高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
白々しい虚勢が“お互いに”無効なレベルで話し合っている。まだ。
こっちが自主的に偉ぶった覚えはない、むしろ卑しんでいる、
付き合わされてきたものの卑しさに自分だけでなく日本全体レベル
で取り込まれようとしていることを嘆いている。
そっちが勝手に卑しんでいる、自主的に卑しんですらいる
相手をさらに、謙っている相手をさらに貶めるサディズム、
じゃあ自分自身はどうなのか、他者を貶められるほどに偉いのか、
「大規模な構造の管理者やその一味」であることにことかけて
己自身の卑しさ粗末さから目を背けているだけではないか、
だからこそ性懲りもなく他者を卑しむ、むしろ自分自身を
卑しむべきような人間だからこそ、それを怠って先に他者を。
構造の保持者、立派な大人の身体の保持者である以上は
突っ張らねばならない、なにがなんでも見下さなけりゃならない、
その神経そのものはむしろ子ども、身体だけ大人になった子ども。
子どもらしい子どもはかわいい、大人らしい大人も立派、
大人びた子どもも鼻には付くが、まあ許せないことはない、
んで、子どもっぽい大人、子どもっぽいくせに大人ぶる大人、
子どもの駄目な部分、「相手を卑しめた人間ほど偉い」という
未成長者特有の転倒した価値観を腹に蔵したままで大人になる、
しかも外面で大人しく振る舞うことだけは道具(修辞)として
ある程度はたしなむ、しかも実際に身体も大人、ただ腹蔵が
未だに小学低学年レベルであるに限って異色な大人。
そういった神経の大人によって、さらに大規模に構築された世界。
そういう神経の大人だからこそ山積させたゴミの山と言えなくもない。
貶められている、だから卑しい、まさにその通りな自分自身の認識だ。
でも、そうではなくて、「貶めている、だから偉い」というような価値観で
もって偉ぶる、さらには「貶められている、だから偉い」というような認識
をこちら側にまで強要しようとするような、価値認識が根本から転倒
している類の人間が少なからずいる。だから>321みたいなレスもある。
こちら側の無垢な認識からすれば、貶めることはそれ自体がすでに
卑しい、対象が自己であるにしろ他者であるにしろ、貶めようとする
その言及や行動がすでに、当事者自身の品性を貶めている、いくら
本人が社会的身体的に高尚な人間であったとしても、貶めようとする
言及や行動そのものが十分に、本人自身を卑しめている。
謙遜ですらない、「自分自身すら貶められるような余裕」を見せることで
かえって他者に畏怖を抱かせる類の、十分に配慮された平身低頭とは、
「自分自身を卑しむ」という方向性は同じであっても、まったくその存在
意義が異なる、意図的に自己を卑しめてるのと、知らず知らずの内に
自己を卑しめてしまっているのとの違い、卑しめようとして卑しめるのと、
むしろ偉ぶろうとして結果的に卑しめてしまっているのとの違い、
頭も尻もちゃんと隠してるのと、頭隠して尻隠さずの違い。
僅差であるにしろ大差であるにしろ、その差分だけでも自分のほうが
まだマシだという気持ちをこっちにもわざわざ抱かせてくれている、
感謝すらすべきかもしれないかくれんぼ上手たち。
何万何億の人間に迷惑がられても、生き残るべきだと思ったら生き残る、
その代わり、何万何億の人間に嘱望されても、死ぬべきだと思ったら死ぬ。
数の論理規模の論理に、微塵も惑わされることのない、
それでこそ真の「独立自尊」、諭吉さんいくら積み上げられても譲らない。
それがじゃあ、家族みたいな、身内をも蔑ろにする独立自尊なのかつったら
そんなことはなく、むしろ逆、大きすぎる数や規模の論理に惑わされない
堅実さこそが、己自身の家族を守る、より強固な姿勢体勢ともなる。
指で数えられる者同士の愛と、わざわざそれを超えようとする愛の違い。
諭吉さんとうまく付き合っていくのと、濫用しようとするのの違い。
家計簿付けてる主婦と、カードオンリーな女王様セレブの違い。
社会との堅実な関係こそが求められる。
社会の構成員である以上は、責任を持って堅実に働く、その代わり、
離脱者隠居者としては徹底的な無為無効を決め込む、今の自分のように。
そのどちらでもない、無責任なくせに社会的影響力だけは蓄えようとする
ような連中がだ、他者を貶める以前に、己の卑しさこそをわきまえて、消えるのだ。
できるなら外部から駆逐される前に自主的に。堅実な社会人に
なるのでも、完全な離脱者隠居者になるのでもどちらでもいい。
別に自殺でも構わないが、こっちは勧めない、むしろやめてほしい、
自殺も生存もウレシが治っていない証拠なのは前言のとおりなので。
ただただ、ある種の人間とある種の人間――見た目は小さくて質素でも
大人しさはちゃんとたしなめてる人間と、見た目の大きさ豪華さに囚われて
大人しさを蔑ろにしているような人間との優劣、分がわきまえられていない
ことに対して、心から思う「死ねばいいのに」。
個別の人間ではなく、人間同士の関係性にこそ。