高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
ここに書いてるようなことを、そのままマリ子に中出しするんだ。
いわばそれがここでの書き込みのやまるとき、おめでただ。
それ以外で書き込みがやまることは愚か、書き込みの内容が
変質することすら、もはやすでに期待できるもんではない。
だからこそマリ子に、ここに書かかれてるようなことを真っ向
から受け止めて、それでも壊れちまわないぐらいの気構えが
必要になる。そのためにはやはり、性癖が女であることよりも
男であることを必要とし、しかもそれが女らしい女であること。
性癖が女である器質的な女が女らしい女なのではなく、性癖
が男である器質的な女こそが女らしい女。性癖から完全に
女な女なんてのは、女々しい男は女らしい女と認めても、男
らしい男はそうとは認めん。なぜなら、女の性癖が女であること
になんて、なんの意味もないから。それはただ女が己の器質を
好き勝手に暴走させてるだけのことにすぎず、男が性癖を男
たらしめるために必要になるような我慢はどこにもない。性癖
は、男であることが難しく、女であることが楽である。前者は
エントロピーをコントロールしようとすることであり、後者は
ルーズコントロールにしようとしているだけのことである。それ
故女が女であるにもかかわらず、最低限の男の性癖を持つ
こと、引いては独立自尊心を持てていることこそが、女がより
女らしいことであると、あえて定義するのである、男らしい男が。
性癖が男である器質的な女≡女らしい女である。真理(=)
や原則(≒)よりもさらに前にある定義(≡)である。まいったか。
優先されるということは、定義権の保持者になるということでもある。
「焼き味噌じゃ!」
権現さまが焼き味噌だと言ったら、焼き味噌なのだ。
確認するまでもなくもはやすでに。おまえらにとっては。
焼き味噌だから食わされることだってある。文句も言えずに。
そういった、真理や原則よりも前にある定義から保持者となる権利
こその譲渡が、求められている。先輩面先生面して、採点したり
席替えしたりクラス替えしたりの一切の権限を譲るのである。
自分たちよりもはるかに信頼のいく、定義権濫用の心配のない
真の先輩先生に対して。「=」や「≒」と共に「≡」をも。
まさに女こそが、自分の陰核が増大して(中途半端にでかいのもアレだが)
陰茎になって、ふたなりになった状態を想像するんだ。器質的な女こそが。
(参考になるサイトいくらでもあるが、さすがにこれはリンクできない。吐き気
をもよおすほどの恐ろしさ覚悟の上で、自己責任で「ふたなり」をぐぐれ)
器質的な男のふたなりなんて、考えただけでもおぞましい。
実際本物の両性具有な半陰陽ってのは、少なからず男性ホルモンが
働いてるせいで体つきとか男っぽくなる。ニューハーフだってできるかぎり
自分の男っぽさ抑える(喉仏切除したり)か、開き直って化け物になるか
二つに一つなところがある。それほどにも相反的であり、しかも非可換
である、男と女、廃油と水、飲めないものと飲めるもの。
飲めるもの、水であることを最大限にわきまえた上で、飲めないもの、
廃油であるものの領域を仮想するのである。あくまで仮想で。というよりも
むしろ仮想であってくれ、稚拙な。むやみにリアリティを追求しないでくれ。
まさか、人類レベルでの思想宗教学問の文脈で、
ふたなりが役に立つ時がくるだなんて、夢にも思わなかった。
しかもそれを、器質的な女に対して正当に提示することがあるなんて。
しかしまあ実際、過剰な類の(しかも究極レベルの)
アイコンであることは自分自身でもわきまえている。
器質的な女からすれば、究極の激烈に気持ち悪いだろうことも。
ただ、器質的な男から見れば、腐女子が好む類のBLなんかも
それぐらいに気持ち悪いんだってことを、如実に示す相対例ではある。
