高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
鬼だ鬼女だ、魔王だ魔女だ、修羅だ化け物だ、どうとでも言うがいい。
ただ僕は、人間が太古の原初から連綿と続けてきた営みを、
処女膜破損だ子宮内膜破損だといった、ひた隠しにされたり
開き直って正当化されてきた領域を、さほどでもなく
ゴロリと投げ出した上で、それらの破損と破損の内奥に、
隠したり正当化するまでもなく正当な領域があることを指摘しているだけだ。
都知事のように小説にするでもなく、またディラックのように概念化するでもなく、
ただ、器質的な女が子供を作る以上は、まさに不可避に体験をする
その瞬間、落日の手前の激力、受精をただ受精として指摘しているのみ。
少しだけ、ほんの少しだけ言葉を飾れば、アマテラスの正午とも言えなくもない。
物量投入を追い求めるまでもなくあるんだ、確かに。
ノルマンディーや911、広島や長崎をも超える破壊と、それをも凌駕する、
台北101やブルジュ・ドバイ、東京湾や大阪湾の沿岸整備をも超える構築が。
何億匹、何十億匹という「人間候補」を犠牲にした上で、
たった一人か、せいぜい数人程度の人間を生み出して、しかもその一人二人が
今後の何億、何十億というさらなる犠牲競争の立役者としても成長していく。
希薄化された精神性の代表としての人間の寄せ集め、そこで成される
物量的な体系構築、ピラミッドに教会に高層ビル、豪華絢爛の限りを尽くした
所でそれらの体系構築を司る一人一人の人間もまた何億何十億という犠牲の
“下”で初めて成り立っている、他にかけがえのない個別的な人間である。
個別的な人間といっても、「個人」ではない。人間が個別化される上での
最低限の単位は二人、男女とか夫婦とか父母とか。呼ばれ方は多少は違っても
ある種の営みを不可避に要する一対の人間性。寄せ集められたことにより
個々には希薄化された群集などよりも遥かなる密度と高貴さをもってある
破壊と構築の自己完結装置、全てと全ての始まりの始まりによるひとしなみ。
あくまで「受精」であって、「受胎」ではない。受胎はただ、
これから母胎(子宮内膜)が損傷されていく取っ掛かりでしかない。
故に「受胎告知」を大層な絵画としたダ・ヴィンチもまた切り捨てられる。
社会的に偉大であるとされていた者であればあるほど、最後のほうまで
生き残った上で脱落していく。優秀だが卵までは辿りつけなかった精子。
酔う――別に今飲んでるわけじゃないんだが、心的に酔わされる。
その領域について書くこと、その領域を計り知ろうとすること、
その領域を感じ取ろうとすることが、“中てられた”ような気分になる。
人生の大半を不幸の処理に費やす男にとっては、過剰すぎて素直に
受け入れられないほどの・・・幸福?
正当性の起源、誠意の起源、道徳の起源がそこにあるというのなら、
正当であったり、誠意的であったり、道徳的であったりすることは偏に
真なる幸福を目指すことではないか? あらゆる幸福の起源ではないか?
ちょうど犯罪的寓意的不当性が、不幸と起源を共するのと同じように。
いやむしろ、幸福こそが先にあったのであり、その幸福を不幸によって
水増しさせたのが今の大部分の体系構築的な世界ではないだろうか?
日本人は、誠意を追求するあまりの逆説を好む。
例えばマリ子もそうだが、日本の女性名に使われる「〜子」という末尾。
美智子さまに雅子さまに愛子さま、今でこそさほどでもないが、数十年前に大流行した、
これは「女ですら母のお腹を痛めて生まれてきた子」だという、女に対してまでの誠意的逆説的命名。
痛めて痛められる、罪と罰との相殺だとする謙遜(男にはその権利すらないが)。
ウケヒの受精の描写も、実際の受精とは異なる。卵も噛み噛みできるほど大きかないし、
精子も目視できないほどに小さい。じゃああの描写はなんなのかってえと、
たぶん女の生殖能力を男の睾丸(金玉)に見立てて、そこにスサノオが執拗に
かじり付くことでもって受精が確立されるっちゅー、精一杯の誠意的逆説的描写。
もしかしたら死んだ女の身体を解剖して、内側にある卵巣とかを見て「玉」だと思ったのかもしらんが、
まあ、そんなこたないだろう、日本人、解剖なんて下衆なことしないし(杉田玄白までは)、
仮にしたとても卵巣で受精が行われてるわけでもないし、精一杯誠意的想像を尽した姿を
隠さず見せて分からせた描写がああだっていう、それだけで上等な話だ。
寓意的想像よりも誠意的実践が上なのはもちろんだが、
寓意的実践よりも誠意的想像のほうがまだ上だ。故に、
寓意的実践<寓意的想像<誠意的想像<誠意的実践
である。常に寓意よりも誠意が上である上に、寓意と誠意は
本質的に相反するので、寓意を実践するよりゃ想像に
留めてたほうがまだマシ。故に寓意を実践するユダヤや
プロテスタントよりも、想像に留める正教やカトリックのほうが
まだ比較的マシだと述べている。あくまで寓意の範疇でだ。
記紀もただの書物としてみる以上はただの想像に過ぎない
が、天皇家という実践者がいるからこそただの想像を超える。
想像実践共に精一杯の誠意である、世界的にも唯一無二の。
仏道や儒道などの大陸の誠意的想像や実践をも凌駕する。
ただ、多少の例外はある。孟子の易姓革命論とかは、万世
一系の皇統のあり方に反する。最も天皇家に姓はないがな。
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/23(土) 15:56:37 ID:iQwtzGK+0
この人一日中部屋に引きこもって文章書いてるのかなぁ
可哀相な人だな
(ヒトんちでの宴会の合間に携帯から)
事実そうでないし、そうだとしても仕事だと思えばどうってことないが、
そんなに素晴らしいことだろうか? 「外向型」や「積分」が。
「内向型」や「微分」にあからさまな優位を示したり、
「どっちもいっしょ」だなんてひとしなみにすることに
「絶対にそうであらなければならない」と
思うほどの義務感があるんだろうか?
