格式様式にこだわらないということが、これまた一種の格式様式になる。
ヨーロッパ系言語(ギリシャ語、フランス語等)の簡素化寄せ集めである
言語(英語)、それらを駆使した数式や論理式の構築、電気機械類の
構造特許、その他人文科学的なシステムの制定、合理主義を尽くそう
とする中でもまた作為的な格式様式を多く率いてしまっている。しかも
どちらかといえば不当、かなり不当、はっきり言って世界一不当な。
食べ物の味や豪華さにこだわらない等と言ったところで、結局人間は
食べ物を食べざるを得ない。本当に味や豪華さにこだわらない人間が
いたとすれば、それは同時に不可避に、まずい料理でも平気で喰う
粗悪な人間ということになるし、はっきり言ってそうでしかない。
ピラミッド・アイもそうだ。人類の歴史社会を普遍的に把握掌握すること
の象徴だったつもりであろうあのマークが、今では人類の歴史社会を
“不当な範囲内”だけで把握掌握することの象徴でしかない(
>>49-50、
>>76-77などを参照)。何かにかけて正当不当、誠意寓意、道徳犯罪の
二者択一でしかあり得ない以上、できる限り正当で誠意的で道徳的で
あったほうがいいと思うに決まってる。そのほうがマシだという意味で。
しょせん、人間でしかあり得ない。食べ物食べて、格式様式を不可避に
伴わざるを得ないような、いち有機的物理現象(生物)としてしか。たとえ
どんなに帰納的還元的な数式論理式を駆使するような者等であっても。
せいぜい粗悪でない衣食住等の格式様式を求めるぐらいしか、人間には。