だけ聞いた。
どうして、そんなに?
つまり、良くしてくれるのか。
自分でも、よくわからない-----。
それが矢口さんの答えだった。