こっちにはあるんだが。
「絶対にそうであってはならない」という義務感が。
故にこそ自分やマリ子こそが、固有なひとしなみの権利者たるという確固たる自覚が。
義務の後にこそある権利(欲求)が。
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/23(土) 20:18:13 ID:iQwtzGK+0
わざわざ携帯でしかも「ひとんちから」だってwwwwwwwwwwwwwww
爆笑www この時期宴会なんてやらないだろうw
ホントに引きこもりなんだねwww
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/23(土) 21:52:47 ID:/TKKIYQTO
高橋まるこのことお話しようよ おじちゃん
普通の人間からすれば、完全に化け物な領域へ踏み込む用意
ウケヒの勝者は、果たしてどちらか?
体裁上は、スサノオが主張している。
「自分の物実からかわいらしい女の子が生まれたから勝ちだ」云々。
それに対しアマテラスは特に反論するでもない。
直後にスサノオが働いた暴挙にも特に怒ることなく、優しく弁護してあげる。
気付いている、この時もうすでに、おそらく、
わざわざ勝ちだ負けだと主張するまでもない、己の優位が確立されたことに、
子供まで作っておいて、未だに子供っぽさを捨て切れずいる「我が汝弟の命」
を絶対的な優位の視点から見守れるほどに。
己の真の器量に気付く。
「優位」であるということは「優しい」ということ、その起源譚かもしれない。
故にこそアマテラスを祖神とした天皇家の絶対的優位を確立した起源ともなる。
ダテに祖神をアマテラスとしているわけじゃない模様、天皇家も。
「寿命が“まだ”ない」という設定なので、
アマテラスにもスサノオにも死亡譚がないし、もちろん墓もない。
記述そのものは質素であるにしろ、ヘレネやヘラクレスのような半神半人
でもない、明確な神の業である、人間的な生死などとは無縁な。
隠さず見せて分からせる限りにおいては、それで構わないのである。
生きるだけ生きて死ぬときには死ぬ者の生死をわざわざ強調する必要など、どこにも。
隠して見せず分からせない領域――穢れ、生も死もその範疇に留めおく、まだ。
ヘレネにも死亡譚はないが、代わりに閉経したっぽい話がオデュッセイアに載っている。
実父がギリシャ神話の最高神ゼウスであると言われているにもかかわらず。
隠さず見せて分からせる領域にそれがある、穢れでない、正当なものであると、
絶世の美女にも死の影は迫り来るものだとわざわざ隠さずに見せて分からせようとする。
卑屈な人間がわざわざ物事を書き留める起源の一つではあるだろう。
ホメロス自身でもないっぽい。またホメロスだったからってどうってこともない。
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 14:41:11 ID:j4ue/SO2O
分裂病患者さんですか?