BLがアリならふたなりもアリ。ナシならナシ。二つに一つ。
林檎譚(創世記)と皇統や、美辞麗句と犯罪寓意の場合なんかと同じ。
特に不可避な、物事の不可避さ、不可避な無垢さを希求する者としては、
そういった毒と毒みたいな、不埒な側面は相殺し合って消えてくれるに限る。
その上で、小学校高学年あたりの、男子よりも女子のほうが成長が早い
あたりの時期の、不可避に男子を見下してたぐらいの純真を大人の女
までが取り戻してくれればいいわけだ。大人の男の社会的強大さの前に
怖気づいてしまってからの女たちが。
高尚な問題を低俗に貶めてるんじゃなくて、
元から低俗な問題がさも高尚であるかのごとく
飾られてきたことを、低俗によって均質化している。
あたかも記紀よりも高尚であるかのように見せ付けられてきた
聖書やホメロス、アマテラスとスサノオよりも高尚な領域だと
考えさせようとされてきたアダムとイブ、パリスとヘレネ、
オデュッセウスとペネロペなどが、さらにその上にあった
伏羲と女カ(カ=女偏に咼)によって幻滅的に瓦解していった。
しかも伏羲と女カも正直いいと思わない、異性関係への夢を
宗教的にもぶち壊しにすることに特化されているようなとこがある。
でもまだ伏羲と女カの上にエジプト神話、オシリスとイシスがある、
でもこれはもはや「縄」だから。奴隷的拘束の起源譚でしかない。
そこはもうスサノオが斬り殺しちまう、ヤマタノオロチとして、
縄文土器による考古学的実質性とも相まって。
結局アマテラスとスサノオに戻る、ネズミの嫁入り。
別にミッキーとミニーでもかまわんし、縄文土器の発見者も実際
アメリカ人だが、ただ、今のアメリカやディズニーがやってるような
日本からの知的資本的財産の収奪は不可避に咎められる。まさに
アメリカ自体もまた多少は協力した、この自滅的罪滅ぼしでもって。
すじプーが来る、ではまだ不安で不満。
すじプーが“自分から”来る、でやっと安心で満足。
真ん中になんにもない人たち、
頼られるぐらいなら頼りたい人たち、
陰湿な嫉妬が当然に旺盛な人たち、
にもかかわらずではなくだからこそ、来る必要がある。
あたかも真ん中があるように、積極的に頼られるように、
陰湿な嫉妬を当然に嫌うように、自分から。
人類全体を救うんではなく、自分を救う、自分たちを救う、
人類の半分こそを救う、両対となる肉片の一対を救う、
よく分からないほうではなく、明らかに分かるほう、
良い部分も悪い部分も知り尽くしてるほうを、
どちらかといえば例外的な、陽性なる自己によって、
引き上げる、地べたの低さから天上へと。
快感の中に生き続けるような、格好とか髪型とか化粧とか
してるんだもの、自分たちからも自主的に、
しかも似合ってるんだもの、それが、
カラダの芯から、器質から、本当に。
自分たち自身がそうだからこそ、かえって気付かない、
それが自分たちに特有のものである、自分たちの占有物である、
自分たち“以外”にこそ禁断の領域であるのだと。
匂わずに臭う者どもには決して侵害を許されぬ、
臭わずに匂う者どもだけの領域。
自由に“昇天”する権利の保持者であるからこそ、
普段は地べたからの低さの世界に生きる。危険防止。
ハイヒールや厚底で男と渡り合おうなんて稚拙さもまたよく似合う。
まさにその程度の、ハイヒールや厚底程度の独立自尊心にこそ期待する。
だからって本当に、ハイヒールや厚底履いてくりゃいいのかってえと、それはどうだか。
マリ子なら、めっさ高めの上げ底で僕と同じかちょっと低めぐらい。
それで十分に、同格かそれ以上になれたと自分で思えるんなら、それでもいい。
僕よりも背の高い男を引き連れてくるのなんかよりも、致命的にいい。
そのほうがそっちにとっちゃ安心で満足だろうが、こっちにとっちゃそれだけ不安で不満。
怖いとかじゃなくて、そんな男にまでいちいち己の格の低さを思い知らせるのが億劫だし、
