高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter19

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958名無しさん@お腹いっぱい。
>>957
つまんないよ。
いま犯罪加害を積極的に、存在性を強調してるのは明らかにおまえだもん。
こっちは犯罪加害に対し、肯定するにしても否定するにしても消極的であるスタンス。
憎悪の火種――憎悪と犯罪加害、どっちが先かっつったら犯罪加害、
その犯罪加害の存在性を元から断ち切ることにこそ努める。

だからこそ言っている。「最後ぐらい後腐れなくお別れしませんか?」と。
非難に反発するでもなく、謝罪を要求するでも服従を強要するでもなく(当然だが)、
絶対に何も書くなとも書けとも命令するでなく、どうでしょうか?という意味で。
まだまだ書きたいことは一杯あるが、おおよそ「最後の審判」に該当するような
言及は一通り済ませたし、スレの終わりも近いんで、どうせなら次スレへの
自分自身の執着を断ち切る上でも、どうかお願いしますと。

でもできないわけだ。憎悪の火種を断ち切る気におまえらのほうがまだなれない。
一種の拝火教徒。いわばダルビッシュ有(日イランハーフ)のホモ達なわけだ。

イランはホモ厳禁だし(さすが男系)、自分だって同性との股間遊びなんぞ
ごめんこうむるが、ただ、友人としてであればダルビッシュは受け入れられる。
イランが正当なら拝火教も正当、不当を喝破する正当教義として十分納得がいく。
もちろんあっちの都合もあるし、こっちも野球ほとんど分からないし、性格も
知らないし(正直ワルそうw)、こんな概念的な文脈でわざわざ持ち出される
のもあっちにとって迷惑かも知れないが、もしも有名社会に出て、友人を作るなら、
少なくとも不特定多数のユダヤ人やイギリス人よりはダルビッシュのほうが候補に
あげやすい。それに、マリ子もこんなでっかい男(ダルビッシュ程ではないが)に
好き好き好き好き言われて、付き合いの全責任を背負わされるのも酷だろうから、
仮に出ていくにしても、マリ子以外との付き合いも受け入れられる範囲では
ちゃんと受け入れていくという意思表示も込めて、こんなことを言った。

全2ちゃんねらーを代表しろとは言わない。ただ個人的にであっていい。
全ての憎悪を断ち切れず、事後にまた非難的な書き込みがあったとしても、
ただ一つだけであろうとも、一人の人間の憎悪の火種が断ち切られたという
確信を持てるような書き込みがあれば、これ幸い。一つ消せれば、次も望める。
不当性ではなく正当性の、寓意ではなく誠意の、犯罪律ではなく道徳律の、
そして憎悪ではなく聖賢の連鎖を促す第一完了消化対象になってくれ。
959名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 18:37:15 ID:YljU7zCa0
ある種の宗教――仮面の宗教――犯罪律が己の不当性を隠す(正当化する)
ために被っていた宗教の仮面――それが聖書教(ユダヤ教、キリスト教)。

「仮面の告白」もまた、すでに用意されていた。林檎の正体も解っていた。
でもまだ何かある、仮面の内側に何らかの余剰的な価値があると希望的に
観測していたからこそ、仮面を被り続けた。実は単なる犯罪原理主義。

誰も解ってはいなかった。犯罪律はしょせん犯罪律でしかないということ。
“確信犯”など一人もいなかった。仮面を被っているつもりの仮面だった。
問題は、仮面自身の罪だ。罪に犯させられていた者どもの罪だ。
有罪か無罪か、執行猶予ありかなしか、恩赦ありかなしか、それとも死刑か。

知りません。警察も検察も裁判所も刑務所も死刑台もみんなあんたらのもんだ。
犯罪と刑罰と教誨という、犯罪律の体系的構築者の所有物だ。犯罪関連証拠品だ。

だからそういった、犯罪律への傍観者であることこそが自分の役割といえる。
傍観者として勝手なことを言わせてもらえば、犯罪律の仮面もきれいであれば
あるほどいい。(犯罪律の中では)さして罪もなく絵を描いたり彫刻したり
音楽やってたりしてた人たちのほうが近づきやすい、それは当然のこと。

でもそれが実際のところ、どす黒い既成の犯罪加害とも本質的に同一であると
分かっている。犯罪被害と犯罪加害、新約聖書と旧約聖書、正教やカトリックと
ユダヤやプロテスタントの表裏一体をよく知っている――にもかかわらず
それらすべて、少なくとも今の今までは犯罪律そのものであったことはない。
犯罪律に犯させられていた、犯罪律が被っていた仮面の側、いわばその犯罪律の
仮面の表側が犯罪被害であり、新約聖書であり、正教やカトリックであり、
裏側が犯罪加害であり、旧約聖書であり、ユダヤやプロテスタントだった。

仮面は仮面でしかない。仮面に犯罪律としての責任を問うても仕方がない。
ただ、これからは犯罪律の被る仮面ではなく、道徳律の被る仮面となるように。
のみならず、道徳律の“真面”とすらなるんだ。仮面としての罪滅ぼしにも。
今まで仮面としてのきれいさ美しさを磨いてきた理由もそこにこそあるはず。

仮面でしかないが故に、美しい仮面であったという自覚を。
美しい仮面として最大限に活用された先にこそ、内面まで美しい、
内外共に美しい真面となれるのだということを忘れずに。