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 16:12:31 ID:P/Y2gmaf0
この人は間違いなく分裂病。言ってることが支離滅裂
東洋が正当で西洋が不当です。
不当なものや正当不当のみそくそが
正当を蔑ろにするのを許しません。それだけです。
どこまでも完全に厳密に、間違いなくそれだけ。
会うとすれば、やはり街中でしかありえない。ウチに押しかけてでも来ない限りは。
今までにも何度かあった「街中で偶然会う」ということ、東京でもこちらでも。
人類史上最大の都市やこんな片田舎などで、大手企業や出版社との契約も多数こなしている
“芸能有名人”と五回も十回も会うような事態がすでにイかれてる。明らかなわざと。
それも相当なあくどい手口を用いてもいるはずの。トポグラフィとか偵察衛星とか(あくまで推測)。
そこまでやっといて、今さら街中に“溶け込む”ようなロケーションを演出しようだなんていう
姿勢がすでに欺瞞以外の何物でもなく、故にこそ街中に溶け込んでいるような状態の
あなたにこちらが不用意に声をかけるわけにもいかない、というよりもいけない。
隠さず見せて分からせているにはそれなりの、隠さず見せて分からせる責任がある。
イケメンズピアスだドクロマークだピースマークだなどといった、主体的無責任性とは明確に
かけ離れた、分離的な根本的存在性、形態の美醜を究める芸能的肖像装飾のアイコンとしての責任が。
その中にこそウケヒもまたある。ゼクシイとたまごクラブの内側(たまごクラブは多少内包している)
にある、人類の奥儀を隠さず見せて分からせること、形態の美醜を究める芸能的肖像装飾のもとで。
とはいえ決して“言葉を飾る”ものではない、少なくとも積極的には。ウケヒの中に確かに入っている
性交を、例えば「交際」や「結婚」なんていう言葉で正当化しようなんていう気も一切ない。のみならず
今までの女性が自分たちの正当性の要であると考えていた妊娠や出産にすら、正当化を認めるものではない。
性交に妊娠に出産、それらはただ、父となる男や子となる胎児新生児によって、処女であったりした
女体(特に処女膜)や母になる母体(特に子宮内膜)を破損壊滅させるだけの、あくまで父や子にとっての
安心満足でしかないのだということを強く主張(定立)した上で、“にもかかわらずではなくだからこそ”の、
受精第一射精第二姦淫第三の第二倒立論理(紫山の論理)に基づく、道徳的誠意的正当性の起源であり、
またあらゆる幸福の起源でもある 受 精 の正当性を、万人に隠さず見せて分からせるものである。
マリ子とも共演歴のある黒澤優は、結婚や出産を期に芸能活動を自粛引退した。これは性交妊娠出産なんていう
普通にはわざわざ人さまに見せるようなものでもない家族生活を、実際に積極的に公示しないという順当な論理、
第〇論理(常識の論理)でもって消極的に主張するもんである。マリ子もおそらくそれに則ろうとしていたの
だろう(だから街中に溶け込むような会い方を今までしてきた)。でもそれは違うのだ。特にマリ子にとっては。
前提が非常識な領域で常識を通そうとするのは脆弱である。それは成功や妊娠や出産、それら自体をそのまま
“にもかかわらずではなくだからこそ”の第一倒立論理(姦淫第一射精第二受精第三のユダヤの論理)に付す
体系構築的な社会性の荒波に抗いきれるものではない。かといってそのような主体的無責任性の権化たる
第一倒立論理にマリ子や僕が従属することを許すものでもなく、そのような不当な論理のさらに内奥にある、
内向型であり微分でもある奥儀、ウケヒの第二倒立論理の下にこそ付するものである。ウケヒにもかかわらず
ではなくだからこそ隠さず見せて分からせる、高天原にある天の安の河のほとりにおいてすることである。
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 17:19:31 ID:j4ue/SO2O
いいたいことはなんとなくわかるけどさ、もっと簡単つ〜か普通に高橋マリ子の情報交換とか雑談したいな…
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 17:23:08 ID:P/Y2gmaf0
無理だよこの人プライドと自己顕示欲とコンプレックスの塊だもん
文章を2、3行にまとめることも出来ないんだよ?
会話なんて無理無理
別スレで言もったが、性交中の陰部の露出(剣を噛み噛み)や受精(玉を噛み噛み。
“授”精ではない)の観察は法的工学的に禁止されていて、(法を犯したりして)無理に
行おうとしたところで「隠さずに見せて分からせる」という健全性は保たれない。
故に「肉眼での目視」によってウケヒを隠さず見せて分からせることは不能である。
それでも隠さず見せて分からせる、どうやって? 簡単である、記紀を精読させることによって。
特に聖書みたいな、数理哲学的積分遊びの下で好き勝手やってきたような連中には重点的に。
これはどういうことかといえば、隠さず見せて分からせる、形態の美醜の追求による
芸能的肖像装飾の世界(高天原)にウケヒをしっかりと埋め込ませはするものの、
それをあくまで「顔」のような、健全な範疇で目視的に隠さず見せて分からせると共に、
