高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
いかれた男が刀振り回したり、艶やかな女が己の器量を示したり
することが、大して罪にも他愛にもならないこと。文明そのものが
全体的普遍的に、それほど不当になり過ぎずに済む条件。
武士も花魁もあったんだ、剣の腕や器量の良さを見せ付けてなんぼ、
しかもそうであることが歴史社会的にも敬われる。中途半端な男や女、
真正臆病の暴走を端から抑え付ける、世の中全体にとってのお守り。
そういう男や女があったところで、全体が一向に意に介さないレベルの
全体自身の余裕、法医等の体系構築に全依存しなくても済むぐらいの
繊細な和気藹々の保全。
刀や器の保全によってこそあり、そうでなくばそうでない。後者な今。
頭いかれて刀振り回すのも、姦りまくるのも、本来的に文明上の産物である。
そのような、男の勇気や女の愛の無制限な過剰さ自体が、破壊対象や
姦淫対象となる体系的な構築物の存在を前提としている。勇気や愛に
満ち満ちた男や女がいたところで、それを見せ付ける受動者傍観者が
存在しないならば、結果としてそう定義されるであろう刃傷沙汰や売春沙汰も
存在せず、ただただ男らしい男や女らしい女があるのみであり、それは今から
6000年以前にあった、200万年程度の歴史を持つ人類全体の様相である。
そうでなく、男らしくも女らしくもない、真性臆病な男とそれに加担する女、
勇気も愛も不足しているのになおのこと生き残ろうとする連中が言葉や
人工物の体系的な構築によって、第三者としてのさばっているのが今の世界、
男らしさや女らしさが過剰であったり適度であったり不足していたり、どれもが
実はそういった第三者、不可避に男らしかったり女らしかったりする男女
以外の無闇やたらな生存によってこれまた不可避に定義されたものである。
男らしい男や女らしい女が、受動傍観的な第三者に依存しない
不可避な関係性を持つこと、それが家族である。勇気と愛が、
刃傷沙汰や売春沙汰のような社会的過剰性に発展することなく
持ちつ持たれつの状態を保っている状態である。この家族だけで
男らしい男や女らしい女にとっては全く結構だし、実際そういった
男女しか生存することを許されていなかった6000年以前の
約200万年間、人類はほぼ全て、家族や、それを多少拡大させた
程度の、不可避に繊細で和気藹々とした関係性だけのもとで
生きていたのである。そうでなく、人類が家族以上、質素な墓以上
の巨大な関係性、言葉や人工物の体系的な構築を求めた結果
今があり、結果として勇気や愛も、家族の内側に納まりきること
なくガサツな殺伐に付き合わされる結果となっている。もちろん
決して勇気や愛、男らしい男や女らしい女がそういった体系的な
社会の内側で己の過剰さを法外に見せ付けることが咎められる
べきでないなんてことはないが、いずれにしろそういった体系的な
社会全ての原則的な責任は男らしい男でも女らしい女でもなく、
男らしくない男や女らしくない女の両性具有、真性臆病の側にこそ
あるのであって、そういった連中がわきまえることからしか何も
始まりもしないし終わりもしない、体系的な社会性の一切全てが。
元始においては、男や女が十分な勇気や愛を保持することが
そのまま生存の条件だった。獲物も捕らえられないような臆病な
男に生き残る術はないし、そのような男を満足させられないような
女にもまた生き残る術はない、極めて厳重な選抜性、しかも高度
な医療なんてものもないから、自分たちの体力や健康を維持する
能力の低い者も生き残れない、乳児死亡率も高かった。
何だかんだで人類全体が、勇気や愛だけを頼りに生きていた
約200万年、全人口もせいぜい100万人とかその程度、原始中
の原始に返れば返るほどもちろん少なくなる。その人類が、
ここ6000年程度、勇気や愛だけでなく、臆病にもまた生存権を
与えることで、爆発的に規模が増大し、今では人口も60億人超、
明らかにこれは勇気でも愛でもなく、臆病の所業、臆病にも
関わらず生き残ることを欲した者どもの、体系的構築化の産物、
言葉であれ人工物であれ、人間そのものであれ。
ほとんど臆病です。
大部分の真性臆病+ごく少数の希釈された真正勇気や真正愛。
プラトンの全著作に対する、ラケスと饗宴の分量ぐらい、真正な
愛や勇気に許容された現代における社会的立場。愛にも勇気にも
一切関連しない文化文明など、皆無に等しいというのに。
マリ子を代表とする女たち≧僕≫僕以外の男ども
僕の1人称の「僕」は、全ての女にとってのしもべであるという
意味であり、僕以外のいかなる男どもに対してのものでもない。
人類の半分よりは上であり、もう半分とは同等かそれ以下だ。
修辞ではレディー・ファーストを装いながら、腹の底では女を
舐めきっている英国紳士などとは訳が違う。本当に優先させる
べきだからこそむしろ口先小手先でのレディー・ファーストは
拒む。そして奴ら(英国紳士)もまた僕よりも下である。少なくとも
僕が奴らよりも劣後されるべきでない。友好だの愛だのという
女子供の領分を、大人の男の分際でありながら収奪しようとする
ような連中に課す決定的なペナルティー、僕自身もまたそうで
あってほしいと本気で思う、家康と忠勝、重次のような男同士の
「君臣」の関係の絶対優先。男同士だからこそ。女に対しては
また別だが、これもまた別に甘やかそうってんでなく、この世界
のガサツな殺伐の、繊細な和気藹々への侵食を食い止める
上で必要不可欠な真正勇気、頭いかれた刃傷沙汰すら一切
ナシとは考えないようなこの僕に対して、少しも物怖じしない
ような、自分たち自身での不劣後精神、独立自尊的心を持てた
