菅野美穂 part27 [転載禁止]©2ch.net

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829名無しさん@お腹いっぱい。
『流行歌です、――流行歌ですが、僕のはありふれた流行歌ではないんです。必ずヒットしなければならぬ、という
論理的に割出された曲なんですよ…… ところが、その男は、至極(しごく)真面目な顔をしていうのであった。
 流行歌の数(すう)は、実に夥(おびただ)しいものです。しかしその結果、どこかで使われたメロディが、他の歌
にちょいちょい出て来ます(これはあなたも既にお気づきでしょうが)それはそうなるべきで、人間の声に限度があり、
テンポにも制限があるとすれば、いつかは作曲も、殊に流行歌なんてものはメロディが割に単純なもんだから、じきに
種切れになるわけじゃないでしょうか、だから、流行歌のようなものには、他で一度ヒットしたメロディが、屡々(しばしば
)、編曲という名で現われたり、或はその一部が使われたり、甚(はなはだ)しいのになると、その儘(まま)、又はテンポ
だけ違えて新しいもののように、使われたりしてしまうのです。どうですお解りでしょう、それで僕は、すべての場合のメ
ロディを、総(すべ)ての場合のテンポで著作権をとってやろうと考えたんですよ……、だから僕はすべての流行歌を分
析し演繹し、帰納しようとかかっているんです』 男は猶(なお)も熱して、その奇妙な話を続けた。
『あなたは「都々逸(どどいつ)」が採譜(さいふ)の出来ないことを知っていられますか、謡曲も採譜が出来
ません、あれは耳から耳へ伝わっている曲で、同じ「ア」という音(おん)を引伸ばしながら、微妙な音の高低があるん
です。ですから「都々逸」をピアノで弾くとしてご覧なさい、実におかしなものですよ、そう思って聴けばそうも聞え
る、といった程度のものしか再現出来ないのです。これはピアノには半音しかないということが、その原因の第一
だと思われます、だから私はその微妙なメロディを採りいれる為に、四分音を弾けるピアノを特に作ったんですよ
……』 彼はそういい乍(なが)ら、つと立ってピアノの鍵盤を開けた。なるほどそこには白いキーと、黒いーと

、も一つ、緑色(りょくしょく)に塗られたキーとが、重なりあって、羊羹箱(ようかんばこ)を並べたように艶々(つやつ
や)と並んでい、見馴れぬせいか、ひどく奇異な感じを与えていた。
 ――私は、先刻(さっき)から、このなんとも批評の仕様もない、狂気染(きちがいじ)みた夢物語に、半ば唖然(あ
ぜん)として、眼ばかりぱちぱちさせていた。
 軈(やが)て、学式を満足させるようなものを合成すればいい訳ですが、ところが化学式には「弾力」というものが表
わせません、ゴムの生命ともいっていい弾力が表わせないんです、それが合成して目出度(めでた)く出来上ったも
のは、一見ゴムみたいなものでありながら、弾力のない、くだらぬものでしかなかった、
『どうです、あなたはどう思いますか』
 その男は、覗込(のぞきこ)むように、私の顔を見上げた。
『なるほど……、よくわかりました、しかし、そういってはなんですが、あなたの努力は、結局は無駄じゃないんでしょ
うか』
『無駄――。駄目だというんですね、ナゼ、なぜですか』
 彼は、眼を光らせて私のそばに膝を寄せて来た。その膝は気のせいか、かすかに顫(ふる)えていた。
『いや、駄目だというのではありません、でも、非常に困難なものだろうと思うんです。流行歌の分析と組立てという
のは、大変に面白いのですが、しかし、こういう話があるんですよ、今、日本で切実に求められているのはゴムです
、人造ゴムの製法ですよ、それでそれを専門に研究している人が沢山にいるそうですが、どうもうまく行かんそうです
、それはゴムを分析して、ゴムを形成している元素に分析して、斯(こ)うでなければならぬ、という十分の化学式を発
見(みつけ)ます。それは既に発見られたのです、だから、その化学式を満足させるようなものを合成すればいい訳
ですが、ところが化学式には「弾力」というものが表わせません、ゴムの生命というものにはひどい疑惑をもっている
んです、流行というのは、恰度(ちょうど)恋愛みたいなもので、その時は最上無二のように思われるんですが、さて
、あとから見てどうでしょう……』
『君』

 その男は、激しく私の言葉を遮った。
『君、しかし誰が僕の作曲した歌を唄うと思っているんですか、僕が、僕がすべてを抛(なげう)ってこんなに苦しみ
通しているのは誰の為にだと思うんです、彼女、彼女のために、ですよ、彼女は実に素晴らしい声を持っているん
ですぜ、その合成ゴムに於(お)ける弾力とかいう奴を、彼女は十二分に持っているんです……全然、あなたの危
惧(きもいっていい弾力が表わせないんです、それが