「陰部」のような不健全な範疇は、記紀というガサツな殺伐の徹底処理の要そのものを
通じて、隠さず見せて分からせるということだ。繊細な和気藹々は繊細な和気藹々、
ガサツな殺伐はガサツな殺伐として隠さず見せて分からせる、正当不当のみそくそを
許さないのと同じく、繊細な和気藹々とガサツな殺伐のみそくそもまた許さない。
幸福の追求はあくまで器質的な女と共に、不幸の処理はあくまで器質的な男と共に。
性交妊娠出産を得ても何一つ物怖じせず、かといってそれらを開き直って正当化しよう
だなどともしない、ただ生きるだけ生きて死ぬときは死ぬ姿を隠さず見せて分からせる
上での、マリ子の芸能活動への本格復帰および永年継続をウケヒと共に促すものである。
肩をポンポン、「ねえ、あなたマリ子さんですか?」
「デヘヘヘヘ(ばつが悪そうな笑みを浮かべるマリ子)」
そういうのを期待してたんだろうし、こっちもそれを想定してたが
やっぱり違う、それは。もっと確信的でなければ。確信的天主でなければ。
今はまだ“器質的”にムリであるにしても、予定としてはそうなれる確信。
キーキーわめく処女神から、弟の不手際も優しめる最高太陽女神へ。
予定調和@道具仕掛けの噛み、じゃなくて神。
「授精自体」はまだである。「〜自体」の正当な頂点はあくまでまだ。
正当性の究極を目指す不可避な考え方、ドイツ人哲学者のカントによる。
故に書き続ける以上、カントはまだ一緒にいる、僕と共に。
カント“自体”が脱落したときに、授精自体もまたある。
書くことをやめたとき、不可避に器質的な授精への射精に向かうとき、
初めて真正に「これでよい(Es ist gut. カントの辞世の句)」となる。
主体副体と責任無責任が、乖離しているのみならず、相反している。
「センテンスが短すぎる」「文章を2、3行にまとめることもできない」
明らかに乖離相反矛盾している無責任な言及同士のほうが、社会的にはむしろ主体的であり、
言責(言及の責任)を保とうとする個別の人間のほうがむしろ副体的である。
「どうせ自分なんて」「迎合の中でこそ力を発揮してやる」
民主主義の名の下によるそれらの不当性への正当化が、さらなる拍車となって今に至る。
存在しなかった選択肢(例えば日本人にとってのピアスなど)を選択できることこそが
自由であり、独立していることだと思い込まされる、まさにそれらのような主体的無責任的な
選択肢を、無責任的副体的に企画開発している者どもによってこそ。
主体的無責任性が責任的副体性を蔑ろにすることで成り立っている今の世界。
主体的責任性と無責任的副体性同士の禅譲放伐によってのみ、終わりが終わり始まりが始まる。
(天皇家含む責任的副体性に追い込まれてる現東洋人には関係のないこと。その禅譲放伐自体)
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 20:14:33 ID:j4ue/SO2O
ようするにマリ子と一発やりてぇんだろ(-.-)y-~
それなら俺も同じだよ
孕ませてぇんだよ、社会的に、芸能的に正当に。
お前も同じか?
たとえば、耳の遠い爺さんが「きこえん」という。
明らかにきこえてるんだ。音響的な音や声としては、少なからず。だから返事もできる。
にもかかわらず「きこえん」ということは、音響的には“聞”こえても、
その具体的な意味内容が心に届いてこんということ、“聴”こえんということ。
それほどにも聴力が衰えてるか、もしくは聴こえない程にも遠い距離関係にいるか、
さもなくばもう聴こうとするほうがすでにボケちまってるか。
いま一番多いのは真ん中、そもそも聴き取れないほど遠い関係にある。
それこそお互いが「蚊」ほどの大きさにしか見えないほどにも。そんな距離関係で
聞こえ合ってた内容など、聴こえ合う距離関係では何の役にも立つはずがなく。
白兵戦によって殺し合える距離でこそ聴かそうとする言葉を。
芸能活動そのものを助ける気はないんだ。
ただ、己の芸能的素養としての 受 精 経験を付与しようということだ、マリ子に対して。
それに伴う性交妊娠出産経験は、むしろ“こちら側”のもの、言語的正当不当の側のもの。
形態の美醜を追求する芸能的肖像装飾にとっては、“醜”一本への追求に絞られる領域。
青テープ本の世界。“美”一本への追求に絞ってるマリ子などにとっちゃただ厭わしい領域。
だからって避けても通れない。人工授精は受精ではない、受精する以上は必要なこと。
繊細な和気藹々は繊細な和気藹々として、ガサツな殺伐はガサツな殺伐として、
それぞれの領域での分別をわきまえた上でのウケヒであり、それ以降のマリ子である。
スサノオによる破損壊滅を不可避に伴う、正午となったアマテラスたる。
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 21:22:01 ID:j4ue/SO2O
┐('〜`;)┌お手上げ〜〜
さいなら〜〜(/--)/
どうぞ精神分裂病者の独り言を書き続けてください
そういう「いたちの最後っ屁」みたいな書き込みもまた、主体的無責任性だし、
無責任的副体性だし、蚊ほどにしか見えない距離から聞かそうとすることだし。
きこえん
交際とか結婚とか――