相手のほうもイヤだろうから、それが。塩田剛三に投げ飛ばされるボディガードになんか
なりたくないだろうから、今さら。
次の段階はクォーターである。ラテン系白人との。男児であれ女児であれ。
ゲルマン系白人とのクォーターなら、今でもかなり活躍してる(特に女が)が
ラテン系白人とのとなると、なかなか見付かんない。いないこともないだろうが。
いずれにしろ次の段階、今のハーフやクォーターがみんなおっさんおばさんに
なってから、世代が根こそぎ代わってからの話。日本人の側にとっちゃ、いま
大部分を構成してる日本人との異種が流入してくることは、それなりに警戒して
たし、それは実際意味があった。完全陰性半陰陽の精神性がのさばることへの
警戒、それは本当に正しかった。そして今そこを十分に踏まえた上での受け入れ、
完全陽性半陰陽の優勝支配の確立を大前提とした上での受け入れを容認する。
今の日本人自体も、完全なる単一人種ではない。アイヌとか秋田とか、多少は
白人の遺伝子もとから入ってるらしいし、黄色人種内でもまた縄文系と弥生系に
大別される。すべてがすべて縄文土器作ってた人たちなわけでもないから、今
でももうすでに。漢民族系(弥生系渡来人)の遺伝子の持ち主は、前腕の内側に
横方向に一本スジが通ってるらしいんで、確かめてみればいい。ちなみに僕には
ない。身内にはいたりいなかったりする。その程度の相手に接する心構えこそを。
精神性はともかく、遺伝的には日本人も中国人も大差ない。
だから優木まおみ(半分中国人、四分の一ずつ日本人とロシア人)
とかそんなに日本人離れしては見えないし、ローラ・チャン(完全な
中国人)も日本語でブログ書いててもそんなに違和感ないんだ。
それどころか、リア・ディゾン(フランス・フィリピンのハーフ)ですら
マリ子なんかからすれば親近感抱ける類なのかもしれない。
さらにはアリシア・キーズ(イタリア系と黒人のハーフ)なんかも
白人の側から考えれば、共感できるところがなくはないんだろう。
それらすべて、「女同士だから」という特権のもとでこそあること。
東洋でも西洋でも女が陰性なのは大体において認められていて、
ただほぼ唯一の例外としてのみ、日本の縄文系がある、男はおろか、
女にまで陽性であることを要求する例外中の例外、伏羲と女カすら
認めないアマテラスとスサノオ、格を競い合う者同士でありながら、
女神が先に書かれて男神が後に書かれるのが必然的なのは
ほぼこの唯一のみ、イザナキとイザナミすらその限りでない。
まさに例外中の例外中の例外。
儒教とか禅とか、むしろ積極的に見習うべきところすら中国にはある。
それらが縄文系に比すれば格下であるにしても、明らかな敵対勢力
である聖書系などに比べれば、比較的に受け入れられる、だから
記紀にも論語や仏教を受け入れたことが正当に記されてる。縄文系
の日本人までが自己優先的には受け入れた孔子や釈迦とのハーフ。
伏羲と女カや、イザナキとイザナミもある程度は正式な日本の
異性関係の構図、ただ、さらにその上に重ねられるような、
多段式ロケットのてっぺん中のてっぺんのような所にのみ
アマテラスとスサノオがあるんだということ、だからこそ、
気負いすぎずに。
下衆の勘ぐりでない、明らかに目に見えて分かるものが、
下衆の勘ぐりな、見えないよう分からないようなものの明らかな上にある。
なんの勘ぐりもなく、見せている分からせている、それら自身は、
入れられたりすることであっても、まさに当然なものとして、さすがに
どこかしこでも脱いで姦ったりまではしないが、それでもすべきときにはすべきものとして
明らかにやっている、不当なる正当、寓意的誠意、犯罪的道徳、器質的な女たちが。
だからこそ人類もある。正当不当誠意寓意道徳犯罪、全てを根本的に司る妊娠出産。
女である以上は、最低でも男と同等かそれ以上である、器質的には明らかにそうであると
まさに本心から主張している、器質的な男が今ここに一人確かにいる、自分が、
