高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
新日本銀行券(紙幣)私案:
10000円札:徳川家康
5000円札:関孝和
1000円札:坂本龍馬
特に大幅なインフレやデフレ、デノミなどがない場合。
全体的に「縄」を基調とした模様をあしらう。注連縄みたく。
複製困難な複雑な模様をあしらうのに縄はうってつけ。
あと、ぶん回しとさしがねも、ちゃんと閉じた状態で、
隅っこのほうに小さく描いてもいいかも。45度ぐらいに
開いて上下に交差させるような、どっかのグループが
やってるみたいな無意味な衒いはなしで。三角目玉は
部分的にそう見えるようなのも避ける。15年後ぐらいに。
ちゃんと貸した金も返って来てればいいんだが。
劣後もみそくそもされるべきでない、真に
優先されるべき代替があるからこその超然だ。
たとえ線形代数のような、どちらかといえば
そちら側の領分であっても、ムダに概念遊びを
しない、堅実な範囲内ですべきことはやってる。
ライプニッツと同時期に、同程度の行列計算に
及んでいた関孝和、結局和算がそれ以上抽象
数学に発展することはなかったが、現代数学が
固有値問題のようなこの付近の問題を完全に
解決できているわけでもなく、またQUTで真に
重要となるのもこのあたりの数学だったりする。
(もっともQUTは数学ではなく数理物理だが)
微積分で荒廃させられた世界を線形代数が建て直す・・・
微積分のニュートン、線形代数の関、どっちもある程度は
やっていたライプニッツ、英独日あたりに世界が振り回される
のは17世紀の時点ですでに確定していたところがある。
もっとも、日本だけ最後まで“伏兵”だったところがあるが、
世界から見れば。日本から見れば全て“片手間”ではある。
学問ばっかやって働かないなんて、若造の内だけの特権、
日本ではそう。大学院生が優遇視されないのもそのせい。
それに比べて、とっちゃん坊やが持て囃されすぎな世界。
家族のために働く生きがいこそを。
徳川家康、関孝和、坂本龍馬、
この三人で紙幣を固めるなら、龍馬ですら最安価に収まらざるを得ない。
「坂本龍馬を5万円札に」なんて意見もあるようだが、5万円札なんて
刷った所で庶民はめったにお目にかかれないし、なにも龍馬をわざわざ
インフレの象徴にする必要もあるまい。それよりは、自分みたいな5000円
単位でちまちまと引き落とす吝嗇にとっちゃ1000円札のほうが身近でいい。
そして最高額の10000円札には、吝嗇で知られた家康公を。金持ちほど
質素倹約を旨としなさいと諭すうえでは格好のお方でござい。一汁一菜。
関のやってた行列計算なんて、今じゃ学部初年度で
終わらせられるもんだが、ニュートンが流率法とか
その辺りの提示だけで「微積分の祖」だなんて崇められ
てるのを見れば、関にも十分に「線形代数の祖」と
呼ばれるだけの資格はあると思うわけです。
一番最初の理念を提示する人間っていつもそんなもの。
デカルトであれパスカルであれカルノーであれガロアであれ。
複雑な体系を構築するのなんていつも、あとでやってきた
自分たち自身ではなんにも生み出してない人たち。
ちなみに関もニュートンやライプニッツより年上です。
先輩です。やっぱりお年よりは大切に。
ttp://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-080808X585.html 一人の死よりも、10万5千人への迷惑のほうが大きく取り沙汰される。
その10万5千人の中に、急患で病院にたどり着けずに亡くなった人間
がいることだって考えられないわけではないが、やっぱり気分が悪い。
一人の人間が何万何億なんて人間の命を左右すること、
何万何億の人間に一人の人間の命が左右されること、
どちらも異常であり、本質的に忌避すべきであると考える。
生死が大きすぎたり小さすぎたりではなく、生死の大小が