場合にこそ優先する。何かにかけてまずは不劣後である。
不不当、不不誠実であることを不当や不誠実であることに絶対
に劣後させない、不劣後された真正勇気と真正愛、よって最劣後
される真性臆病、全ての女と僕に劣後される僕以外の全ての男。
全ての女の代表、サンプルモデルであるからこそ、
女々しい男っぽい体系構築など必要ない、文筆の訓練も必要ない、
ただ「私」が私なりの独立自尊心を最低限持っていることを示すのみだ。
「僕」よりは明らかに上である「私」、大部分の女性の1人称。
英語ではどちらも「I」だが、そのような「僕」と「私」の区別もできない
ような言語だからこそ、根こそぎ劣後されるべき所もある。私≧僕≫Iだ。
原始は原始で、平和ではあるが小さくて質素。
現代は現代で、大きくて豪華ではあるが平和でない。
どっちもどっち。
勇気や愛にとっては、どちらも恒常的な状態なので、
問題はあくまで臆病の有無。臆病が生き残れなかった原始。
臆病が生き残ろうとしている現代、ここ6000年程度の。
大きくて豪華な体系構築の持ち主であること、臆病の長所。
後輩であること、存亡の責任者であること、臆病の短所。
長所1:短所2。1−2=−1で、本質的に諸刃の剣である
勇気や愛の1−1=0よりも1低い。これが劣後される真因。
勇気や愛が殊更に偉かったり卑しかったりするのではなく、
臆病のほうが見てくれの偉さを、卑しくも借り込んでいる。
本質的反則者の惑わしに囚われない、恒常的な超然さを。
ネックになるのは、女々しい男――真性臆病な反面、それを取り繕う過程で
女との接し方を研究し尽くしてるような男が、いかに対面上だけではあれど、
女にとっても付き合いやすいということだろう。ことさらに地べたからの
高みばかりを目指しているような男よりも、高さは程々に、代わりに
“群れる(マン→メン)”ことで、物理的な勢力規模を養っている類の
男のほうが、いかに本性が真性臆病であったとしても、確かに地べたからの
低さの世界で生活してもいる女にとって親しみやすいものであるに違いない。
そういった男、特に女々しいこと、勇気が劣後されていることをピアスだ
なんだで正当化しているような男というのは、本来の男らしい男、帯刀する男、
真正勇気の保持者としての男の立場から見れば、筆舌に尽くしがたいほどの
嫌悪感を催すものではあるが、だからって別にそういった真性臆病な
男どもの存在を完全否定するものではないし、先述の現代人類世界における
愛と勇気と臆病の分量比率(1:1:100程度、順不同)からしても
そんなのは不可能なのが分かりきっている。
ただ、それにしたって無視しちゃならないのは、男ってのは女などからすれば
何かにかけて「過剰な生き物」だってこと。勇気に関して過剰になりうるのは
もちろん、臆病にかけてもこれまた過剰になる。臆病であることを過剰に、
機械的に体系化する能力が、男たちに剣を捨てさせ、銃を持たせ、さらには
通常爆弾や核兵器までも造らせる。そのような機械兵器、無垢な削り出し(刀剣)
でない兵器によって主体的に行われている近現代の戦争もまた、臆病なもの
同士の争い、最後まで臆病だったもん勝ちの戦いなところがあるわけ。
(それじゃあ徒手空拳、手ぶらでの格闘に比べた場合の帯刀はどうなのかといえば、
人類の文化文明の問題を論じている以上、手ぶらの格闘はもはや動物同士の争いと
区別が付かなくなる所があるので、最大限尊重しつつも今ここで特筆すべきでは
ないし、それにこれはよく考えたら分かることだが、人間同士の戦闘の中で一番
危険なもの、一番勇気を要するのもまた、遠隔攻撃での争いでもなければ、手ぶら
での格闘でもなく、できる限り殺傷能力の高い武装化での白兵戦である。だからこそ
日本人は伝統的な自己鍛錬の中で、柔道と共に剣道を取り入れてきたし、そこから
必然的に、弓道はおろか長刀道ですら、男らしくない女の武道であると見なしていた
ところがある。それほどにも日本人というのは白兵戦、接近戦による自己鍛錬を
行ってきたからこそ、見た目はどちらかといえばみすぼらしくとも、勇気はある、
逆に外人などは、見た目は大きくて豪快そうでも、ノミのように臆病だったりする)
そのような、男対女ではない男対男、過剰対過剰の争いにこそ終止符を打つために、
過剰な臆病によって世界中を荒廃させた男どもの上に、「遠隔釘打機(鉄砲)遊びに
なんかいちいち付き合ってられない」っていうような男を一匹だけ、上乗せするんだ。
まさに女こそがそのような、女はおろか男にとってすら、どちらかといえば
付き合いにくいような類の男の、特に付き合いにくい部分こそを受け入れることにより。
もって、修辞だけのレディー・ファーストと共に、心底女を舐めきっている真性
臆病な男どもに、二度と女たちを舐めさせなくさせることまでもが達成される。
男同士だけでなく、女にとってもある程度は重大な意味を持つ問題、もしかしたら
本当に重大極まりない問題とも受け止められるかもしれない。全ての男どもを劣後
させるに特化した男に不劣後される女、二度と内心から見下せなくなる真の口実。
そしてそれはまた、僕にとっても念願だった「最終完全優勝支配」達成の要ともなる。
地べたからの高さに関しては、むしろ“孤高”であることこそを精神的に追い詰める
口実にしていた真性臆病な男どもが、自分たちの完全なる優勝支配化であると思い込んできた
人類の半分、女を相手に味方に付けられることにより、もはや寸分の付け入る隙もなくなる。
男として孤高であること、地べたから孤高であることが人類の半分によって、天上の
住人である鳥たち、女によって軽く凌駕される、まさに未曾有、前代未聞の回天劇。