そのことがもうすでに優劣勝敗支配被支配を完全に逆転正準化させる証拠となっている。
三十数億+一人の女の器質と男の性癖>三十数億−一人の男の器質と女の性癖。
等号付き不等号(≧、≦)の介在を不可避に許さぬ不等式。
当然大きいほうが優勝支配者、小さいほうが劣敗被支配者。
まだ何かある、すごいことが隠されている、確かにそうかもしれないが、
だからってどうにもならない。隠されていること、見えないように分からないように
なっていることそれ自体がもうすでに、劣後敗退被支配されるべき下衆の勘ぐり策謀だから。
下衆の勘ぐり策謀を不可避に完全に封じる、絶対的な審判が下されたところで
後は結局、女たちの選択、自分たちが最低限男の性癖、独立自尊心を受け入れること。
さすがになかなか難しい。世界最高峰を越えられるのなんて、鳥でもタンチョウとか一部だけ。
やろうとすれば誰でもできるんだが、それだけの気概を持てるということ、タンチョウである
ということ、さすがにもうマリ子以外に務まる余地はない。いい感じの女の子若い子、他にも
いくらでもいる、それらが嫌いなはずもない、男なんだから、でもやっぱりムリだマリ子以外には。
気概でもそうだし、器質でもそうだ、女の内側での器質、器量の最高峰、全確認範囲内での。
女の器量は、歴史社会的に評価されるべきようなものではない。
ナイチンゲールとかキュリー夫人とかアレントとか、ただ男の領域で
活躍した女であるだけのこと。しかもどちらかといえば性癖が女な男たちの。
性癖が女である男たちの世界で活躍した器質的な女、ややこしいがそれだけ。
歴史社会を体系的に構築すること自体が女々しい男の所業なので。
あくまで女としての美しさ、芸能的肖像装飾のみで活躍した女たち、
ヘップバーンとかモンローとか、参考にするななんてことは全くない、
あくまで芸能的肖像装飾としての参考であるなら。それに付いてくるような
社会的名声だの資本価値だのはむしろ否定するんだ。それはただ女の肖像が
女々しい男どもによって評価されているだけのこと、女々しい男が評価
するってことは、それだけ肖像になった女のほうも女々しかったってこと、
性癖が女な女だったってこと、当たり前ではあるものの今は忌避すべき。
卑弥呼なんかも、歴史社会的に検証されようとしている時点で
参考にすべきでない。もしかしたら本物のアマテラスだったかも知れない女、
いたにしろいないにしろ、曖昧模糊としている時点が華、そうであれば
そうであるほどよく、結局は卑弥呼“より”もアマテラスであれということ。
仮に同一人物だったとしてもだ。
一番参考にすべきなのは、やっぱり主婦だ。
男にとっての恋人だったり愛人だったり妻だったり母だったりする女たち。
そういった女の側面こそがいま参考にされるべきなんだ。主婦こそが
最大級の器量によって歴史社会全体、女々しい男全体を凌駕するんだ。
月から太陽へ、現代から元始への回帰だ。すべての女があなたを通じて。
器質的な女が、男の性癖こそを受け入れる。
今でいえば、例えば、男がピアスをしないこと。勇気を劣後しないこと。
本当は勇気を優先すること、帯刀すら受け入れてもらいたいもんだが、
今はまだ。実定法の駆逐にまで挑戦するのは早すぎる。
帯刀が積極的に正当であることなら、男がピアスしないことは
消極的に正当であること、不不当であること、今はむしろそのほうが大事。
女がピアスすることは、本来から不当でないので構わない。
愛の顕現であるが故に、勇気の顕現たり得ない女が自己問題として
勇気を優先させようが劣後させようが関係のない話。男がピアスしない
ことに賛同の意を示すという意味すら持ち得ない、女がピアスしないこと。
ドクロもなしだ。新撰組の近藤総長が道着に縫い付けたドクロ柄、
あの時点ですでに「サムライへの劣後」が働いていた。幕末の武士ってのは
