【菊菊菊】JA愛知みなみ特秀菊グループ【菊菊菊】

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198名無しさん@お腹いっぱい。
170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 11:11:38
今から約1200年前、当時はまだ矢作古川の河口であった西尾市天竹町に、崑崙(こんろん)人の乗った1艘の小船が流れ着きました。
船に乗っていたのは、1人の天竺人(インド人)、壺に入った綿の種と一弦琴を携えていたといいます。やがて天竺人は、村人たちに棉の栽培を教え、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予など各地に広がりました。
三河木綿は、国内の木棉生産の一大産地として栄えました。
「日本後記」「類聚国史」「大日本史」にも記されています。
絹の波陀(はた)神に対し、新しい棉の神様ということで新波陀神とされています。

http://www.geocities.jp/matukijimahatimansya/tenjiku.html


171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 11:15:17
。“ガラ紡機は明治6年に長野県の僧、臥雲辰致(がうんたっち)により発明されました。
太く柔らかいもめんの糸を紡ぐ日本固有の紡績機であり、
当時有数の綿花栽培地であった愛知県矢作川周辺で発達しました。
原料を下の綿筒に入れ回転させて糸を撚りだし、糸巻機に巻き取ります。
動力を用いるものとしては最も簡単なもので、当時は船に水車を取り付け、
川の水流を利用していたので「船紡」とも呼ばれています”
という説明がありました
(筒が回転するときに、ガラガラと音をたてるのでガラ紡というそうです)。

http://www.nises.affrc.go.jp/pub/silkwave/silkmuseum/TKYTuta/TUTA.htm
199名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 00:54:58
170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 11:11:38
今から約1200年前、当時はまだ矢作古川の河口であった西尾市天竹町に、崑崙(こんろん)人の乗った1艘の小船が流れ着きました。
船に乗っていたのは、1人の天竺人(インド人)、壺に入った綿の種と一弦琴を携えていたといいます。やがて天竺人は、村人たちに棉の栽培を教え、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予など各地に広がりました。
三河木綿は、国内の木棉生産の一大産地として栄えました。
「日本後記」「類聚国史」「大日本史」にも記されています。
絹の波陀(はた)神に対し、新しい棉の神様ということで新波陀神とされています。

http://www.geocities.jp/matukijimahatimansya/tenjiku.html


171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 11:15:17
。“ガラ紡機は明治6年に長野県の僧、臥雲辰致(がうんたっち)により発明されました。
太く柔らかいもめんの糸を紡ぐ日本固有の紡績機であり、
当時有数の綿花栽培地であった愛知県矢作川周辺で発達しました。
原料を下の綿筒に入れ回転させて糸を撚りだし、糸巻機に巻き取ります。
動力を用いるものとしては最も簡単なもので、当時は船に水車を取り付け、
川の水流を利用していたので「船紡」とも呼ばれています”
という説明がありました
(筒が回転するときに、ガラガラと音をたてるのでガラ紡というそうです)。

http://www.nises.affrc.go.jp/pub/silkwave/silkmuseum/TKYTuta/TUTA.htm