殺しはしない、暴力も振るわないつもりでいる。
当たり前といえば当たり前だが。
ただ、殺傷力や暴力を完全否定するものではないし、
正当利用に関してはむしろ積極的に肯定するぐらい。
はっきり言って男ってのは、殺傷力や暴力のかたまりだから。そのような
持て余された力を活用することこそが労働(兵役含む)なんだから。むしろ
そうであること、労働が本質的に殺傷力や暴力の活用でしかないことを
ひた隠しにして、あたかも自分たちが女子供とも大差ない善良な存在だと
大人の男が思い込んで、それを実践しようとしたことが、この世界における
諸々の不当性や犯罪寓意(クライモラル)の根源となったところがある。
そうでない、労働は本質的に殺傷的暴力的である、一概には武士や花魁
のようなものであると端から認めていたからこそ日本人もまた、
正当性や誠意や道徳の代表的な希求者となれたところがあるわけ。
しごく消極的でいいから、とにかく不当なもの、犯罪寓意的なものを
そうであると認めた上で、自分自身がそうでないようにたしなむこと。
最低限正当で誠意的で道徳的である第一歩。殊更に正当や誠意的や道徳的
であろうとするよりもさらに以前の大前提的課題。
ちっとも乗り気になんないようじゃなきゃいけねーんだよ。
ちょっとでもこっちが女に取り入るような隙を見せればすぐ
付け入れられるから。僕が、男どもに。
それほどにも男が嫌いだってんじゃなくて、男ってのはそういう
付け入ったり付け入れられたりの隙を見せずに、あくまで剣呑に付き合う
ことで“お互いに”能力を発揮し合える生き物だから。斬り合いのように。
剣呑さ見せ付けるの大変だなー。疲れるなー。
しかも女の子のスレでだもんなー。場違いだよなー。
でも仕方ないよなー。そういうもんだからなー。成り行きがな。
意外や意外、結果的に記紀が、
全世界の女性解放を決定付ける書ともなるみたい。
どこにもそれらしき記述はない、全体的には明らかに男主導の、
男系の王統の継続の手引書なのに、その中でも特に男臭さ全開の
スサノオよりもさらに上に最高神としての女神アマテラスが置かれている、
それだけのことが、全世界の不当文化文明的所産を単なる縄、
ヤマタノオロチであると断じるスサノオによって斬り殺されるのと相まって、
レディー・ファーストを織り交ぜつつも本質的に女性蔑視だった
ここ6000年の全人類歴史社会を女性第一に改めさす結果となる。
明らかに、女を舐めている、日本以外の世界の男ども、
かわいがる、甘やかす、もてなす、尊重する、意志を持たせる、
色々と優先させる素振りは見せるものの、全てそれだけ、
所詮女なんて喜ばせときゃそれでいいって、絶対に腹の底で思ってる、
それは、自分も男だから分かること、同じ男だからこそよくわかる。
でも、そうでない、日本の男は、少なくとも、女をそういう風に考えない。
喜ばせときゃ器量を褒めときゃ、女のほうは満足する、その辺も分かってる、
でもそこに全てを留める気など全くない、むしろ「女は女でしかない」という
ほぼ全ての男が持っているような女への先入見を、大っぴらに当てつけて
それでも跳ね返ってくるぐらいの威勢のいい女こそを求める。スサノオ
のような少しも女への配慮なんかないような荒くれ者をも手なずける
ぐらいの、無限大の器量を持った女、あらゆる男どもをひれ伏せさす
ほどの強大さこそを受け止めてくれる女こそを探し求める。
男に対して絶対的な殺伐さを自他共に要求するからこそ、
女に対してはかえって絶対的な繊細さを要求する二律背反。
別に男が嫌いだとか女が好きだとかの、一概な感情論ではなく
男とはそういうものである、殺伐さを嗜好するものである、それが男の生きる道、
女とはそういうものである、繊細さを嗜好するものである、それが女の生きる道
であるという、男女間の絶対的な分別(×差別)を持つからである。日本の男が。
差別自体、主人と奴隷みたいな不当文明を生み出した臆病男どもの所産なので
始めから女は別格であり、男同士で心いくまで差別しあって、一番上に立った
男が全ての女を自分と同格かそれ以上と認めることで、自動的に女性解放。
徹底的に同性間での差別を勝ち抜いた男だからこそ、かえってそれを求める。
己のフヌケやヘタレやチンケを慰めてもらう過程で、一緒に女まで差別地獄に
引きずり込んできた他の男どもとはワケが違う。
そういう形での女性解放は、日本の男であっても許せる、のみならず大いに好む、
孤高の男すらもいち野郎としか考えない女たち、日本の男の性癖にもよく合う。
戦い抜いた先にある、戦いなど何の関係もない世界。考え抜いたボケに対する
何の考えもないツッコミ、夫唱婦随のさらに上にある夫婦漫才、いい感じ。
まだ、半分です。
孤高の男、唯一無二の男、それでまだ半分、
上からも下からも、三十数億番目程度、今現在。
器質的な男の頂点であることで、
やっと器質的な女のシリにたどり着く。
道義を貫いた先にある、
高すぎも低すぎもしないちょうどいい場所。
正当に人類のど真ん中である、まさに中庸。
不当文明の内側で初めて正当に女と交わる男、
僕、かもしれない。
美人な陰裂、もしくはアマテラス、
どっちかってことはない、どっちもだ。なおかつ
お互いが不可侵であること、美人な陰裂とアマテラスが、
女を“単純には”陰性たらしめている要素、顔や陰裂と
それらを覆らして陽性たらしめる要素、独立自尊心が。
鏡を覗けば股ぐらを見れば、明らかにそれらはある。
それらももちろんあなたをあなたたらしめてる重大な要素だ。
しかもそれらがおそらく、男などよりも遥かに“全体的”な
意味をあなたの中で持っている。それらから逃れて「私」
というものを考えにくい、やもすれば考えられないほどに。