全体的にそう。抜刀できなかった龍馬、賊将にされた西郷、そしてドクロな近藤。
彼らの不憫を十分に汲んだ上で、参考すべき所とすべきでない所を見分ける。
見えている、積極的に見せ付けられてはいるものの、蔑ろにされている大切なもの。
刀や武士道がピアスやドクロに。そしてもう一つ、誰にでも見えるのに自分には
なかなか見えないもの、顔、風貌、特に女の。極めて不当で寓意的で犯罪的な
正当で誠意的な道徳。鏡をよく見ること、特に女が。中国の使節団が卑弥呼に
献上(連中にとっては下賜)したものの中で特に重要だったのも、「親魏倭王」の
金印などではなく、銅鏡のほうだったのだということ。
思索が急激に成長し続けてるんで、前に言ってたことと
今言ってることの間に少なからず食い違いが起きてる。
「記紀が単なる皇統の系譜でしかない(前スレの962)」
なんてこともやっぱりなかった。ちゃんと内容にも歴史社会的、
文化文明的な意味がある。しかも人類最大最高級の重要さの。
じゃあ皇統と旧約聖書の“相対性理論”までが訂正されるのか
っていうと、それもまたない。旧約聖書がアリなら皇統もアリで、
皇統がナシなら旧約聖書もナシ、それも事実。認識不足はいつも
正当なものの正当性と、不当なものの不当性を掘り下げ切れて
ないことだけにまつわる。正当不当の逆転までは絶対にない。
初志貫徹の成長を見続けたい限りに待たれることもありうる。
あくまで「まだ」ではあるが、実定法も改正できるというんなら、
遠隔釘打機はいらないんで、剣や刀だけ合法化してくれ。
「銃砲刀剣類所持等取締法」から「銃砲類所持等取締法」へ。
「金属片」の取締りなんかを本気でしようとすることも、ちょっとウレシだと思う。
実際問題、できてないそれは。宅間も包丁で小学児童殺傷してる。
加藤の場合、それがダガーナイフだったから、なんか非難されてるが、
ダガーナイフやランボーナイフで料理したい人間だっていないことないだろうに。
破壊力だけなら、銃砲はおろか、機械工具(チェーンソーとか)にすら劣る、
不可避に社会秩序全体を覆しえない段階での武装、刀剣。
取り締まるべきものの見誤りやみそくそを控えおろう。
航空機内への刀剣の持ち込みは、規制されても仕方ないような気もするが、
仮に刀剣の活用によってハイジャックされた機体が、911レベルやそれ以上の
テロに巻き込まれたとしても、それですら社会秩序全体を覆すものではない。
「テロとの戦い」とかほざいて、結局ブッシュがやったことも他国(アフガニスタン
とイラク)の侵略でしかない。個別的な問題と全体的な問題の混同。もちろん
全体的な問題だけでなく、個別的な問題にも重要性はある。あまりにも多くの
人間の命がおびやかされるハイジャック、それはそれで重大ではあるがやはり
全体の問題、軍産複合体のノルマ償却などとは全く別個の問題である。
あまりにも粗大すぎる機械的暴力(ペンタゴンなど)に比べて、武士道のなんと
ささやかなこと。大きくてもせいぜい武蔵の剣豪殲滅とか。そして実際、そのほう
がかっこいいと思う、本当に心から、大きくて豪華でも実際には臆病なものより、
小さくて質素でも本当に勇気のあるもののほうが。そこに全てを還元するべき。
個別の問題と全体の問題の混同は、
ことに「武装」に当てはめるなら、
それは殺傷力と破壊力の混同となる。
男が己の身体的労働力(心技体)だけでない、
外部の機械力への依存を求めた時点ですでに
殺傷力と破壊力の混同が始まっていて、
しかもそれが「過剰な臆病」の始まりでもある。
(弓矢や長刀ですらまだ過剰な臆病ではない)
刀剣等による白兵戦や騎馬戦、決闘の汗臭さを嫌がって
火薬爆発的遠隔破壊力を用いることがかえって
刀剣以上の辟易対象である。
刀剣もまた、自分自身だけが所持して、完全非武装者
(格闘能力も持たない)への侵害に使われれば悪用になってしまう。
人“間”が二人以上、男女以上からしか成り立ち得ないのと同じように、
