高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
だから行きたいんだがな、たまには神社にでも。
神社で働いてもいいとすら思ってる。家も神道系だし。
でも今はまだ無理だ。問題が多すぎる、問題
なんて気にしないとかいうレベルでない問題が。
ガサツな殺伐が何かにかけて当たり前な世界、
繊細な和気藹々など女子供の戯れ程度にしか
見なされない世界、威力を旨とする威力が、
威力を旨としない威力を侵食して、結果的として
全体的に威力を旨とする威力的である世界、
神道的人間が活躍する余地などどこにも、
シテワキツレいずれであれ。
弱気に見えるかもしれないが、これも神道の側に立った場合のこと。
仏道や士道の側に立てば、いくらでも血気盛んな理屈屋になれる。
ただ、そちら側に行くと今度は血気盛んの理屈屋になりすぎる。
緩やかかつ大幅な三重人格。
記紀の記述だってそうだ。緩急自在に、色んな個性的な神さまが
出てくるが、よく読むとそれぞれにちゃんとした関連性が読み取れる。
あたかも日本中に多種多様な神社がありながらも、それらすべてが
協働して、日本全体に一種の結界を張っているかのごとく。
極めて多様ではあるが、全体的に見ればちゃんと一つに和合している、
振れ幅であればぶっちぎりの世界一でありながら、気負いの捨て去り、
威力があえて威力を旨としないことにより得る最大級の威力、大和。
文責負わずに済むが故に駄文書く人間は見ててむかっ腹が立つ――
おそらく他者から自分を見た場合にも、概ねそう見えるに違いない。
それじゃあどこまでも関係性は相対的なのかって、決してそんなことはない。
真理は一つ、真理子も一人。
正当に捉えてる側愛してる側書いてる側と、不当に捉えてる側愛してる側書いてる側と、
違う所は違う。ただ、原則的に己自身が正当であると不当であるという点において。
漠然と適当に生活する上ではさほど気にする必要もない代わりに、己の全所業が
風化して、完全なる宇宙の藻屑と化すその時まで、半永久的に存続し続けるカルマ。
たとえ匿名の無責任であろうとも、書いて残す以上は残る。サーバ上にもその内心にも。
神意だ摂理だと、やたら奇天烈な信仰の問題ではない。
かといって無闇に帰納的理性的な心理学や精神医学の問題でもない。
しごく素直な、原則の問題。原則が素直であるという問題。
真性臆病が言及上の自由や独立や愛や平和の威を借りて
世界を自己優先的に、過剰に支配侵略することが不可避に
ガサツで殺伐とした、色々な問題を引き起こさざるを得ないのだという、
素直に考えれば何となくでも分かるのに、その素直に考えることすらできない
ほどに臆病に取り込まれてしまった人々への、しごく素直な原則の提示。
読もうとしない分かろうとしないのもある程度は想定しているが
(だからこそ同じようなことを何度も書いてるが)、不快感を示すあたり
ある程度は内容を把握し始めているということか。福音書のように、
同じようなことを四回も書き繰り返さなきゃ分からない連中にも
多少は効いているということか。良薬口に苦し、せいぜい苦しめ。
今ではかなり慣れて、耐性もついたが(だからって一つも嬉しくはないが)、
やっぱり痛めつけられてきた、苦しめられてきたという自覚はある。
「いじめられてきた」のではない。「ライバル」でもない。そんな人間的な関係性はハナから皆無。
ただ、動物や虫に襲われるがごとく、蚊に刺されて日本脳炎やマラリアに罹るがごとく。
そんなに痛めつけ、苦しめてきた相手を今さらそばに置く、交流を深めようとする、
極めて疎ましいだろう。できることなら放置して、さらには死なせてしまいたいだろう。
あたかも蚊を叩き潰すがごとく、蚊ほどの小ささにしか見えないのはそちら側からでもそうだから。
ただ、そういった理由で放置されて、挙句の果てに死なせられるってのは、やっぱりイヤだ。
人間ってのはそもそも蚊ほどのもんでしかない、自分たちがそうなんだから相手もそうだっていう
そちら側の勝手かつ真性臆病な論理に、こちら側までつき合わされるのは、どうあっても許せん。
正当に死ぬのは微塵も拒まないが、不当に死ぬのは微塵も許せない。
痛めつけられてきた、苦しめられてきたこと自体を許すということ、それはあり得る。
自分自身の被害までもいちいち根に持つのは、真正勇気の体現者としての道義にもとるから。
だからって、そっち側に対して何の咎めもないってのは、政府による世界への1000兆円の
又貸しの場合と同じで、全体の道義にもとる。蔑ろにされるものが大きすぎる。
だからこそ、厳密に優先劣後を働かせてもらう必要もある。
自分が不当に死ぬのを拒み、不不当に死なないことが、不可避にそちら側の不不当な対応、
全世界の優先劣後の徹底を絶対的に促す結果ともなる。正当な道義を徹すためこその生存。
大局的な問題に付きあわされているからこそ、大局的に語らざるを得ず、だからこそ
結果的に日本国民である以上は、言わざるを得ない、こちらは他者と「友好」なんて
深めるには、あまりにも年を取りすぎているのだと。
若いからではなく、老いているからこそ若作りするアマテラス婆さんwith式年遷宮。
時の流れの残酷さを、エジプト人やギリシャ人よりも遥かに永いスパンでわきまえている。
語ること造ること、要は構築すること、本当に心から億劫でしかない、こちら側にとって。
しかも語ったり造ったりすることは、一つ大事なものを蔑ろにした上でのみ行われる、勇気。
自由や独立や愛や平和を、語るまでもなく実行に移すときに、必要なのはいつも勇気。
勇気がないからこそ語ると共に実行されず、勇気があるからこそ語られずに実行される。
構築は勇気でなく、勇気は構築でない。脱構築ですら語られた時点である程度勇気に反する。
勇気に加担することが、すでに構築への反目である。もしもそれを全体的に実現するなら、
今まで語られず読まれずにいたことこそは語り読まれ、語り読まれてきたことなどは語られも
読まれもせぬ必要がある。語る暇もなく働かされてきたような人間こそは語り、働けるのに
働きもせずに語ってきたような人間こそは黙って働く必要がある。まさに“替”わること。
法律家であること宗教家であること思想家であること学者であること、一切免責特権でない。
法律の内側に犯罪律があるのではなく、犯罪律の内側に法律があり、高尚ぶった宗教や思想や
学問の内側に犯罪律があるのではなく、犯罪律の内側にこそそういった宗教思想学問がある。
すべては大局に付きあわされているからこそあえて語る、大局的なこと。
自分自身はまだまだ未熟な若造、できることなら、本当に皺くちゃの爺さん婆さんに
自分やマリ子がなる前に、はやく本当に、言動共に、未熟な若造に戻りたいところです。