高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter19
原則として犯罪者でなければならない瞬間はあり得るか?
言及する以上、それはない。
言及するからこそ、あり得ないんだ。
逆に言えば、言及しなかったからこそ今まであったんだ。
「原則的な犯罪者」なるものが。
原則的に犯罪者であることを非・寓意的に正当化することはできない。
なぜなら、犯罪だから。例えば強姦で被害者を手なずけるような。
だからこそ「磔刑」だの「わき腹の傷口」だのとアレゴライズ(寓喩)してきた。
自分たちの欲望を満たすために他者の利権や精神性を侵害することを
原則として正当化するために寓意的な美辞麗句をこしらえた。
「言葉は神である」の倒立論理で、寓意であることすら隠蔽して美辞麗句として完結させる。
(「聖書」という書名自体、そういった言葉の価値の偏重を強く肯定する意味合いがある)
編纂者はともかく、享受者はそんなこと知らずに美辞麗句に心酔して奔走する。
もしかしたら編纂者自身ですら、美辞麗句であることこそが本質だと倒錯していた
かもしれない。原則はあくまで美辞麗句であって犯罪的であることは二の次であると。
でも、実際そうでない。
美辞麗句であることにも確実な意味合いがあって、それが犯罪寓意(クライモラル)だった。
動物ならともかく、言葉の分かる人間である以上、わきまえざるを得ない犯罪性がある。
言い逃れはできない。美辞麗句として理解していた以上、犯罪寓意としても理解できるのは
当然。美辞麗句として理解できるからこそ犯罪寓意としても理解できる。できないならできない。
どっちかしか理解できないなんてのは、皇統と旧約聖書の対比と同じで都合が良すぎる。
皇統が御伽噺なら旧約聖書も御伽噺、旧約聖書が史実なら皇統も史実。二つに一つ。
旧約聖書は認めて皇統は認めない、美辞麗句は認めて犯罪寓意は認めないって、
そうは問屋が卸さねえ。両方とも認めるか両方とも認めないかどっちかにしろってんだ。
原則として聖書に従うなら、こっちが原則として記紀に従うことにも逆らわない。
原則として美辞麗句を称えるなら、それらが原則として犯罪寓意であることも甘受する。
所詮は記紀や犯罪寓意の“顕在”に気付くまでだけの、夢物語であったということです。
まだまだ世の中気付いてない人は多いようですが。まだ言及“されて”ない人々が。
聖書と聖道――言葉は似てても全くの真逆。
片や犯罪的寓意的不当性を定立し、片や道徳的誠意的正当性を定立する。
見誤ってはいけないのは、「聖書」という書名自体がすでに寓意であること。
犯罪的寓意的不当性の書物である以上、明らかに「俗書」と読んだが正当。
でもそれじゃあ人気が出ないんで、ひっくり返して「聖書」にした。これである。
(まあ、これはあくまで日本語名としての話だが。bibleとかの由来までは知らん)
俗書に則るとすれば、それは「俗道」だ。まさに聖道の反対。
求道者でも「俗道者」、賢くても「俗賢」、霊魂は「俗霊」、大偉人は「大俗人」。
「聖○○」とか呼ばれていたものを「俗○○」と呼び替えただけで、ほとんどの言葉
の意味がなくなる。馬鹿にしたり、皮肉としても使えない妙ちくりんな言葉ばかり。
本来はそういったものに対し、聖性を寓意的に付与したからこそ不当になり、
憎悪を溜め込む犯罪律の教科書にもなった。
俗を、俗以上の何者でもないとわきまえられたなら、
むしろ俗は勝手に自分で萎縮するもんなんだ。恥ずかしくなって。
俗にあらかじめ聖性を付与する潜在的なブースター(聖書)があったからこそ、
今の世の中もここまで俗っぽくなった。ある程度はそれらのブーストされた俗が
不当であることを感じつつも、ほとんどの人間がそれらの俗のブースターの本性に
気付いていなかった。だからたらたらやってきたさ。今まで。
有益有害でも無益無害でも有益無害でもなく、無益有害であることが分かった
からこそ、なんとかなるって話。ブーストされた俗との腐れ縁を断ち切るいい機会だ。
聖すぎず俗すぎぬ、昔のような江戸に東京らが戻るのにも。
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/15(火) 01:46:50 ID:q4G5DKIX0
500mリットルを、250mlのコップに2杯にそそぐ。
1=1+1
つまり1から2が生まれる。
別の概念が加わる域では数学の閉ざされた世界の法則は通用しない。
つまり1+1=2だと信じているものは閉じた世界でしか
物事を考えられない、知識だけを学んだ知的信者(科学万能主義)
ではないのか?
哲学者なら事象を疑え。この世は特定の見識だけでは閉じた世界を
考える結果になるが、実際的には開いた世界である。
極わずかな差があればバタフライ現象によって無限の差へと変化する。
三体問題以上が解けないのはこの多様性の根元が世界の本質だからだろう。
特定の閉ざされた世界では論理は通用するが、別次元の論理には通用
しない。アメリカの正義とイスラム主義の衝突のように。