物理的な規模によって振り切られること自体に異を唱える。
明らかな、繊細な和気藹々ではない、ガサツな殺伐の所業。
せいぜい左右し合うことが負の側面を生み出さないように。
追従追随を封じないよりは、封じたほうがいい。
第一発見者が故人や痴人であるにかこつけて、無責任者たちに
定義にしろ研究にしろ好き勝手やらせるよりは、させないほうがいい。
群論やマンハッタン計画みたいな前科もあるし。
その上では、生きないよりは生きたほうがいい、なるべく死なずに。
しかも閑人や道楽者を決め込むよりは、ある程度よく働いたほうがいい。
大前提が消極的であることから始める、生きること、よく働くこと。
実はそのほうが健康だったりする。意欲的に生きようとしたりするのは
度が過ぎると躁になり、落下して鬱になった結果、自殺意欲にも結びつく。
生存であれ自殺であれ、人間の意欲的な方向性であるには変わりなく。
制御しきれない過剰な意欲を嫌う上では、偏に消極的であるに尽きる。
消極的でいいんだ、愛らしいこと勇ましいこと、それらが会うことも。
ただ真正や真性であるにまつわる分をわきまえる限りにおいて。
消極性優先積極性劣後、これもまた文化文明や東洋西洋等の
優先劣後から不可避に導き出されることだから。
意欲が不埒に過剰なことを日本の俗語・幼稚語で「ウレシ」という。嬉しがり悲しがり。
完全なる侮蔑語、しかも子供、小学生程度の間ですでにウレシであることは徹底的に
仲間内で貶められて、大人になってからウレシであることは即・キチガイ扱いとなる。
外人、特に西洋人にはこのウレシが多すぎる。しかも大人になってからも一向にウレシ
な連中。日本人の小学低学年程度、しかも信仰→自己洗脳の様式による習慣付けを通じて
むしろウレシであることがよいことである、偉いことであるというような風潮すら
見受けられる。その認識から逆に、感情をあまりおもてに現そうとしない日本人などを
咎め、自分たちのように闊達であれ、心から幸福な人工的躁状態であれと強要する。
でも、実際問題として、日本にそれを持ち込まれると、とんでもないことになってしまう。
日本のせせこましく、しかも万年渋滞気味な道路を車やバイクで走ったり、商業電圧
(200V以上)の大型工作機械などで、日本人が要求するようなレベルの工作をしたりを、
外人・西洋人レベルのウレシと共に行えばひどいことになる。死んじまう殺しちまう、
体ちぎれるような大怪我を負ってしまう。
感情的だけでなく地勢的にも、不可避に和み、繊細さを要求されるこの日本でウレシが十分に
制御されていないことは、本当に致命的となる。外国はともかく、少なくともこの日本では。
だからって、日本人がウレシを一切抑えて、絶対に感情をおもてに現さないのかって
言ったら、決してそんなことはない。酒飲んだりタバコ吸ったりして、ある程度はストレス
解消としてウレシな側面を見せることもある。ただでさえ信仰→自己洗脳様式でウレシに
まみれてる外人が、さらなるウレシの自由と独立を求めて服用する麻薬なんかとはわけが
違う、あくまで制御された範囲内でのウレシの発散、わきまえられたウレシのたしなみ。
もちろん飲酒運転はいけない。それは、“外人が運転すること”並みに危ないことだから。
それでだ、マリ子よ、あなたがそのウレシの血筋をある程度引いていて、しかも習慣的にも
かなりキていることも多少は読み取れるから、せめてそのウレシが日本国内にいる間だけでも
十分に制御されるように、西洋とのハーフだからこそ黙認されてきたウレシな信仰→自己洗脳
の様式の危険性を並みの日本人か、せめて小学高学年程度にはわきまえられるように。
「来る」ことだって、結局はそのウレシなシステムをある程度は使わざるを得ないんだから、
別にシステムの責任者でもなんでもないんだろうが、ただ、自分自身がそのシステムを使う
以上は、それに関連して、多少はここででも弁明をしておく必要があるんじゃないか?