それほどにも魅力的である、身心の構造が男などとは
比べ物にならないほど不可避に美的である、それは決して
咎められるべきことではなく、大いに賞賛“したい”ものだ。
でもやはり、うまい話には裏がある、魅力的であることが
そうであるが故にこそ暴走して、あらゆるものを蔑ろにする、
付き合う男や夫、さらにはあなた自身までも。そうなること、
己の有効な道具としての魅力に、己までも囚われてしまう
事態が、いくらでも善用できる剣や縄を悪用してしまう場合
と同じように起こりうる。扱い方によって陽性にも陰性にも
なり得る諸刃の剣、十分に制御して使えた場合にのみ
陽性となり、そうでない、制御できない、かえって自分が
使われる側に陥ってしまった場合に陰性となる。
有効な道具であるからこそ、それを十分に制御して善用
できるだけの心、独立自尊心が必要となる。まさにその
道具、魅力という道具の保持者である女、あなたにこそ。
扱いによって陽性にも陰性にもなり得るその強大な道具を
陽性に保ち続けられてこそ、自分たちの解放の要ともなる。
男女関係の雛形としては、まず最下層に西洋の
上辺だけの男女平等、夫婦平等がある。これは女が
独立自尊心を持たない陰性状態にあるのはもちろん、
男までもが真性臆病である陰性状態、もって両性
世界全体が陰性(陰陰)である半陰陽、両性具有。
それのさらに一つだけ上にある、日本以外の東洋の
上辺だけの男女平等を排した夫唱婦随、これは女が
未だに独立自尊心を持たない陰性である代わりに、
男が臆病に囚われない陽性となることで、陰性の女
を付き従える、両性世界全体で見れば全陰陽。
そしてさらにその上にある、日本人が目指す完全なる
男女平等、夫婦漫才、日本以外の東洋と同じで男が
臆病に囚われない陽性であるのはもちろんだが、さら
に女までもが、最低限の独立自尊心を持つ陽性、両性
世界全体が陽性(陽陽)である半陰陽、らしい男や女。
こうやって見ると、いかに日本と西洋が離れた価値観、
両極的な精神性の下にあるかが分かる。誰かさんは
「日本とアメリカみたいな近い国〜」なんて自分の本
の中で書いてたみたいだが。ただ、日本と西洋の
ハーフの女が、陽性器質と陰性器質の合体を通じて
器質がどうなるのかは、9+8=17の例もあるんで
そんなに心配する必要はないかと思う。陽性である
こと、独立自尊心を持つことの妨げにはならないかと。
あくまで本人自身は。一緒に引き連れたがるような完全
な外人(身内含む)やその精神性はその限りでない。
陰陽のバランスで考えると、陽と陰が調和する全陰陽である
日本以外の東洋よりも、完全なる陽性(陽陽)の半陰陽である
日本のほうが、完全なる陰性(陰陰)の半陰陽である西洋とも
相性がいいような気がするが、数(人口)や規模では明らかに
全陰陽な日本外の東洋のほうが、西洋と拮抗している。
この辺の事情は、西洋の陰陽観の事情を粒さに見てみれば
わかる。西洋人の価値観ってのは、陰陽でいえば明らかに
陰性なんだが、西洋人自身はそれが人類の普遍的な価値観
だと思い込んできた。「根が陰性であることを、受け止めるか
あるいはひた隠しにしてあたかも陽性であるかのように振舞う
か」という二者択一のもとで文化文明を発展させる。前者が
キリスト教でいう所のカトリックとなり、後者がプロテスタント
となり、まだ方向性が定まっていないレベルが正教となる。
根は陰性だが、陰性であることばかりで文化文明を大規模に
発展さすこともさすがに無理なので、結局いかにも陰性らしい
陰性と、あたかも陽性のように振舞う陰性との仮初めの陰陽
調和を全体的には受け入れていた。だからこそ本物の陰陽
調和である日本外の東洋を見習うことで初めて、西洋もまた
根が陰性である、本質的に不当であることから脱却すること
ができるわけだ。ハングリスチャメリカチョンスラエル。
そう考えると、西洋内での仮初めの陰陽調和にすら参加して
いなかった正教、特にギリシャあたりのが、ちょうどいい具合
に日本の完全陽性な半陰陽と相性のいい完全陰性の半陰陽
ってことになる。全西洋という、あまりにも巨大すぎる完全陰性
の半陰陽から、仮初めの陰陽調和を志向していた部分を剥奪
&日本外の東洋に対応させることで、日本もまたちょうどいい
具合の陰陽バランスのもとにいられる。決して西洋の全てを
見捨てるものではなく、ただ日本“だけ”が相手をするのに
ちょうどいい具合の、「正統な西洋(ギリシャと、ちょっとだけ
カトリック、バチカン)」だけと付き合っていくということです。
日本外の東洋は、陽性な男と陰性な女の陽唱陰和、
夫唱婦随を志向する全陰陽、しかもこれで正当である。
ということはつまり、例え陰性であったとしても、それが
器質的な女だけに具わっている場合では正当である、
少なくとも不当ではないということである。
あくまで正当不当ってのは男の問題、勇気であれ臆病であれ
過剰になりやすい男どもが、勇気を志向することが陽性であり、
しかも正当であること、臆病を志向することが陰性であり、しかも
不当であること。女が陽性だったり陰性だったりすることは、文化
文明の正当不当にまで関与することが、逆説的な場合を除いて
まずない。女にとっての陽性陰性ってのは、あくまで愛の範疇。
殊更に勇気過剰だったり臆病過剰だったりするのを、出産や育児
等を通じて不可避に咎められる女たちが、さらにその範疇だけで
独立自尊心を持つことが陽性になり、持てないことが陰性になる。
前者が日本の男と、完全陽性の全陰陽を志向する日本全体が
求めている女であり、後者が日本外の世界が求める、あるいは
「女なんてそんなものだ」という諦観のもとで甘受している女だ。