寸止めである、刃引きしている、あるいは模造刀かも知れぬ、
仮にそうであったところで別に問題がない、交際や結婚は。
模造刀でなく、刃引きもしておらず、さらに寸止めですらない、
明らかに、真っ当に、正当に、斬り込むのである、卵にまで。
殺傷である、どんな物理的破壊よりも上にある破損壊滅、
あらゆる謀略的政治軍事経済力をも凌駕する(当たり前だ。
それらの力を形作る連中全てもまたそこから生まれている)、
究極の体系構築的破損壊滅、真剣真玉による勝負、ウケヒ。
あくまで自分たち自身が自分たち自身の世代で活躍するためにこそ行うウケヒ。
父母でも、夫婦でも、恋人同士でもない、アマテラスとスサノオ、姉と弟。
芸能活動については確かに姉弟になるが、別にこちらに積極的に芸能活動を
行う気はないし、そして実際問題として肉親関係にもない、姓も違っている。
子を作る上ではむしろアマテラスやスサノオたち自身よりも健全である。
かといって子供のためでもない、あくまでどこまでも完全に厳密に自分たち自身
のため。子のためだとか、子と対峙する父母夫妻としての自分たち自身とか、
父と子、処女と懐胎の内奥にある実(受精射精)を蔑ろにした無責任は許さない、
自分たち自身には自分たち自身として生きる責任が、子供たちにも子供たち
自身として生きる責任がある。責任の擦り付け合いは始原中の始原から拒絶する。
あらゆる人類の始原中の始原、元始たる太陽たる受精から、全てを認める。
以前、匿名ではあるものの、「マリ子は在日韓国人」だなんて話があった。
母方がそうだっていう、だから父母双方共に日本人の血は流れてないっていう。
「凶気の桜」でマリ子が演じた景子が在日韓国系だったりしたところから
流されたデマの可能性が高いし、よしんばマリ子が本当に在日韓国人だとか、
あるいは部落出身者だったりしたところで、それを“感情的”に差別することはない。
ただ、実際問題として日本では、在日韓国人や部落出身者にはヤクザ、
非合法関係者が多い。真っ当に生活している在日韓国人や部落出身者もいるだろう
一方で、明らかに確かに、そういった闇の側面を背負った人間も多いわけだ。
感情ではなく実際問題としてそういうことがある、あり得る、その可能性を少なからず
払拭しきれない状態で不用意に交際だの結婚だのを求めようとするのもまた脆弱だ。
それこそ種付けだけして、それ以外の責任は一切負わないぐらいの姿勢でやっと
順当なぐらいだ。母方についても父方についても、今のマリ子にまつわる限りでは。
責任には責任で、無責任には無責任で対峙する構え。
仮に在日韓国人や部落出身者の、しかも非合法関係者であろうとも、
あるいはさらに警察関係者だ公安だ、それ以上だと言った所で恐れることはない、
こちとら戦国武将や帝国陸海軍大将クラスの血も本当に引いている、
模造刀でも刃引きでも寸止めでもない領域を系譜から受け継いでいる、
相互確証破壊体制の実質的運営者相手だろうが頭ナデナデできるぐらいの
白兵戦第一主義者だ。
だからってそれらは、交際や結婚みたいな、繊細で和気藹々と“すべき”領域と
混同すべきでは絶対ない、ガサツで殺伐とした領域、一緒に味噌汁飲むような
繊細な和気藹々を護り通すためにこそあるガサツな殺伐、廃油と下水の処理。
マリ子が果たしてどちらの領域の人間か、あるいはどちらにいたいのか、どちらに
いるべきだと思うのかなどによって、対応の仕方を変えざるを得ない。神道には
神道の、仏道には仏道の、武士道には武士道の、そして極道には極道の領分
がある、友好他愛などハナから認めない、だからこそある真剣勝負の領分が。
形態の美醜を究める芸能的肖像装飾――大手企業や出版社などとの
契約もこなすほどの(安くても1000万ぐらいは軽く動く)――しかもそれだけでない、
トポグラフィだ偵察衛星だ、あるいはCIAだペンタゴンだだのも絡んでるかもしれない、
主体的無責任的国際社会とも少なからぬ関係にあるだろう、正当不当も
繊細な和気藹々もガサツな殺伐も一切がみそくそな世界に明らかに関わっている、
そうであるにはあるなりの、隠さず見せて分からせる責任、それがあなたの
アマテラスとしての役割(ウケヒなど)に集約される。
全てを隠さず見せて分からせよというのでもない、
隠して見せず分からせない領域もまたある、交際したり結婚したり家建てたり、
実際にするかもしれない、いやするだろう、ただそれらはアマテラスとしてのあなたが
やることの中には入っていない、クシナダヒメ、言語的正当不当、出雲国で
食い殺されそうになっていた所を、高天原への挨拶やアマテラスとのウケヒも
“すでに”済ませたスサノオによって救われる、その後にこそ行われること。
比較的地味な役割、脇役、アマテラスと同一人物としては描けなかったほどの。
それにはそれなりの理由がある、精神分裂だなんだではない、あくまで社会的に
隠さず見せて分からせるべきことと、そうでないことの堅実な分別の結果である。
その結果としてウケヒは高天原で、結婚は出雲国で行われる、大人しい分別でだ。
芸能的主婦、あるいは、主婦派芸能人へ。
主婦の神なんである、早い話がアマテラスは。
なんかウケヒの比ゆ表現への誤解から、処女懐胎のはしりだなんて
いう指摘をする学者もいるみたいだが、決してそうではなく、むしろ逆、
