高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter20
だって、どう見ても入ってるから、これもう。
開通済みの英仏海峡トンネル、思い上がる陰裂、まえのすじ。
紋はどこまでもあしらわれるだけのもの、菊紋であれなんであれ。
開閉するのはあくまで門のほう、前門であれ後門であれ、広かれ狭かれ。
靖国神社の前門(神門)の開く時。
やましい心があると近付くこともできない。
勘違いの純心で入ろうとする奴もまた多いがな。
日本の伝統文化、特に神道文化なんてのは
その多くが寓意の完全劣後によって成り立っている。
注連縄にしろ、菊の御紋にしろ、巫女や力士の装束にしろ、
寓意の優先や同等視を許した時点でとんでもないことになるような。
許してる近現代人の、何と数多い。
名前に三の付く人とか、窪の付く人とか、結構な著名人も。
世界から見れば日本が逆説的だが、
日本から見れば世界が逆説的、先なのはこっち(日本)。
逆説同士の混同はやっぱり変なことなんだという分別を。
靖国神社も大きめの神社ではあるが、
あれ一つで200万以上の霊魂(龍馬含む)を弔ってる。
対してピラミッドは、基本一つに一人、
使役により死んだ多数の奴隷も外の墓に入れられる。
志が根本から違いすぎる。
日本精神の最後の砦としての靖国神社だとすれば、
その価値も大きさ豪華さではなく、小ささ質素さこそにある。
古墳や神宮とも異例の、近現代の大量生死に対応した
国家神道の性質も、実はいつだって全体的に見た場合の
小ささ質素さにこそあったのだということ。大和であれ零戦であれ、
さらには原爆慰霊碑であれ。過ちを二度と繰り返さぬためのだ。
股間で亀を飼う――亀無から亀有へ。
卑猥さを転がすのも、未成年はともかく大人には必要悪。
年増の処女など鬼婆でしかない。年増であることも処女であることも
独立には要件ではないが、変形合体して化け物になる。□+×
今さら引くのもままならんので、もう一つだけ足してみる。
冬のソナタ、ヨンさまスマイル、9cmの衝撃in亀有。
節酒(酌すれば自然に)、節煙(吸っちゃいないが)、
貞節(男なりの)、勤勉(夫なりの)・・・
すべてはマリ子の口からじかに聞かされてこそ。
例え可能性でしかなくとも、オスとの交接なんぞ、
入れる側だけであってもご免こうむる。
澄んだ鏡に顔を映してよく確かめるんだ、自分が本当に高橋マリ子かを。
確かにそうだと思う人間だけが来るんだ、何かにかけて。ちんちんかもかも。
「ようなもの」の分別を付ける時がいまだ。
マリ子のようなものの内、実際にマリ子なものと、そうでないもの。
手っ取り早いのはやっぱり、鏡を見ること。近縁の兄ちゃん姉ちゃんも
いれば、どう見ても似つかないオサーンオバサンもいるだろう。
しかし、違うのだ、いつだって厳密には様式が。
その厳密な様式の違いこそが、すべてを司っている。文字や言葉以上に。
様式であるにも関わらず最優先するのではなく、
様式だからこそ最優先しなければならない。
本当にマリ子である、マリ子のようなものの内のマリ子を。
原始人だから「ウホウホ」なのではない。
原始人だからこそ「精緻」なんだ。
原始人にも関わらずですらなく。
元始と現代を行き来する数少ない権利の持ち主であるが故に
文明にドップリ浸かってフヌケのヘタレのチンケと化した
大部分の人間よりも、精緻であり得るんだ。
剣や画や鏡や、墓や縄の扱い方もままならぬ
現代人を、よく教導(×調教)する。教師や学者としてではなく、
まさにあなたがあるがままにあなたであることによって。
なにかにかけて「にもかかわらず」ではなく「だからこそ」である。
最後の審判であり、易姓革命であり、文明閉化な回天の論理だ。
替わる“にもかかわらず”ではなく、
替わる“からこそ”の潔さが求められる。
後退機能も、往復分の燃料もない試作特攻兵器
回天や桜花に乗り込む並みの、覚悟がいるんだ。
己が命を小さく、かつ質素に扱う精神こそは
もっとも大きく、かつ豪華になり得るんだ。
いかなる飾り物によっても表現し切れないほどの。
師もまた決して、皆無ではないでしょう。
薩摩武士のように、勢いよく斬り込んでくる相手と
正面から対峙して、相手の刀すら奪ってしまう、
上泉信綱や柳生石舟斎のような人も、現代にも結構いるんだ。
でもそういった人たちよりもさらに偉ぶろうとする、
さして偉くもない連中に紛れてしまってて、よく分からなかった。
にもかかわらずではなく、だからこそ偉い人たち、
そういう人たちにもまた会えたらと思う。マリ子とはまた別に。
会える資格や礼儀を、こちらが得てわきまえた上で。