例えば、これ以上彼に依存してしまったら。考えるだに恐ろしい話だ。
帰る彼に行かないで、なんてすがる自分を想像したら吐きたくなった。
「ケソタロー、明日のリハ何時からだっけ。」
「んー、十二時から。遅れんなよ。手加減してやったんだから。」
「そーゆーことをサラっと言うなよなー…」
「何、もっとスケベ親父風に言ったほうがいいの?」
「言ってみて。」
「……イヤだよ。」
ケソタロウは、何の引け目からは知らないが俺に物凄く優しく触れる。
触れて、舐めて、入れて、そして決まった場所に帰る。頭でわかっていても、
その事実は余り気持ちのいいものではない。とは言え、この関係を終わらせる
ことなど出来るわけが無い。嘆けども嘆けども状況は変わらことはない。
「帰る、んだよね。」
「…うん。」
「ここで女だったら必死にすがりついて『帰らないで』って
言うのかもしれないねぇ。」
「イヤな事言うね、カタギ利さん。俺に何て言って欲しいの?」
「…何も言って欲しくないんだろうね。あんまり気にしないで。」
ケソタロウは立ち上がりかけた腰をおろして、煙草に火をつけた。
薄い煙がオーロラのように部屋を満たしていく。
手に触れると消えてしまうそれは、触れないという意味では本物のオーロラと
何ら意味は変わらず俺は寒くて暗い南極で抱き合うアザラシを想った。
「カタギ利さんさ、心理学の基本概念って知ってる?」
「寿命でもわかんの?」
「…ネタの話じゃなくてさ。」
「冗談だよ。知らない。」
「人間って、仮面被って生きてる生き物なんだって。ペルソナっていうんだけどね。」
「ふぅん?」
「でね、そのペルソナには限りがないんだ。剥いでも剥いでもまた別のペルソナが
表れて…ペルソナをとっかえひっかえ生きてんだって。玉葱みたいに。」
まだ十分吸える長さの煙草を、ケソタロウはゆっくり揉み消し
俺の方に向き直った。ケソタロウの言う事は時としてとても抽象的で、
俺はその言葉の中から何を感じ取ればいいのか困る事がある。
困惑した顔を作りケソタロウの方を見てみた。視線に気づいた彼は少しだけ
表情を崩し俺の髪にそっと触れた。
「…だからね。カタギ利さんといる時の俺と、家に帰った時の俺は
本体は同じでも着けてる仮面が違うの。別モンだと思えば、
いいんじゃない?俺は絶対家でする顔をカタギ利さんの前ではしないから。」
…安心させようとして言っているのだろう。しかし、俺はケソタロウを
ここに少しでも長くいさせたくてもう一つ小さな爆弾を落としてみた。
「生産性のないカンケー。」
「…え?」
「子供作れないし世間様にバレたらマズいし続けてても未来なんかない。」
「カタギ利さん。」
「でっかいオッパイもケソタロウを自然に受け入れる身体の構造も無いし結婚もできない…」
「…カタギ利さん、それ以上言ったら俺ヒドいことするよ。明日来れなくなるくらい。」
「…ごめん。」
別に本気で怒らせたいわけじゃない。タチの悪い戯れだ。僕は素直に謝った。
「やめたい?こんな"生産性のないカンケー"。」
「やめたくない…やめたくない。まだ。」
「…安心したよ。」
どうしようもない。自分で自分の首を絞めているような気持ちになり、
俺はケソタロウに気づかれないようにため息をついた。
「何かヤな奴になってるね。俺。」
「本当にヤな奴は自分のことヤな奴なんて言わないから。」
「時間、平気?」
今なら、三面鏡の前で男を送り出す愛人の気持ちが良く分かると思う。
「あぁ、そろそろ行かなきゃ。」
ジャケットを羽織り、手の甲で俺の頬に触れ軽く抱きしめるとケソタロウは
振り向きもせずに玄関を出て行った。後姿に向かって俺は、誰に聞かせる
でもない独り言を呟く。最近は癖になってしまい、改めようとも思わなく
なった独り言の癖は心理学的に見るとどんな名前を付けられるのだろう?
「…家出したいなぁ…。」
独り暮らしの家、だけど。
「…帰れない、帰るとこもないけど…ねぇ。」
独り言は壁に吸い込まれ、無かったことになっている。
僕は、どこへも帰れない自分を想い、少しだけ泣いた。
どこまでも暖かいケソタロウの手を、名残惜しげに感じつつ。