殺傷力もまた拮抗できる二つ以上の対抗者によってのみ成り立つ。
だからこそ武士もまた太刀と共に脇差を、二本以上の刀を常に携行して
いたところがある。片一方を対戦相手に使わせることすらなくはない。
刀剣と銃砲、酒と麻薬、
力の行使や快楽の希求という方向性は同じなので、
あくまで程度の問題。(優勝支配力等の)エントロピーを
ちゃんと制御することを心がける者には刀や酒だけでよく、
制御できない人間が銃砲や麻薬にも手を出す。
刀も酒もいらないってなると、それはもはや“坊さん”だから。
格闘技などと同じで、最大限尊重はするものの、それはそれで
過剰な世界だ。過剰なる徒手空拳、自分たちであえて行う去勢、
二本以上、二人以上、男女以上の人間性すら否定してしまう、
そこまで行きたいとは別に思わないんだ。あくまで男女以上、
家族以上ではありたいという気持ちが刀や酒を必要としてる
ところもあるわけだ。愛を求めるが故の勇気の保持だ。
真正愛、真正勇気、真性臆病の他に、坊さんの「真正不臆病」もあるわけだ。
勇気よりも臆病を排除するに特化した、もはや三位一体の外側の存在。
勇気はそこまではいかない、あくまで臆病と対戦することは認めている。
根本的な存在性から臆病を否定するのは、自己否定にも繋がってしまうから。
仏道や儒道のような、無手勝流の宗教性の十分なアンガージュマン、武士道。
あくまで「十分」である、八分や十二分ではなく。八分や十二分を十分に留める。
友好他愛(多対多)<孤軍奮闘(一対多)<夫唱婦随(必勝的な一対一)<夫婦漫才(拮抗する一対一)
日本人(二本人?)の中に連綿と受け継がれている人間的精神性への位階。
だからこそ勇気を凌駕する愛、スサノオを凌駕するアマテラスをも好み欲する。
孤高の男でやっと女のシリ、どんけつだってのは
こっちにとっちゃ分かってたことだから。“初志”だから。
ただ、それが何となくしか分かってなかったせいで、うまく語りきれなかった。
それが語られることによって、ハッキリした。まさに初志が貫徹されたわけだ。
女を蔑ろにした上で、孤高の男になろうだなんてのは、
価値転倒も甚だしいわけだ。ニーチェやヒトラーの三の舞四の舞。
それは始めから違ってたんだ。最高の男でも最低の女程度だって、
最前提があった、始めからそう思ってたことこそが、孤高の男にもなれて
なおかつすがすがしくいられる理由だ。始めから必要としていたアマテラス。
絶対的にすごくないという思い込みの中でのみなれる絶対的にすごいもの、
不労所得同然のツッコミを一人だけ許すボケの美学。全てを還元されるべき所。
最低の女でもいいのである。洞窟の中に引きこもるような。
それで十分に男と同等かそれ以上だし、男にとっちゃむしろ
付き合いやすい所まで下りてきてくれてありがとうってとこがある。
性癖まで女な女、器質も性癖も陰性な人間の象徴たる女神、
しかもアマテラスよりも古い女神ってのもいくらでもいるのである。
古典文献学的には。イシスとか女カとかアテネとかイブとか。
ただ、それらの女神には例外なく、さらに格上の男神もしくは
無性神がいて(盤古とかゼウスとかエホバとか)、中でも世界
最古級のエジプト神話で、イシスの上にいる最高神ラーが
アマテラスと同じ太陽神で、しかも男神だったりする。
最高神が“男”神の太陽神である――物事に対する根本的な
見誤り、価値転倒から、すべての文字記述型文明が始まっている。
あくまでその範疇で自分勝手に振舞うのを許された、記述的には
むしろアマテラスよりも魅力的に思える(かもしれない)ような
アマテラス以前以降の器質性癖共に陰性な女神たちすべて、
単なる肖像装飾である、芸能であるとわきまえた上で、さらに
その上に本物である、価値転倒する以前の元始なる正解である
“女”神の太陽神である最高神、アマテラスが存在する、現実的
には主婦や昔の花魁などの形態を借りて、そうあることもわきまえる。