高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter19
リベラルの言及がすでにこの世界のほかの誰かのリベラルの収奪である。
精神病や自殺の言及がすでにこの世界のほかの誰かの精神病や自殺の、
犯罪の言及がすでにこの世界のほかの誰かの犯罪の誘発材料である。
言及そのものが犠牲(サクリファイス)を不可分に必要としている。
犠牲の結果言及するのではなく、言及こそが犠牲を求めているんだ。
にもかかわらず(犯罪を)言及する連中って、一体なんなのか?って、
明らかに犠牲の要求者なんだ。「人々が犠牲を要求している」のではなく
まさに今そこで犠牲の必要性を言及しているおまえこそが犠牲の要求者だ。
責任を自分以外の誰かに押し付けることによってのみ適う類の言及がある。
それこそが不当な言及であり、寓意的な言及であり、犯罪的な言及である。
言及の直前に今一度、その言及が犯罪的寓意的不当性の賜物ではないか
省みる配慮こそが必要とされている。
「俗」であることもまた、一二の宗教になりえたのだ。新旧約聖書信仰という。
俗でないから宗教ではなく、俗だからこそ宗教であるという段階があるのだ。
中国もインドもアラブも宗教的ではあるが俗ではない。多少は俗もあるが、
少なくとも宗教的であると同時に俗であることはない。俗でない宗教の信仰。
根本的に俗を肯定しない宗教。リベラルとか精神病とか自殺とか犯罪とか
語るまでもない、語った時点で俗を肯定してしまうと始めから解ってる宗教。
「俗であれ」「俗であるな」いずれであれ。積極的に俗を強調すること確かに
“俗教”である。“俗書教”である。体系的に正当化された俗物根性である。
本質的に新宿歌舞伎町であるからこそ、むしろ外面は新宿歌舞伎町である
ことを厭う。新宿歌舞伎町そのままでは取締りの対象になること必至だから。
取締りを巧妙に抜け出て人心を掌握した、新宿歌舞伎町教。林檎教傷口教。
本当に聖道を目指す人間は、聖であることと聖でないことについて語る。
俗道しか目指さない人間は、俗であることと俗でないことについて語る。
聖であることが俗でないとか、俗であることが聖でないとかまやかしだ。
聖俗の求道は「そうである」「そうでない」の両面において分裂している。
聖道を目指す時、聖書(本当は俗書)が反面教師以外のいかなる参考
にもなりえないことを知らねばならない。大学教授級であっても乳児園
からやり直さなければならないぐらいの覚悟が必要になる。マリ子でも
もし本当に聖書信仰者で少しでもあったならば、それぐらいの気持ちで。
少しでも「行ってあげる」であってはならない。
少しでも「行かせて頂く」でなければならない。
あなたがへりくだるのではなく、あなたが行くことがへりくだるのだ。
あなたにへりくだってもらわなければならないほどこっちも偉くはない。
ただ、「行くこと」が尊大化されるのを許せるほどこっちも卑しくはない。
行く以上は、行くに関連してへりくだる。
あらかじめ「行く」の犯罪性を「へりくだる」の道徳性で相殺する。
そこで初めて、こっちから声かける要件も辛うじて満たされる。
こっちだってそうだ。
少しでも「かけてあげる」であってはならない。
少しでも「かけさせて頂く」でなければならない。
あげるあげるから、頂く頂くへ。支配意識から互恵意識へ。
何かにかけて無駄な罪を重ねない配慮を。のみならず
不可避な原罪であっても、あたう限り粗相のないように。
どうぞよろしくお願いします。