俺様個人のAA保管庫 1

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3名無しさん@├\├\廾□`/
今年二月。総合電機メーカー東芝の半導体工場で大規模な拡張工事が始まりました。
次々と運び込まれるのは、一台十億円を超える最新鋭の製造装置。
半導体のトップ企業に返り咲くための社運をかけたプロジェクトのスタートです。
この二十年、IT技術の要である半導体は激しい国際競争に晒されてきました。
東芝は80年代にアメリカを追い抜き、記憶用半導体の生産で世界の頂点に立ちます。
しかし、バブルの崩壊で大きく失速しました。
東芝を逆転し、世界のトップに立ったのは韓国のメーカーでした。
「サムスン!」 チャチャチャッ! 「サムスン!」 チャッ! 「イェアー!」 (繰り返し)

急成長した理由の一つが日本からの技術者の流出です。
日本のメーカーの人材が次々とスカウトされ、半導体の技術を移転していきました。
企業で働くことに見切りをつけ、一人、海外から資金を得て研究を続ける技術者もいます。
バブル崩壊後、東芝が長期の開発に投資する余裕を失ったことが、会社を去った理由でした。
「時の役員は、その時の○×▼□(※この部分は聞き取れませんでした)で首が飛ぶから。先行きなんかどうでもよくて。
日本の会社全部そうだなと。日本の半導体は全部潰れるなと思いました」
どうしたら再び勢いを取り戻し、世界の頂点に立てるのか。
東芝は今、およそ三千億円を投じ、半導体復活に全力を注いでいます。


今年十月、東芝半導体の黄金期を築いたメンバーが一堂に会する集まりが開かれました。
日本の技術がアメリカに勝てることを証明し、東芝に総額5兆円の売り上げをもたらした半導体技術者たち。
しかし、川西さんの下に結ばれていた固い結束は、次第に揺らいでいきます。
世界から追われる立場に変わった瞬間から、技術者たちは想像もしなかった渦の中に投げ込まれていくことになりました。
東芝で、耳を疑う噂が囁かれ始めたのは、絶頂期の80年代後半でした。
週末に、一部の技術者が海外のメーカーに行き、技術を教えているというのです。
向かう先は、韓国でした。
日本と同じく資源の乏しい韓国は、国を挙げてハイテク産業の育成に力を入れていました。
財閥系の企業を筆頭に、電気メーカーが相次いでDRAMの事業に参入。
わずか数年で生産を軌道に乗せることができた背景には、日本からの技術流出があるという噂でした。
東芝では、急遽対策が取られるようになります。技術者を統括する技師長を務めていた鈴木紘一さん。
経営幹部から、技術者のパスポートをチェックするよう命じられました。
元技師長鈴木紘一さん(65)「仰るように、日本の企業の技術者が狙われてですね。実際に設計技術者がソウルに飛んで、
技術を流出したという疑いが出てですね、東芝の技術者も個人個人がパスポートを持ってますから、
国の出入りは必ず証拠が残りますから、そのチェックがされたんですね」
86年。今度は、事業本部長の川西さんに韓国から接触があります。東芝の国際担当の専務を通して、
「一度ソウルに来て欲しい」という要請が入ったのです。
川西さんの韓国訪問を強く求めていたのはサムスン電子でした。
日本を追いかけ、DRAMの技術力を急速に高めていた韓国の大手半導体メーカーでした。
当時半導体事業部長川西剛さん「サムスンへ行く目的がですね、
何の為に行くのかっていうのがもう一つはっきりしなかったので逡巡してたのですが、
いや、土曜日と日曜日ならいいだろ?と。まぁ、そこまで言われますとねぇ、
土曜日に忙しいとも言えない、日曜日に行けないとも言えないもんですから」
ソウルに降り立った川西さんを待っていたのは、目を疑うようなVIP待遇でした。
サムスンの豪華な迎賓館に案内された川西さんは、李会長以下、幹部総出の歓迎を受けます。
迎賓館の庭には、東芝とサムスンの友情の証と証する大きなガラスの置物まで用意されていました。
戸惑うばかりの川西さん。そこに、サムスンから要望が出されます。
川西剛さん「半導体工場を作ってますから見て下さいって。僕もこれちょっとあんまり見たくなかったんですが、
見るとまたこっちの工場を見せなきゃいけないかなと思ったもんですから。でも、まぁ断るのも大人気ないしってんで、
見ました。案の定ですね、その後、大分工場を見せろっていうことになりまして、
大分工場はもうしょうがないですから答礼としてお見せしました」
当時最新鋭だった大分工場には、装置の配置方法など、様々な企業秘密が詰まっていました。
その後、サムスンは、工場の生産ラインを統括する東芝の製造部長をスカウト。
大分工場と同じ造りの製造工場を建設していきました。