性交とか妊娠とか出産とか、女性が主婦であったりすれば当然として
経験することを、それらの女体母体的破損壊滅を「事実」として凌駕して
いる受精と共に描くことで、正当化するまでもなく正当であると示している、
それこそ交際だ結婚だなんていう修飾も一切用いず、どちらかといえば
ガサツで殺伐とした、男装したり武装したりの“誠意的逆説”と共に描く。
主婦が主婦であることの最もなカルマたるウケヒのような領域、そのような
領域がそれのみで独立自尊的に隠さず見せて分からせられる、もって
最高太陽女神ともなる、にもかかわらずではなくだからこそ。それのみで。
芸能人らしい芸能人はいくらでもいる、主婦らしい主婦なんてのももういくらでも。
ただ、芸能人であることによる主婦や、主婦であることによる芸能人となると皆無。
広末涼子も三船美佳も土屋アンナも、主婦であることを蔑ろにして芸能人やってる。
離婚したり新興宗教入ったり未亡人になったり、あとゴシップ誌などでの下衆の
勘ぐりに晒されながら、それでも芸能人やってる。そんなの見ると、黒澤優みたいに
早々に芸能界引退して完全な専業主婦になるか、芸能等とは無縁の仕事をする
兼業主婦になりたいとか思うに違いない。ただ、そうではなくて、黒澤優ではなく、
かといって広末や三船や土屋でもなく、さらなる別個の選択肢としての、芸能的
専業主婦、芸能界という「家事」を取り仕切る専業主婦とあなたがなるんだ。
堅実な家族生活などとはまさに逆行している芸能界を、そのまま堅実な家族生活の
一部分にしてしまう。堅実な主婦であることこそを芸能的な素養とし、浮気ゴシップを
求めるような下衆の勘繰りを存在性の根本から封じ込めてしまう。まさにウケヒでだ。
浮気ゴシップが一番好むような領域、下半身の領域を、ハナから記紀という人類史上
最大最高の正当性を編み込んだ書物の、中でも最大最高の意味を持つ部分、ウケヒ
でもって封じてしまう、ウケヒこそを隠さず見せて分からせる、誠意的逆説によって。
あなたがである。あなが主婦であるあなたであるによって取り仕切る、“芸能家”、高天原を。
こちとら関係ない、適当にあしらってさっさと追放処分受けるのみ。
三船美佳に金魚のフンみたく付いていく高橋ジョージみたいにならないのはもちろん、
芸能⇔スポーツという若干離れた世界からモンローと付き合ったジョー・ディマジオにもならない、
さらには芸能⇔政治という実利的な関係性の下でモンローを利用したケネディにすらならない。
ただ、種付けするだけ、アマテラス役としてのマリ子に対し、芸能家、高天原では。
結果としてマリ子が芸能家を取り仕切る専業主婦になったとしても、そこからはマリ子自身の問題。
ヤマタノオロチ退治もクシナダヒメ役としてのマリ子を娶るのも、言語的正当不当、出雲国での話。
それらの部分までわざわざ隠さず見せて分からせようだなんてせず、ただウケヒだけを自分と
マリ子の特別な関係性として隠さず見せて分からせる。マリ子との関係のウケヒという部分だけを。
・・・もっとも、芸能家、高天原でも活躍してくれというたっての希望がございましたら
一概に足蹴にするもんでもございませんが、その場合は記紀のウケヒ以降の、
高天原でのスサノオの所業をよく踏まえてからにしていただきますよう、よろしく。ウッシッシ
政治家と、芸能人と、犯罪者。
メディアに顔出しするような人間ってのはだいたいこの三つの内のどれかだ。
女が政治家や犯罪者になることはそんなにない、逆説的な場合を除けば。
でも男は違う。むしろ政治家や犯罪者として顔出しする場合のほうが多く、
ただの芸能人だなんて理由での顔出しは、ピエロ扱い受け入れてるだけのこと。
ピエロ扱いされるのがウツになって死んじまったんだろな、カート・コバーンも。
カリスマAV男優の逆を行く。姦淫だけして受精に結びつく射精はしない奴ら。
その逆、姦淫は適当でとにかく受精射精だけを目指す、その限りでの顔中出し。
まさに見せられる側にとっちゃ、ウンコでも投げつけられたような気分。
破損壊滅だけを目的に投下するニガヨモギ(byヨハネ黙示録)。
家族を持って、芸能界に出ていくんでなく、
芸能界を家(芸能家)にしてそこに入ったり出たりする。
実際にこちら側、出雲国2chの側からすれば、芸能界なんて
ほんとちっさな世界、丁寧に飼い馴らされた籠の中の鳥たち、
だからこそ金も入ってくる、籠の中に投げ入れられるおひねり。
世界レベルで見たって、一線で活躍してるのなんてほんの一握り。
名声と金が、籠の中に入ることでのみ得られる、そのリスクをあえて冒す。
名声や金よりもリスクの低さを求め、故にこそ籠の中に入らない人間のほうが
実は大多数、入りたくても入れない人間なんかよりそのほうが遥かに多い。
発言権を得ることにすら興味のない人間の想定を。
言及1:行動2程度の割合でこそ世界が動いているのだというわきまえを。
容量オーバー寸前まで書いといてこんなこと言うのもなんだが、
あんまりバリバリ書きまくる姿というのは、やっぱり傍目に見れば異様だろう。
「速筆だから」とか、「プロならこれぐらい当然」とか言われても、確固たる利潤目的でもなく
ベラベラと長大な理屈を並べ立てる様子は、いくらその内容が正当であるにしたって怖いだろう。