そこを怠っちゃなんない、消極的にも関わらずではなく、消極的だからこそ怠ってはいけない、
その、どんだけの数の人間を――不可避ではあるにしろ、精神病や自殺などに追い込んできたか
知れないそのシステムを“まだ”使わなければならないに関連して、これまた新規に不可避に
行わなければならない弁明がだ。気づかなかった内は許されても、気づいた以上は決して
許されないたぐいのそのシステムの利用に関して。
別に、消極的であること、信仰→自己洗脳のウレシを制御された途端に、一気に辛気臭い
おっさんおばさんになってしまうことなんて心配する必要はない。そんな心配しなくたって、
十分にバカだから、君ら。2000年以上も聖書みたいな本をバカ正直に、執拗に信じてきた、
気づかない内だけは許されても、気づいた以上は決して許されないたぐいのカラクリ、どんな
に高尚ぶったり偉ぶったりしてたとしても、ちょっとでも信じていた時点で超絶至極のバカ、
バカには見えないと本気で思い込んで着込んでた、本当に真っ透明の、シースルーの王衣。
まあ、信じてたことの内容はともかくとしてだ、せいぜいその正直なバカさ加減、
バカの極みを尽くせるほどの不可避、不可避なる無垢をだ、大切にするこったな。
喜怒哀楽を欲するということ、
情緒不安定を自主的に求めるということ、
全西洋文化文明の精神現象学的所業――ウレシ。
それを厭った厭われただけで、
悪魔扱いされたりしたりする、ショーペンハウアーの場合のように、
大部分の東洋人にとっての一般常識が、西洋人にとっての一般常識に、
ウレシ嫌いな大人が、未だにウレシな小学低学年に、見下げられる、
分をわきまえられない過渡的な世界において。
こっちだって別に、自分がものすごく、素晴らしく偉い、
大人らしい人間だ成人だなんてちっとも思っちゃいないんだが、
それにしたって、自分が小学校低学年の論理、
ウレシの論理に惑わされて、挙句の果てに自分の命まで
左右されるなんてことがあったなんて思うと、なんというか、
いたたまれない、微塵も感傷する余地すらない。
たとえ相手がいかなる偉人要人だ、大規模な勢力だなんて
言われたとしても、情けなくなる、むしろ自分のほうが、
その程度のものにいちいち自分が惑わされてたという意味で。
ロリコンというかショタコンというか、まあ児童性愛者、
しかも身体的というよりはむしろ精神的な、児童精神性愛者。
おそらくマリ子も。自分も誘われて、かなり際どいところまで
行かされたこともあったが、かろうじて踏みとどまった。
だって、自分自身が小学校低学年だった頃から思ってたもの、
早く大人になりたいって、精神感情が常に焼け付いてるような
様相、ウレシであることを心から恥ずかしいと思ってたもの、
自分自身でも、同級生なんかに指摘されても。
多分その辺の神経が、西洋人にはないんだな。そういった
低年齢児童に特有の、“無垢”な情緒不安定を卑しむよりは
むしろ貴ぶ、大人が確信的に肯定するピーターパン症候群。
その神経でそのままセックスもする殺し合う、身体だけは
大人になることで。児童身体性愛を徹底否定するのも実は
自分たちの児童精神性愛の裏返しだったり。
別に、日本という国を「ウレシすら許されない可哀相な国」だとか
思ってくれたって構わないんだ。それでそっちの気が済むんなら。
ただ、それをこの日本にまでそのまま持ち込まれると、もたない、
日本国にしろ日本人にしろ、すごく気まずい、いたたまれない、
情けなく思うことを、さらに情けなく扱われて、
さらにさらに情けなく思わされる悪循環。
日本だけでなく、地球もまたもたなくなってるところがあるはずなんだが。
児童ではなく大人の、大人による児童精神性愛の行き過ぎによる
人類社会、さらにはそれを取り巻く地球世界の荒廃、
食い止めて建て直す最大にして唯一の解決策、
“大人のウレシ”をやめさせること、やめてもらうこと。
できるかなあ、無理かなあ、やっぱり。