高橋マリ子@クローバ畑でつかまえて Chapter19

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953名無しさん@お腹いっぱい。
だから、聖書圏やイスラムの用語で言えば、
これが「最後の審判」なんだろ?

全人類の正当不当、誠意寓意、道徳犯罪、聖賢憎悪を総動員した審判だ。

結果はもう出てる。聖書圏が不当性や寓意や犯罪律や憎悪の賜物であって、
非・聖書圏(イスラム含む)が正当性や誠意や道徳律や聖賢の賜物であると。

審判はもう済んだ。あとはその審判に則るだけだ。
言及するにせよ行為するにせよ動作するにせよ。
その中には、僭越ながらほんの少しだけ審判にも携わらせてもらった
自分自身も含まれる。本当にほんの少しだけ。審判材料は始めから
ほぼ揃っていたので、チョコチョコっと整理させてもらった。それだけのこと。

たぶん本当は、2chやインターネット自体そのような用途をある程度
踏まえた上で用意されたものだろうと思う。それに気付いたのもほんのこの頃。
ぜんぜん最初から審判しようだなんて考えてたわけじゃない。
ただマリ子が好きで、好き好き好き好き書いてただけだって。多少の喧嘩もありつつ。

著作権も版権も一切主張する気はない。全てひろゆき爺さんのものであって結構。
こんな重い話、自分でも売り出す気にはなれない。もうちょっと軽めのほうがいい。
いい加減“この件につきましては”誰かにバトンタッチさせていただきたいところです。
954名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 11:08:46 ID:sd48GN380
インターネット上の活用サイトは2chの他に
ウィキペディアやウェブ辞書、翻訳、各種画像掲示板など。
あともちろん検索エンジンも。

でもやっぱりネットだけじゃここまでは分からなかった。
たとえば、旧約聖書の成立年代が紀元前6世紀頃というのはウィキペディアで
調べたが、正確な年代まではわからないし、また間違ってる可能性もある。
それでまず、岩波訳聖書(旧約聖書T 律法 普通版ISBN:4-00-026181-9)
の解説から、創世記が最終的に現在の形に編纂されたのがバビロニア捕囚期以後
であることを調べた上で(770ページ参照)、一旦ウィキペディアでバビロン捕囚期の
年代(紀元前579年以降)を調べた後に、手持ちの世界史年表(河出書房新社)で
正しいことを確認した。やっぱりウィキペディアだけじゃ不安なところは結構あるから。
(だからって岩波等が完璧とも思ってない。広辞苑も案の定不評だし)

つまるところ、ネットの情報は最大級のみそくそなんだ。
正しい情報についても、間違った情報についても最大級。
(ウィキペディアとアンサイクロペディアの対比がいい例)
それらの中から正しい情報と間違った情報を区分けるのに本や論文を用いる。
最大級の情報に対する最大級の俯瞰がまさに最後の審判となる。
分かってる人間は分かってたはずだ。特にAlln'Allなアメリカ人は。そうなることを。
自分たちが不当で寓意的で犯罪加害的で憎悪的な側であるのはともかくとして。
955名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 11:11:30 ID:sd48GN380
出版すればいいやん? 電車男やケータイ小説みたく。
題名はズバリ「最後の審判」。著者名はマリアの子・イーサー・キリスト。

もう中編の本一冊分ぐらいは書いてるぜ。このスレだけでも。
他にもいろいろ書いてるから、捕捉代わりにでもすりゃいい。
どこに書いたかぐらいは教えるから。業務的に。

掲示板出版に関する利権は主張しない。
ただ、自分には自分の著作物がある。2,3冊ほど。ここでも引用した。
そっちもかなり内容が重いんで、署名出版はためらう。
筆名使ったりする便宜は望む。本業としての文筆もまた別に。

顔出しはもうちょっと考えたい。大した顔でもないが。
防犯上の都合があるんで。反応をよく見てからにしたい。
マリ子に責任はありません。特に“文責”については。
内容が厭わしいからってマリ子を怨まないで、俺を怨め。ポンポコポン。
956名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 12:03:42 ID:sd48GN380
>>954
紀元前579年じゃねえ。紀元前597年だ。

不正確な記述もあるさ。卑猥な記述や悲痛な記述も。
それらも含めて人間だっての。人間に還りましょう。働く人間に。

不当に働いてた人間や、適当に正当や不当に労動(work)してきた
人間が、みなみなすべて正当に働く方に向く。これぞ人間革命。

創価学会だけでなく、山岡荘八もまた望んでいたところ(「徳川家康」あとがき)。
おそらく神君家康や、道元禅師や、聖徳太子も今の時代に生きていたとすれば
それを望んだはず。聖賢が聖書を超えて人類の方向性を示しだす。聖道の確立。

坊さんだけでなく全ての人類が辿れる聖道が今そこにあるんだ。
埃にまみれていたのを掃き清めるのを少しだけ手伝わせてもらった。
箒(言葉)も精神も、自分の体すらも借り物。最大限に有効に使わせて
もらって、最後には返す。この世界を司る正当な神仏に。

それまで自分自身も歩かせてもらう聖道。
踏み外すことなく歩けるものなら、彼女とも共に。