高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter19
もうね、飽きた、世の中に。
不当に水増しされた仮構物だらけの文化文明に。
絶望したとか、不満だとか、倦怠とか
そんな大それたもんじゃなくて、ただ飽きた。
最大限正当であり、最小限不当であるよりは、
最低限正当であり、最低限不当でないのを目指すのが先か。
ただ、それにしたってもう、俗書(聖書)に則るという選択肢は、ない。
ここの書き込みを読んで理解した人。言及による犯罪寓意の顕在化を確認した人。
まだまだ少ないだろう。世間付き合いでどうしても俗書的なものに
接する必要性も多少はあるだろう。ただ、それにしたって お ま え はもうない。
そこのおまえ。これを読んでるおまえ、あなた、みなさん方。
俗書的なものをほんの少しでも正当化、肯定する人間が、
ここでの言及を十分に踏まえた上でまだ態度を変えないとすれば、それは妙ちくりんだ。
新宿歌舞伎町や二丁目を聖なるものとして讃える妙ちくりんな人々だ。
新宿歌舞伎町も二丁目もある。聖なるものも実際ある。
でも新宿歌舞伎町や二丁目を聖なるものとして崇めるとなると、ちょっと知らない。
言及によって顕在化された「新宿歌舞伎町や二丁目に聖性を与える傷口教や林檎教」。
信じられるものなら信じてください。椎名林檎でも新たな教祖様に据えて。
マリ子も「おまえ」の範疇だろう。少なくとも来る以上は。
で、正直なことを言わせてもらいますと、
椎名林檎を唯一絶対神として崇めるような
奇特な女性の面倒まで見させられるのは、ごめんこうむります。
せいぜい曲が好きとか、そのぐらいにしといてください。たぶん、
林檎さん自身もかなり身を削ってやってるところあると思うんで。
思うに、真のキリスト教って、聖書を捨てた処から初めて始まると思うんだ。
聖性を活字のみに与えたことが寓意なら、聖性を堅実にこそ与えるのが誠意だ。
寓意は犯罪律となり、誠意は道徳律となる。逆方向のベクトル同士で最大級の
綱引き競争をした結果、犯罪律が道徳律に負けることで初めて言及と行動
両面における聖性が確立される。聖賢による聖書の超克による聖道の確立。
そこに有意義を見出したのがコーカソイド(白人、インド人、アラブ人)で、
聖書(白系)と聖賢(インドアラブ)の勝負を先天性の道徳者であるモンゴロイドが審判する。
聖書自体、聖性にこだわるコーカソイド全体にとってのいち帰属物であり、
捨て鉢側は捨て鉢側として精一杯やるという上でのメルクマールだった。
とはいえ結局捨て鉢は捨て鉢、鉢を完全に捨てて初めて始めることができる。
捨てさせる、捨ててもらうのはこっちの仕事、本当に捨てるのはそっちの仕事。
精神性が根本的に受動性であるコーカソイドが聖書を自分で捨てるからこそ、意味がある。
「わかった、じゃあかえる(collectible understanding and changing)」
から「僭越ながら、替えさせて頂きます(英訳不能)」へ。
脳内言語が漢字を最優先できて初めて始まる「替わった私」。
「あんなに俗っぽかった私が、こんなに俗っぽくなくなっていきます!」
(俗書圏・白人圏の回心者、Aさんの言)
「始めから聖を目指していた私が、どんどん聖らしくなっていきます♪」
(聖賢圏・インド圏の求道者、Bさんの言)
「聖も俗も程ほどに、最低限の道徳に則って生きていきます・・・」
(道徳圏・日本圏の生活者、Cさんの言)
基本的道徳性を「1」であると捉えるなら、
−1<Aさん≦0、 0≦Bさん<1、 Cさん≒1(実は−1≦Cさん≦3)。
AさんとCさんは、自分たちが則ってた場所(1、−1)の見た感じ(絶対値)
が似てるんで、親和しやすいように思うが、実は絶対差分は2もある。
俗っぽかった人間(Aさん)が俗っぽくなくなることで得られるのは実は
聖性をわきまえていける立地点(0)でしかなく、そこからさらに
聖性の高みをBさんと共に目指して始めてCさん(1)にたどり着ける。
−1<AさんとBさん<1がコーカソイド、聖俗を司る人々。
Cさん≒1がモンゴロイド、道徳を司る人々。協働して得られる聖道(聖+道)。
Dさん(ネグロイド)が早く完了してくれるのを待っている。
−1〜1が−1〜3によって絶対的な1に掃き清められるのを。
半分俗書教徒・白人(Aさん)で、もう半分先天性道徳者(Cさん)であるマリ子と、
ほぼ完全に先天性道徳者(Cさん)であるおいらとが共に「1」になるためには、
マリ子自身が、先天性道徳者としての能力を最大限に発揮する必要がある。
(−1+3)÷2=1.
今までやってきたことは、俗書教徒(Aさん)として最大限俗っぽくなくなろうと
してた努力家のマリ子に、オイラがあたかも聖賢(Bさん)の初心者っぽく接してた。
Aさんの最努力=Bさんの開始点=0.
言及で聖俗を相殺した結果得られるのは結局「0」でしかない。
それは先天性道徳者であるオイラが、最大限先天性道徳者として能力発揮した
場合のハーフマリ子と基本的道徳性(1)に則って付き合う場合の参考にはならない。
“頂く頂く”の最大限の道徳精神(3)と、“あげるあげる”の犯罪精神(−1)を
足し合わせて基本的な道徳者(1)となるのは偏に、いまのマリ子自身の仕事。
犯罪律(−1)の関与者であるからこそ、最大限の道徳律(3)に則る必要がある。
最初から犯罪律の従者でないオイラ(1)とはまた別の問題。