特に、就職であれ資格であれCMや出版の契約であれ、試験的な登竜門の介在を通じて
大半の社会活動を済ませる現代人にとっちゃ、理解できないことだろう、
社会構築を根本から否定した上で、しかも自分たち(マリ子や僕)のほうが
文化文明的な先輩であるなどという主張は、いくら事実にしたって受け入れがたかろう。
「独立自尊心の過剰にも程がある」と。自分たち自身からの尺度からすれば。
とりあえず「躁」ではない。いきり立って書きまくるようなことは昔はあったが
今はない、少なくとも以前ほど情緒不安定な中で書いているのではないという自覚がある。
かといって「鬱」でもない。死ぬほど辛いような気分にも実際なったこともあるんだが、
それもまた事実として克服できている。前にも言ったとおり(
>>410)それは東洋的価値観という
精神的血清の投与に基づく。希薄な精神性の下でヘロヘロウレシがりまくってるような状態を
存在性の根本から破損壊滅させるだけの全体的器量がある、東洋世界全体には。それこそ
西洋世界全体の無責任性由来の精神病理(主に聖書による)を根絶やしにして余りあるほどに。
しごく冷静に、今の自分の状態を述べるなら、「脳的にはほぼ安心満足だが身体的には不安不満」
であるという状態。ほんのこの前まで知らず知らずの内に受け入れさせられていた西洋の体系構築的
精神病理を、東洋の側の――日本以外も含めた――体系構築的精神真理でもって十分に相殺して、
躁とか鬱とかいったウレシな情緒不安定を放逐させている。じゃあそこに何があるのか?っていや、
別にキリストの死みたいな、精神的カタルシスでもって脳内満足を十二分以上に溢れ返させるでもなく、
またニーチェのように「神は死んだ」のニヒリズム(虚無)でもって、脳内満足を八分以下に削ぎ落とさせる
でもない、十分な安心満足、ただアマテラスやスサノオのような、生きるだけ生きて死ぬときは死ぬ、
西洋的価値観などからすれば比較的“凡庸”な部類に入る神々を、過剰でも不足でもない真に中庸的な
理想性を持つと認めた(信じたのではない、認めたんだ)上で、自分たちもまた、あたかもアマテラスや
スサノオのような、もってそこから連綿と系譜を受け継いできた天皇家のような生き方をしたいと、
心から尊崇の念を抱くものなわけです。
八分でも十二分でもない十分な神々、中庸的な神々であるが故に、アマテラスもスサノオも“文面”
で僕を(そしておそらくマリ子も)脳から身体から何もかも安心満足させてくれたりはしない。
あくまで「記紀」は「記紀」なんである、「聖書」でも「俗書」でもない、ただ昔の話を記したり(古事記)
天皇家の紀行を示したり(日本書紀)しているだけの書物である、基本上は。ただ、それでいて同時に
人類最大最高レベルの精神性(受精射精)の濃密さもまた描かれている。人間が自分たち自身の種付けを
尊ぶことをまさに“精”神的に示しだしている。受精と射精の噛み噛み、神神、もって「精神」の起源。
そこを教えてもらえたことで、確かに“脳的”には安心満足したのである。西洋人(ヘーゲルとかフロイト
とか)がやたらめったら使い回す割りに、結局それが具体的に何を指すのかを一度も教えてくれなかった
「精神」の正体を知って、本当に安心満足したのだ、ああ、そんなに簡単なことだったのか、「精子もダテに
“精”子を名乗ってたんじゃなかったのか」って、気づいたからって幻滅することもなく、確かに安心満足した。
むしろ(旧約聖書の割礼の記述などで)蔑ろにされてきたものが実は貴かったことを知って嬉しかったぐらい。
だからってじゃあ、記紀によって精神の起源を教えてもらったことが、聖書のような十二分以上の“全身的”な
安心満足を与えてくれるのかって言えば、そんなはずもない。書物なんていう、妄想オナニーの要で脳的にも
身体的にも完全に安心満足しきるんじゃなくて、さっさと子供作りなさいと、天皇家のように次を繋げなさいと、
「ウンコ撒き散らし」と共に叱咤激励してくれてるわけです。記紀“自体”が。
記紀による、「脳的な安心満足」の十分な確立、その次にはまさに不可避なものとして「身体的な安心満足」
がある。受精射精、種付けである。「報酬」ではない、姦淫のようなさらなる脳的安心満足の希求ではない、
ただ、身体的に安心満足させる、自分自身やマリ子を、受精射精によって、しかも積極的な姦淫はむしろ
蔑ろにしたような形で(ただし男児も女児も生める程度には“励む”)。それもまた要である。ある意味では
記紀の精読による脳的な安心満足よりもさらに重大な。天皇家の“文業”と“家業”だと、やっぱり後者の
ほうがずっと重大だと思う。天皇“家”だから当たり前っちゃあ当たり前だが。でもだからって記紀の精読、
脳的な安心満足を捨て去るのかっていえば、これもまたない。家業を十分に確立させる上での基礎となる
文業の存在、これもまた決して蔑ろにするものではない。記紀の存在が天皇家の唯一無二な家業的存在意義を
定立しているのもまた事実だ。家業と文業、持ちつ持たれつ、家業も行き過ぎず、文業も行き過ぎず、
半々もしくは「文業1:家業2」程度の割合で世界を動かしていくのが適当かと思われる。
今まで僕のやってきたことすべてが、いかに莫大であろうとも
あなたにとっては51/80以下の価値しかないんだって!?