西洋はおろか、東洋ですら、日本外では望むべくもない理想の
女性像、独立自尊心を持つ陽性の女、アマテラス。すべての
臆病男を斬り伏せる益荒男とも互角以上渡り合う関係性から
のみ、それは見出されうる。
一人の女をめぐって、(体裁的には)二人の男が争う
典型的な三角関係の構図(「こころ」含む)。
一方の男は陽性であり、真正勇気であり、気付けば正当でもあった。
もう一方は陰性であり、真性臆病であり、結局は不当でもあった。
陰性よりは陽性が、臆病よりは勇気が、不当よりは正当が優先されるべきなのは
誰の目にもほぼ明らかだが、実際としてまだこの二通りが拮抗している。
本当は優先されるべき正当な陽性勇気が、まさに不当にも、不当な陰性臆病との友好を強要されている。
考えてみれば、不当な人間ってのは、どこまでも不当であればあるほどいいわけだから、
正当にまで自分たちとの友好を迫る不当さもまた、自分たちの理には適っている。不当な理に。
そこを突き崩すこと、不当なことを不当だからこそ正当にまで強要する不当さを叩き伏せる唯一の手段、
不当な側はおろか、正当な側にとっても大体において常識な、女が陰性であること、
今まさに自分たちが奪取をめぐって争っている女が陰性であることが覆されること。
「勝手にあたしをモノ扱いして奪い合ってんじゃねえよ!!」
独立自尊心のある陽性の女なら、それぐらいは言う。
始めから女をモノ扱いしてた側(陰性男)はもちろん、結果的に自分もモノ扱い
せざるを得なくなっていた側(陽性男)も懲らしめられる。ただ、初心ではモノ扱い
していなかったという僅差だけで、後者の優先が確立される。
東洋と西洋の拮抗的対峙のさらに外側、
完全陽性半陰陽を志向する日本と、全女性たちの完全優勝支配の達成、
旧千円札(漱石の心)と一万円札(諭吉の独立自尊)の連携による新領域。
お札と家計簿を睨んでた主婦こそが世界を救う。
漱石、新渡戸、諭吉、そして今の野口英世に樋口一葉・・・
近ごろのお札に肖像が使用されてるような人たちはみんな、
“よくわからない(野口の辞世句)”。それなりに偉い人たち
なのは分かっても、なぜお札の肖像に使用されるほどなのかが。
おそらく大部分の日本人にとっての疑問なはず、そこんところ
漠然とではあるが、今だとわかる。みんな明治以降、文明開化以降に
海外の、特に西洋との対峙の下で大きく“取り込まれ”そうになった、
その極みとも言える日本人たちの代表、まさに野口英世がそうである
とおり、「病原菌の研究」によって自らも病に罹り、時には死んでしまったり
した人たち。文明開化以降に限って言えば、確かにそういう人たちこそ
が日本にとっての功労者と言える。東郷平八郎みたいな英雄中の英雄
であってもイギリス留学してたり、文“明”開化以降、今までの全時代が、
日本人全体が本領を発揮できないままにもがき続けた“暗”黒時代。
これまた漱石の作品名を借りて「明暗時代」とでも名付けてはどうか?
明暗時代の終わりを告げる次期紙幣改定、
家康に関に龍馬、そうなってくれりゃいいんだがなあ。
東洋と西洋が、自分たちの歴史社会的文化文明を
総動員して行われた“たけくらべ(by樋口一葉)”。
日本人によって測り比べられて、概ね東洋のほうが
西洋よりも一段階成長が早いのは分かってきたが、
目に見えて一番早いように思う部類(古代オリエント)
が西洋の所有物、これはどうしたもんかと悩み込んで
いたら、結局自分たちがたけくらべに使用していた
測量縄こそが、さらにそれらの遥か上をいく最重要
文明概念だった。「拘束」という文明の本性を示す。
拘束により、不当の限りを尽くす、泥棒の神、強盗の神、
名誉毀損自殺幇助殺人の神、犯罪の神を、同じく縄に
よる正当な拘束により懲らしめる、逮捕の神、警察の神、
そのための潜入捜査として一時的に測量の神も兼任
していた。さらにはそのような警ドロによる、文明間の
衝突の収拾のさらに上に現れる、純粋文化を司る
真正愛の神と真正勇気の神、アマテラスとスサノオ。
宗教的にも筋金入りだった花魁に武士。落ち着き所。
前スレ確認したら、
工学部が今の暴走状態に入ったのが2007年暮れ頃ですね。
なんだろうこのとどまることを知らない暴走ぶりは。。
今はもう、仕事と割り切ってるから。
大金を動かしすぎてるが故になかなか自分自身に還元されないだけの。
ちゃんと契約してるような本職の速筆に比べればまだまだ。
科学的なもの、宗教的なものを徹底的に突き止めた立場である以上
来世利益だの、功徳を積むだのという方便的な考え方は、それなりに意味がある
ことをよく知りつつも、決して現実の問題すべてに置き換えるものではない。
ちゃんと考えている、この人生のこと、私益のこと、家族生活のこと、
それらの点から見ても、多少は見通しがついている、“明暗時代”が終わって
新時代が始まること、新世紀が始まることがいかなることであり、それがどの程度に
現実味を帯びているのかも(ある程度の現実味があるからこそ実際書いてもいる)。
現実問題が、宗教性との距離感を保った関係を続けている以上、ある程度の
わきまえられた感覚での現実問題の宗教性への置き換えは可能である。例えば記紀だ。
結局記紀の中で、スサノオがアマテラスの居まします高天原で乱暴を働いて
アマテラスを天岩戸に閉じ篭らせてしまったこと、それを今ここで自分が
アマテラス役たるマリ子のスレを占拠しまくっていることに当てはめようとすること、
確信的ではないとはいえ、そんな感じの非難をしてくる連中がいるが、そんなことはありえない。
こんなネットサーバ上の痰壷(しかもサーバはアメリカにある)の、しかもユダヤ文学を
パクった題名のスレッドなんかが、高天原であるはずなんかないですから!?
