【探偵物語】 松田優作 【太陽にほえろ】

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225松田優作=金優作(キム・ウチョク) 1
 「太陽にほえろ!」のジーパン刑事。「探偵物語」の工藤ちゃん。「蘇える金狼」の朝倉哲也……。
 テレビや映画でさまざまな名前を演じ分けてきた松田優作にとって、受け入れがたかった名前があった。
 金優作。
 日本国籍を取る前の、本名だった。
 12年前、40歳(戸籍上は39歳)の若さで亡くなった優作は、韓国に半分のルーツを持っていた。

 あのころの優作は、いつも何かにいら立っていた。
 1971年。東京で役者修行をしていた彼は、最初の妻・美智子と出会い、一緒に暮らし始める。ともに21歳。
 優しさの代わりに、美智子を試すような言葉ばかり投げつけていた。
 「本当のオレを知れば、お前は逃げ出すさ」
 「無条件に愛せるっていうのか?」
 友人によると、1年以上たったある日、こんなことがあった。美智子が部屋に置き忘れられた手帳型の外国人登録証明書を見つけた。
 初めて「韓国籍の金優作」であることを知る。
 その後、優作の親類が訪ねてきて、何かの拍子に在日韓国人の話題になりかけた。
 優作はあわてた様子で「彼女にはまだ話してないんだ」とさえぎった。
 「知っていたわ」と美智子が言った。優作は涙ぐんだ。「それでも一緒にいてくれたのか……」
 73年、日本テレビの刑事ドラマ「太陽にほえろ!」の出演が決まった。優作は日本国籍取得の手続きを取った。
 法務大臣あての帰化の動機書に、優作はこんな趣旨のことを書いたという。
 「番組出演が決まり、全国に名前を知られることになりました。私が韓国人ということで、誰かを失望させたくありません」
 知人には「自分の子供には、2つの名前で苦しむような思いをさせたくない」とも話していた。
226松田優作=金優作(キム・ウチョク) 2:2006/04/02(日) 10:52:02 ID:NfOloAmK
 かつて朝鮮半島への玄関口としてにぎわった山口県下関市。今も韓国・朝鮮籍が市民全体の1.7%を占める。
 民族衣装店が並ぶ商店街から歩いて数分のところに優作の実家があった。
 49年9月、在日一世の母と日本人の間に優作は生まれた(出生届上は50年生まれ)。その父は母の妊娠中から姿を消し、
 優作は顔を見たことがないという。「松田」は一家の通名だった。
 少年時代、圧倒的な親分肌だった。腕力はだれにも負けなかった。
 石原裕次郎の日活映画が好きだった。映画をみた後、友達を集め、
 主役兼監督になって実演をさせた。「死に方が悪い」と何度でもやり直させた。
 だが、運動会で親類の女性が朝鮮民族の衣装、チマ・チョゴリを着て応援に来た時は、落ち着かなかった。
 大人になっても覚えていて、「あの時は裏切られた」と話していたという。
  小学4、5年のころ、日本人の同級生をつかまえて「朝鮮人は目が細いからすぐわかる」と言った後、
 「オレの目は違うだろ」と同意を求めたことがある。この同級生は
 「優ちゃんだって朝鮮人じゃないか」と内心思いつつ、口にしたときの反応が怖くて言えなかった。
 10年ほどして、優作は目を整形手術した。
 当時の下関には、朝鮮人への偏見が、確かにあった。小学校時代の担任は、
 優作とけんかした子の親から「うちは悪くない。先生だって日本人だろう」と怒鳴りこまれたのを覚えている。
 中学の恩師、梅地義昭(63)は、優作の志望より1ランク下の高校を勧めた。
 当時は試験の点数が同じ場合、在日は不利といわれていたからだ。
 高校の同級生は、教師から「松田は朝鮮人だからつき合うな」と言われた。
 高校2年の途中で優作は突然、叔母を頼って米国に留学した。1年足らずで帰国したが、下関には戻らなかった。
 「実はアメリカ国籍を取りたかったんだ」と後に打ち明けている。

 
227松田優作=金優作(キム・ウチョク) 3:2006/04/02(日) 10:53:24 ID:NfOloAmK
 優作がジーパン刑事を演じた「太陽のほえろ!」は、視聴率が30%を超えたこともあった。
 当時のプロデューサー岡田晋吉(ひろきち)(66)は振り返る。
 「優作が心に暗いものを持っているとは感じていた。でもそれが何だったのか。
 私がジーパンに託したのは、純粋でひたむきな青年像。挫折派の最たるものだった優作は、違和感を持って演じていたはずだ」
 優作は、スタッフとよく衝突し、人を殴った。高校からの親友で、東京でも同じ劇団を作っていた吉田豊(50)は
 「あいつの爆発力は、自分の弱さを悟られないためだった。
 父親がいないことや韓国籍であることを強引さで乗り越えようとしていたんだ」と言う。
 優作にとっての負の部分を彼自身が肯定できるようになったのは84年に韓国人の母が亡くなったときではなかったか―。
 東京・下北沢のバー「LADY JANE」のオーナー大木雄高(ゆたか)(55)はそう考える。優作は、最後までこの店に通い詰めた。
 生い立ちを初めて語ったのは、葬儀から帰ってきた晩だった。
 「ただ、彼は過去を背負ったり、どこかに帰属したりするようなことはなかった。いつも現在形から未来形で考える。
 そして『映画』に自分の場所を見つけたんじゃないか」
 店で、よく言っていた。
 「郷愁で韓国に行くひまなんて、オレにはないね」
 晩年、「朴季蘭」の名前で芝居を書き、演出していた時期がある。大木は韓国風のその名前を見た時、意外な感じがした。
 優作はニヤリとして、こう言っただけだった。
 「これはね、『ぼく・りらん』、ボブ・ディランのもじりだよ」と。

 初めてハリウッドに進出した89年の「ブラック・レイン」が、映画の遺作となった。同年11月、がんで世を去る。
 優作のルーツがファンに向けて公表されたのは、死後約10年がたってからだった。
 再婚した女優の松田美由紀(39)が、ファンクラブの会報に書いた。
 「優作は韓国と日本のハーフです。優作の心の中に流れていたアジアの血に
、優作のエネルギーの何かがあったような気持ちになりました」
 その前年、韓国・釜山国際映画祭に参加した美由紀は、優作の遺髪を釜山の海岸に埋めていた。
 今年の秋、13回忌を迎える。

 (朝日新聞/2001.3.19)