中出しでお腹パンパンで、破裂(容量オーバー寸前)寸前でも
まだそれぐらいなんだって!? 器質的な女であるあなたにとっては。
日希ハーフだったりバイリンガルだったり上智卒だったり
実は韓国系かもしれなかったりとか、そんなこととは全く無関係に
ただ、あなたが器質的な女だからそうである。主婦候補たる。
人類の半分であるにもかかわらずではなくだからこそ、
一切凄くないようでいて、実はとんでもなく凄かった。ただそれだけで。
なんとなく「女は凄い」とか思われてきたのが実際に凄かった。
極めて神秘的奥義的ではあるものの、実際に書き留められるほどに。
「書き留められていた」ということは、果たして女にとって名誉か傷か、
女に名誉を冠せられる程の男がいて初めて答えの出る問題だろうか?
溢れ返りも削ぎ落としもしない、十二分でも八分でもない十分である
「脳的な安心満足」、それとはまた別に「身体的な安心満足」がある。
割合で言えば半々から「脳1:身体2」程度。「脳51:身体80」ぐらい。
この割合が脳と身体どちら方向にも偏りすぎてはいけない。身体方向
に偏りすぎると脳的な制御の効かない動物になってしまうし、逆に
脳方向に偏りすぎると身体を蔑ろにした奇形(寄生的頭蓋結合)に
なってしまう。また脳的な安心満足と身体的な安心満足を混同したり、
優先順位を取り替えたりするのが「姦淫第一射精第二受精第三」の
第一倒立論理を呼び招く結果となってしまう。あくまで脳的な安心満足
(射精)と身体的な安心満足(受精)は別物であり、しかも脳的な安心
満足よりも身体的な安心満足のほうが上である。人類のより多くを
常に司っている、脳的な安心満足は必ずしも人類を司ってはいないが
身体的な安心満足は必ず人類を司っている。必ずしもおめでたくない
ことと必ずおめでたいことの差、1000人死ぬことと1500人生まれる
ことの差、常に破損壊滅を上回ってきた体系構築、射精を超える受精、
優しい女である、故にこそ優位な。その部分を思い遣れるか遣れない
かで、人間の生き方は全く替わってくる。真逆なほどにも。全身的な
安心満足を脳だけでなく身体にも頼る、半分以上、幸福な精神の起源。
テスト
損傷具合でいえば、性交による女体の破損よりも妊娠出産による母体のそれのほう
が遥かに大きい。出産の時点でこそ、処女膜も子宮内膜もまさに「壊滅」する。
父による破損、子による壊滅、もって父と子による破損壊滅。
仮に性交による処女膜の破損を嫌がって、体外授精による妊娠出産をしたとしても
それはただ「破損壊滅」が「壊滅」になるだけの話。じゃあさらに壊滅も嫌がって
試験管ベイビーを作るとしよう、ただ男女から精子と卵を抽出して人工的に
授精させる、女体や母体の破損壊滅を一切伴わない生殖、現代では不可能ではない。
でも、体外授精の場合もそうだが、これらはもはや“受”精ではない。
人工によって精子を卵に“授”けようとする行為が不可避に、
精子を“受”けるという、人工授精以前の全ての女性と、以降にもおける大部分の
女性が嗜んできた「受け入れる」という、受動的消極的な性癖を
逆に破損壊滅させてしまう。女性が己の身体的な破損壊滅を受け入れないことが、
今度は女性たち自身の器質的に不可避な性癖のほうを破損壊滅させる。
しかももはや“受”精も存在しない。人“間”的“精”神性の完全否定。
人“工”はもはやそれを可能にしている。優秀だった故人男性の精子を凍結保存して
女性の側が買い入れて人工授精により己の子供を作る――精子バンクも実際にある。
人“間”を破損壊滅させる人“工”か、人“工”を破損壊滅させる人“間”か、
中間はない、どちらかを選ぶしか、どちらかの破損壊滅を選ぶ、結局はマリ子がだ。
己の身体的な破損壊滅を“受”け入れるか受け入れないかによって。
体内受精(要するに普通の受精)が、それだけで名誉なのだという、
性交妊娠出産による破損壊滅の不名誉を差し引いたとしても十分に。
分かってくれといっても、そりゃあ無理だろう、実際に体験しなければ。
脳的な安心満足を超えてこその身体的な安心満足だから。文面での説明で
安心満足させてもどうしようもない。文面“自体”では。カントと共にある。
子作りは愚か、異性交遊も全くと言っていいほどしなかったと言われている。
一生童貞のままの79年の生涯、しかも辞世の句が「これでよい(Es ist gut.)」。
とりあえず子も作っといて「これでよい」。
「受け入れる」ことを「選ばせる」、
どこまでも完全に厳密に性癖が受動的消極的であるべき
女への最低限の礼儀、プロポーズ。
各宇氣比而生子(各誓ひて子生まむ)。
まあ、アマテラスのほうが“勝”ってもいるんだけどな。ウケヒでもって。
“正勝”吾勝勝速日天忍穂耳命(アマテラスの長男。天皇家の初代男系)
優勝支配者アマテラスの下で、好き勝手をやり尽くすスサノオwithウケヒ。
孤高の“男”神で、しかもやりたい放題。未曾有にして空前絶後の、
想像するだけでもすがすがしく、実践すればさらにすがすがしいこと。
器質的な男にとっての究極の道徳的誠意的正当性、ウンコ撒き散らしw