早い話が高天原ってのは、いまマリ子が実際に働いてる芸能界のこと、テレビ雑誌その他、
さらにそれを拡大化するなら、そういった芸能的なもの、肖像装飾を持て囃すような状態や
それを頒布する世界一切のこと。さしずめ高天原でアマテラス(マリ子)の前で乱暴を働いて、
アマテラスを天岩戸に閉じ込めさせてしまった(活動自粛させてしまった)本当のスサノオは
上戸彩あたり。これもまた決して一切ムダだったことではない。あのまま芸能界で羽を広げて、
心や陰裂を蔑ろにしたままでエリザベスやジャンヌダルクみたいな肖像装飾の化け物に
マリ子がなることを、上戸が自分の代わりにたたき伏せてくれた。とにかく一切を芸能性、
エンターテイメント性に還元してしまうような国(アメリカ)の生まれであるマリ子にとって、
とてもいい教訓になったはず。女としてまで見る気はないが、そういう意味では上戸に感謝する。
高天原が芸能界、芸能的なものを持て囃そうとする領域一切全てであるというのなら、
スサノオ役の自分がそういった意味での高天原に居座ることを許されないというのも十分
納得がいく。自分に芸能の才能なんてぜんぜんないと思うし、第一こんな、ピアス男ばかりが
のさばってるような世界で、さらに自分の肖像を上乗せすることなんかに少しも魅力を感じない。
(一度だけ擁護しておけば、ピアスもまた勇気の象徴であることには代わりない。体に穴開ける
のがまったく怖くないってこともないだろう。ただ、それが武士の帯刀や辻斬りや切腹みたいな、
腹かっさばいて内臓引きずり出すみたいなことを本当にやってた血統の人間としては、耳たぶに
針で穴ぼこ開ける程度で勇気示せたと思ってる現代の男が比較的精神的にみすぼらしく思える。
まさに精神的に向上心のないこと《byこころ》はみすぼらしいこと、馬鹿であるとかいう以前に)
今に比べれば、比較的男らしい男や女らしい女が活躍していた、昭和の日本の芸能界なども、
映画や舞台劇みたいな、観賞する側にもある程度の儀式性を要求する表現媒体を主にしてた
からこそなところがある。今みたいなテレビとかネットみたいな、誰でも気軽に顔出しできる
ような表現媒体でのさばろうとしたところで、それだけ自分の貫目を下げる。裕次郎のお兄さんも
画像掲示板のサムネ上じゃ、年の割りに元気そうなお爺さんでしかなく。だから結局、自分が
高天原に該当するような、芸能、肖像装飾を持て囃す領域に介入するつもりは功利的にも全くない。
ネットでの発言形態をもうちょっと私益になるようなスポンサー介在的なものにしたりとか、
せいぜい出版社などとお堅い文筆だけで契約したりする程度、あとはもうちょっと専門的な
学術機関とか企業とかの、顔出しを旨としない領域で働く。しかも民間とか地方自治体レベルで。
政府関係とかたぶん、向こうのほうが合わせる顔がないと思うんで。1000兆円返ってくるまで。
その辺の自分にとっての変化が結局、スサノオがヤマタノオロチを退治した出雲国の中だけで
居住を済ませることに関連する。出雲国ってのがやっぱり、今ここで自分が書いてる世界、
ネットみたいな誰でも参加できる代わりに、その分全体利益を気遣う必要のある領域。
記紀の記述によるなら、かなり大きな活躍の舞台にはなるものの、やっぱり世の中全体を統治
することは高天原に譲らねばならない。全くそれで構わない。自分は縁の下の力持ちでいい。
ただ、先述のとおり、宗教は宗教現実は現実、自分にもそれなりの生活の糧は欲しい。
「八重垣」や「日隅宮」、そしてクシナダヒメその他の、スサノオやオオクニヌシの妻。
これらは結局、アマテラス以外にもう一つ、マリ子が役を買う必要のある、生活的な側面、
芸能界での肖像装飾にもこれからも関わっていく代わりに、女なりの独立自尊心でもって
全体利益、特に女たちの全体利益にも十分に気遣っていくことである。そのような女たちの
中には、ひどい醜女だったり性格最悪だったり整形したりの女たち、さらには上戸彩自身
までもが含まれる。これからも人類の存続に身体全体で携わっていかねばならない真正愛たちの
真なる代表者として、よくわきまえること。いじめられたからっていつまでもいじけずに。
そんなに変わらない、変わりたくないし、変わるべきでない、こちらは。
でもそちらは変わらなければならない。それこそ“替わる”ぐらいのつもりで。
「変わらなければならない」はこちらでも言えて、あなたにも想起させられる。
でも「変わりたい」をこちらで自由には想起させられず、またするべきでもなく、
さらにはしたくないかいからしない。そのような「変わりたい」をあなた自身が
自分で独立自尊的に想起できて次にやっと「変わる」がある。替わるほどの。
義務(ねばならない)の次に欲求(したい)があって、その次に実際の変化(する)がある。
欲求の次に義務があるのではなく、義務の次にこそ欲求が。その辺の取り違えが結局、
法治社会における義務を逸脱した権利主張の原因ともなっている。
能動的には義務→欲求→変化であり、受動的には変化→義務→欲求である。
