高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
終わりかな? 最後の審判。
ttp://lozenge.web.fc2.com/essay12.html 縄は、危険だ。
測量にも縄張りにも、首吊りにも緊縛プレイにも使える。
決して美的なものではない。どちらかといえば正当よりも不当の起源。
しかしその、不当の起源としての縄をあえて不当のためには
用いなかったという点にこそ正当の起源としての価値がある。
正当なこと、誠意的なこと、道徳的なことを試みようとするよりは、
不当なこと、寓意的なこと、犯罪的なことを試みないことのほうがより
正当なこと、誠意的なこと、道徳的なことであるという証左。
奴隷拘束、人質誘拐、逮捕監禁、羽交い締め首絞め、
人間が他者を不当に取り扱おうとする時にはいつも道具としての縄があった。
のみならずそれはピラミッドのような巨大建設事業にも必要不可欠なものとなる。
それに何と言っても船乗り。昔の海賊や大後悔時代の帆船などには特に縄が欠かせない。
派遣先で奴隷をひっ立てたりするような粗暴な植民行為にもやっぱり縄が必要。
昔の日本がやっていたような教化的な植民ならともかく。
人類の正当不当をより分けてきたあまりにも具体的な“ブツ”。
神聖なものとして崇めてきた人間のいる一方で、母子を引き離し奴隷商人に
引き渡すためにも実際使われてきた。
人類のカルマが全てそこに集約されていると言っても過言ではない。
善用も悪用も自由自在。精神的な束縛や解放ですら
実は物理的な縄の活用術の精神への落とし込みでしかなく。
悪用しなかった10000年間。悪用も善用もした6000年間。
善悪の彼岸は実は善悪の二倍近い分量を持っていたという事実。
さして不当でないという程度に、正当だった10000年の記憶・・・
縄は、縄である以上、ある程度は引っ張られることを前提としているんだ。
ちょうど刀が他者を殺傷するために存在しているのと同じように。
引っ張られる以上、張り詰められる以上は、何かがあるんだ。
緊張的な何かが。綱引きに値するような何かが。だからこそ
縄が、綱引きの原理を持つ正当不当の根源にもなるわけだ。
つる草程度じゃ代用できない、縄でないといけない強大な綱引き。
そして縄の起源が、日本であることを決して主張するものではない。
刀にしても同じ。にもかかわらず存在する縄文土器や日本刀の存在は
日本人が、最大限に不当に使える(他者の拘束や殺傷など)可能性のある
縄や刀を最大限非・不当に、できうる限り正当に扱おうとしてきた根拠でこそあるのだ。
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