>>50のリンク先でも書いた通り、現人類の全文化文明の
従属対象である正当不当以前の人工――縄による文明の誕生以前、
石器や壁画、これがいわば純粋文化だ。
純粋文化の志向としての石器や壁画、あえて現代的な用語でいうなら
それぞれが「武や美」にあたる。武と美、剣と画、ローマ神話でいう所の
マルスとヴィーナス、創世記の記述に則れば、蛇(縄)による誘惑を
受ける以前の、楽園にいた頃のアダムとイヴってことになる。
でもすべてが本来的には後付けの定義、ローマ神話も旧約聖書も
縄による拘束を受けてから、縄文土器ピラミッド以降の記述形態、
マルスもヴィーナスも、ギリシャ神話時代のアレスやアフロディーテ
としてはかなり貶められた扱いだし、アダムとイヴも極端に不当な
原罪者の象徴として描かれる。でもそうではない。ギリシャ・ローマ
神話だの旧約聖書だのが作り出される遥か以前、ピラミッド以前、
さらには縄文土器以前に、すでに石器や壁画などの形でそれは
すでに存在していた。文明の束縛を一切受けていなかった頃の武と美、
剣と画、強い男と美しい女、200万年程度の「最後の楽園」のようなもの。
それいいじゃないか、画になる女、美しい女なんだから。
神話とか伝説とか、ぜんぶ文明の側の後付けなんだから。
自分自身が画になること、美しいこと、それだけを糧にして生きればいい。
それ以外の何物にも囚われぬ、言及以前の自由や独立や愛や平和の
顕現となれ。象徴ではなく顕現に。ただ光り輝き続けるだけの太陽に。