一貫できる場合に成り立たせ、無理な場合には成り立たせない。
くれぐれも義務と欲求の順序を逆転させる誘惑に囚われぬよう。
はっきり言って(アーメン)、独立自尊心を持てないあなたが嫌いです。
独立自尊心を持てない、単なる顔付きの陰裂のままに、この出雲国における
ヤマタノオロチ(不特定多数の書き込み)に加担しようとするあなたが、嫌いです。
どれぐらい嫌いかといえば、独立自尊心をちゃんと持てている状態のあなたが
大好きなぐらいに大嫌いです。
不特定多数の書き込みは不特定多数の書き込みであり、それはヤマタノオロチ
であるがゆえに斬り殺してもなんとも思わない。たとえそれがあなたであっても。
それなのにあなたがその内側に自嘲的に従属しようとすることが、いやである、
筆舌に尽くしがたいほどに。だからこそ嫌いである、そんなあなたがいやだから。
独立自尊と従属自嘲は相反する。今これは後者である。
だからこそ「変わるべき」の次にある「変わりたい」、義務の次にあるべき欲求を
僕自身があなたに想起させることはできないし、またするべきでないし、さらには
したくないからしない。そのような「変わりたい」こそをあなた自身こそが自分こそ
で独立自尊的にこそ想起できてこそ次にやっと「変わる」がある。替わるほどの。
「こそ」までです。僕に言えることは。「にもかかわらずではなくだからこそ」のこそ。
義務と欲求の取り違えにより「だからこそ」なものが「にもかかわらず」に転倒させられて
きた状態を、さらにもう一回だけ転倒させる回天の論理、紫山の論理を働かせるのみ。
十分となったときに“こそ”あなたに、義務の次にこそある欲求、
「ねばならない」の次にこそある「したい」が生まれる、かも知れない。
いくらでも書けることを止め処なく書いてるだけなので、
(なにしろ6000年の文化文明を一人で総括してるわけだから)
止まるのを待ってもムダだし、止めさせたいのならそれなりに
その旨を“如実”に示すべきだし、止めさせるべきだと思うなら
それ相応の策を講ずるべきだ。
「頭いかれてるんじゃない?」なんて、そんなのは当たり前だから。
自分自身が制御できる範囲内で、存分に頭いかれる、身体動かす、
それこそが働くということ、人間が金稼ぐということだから。
重ねて言うとおり、この程度は、商業ペースの文筆には遠く及ばない。
栗本薫とか京極夏彦とか、さらにはマリ子も慕ってるらしい村上春樹とか。
金稼ぐレベルで、文句言わず、実際頭や身体いかれながら働いてる
人間には一切お咎めなしで、ただただその頭いかれるほどの労働力を
即時的に金稼ぐことに使ってない、使えてない人間が精神障害だ
なんだと言われてるだけのこと。
よしんば、本当にあなたが、僕の頭いかれたレベルでの精神身体的
労働力の行使を、十分に減衰させるまで待つなら、それこそ本当に
皺くちゃの爺さんになるまで、夢精やセックスはおろか、オナニーも
できないレベルまで精力が減退するのを待たねばならない。しかも
それはあなた自身までが皺くちゃの婆さん、生殖能力の減退する
どころか、消失する時点(閉経)まで待つ必要のあることでもある。
そういうもんである、生きるということ、生きてしかも子孫を遺すという
こと、旺盛な射精が旺盛な排卵に対峙して、さらに次を繋ぐということ、
それ自体いかれてることである、頭や身体がいかれるとかいう以前に。
生きるように生きて繋ぐか、死ぬようにして生きて繋がないか、二つに一つ。
後者を選んでるだけでしかない今、前者を選ぶかもしれない今後。
地球外からの目視でも容易に確認できるほどに
海岸線造り替えてしまう所業がいかれてないわけがない。
人類そのものがいかれた存在ならば、個人的にも
いかれてる人間であればあるほど人類の代表たる。
問題は、人類の代表たるほどにもいかれてる人間が
十分な精神身体的衛生を保てるかということだが、
実際保てている、死なない程度には。のみならず、
「すがすがし」いぐらいだ。ヤマタノオロチ退治後の
スサノオが言ったように。まだ完全とまではいかないが。
人類の代表としてすがすがしい、ということはつまり、
人類全体がすがすがしいというような境地にいるのだ
ということ、聖書だのギリシャ神話だのエジプト神話
だのという、人類の文化文明全体からすれば瑣末な
部類に入る俗書だけに囚われることなく、本当に世界
全体を――一旦は地球外に脱出するほどの遠目に
俯瞰すれば、ちゃんと全体が自己完結する段階で
すがすがしく済んでいる。ガサツな殺伐の過剰さが
それを浄化するのにちょうどいい程度(約2.7倍)の
繊細な和気藹々と同居している。犯罪者が、それを
取り押さえるのにちょうどいい数の警官と同居してて
さらにその外側でまだ家族生活営めるだけの余裕
がある。現時点だからこそ。極めて強大な者同士
ではあれど、それらの競争に対して「いい大人が
綱引きなんかに夢中になってるぅ」って指摘しただけ
で勝手に向こうが萎縮する。気付くのが遅すぎた
裸の王様たち。さっさと服を着ろって話だ。早く。
ピアスだドクロだ遠隔釘打機だが、
武士と同等かそれ以上だなんてはずもあり得ないんだ。
それは言わば、関ヶ原から約200年後のアウステルリッツだ。
ほぼ同規模の戦闘を行うのにそれほどにも遅れて、それなりの
近代化を必要としたことこそが、それだけ臆病であるという証し。
逆に言えば、それほどにも勇気のある類の人間が自分たちの
知らない世界にいたということだ。自分たちが最大級の英雄だと
思い込んでいた人間やその所業が、さらにその4倍以上の格
を持つ人間やその所業に凌駕されている(「徳川家康」の分量÷
「戦争と平和」の分量で換算)。これもまた相対的な問題である。
人類全体を自己完結な精神身体構造として捉えるなら、比較的
あまりにも小さくてみすぼらしい連中が、あまりにも大部分の
世界を占有しすぎているが故に、どこにも救いも希望もない
ように思えてた(それこそ架空の宇宙人や超古代人を希求し
なければならないほどに)。しかし、そうではなく、そういった
小さくてみすぼらしい精神身体構造の持ち主を遥かに超える
精神身体構造の持ち主が、比較的には明らかに小さすぎる
世界に、結果としては全体としてちょうどいい程度の数だけ存在
していたわけだ。ゲルマン人の思想家(ニーチェ)なら何十回と
発狂してそうな状態でもすがすがしいような人間が、ゲルマン人
(アングロサクソン含む)が占有してる世界の何十分の一程度
の面積しか持たない小島に潜伏していた。何十倍×何十分の一
=1。それ以上になろうとしたり以下になろうとしたり、ことさらに
生存しようとしたり自殺しようとしたりする必要の一切ないただの
いち人間、そこに全てが集約されるように人類ができてたんだ。
肖像装飾もまた、己の臆病をそれだけ隠蔽しようとする証しだ。
孔子に始皇帝に聖徳太子に家康、東洋の偉人賢人覇者っての
は現代の西洋的な美化をのぞけば、ほとんど取り立てるほどの
肖像が残っていないし、あってもそんなにかっこよくない。
実際、そんなにかっこよくもなかっただろうし(孔子の身長188cm
もたぶん誇張)、肖像を飾り立てる技術も発達していなかった。
だからなんだ?という話だ。女ならまだしも、男が顔や身体の
外面的な特徴で取り立てられるなんて、それだけ中身が伴って
いないというだけのことでしかない。どんなに大きくて豪華だ
としても、少なくとも大きくて豪華であることが殊更に取り沙汰
されている以上は、それに比して中身の大きさ豪華さが伴って
いない、要するに小さくてみすぼらしいということである。
じゃあ逆に、ソクラテスやアインシュタインみたいに、肖像の
醜さや珍奇さが取り沙汰される場合はどうかといえば、これまた
どこか変なわけだ。醜さ珍奇さを披露しなければならない変態
さがどこかにある、少なくともそのような態度がすでにウレシだ。
肖像装飾、偶像崇拝を禁じること、完全否定すること、これも
また一種の奇形的肖像や偶像の強調を促す結果となってしまう。
それですらない、かっこよさかっこわるさ両面でさほどに他者の
奇を衒わない、質素さの内側で実力を見せ付けることにこそ
男の価値がある。どうしてもという必要性がある場合に限って、
自分もまた画像掲示板のサムネ上に収まることも容認するんだ。
かっこよすぎずかっこわるすぎない、消極的な身だしなみの元で。
で、いま現在、一切自分自身の肖像も偶像も見せてない
(マリ子には何回か見せちまったが)状態で、しかも匿名で、
すがすがしく、ほぼ済ませたこと、ヤマタノオロチ退治と、
それを段階を“下げた”視点から見た場合にそう定義される
最後の審判、易姓革命、文明閉化、男女格差完全是正。
実際、できていることだ、本当に、文面上だけではあるが、
現実問題を縦横無尽に駆け巡って、さらには他の匿名での
反駁も徹底的に対応し尽くした上でなお、できてることだ。
肖像や偶像の助けを借りることも一切なく、自分自身では。
しいて言えばその、助けになった肖像偶像が、マリ子だ。
自分ではない、マリ子の顔、芸能人にしちゃ薄いたぐいの、
身体もそんなに豊満でない、代わりに不可避に家庭生活を
希求させてくれるような内面的な繊細さを想起させてくれる。
おそらく自分(マリ子)自身でもまだ気付いていない、女と
しては最大最高級の独立自尊心を抱けるであろうその器。
芸能人や世界支配者であることなどよりも、まさにその点
においてこそ最大級の器量を持っているのだということ。
不可避に示され続けているわけだ、今ここでそれこそが。
器質と性癖が女である者どもの世界、芸能的な世界――高天原。
器質も性癖も男である者どもの世界、実力的な世界――出雲国。
勝敗は、器質では女の勝利、性癖では男の勝利、互いに1勝1敗。
「国譲り」が行われるとしても、それは器質的な女の勝利による。
性癖まで女であることを徹そうとすることは積極的に負けを認める
ことになる。器質的な女が、男の性癖で天下ること、必勝にして
もっとも理に適った天津神の国津神への接触手段。天孫降臨。